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『BLIND』9-2
ヘレン・フェレイラは黄金色の髪をした長身のアメリカ人女性で、我々の中では執拗なほど細かい聞き取りをする調査員として有名だし、パリで数年間カール・ラガーフェルドのフィッティングモデルをつとめていたという異色の経歴の持ち主だが、御存知のように彼女もまた、その日の遠野美和による5回に及ぶ通話を克明に記録している。
一回目の時刻はもう我々がそらで言えるはずの、午前8時46分である。
二回目は切ってすぐ。美和は目当てのパン屋に電話がつながっていないと考え、その理由がわからず不安になり、もしかするとテープの中で店名を言っていたのを聞き逃したのかもしれないと思い直しながらも、すでにその時点で例の音楽の、海底をたゆたう藻のような揺れや曇天の下の群衆のざわめきに似たくぐもりをかなり正確にとらえていたと言われている。
その証拠にとヘレンは、美和が通話時に開いていたノートの隅に描かれた意味不明な、もじゃもじゃした、西部劇などで風に吹かれて地を転がってくる枯れ枝の塊のような図を添付している。それは一回目の電話と二回目の電話の間に描かれたいたずら書きとされているのだが、『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』分科会において、ヘレンはボールペンの赤インクの跡が、件の曲のキーボードの音の高低に完全に一致していると抑制的な声で主張し、それもひとえに驚異的なリスニング能力、表現力ゆえだと称賛した。美和=超人説も我々の中に絶えないが、ヘレン・フェレイラはその説をとる最右翼の人物だろう。
ともかく、美和は数分のち、リダイアル機能を使うことなく番号を入力し直した。押し間違いの可能性を考慮したからだが、かといってノートを再確認することはしなかった。
呼び出し音が切り替わると、またあの音楽が押し寄せてきた。南国の湿気のような、心地よい疲れのような、あの音楽。クリーム色の竜巻がスローモーションになって見えた、と美和は言っている。これはヘレン・フェレイラ以外の調査員も一様にレポートに書き込んでいる言葉だ。
“絶えず空気が上昇する竜巻の中で”、美和はこの曲を聞いたことがある、と思った。けれどそれがどんな歌手の、なんという曲かを自分は教えてもらっているだろうか。はっきりとは思い出せないが、私は知りたがったはずだ。曲の名がわからないように、襲いかかる寂しさにも美和は名前がつけられなかった。
すると、靄の奥から、くぐもった男の声が聞こえた。
はい、華島徹です。
美和はうろたえた。そして、間違い電話をしたのだとはっきり認識した。
ただ今留守にしています。
ではこの人にも曲名を聞くことが出来ないのだな、と美和は奇妙な感慨を抱いたという。と同時に、見知らぬ人の家に呼び出し音を響かせたことに怖れを感じもした。21世紀の現在においてさえ、間違い電話には奇妙な罪悪感がつきまとう。いや、“罰せられるのではないか”という反射的な怖れというべきだろうか。けれど、途中で切ることも美和には出来なかった。その方が罪が重いと思った彼女は、罰を受けるように録音テープの声に耳を澄ました。
ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
謝罪の言葉が出かかった。しかし、美和がとどまったのは、自分がすぐにもう一度電話をするとわかったからだった。
次で必ず、記憶を呼び起こしてみせる。美和はそう考えながら子機2の『切』ボタンを押し、今度はリダイアルの機能を使った。その瞬間、あえて間違い電話をかけるという次元の違う行為に美和は足を踏み入れたことになる。
ヘレン・フェレイラは、三度目の電話のあとの遠野美和の落胆を想像してみるよう、レポートの読者に訴えている。もやもやはいっそう増し、罪の意識も“出来あがったソーセージを羊の腸でもう一度包むように” 厚くなった。
美和はいったん階下に降り、電話帳で番号を確認し直した。写し間違いの事実は、記憶をたどれなかった敗北感とともに彼女を打った。美和はその場で親機を使い、開店直後のパン屋『デルスウザーラ』に電話をすると、一方的に酵母の話をして店員をとまどわせたという。「あの時、美和の話していたアイデアは画期的でした。酵母を進化させるんじゃなくて……ちょっと今はくわしく言えないんですが、私は発想を盗まれてしまうんじゃないかと心配で、キッチンから飛び出しそうになったほどです。幸運なことに、相手が酵母の知識のないアルバイトの男の子だったようで、美和もあきらめて電話を切りました」(遠野壮子)。
壮子によれば、それから夕方まで二人は基本的に、一階のリビングルームにいた。掃除も洗濯も久しぶりに一緒にしたのだが、美和は考えごとにふける様子で、時おりテレビを置いたチーク材の幅広い棚からアナログレコードを引っ張り出しては、それに針を落として聴いたという。美和自身は物心つく頃からCDにしか触れていなかったから、そのほとんどが父の太一
の残していった所有物で、壮子が言うには “アジアの民族音楽やロシア聖教の音楽コレクションがたくさんあるのに、娘は俗な音楽ばかり選んで少しずつかけてやめ、せっかく掃除した部屋を絶えず埃臭くした”のだそうだ。
四回目と五回目の電話は、姉の香の帰宅を待った夕食後、それも明らかに壮子の入浴時を狙った21時過ぎに行われた。それは姉の“やましい電話ではないかと感じた”という証言でもわかる。美和は壮子の監視をさけるように、母親がバスルームに入るのを待って二階に上がったのだった。
若い方々はもう御存知ないだろう。子機の通話は親機のボタンの緑色の点滅で必ず確認出来た。かつて一家に一台の電話が当たり前の時代があり、誰がいつ使っているのかを家族はお互い暗黙のうちに知っていたのである。
もしもつながったら切るつもりだった、と美和本人は言っている。音楽のことを思い出しているうちに、徹の言葉と声の記憶を何度もなぞるようになったのだ、とも。
まず党の再建に全力投球・惨敗にめげず
民社党が最初に迎えた1960年(S35)11月の総選挙は予期せぬ惨敗であったが、私の東京都議会補欠選挙への挑戦が示しているように同志たちの闘志は健在であった。マスコミの一部には民社党の前途を悲観的にみるのもあったが、私たちは必ず立ち直ってみせると意気軒昂であった。
敗北の原因は社会党浅沼委員長が日比谷公会堂で演説中右翼青年に刺殺されるという不幸な事件によるものであって、民社党の思想・信条が国民に否定されたものではないと信じていたからであった。また民社党の結党を支持し選挙を全面支援した最大の支持団体全労はより強力な体制で民社再建を約束した。
民社党の本部には有識者の多くから激励の声が続々寄せられてきた。尾崎士郎は「私は民社党に好意を持っていました。意外に負けたので、これではいかん。本当に積極的に支持する気持ちになった」と語った。そして徳川夢声、平林たい子、唐島基智三,矢部貞治,菊田一夫、竹山道雄、佐古純一郎、蝋山政道らの学者・文化人が発記人となって「民社党を励ます会」を開いた。
とくに私たちに大きな勇気を与えてくれたのは次の菊田一夫の「民社党におくる」と題した詩であった。
庶民は政治というものを知らない
庶民は春の陽炎のなかに
いつも睡たげな眼をして
のどかに暮らしていればいいものだから……
政治が悪いとき
乱暴者が世にはびこるとき
庶民は ひょいと眼をさます
政治はどうなっているだろう
政治とは中庸の道ではないかしら
古すぎては困り
激しすぎては世の中がひっくりかえる
その中庸の道も
世につれて進んでゆく
政治は常に 世間より
一歩進んでよい加減
二歩進めば怪我人がでる
……といって
退歩すれば
支持というローラーにひきつぶされて死ぬ人も出る
民主社会党は中道の政党
中庸とは昼寝をしていることではない
政党が庶民のせっかくの特権を奪ってはならない
日本人は中庸を好む国民だ
自分個人の人生には
いつも中庸の道を選んでいる
そのくせ……
他人様を批判するときは
いつも 前か後ろか 右か左か 赤いか白いか……
それは……
自分個人の道を選ぶ道が
勇気のない卑怯さからの中庸の道だからである
自分自身に勇気がないから
他人様に 激しさ古さ 右か左かをもとめるのだろう
激しさには喝采が与えらえる
古さと頑迷には老人達の拍手がおくられる
意気地なしと言われながら
中庸の道を選ぶには
勇気がいる
民主社会党よ
日本国を
我々の国を
正しい軌道に進めるための
激しい闘いを起こしたまえ
国民は一億
ほんとうは みんな
破壊主義でない
頑迷でない
ほんとうの民主主義
新しい道が
好きなのです
<いとうせいこう注
前項を書いてから、一年以上が経ってしまった。
伯父(以前は「叔父」と誤表記していた。訂正する)はあれからすぐに亡くなった。
退院したあと、伯父は気持ちを変えていた。
親戚である私のもとにも、「俺はもう十分生きた。これ以上はもういい」という伯父の言葉が伝わってきていた。いかにも伯父らしい、短く潔い宣言から一週間もしなかったのではないか、伯父は食べなくなり、意識を遠のかせ、つまりは死の準備を始めた。私たちもそうなるだろうと諦めをつけ、微笑んだ。
2011年1月11日、高木邦雄は亡くなった。
葛飾区鎌倉町の、すなわち私が育った町の小さな斎場で私たちは伯父を送った。小さな孫たちがたくさん来ていて、伯父の額に手を触れたり、泣いたりしていた。
弔辞を読んだのは、私の父だった。
邦雄さん、あなたは私の先生でした。
そう始まる弔辞は感動的で、修飾に流されず、しかし敬意を直裁にあらわすものだったが、あとで聞いたところ原稿は残っていなかった。父は短い時間の中、紙の上で推敲し、直しの入った文をそのまま読んで、伯父の棺へと納めてしまったらしい。私はこの父の自伝に引用出来たらよかったのにと言ったのだが、父はきょとんとした顔でそうだったなと答えるばかりだった。
さて、前項に訂正がある。
私が病院を訪れたとき、伯父はベッドに腰かけていたと私は書いた。
だが本当はおまるの上に座っていたのだった。
おまるの上で伯父はびっくりしたような顔で私を見、しばらくそのままでいた。私が自分の名を言い、やがて伯父が涙と鼻水を流し始めたのも、おまるの上でだった。
私はそのことを伯父の生前書けなかった。>
『BLIND』9-1-b
その夜まで、ここで語るべき話はない。
華島徹は“ランド”閉園後、園田吉郎につきあって駅前にある唯一の飲食屋で生ビールを二杯飲み、幾つかのつまみとトンカツを食べ、最後に茶漬けをすすった。それは園田が経費として提出したレシートからもわかる。
小雨の中、なお頭部を白く煙らせて上機嫌でいた園田とホーム上で反対方向に別れ、東亀沢駅に着いたのが当時のダイヤによると午後9時21分。コーポ萱松の二階には午後9時40分までにたどり着いていたことになる。
傘を閉じ、木目調のドアを開けようとすると、暗い部屋から静かに光がこぼれ出してきて徹はひどく驚いた。しかし、それは脚色された思い出だろう。実際は単純な赤色の光であったはずで、つまり通話を示すランプだった。徹はベルの音が苦手で音量を最小にしていたのだ。
靴も脱がずに部屋にあがり、受話器を取ったが、すでに電話は切れていた。ツーツーツーという音が薄闇の中に響いた。留守番電話の件数を示す小窓に5と、やはり赤く表示されていた。それほど多くのメッセージがあったのは初めてで、実家に何かあったのではないかと徹は不安になった。雨で濡れた靴をはいたまま、徹はデジタル数字が放つ光を頼りに再生ボタンを押した。
すべてが無言だった。無言のまま、保存の規定時間いっぱいまで相手は通話を切らなかった。5本目まで聞き終えると、徹はのそのそと玄関まで戻り、靴を脱いだ。雨は靴下まで濡らしていた。徹は裸足になった。外で自転車のブレーキがブランコめいた音できしんだのを、徹は覚えている。
もう一度1から5までの無言を聴き終えた。『just the two of us』を歌う声の間に、かすかな息づかいがあるように思った。再生音量を上げ、徹は息づかいの温度を探った。同じ人物が何度もかけてきていると徹はやがて確信し、それらが単なる無言電話なのではなく、メッセージがないこと自体がメッセージではないかと思った。この時点で、すでに徹は美和のことを美和以上に理解しようとしていた。
我々インタビュアーの討議の中で、『just the two of us』が催淫効果を持つのではあるまいか、という仮説が一時有力視されたことも記しておきたい。美和もこの日、5回この楽曲を聴き、次第に徹の声に魅かれてそれを目当てについふらふらと翌日も通話をするのだし、徹はありもしなかった可能性の方が強い息づかいを同じ曲の向こうに見つけ出して、まだ性別もわからない相手に圧倒的な好意を抱いたのだから。
第一小説の中の『BLIND』9-1に直しを入れた。
直しどころか、少し長くなった。
真正なる続きは「9-1-b」ということになる。
だが、私は「9-1」を編集してしまうのではなく、そのままデータ上に残すことにした。
デジタル時代に、こうした草稿や第一稿は残らなくなった。
私は『連載小説空間』で、むしろそれらをデジタル上に置いておきたいと考えている。
ちなみに法を明文化するドイツや日本は草稿を丁重に扱い、経験のみを重視するイギリスなどでは不思議なことだという。
その意味で、私はローカルな観念をデジタル上に展開していることになる。