カレンダー
S |
M |
T |
W |
T |
F |
S |
|
|
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
18
|
19
|
20
|
21
|
22
|
23
|
24
|
25
|
26
|
27
|
28
|
29
|
30
|
31
|
6、チャンス到来・兵庫1区永江選対へ派遣さる
そうして、こうした努力の成果を試す機会が巡ってきた。それが67年1月の第31回衆議院選挙である。
66年に自民党代議士の相次ぐ汚職・職権乱用事件が発生し、田中彰治、農相松野頼三、運輸相荒船清十郎などが相次いで逮捕、辞任に追い込まれた。これを新聞は「黒い霧」と呼んだ。自民党一党独裁の弊害が爆発的に噴出したのである。
野党は11月の臨時国会で黒い霧の追及を要求するが、佐籐首相はこれを無視し与党単独で補正予算審議を強行した。しかし沸き立つ世論に抗せず、年末押詰まった12月27日遂に衆議院解散となり、明けて1月8日公示、29日投票の選挙となった。
私は急遽、兵庫1区永江一夫の選挙オルグとして派遣された。永江先生は戦後社会党内閣の農林大臣となり、民社結党の立役者の一人であった。60年選挙で落選、63年でも涙を呑んだ。当時は党本部の組織局長であり、私の直接の上司であった。なんとしても復活を遂げねばならない。
オルグに決まるや党兵庫県連からすぐ飛んで来いとのこと、一刻の猶予もない、28日に新幹線に飛び乗り神戸三宮の党事務所にかけつけたのであった。事務者は突然の解散で党幹部や党員がかけつけ、ごった返していた。先生に挨拶し、当面の宿舎(ホテル)を紹介された。そして31日と1日だけ家に帰って来てよい。2日から常駐だ、との命令であった。30日夜家に帰り、家族4人であわただしい年末年始を過ごすと、2日の夕方には三宮に戻った。妻幸子は愚痴ひとつ言わず、万全の旅支度を整えてくれた。
3日は6時半から三宮駅頭の朝立ち。そのあと事務所で朝食。そのあとは夜遅くまで職場へのオルグ、ビラ張りなどなどとにかく休む暇なしの強行軍がつづいた。長野県出身の私だったが、この年の神戸の寒さはこたえた。しかし夜になると若い同志たち、民社青連で共に活動してきた仲間たちがやってきて、三宮の飲み屋で時には神戸牛のビフテキや時にはスッポン料理で励ましてくれた。こうした兵庫の同志の暖かさが翌日の活動の原動力となったのである。
こうして28日間のオルグを終えて投票日には家に戻って、投票(東京10区に党候補がないため、西尾末廣と書く)を済まし、翌日は党本部で各候補者の開票結果を待った。永江先生は見事に復活当選し、民社全体として30名が当選した。党の前途にようやく灯りが点ったのである。この選挙では公明党が初めて衆議院選挙に参戦、25名を当選させた。そして自民党は得票率50%を切り、社会は4議席減であった。
永江先生に教えられて未だに忘れないことは次の言葉である。
<その1>
「政治とは何ぞや」と問う
「政治とは生活のことなり」
「生活とはなんぞや」と問う
「生活とは衣食住のことなり」
簡単明瞭、政治は国民の生活を守り、高めること以外のなにものでもない。この頃の党首たちが盛んに「国民の目線に立って」ともっともらしく強調するが、そんなことは政治のいろはなのである。
<その2>
「選挙に当選したらみなさんのおかげ」
「落選したら不徳の致すところ」
決して、天狗になったり、応援してくれた人を批判してはならない、という教え。候補者の基本的心構えである。
5、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果
63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。
4、党再建の第一歩・63年総選挙
62年の参議院選挙、63年4月の統一選挙では党再建が始められたばかりであり、参議院選挙は全国区3名、地方区1名の当選に留まって、統一地方選挙も成果は乏しかった。
私は参議院選挙では古賀専(全国区候補・造船総連会長)の秘書役として加わり、地方選挙では武蔵野市の伊籐重雄さんの参謀として活動した。古賀さんは落選、伊籐さんは当選した。
党の浮沈は次の総選挙にかけられることとなった。その機会が63年11月巡ってきた。私は選挙中は各候補の健闘ぶりを取材して書き、またしばしば党本部に寝泊りして各選挙区との連絡などにあたった。21日投票、翌22日が開票、この日の興奮はいまでも脳裏に鮮やかである。
選挙区をしぼり、59候補を擁立した闘いで23名当選、次点者11名。自民283名(13減)社会144名(1減)のなかでわが党だけが5議席増の成果であった。選挙前のマスコミの「5名くらいになってしまうのではないか」の予測を完全に覆したのであった。勝利の喜びの中で開催した全国代表者会議で、西尾委員長は「トンネルを抜け出て原野に頭を出した。暗い谷間から小高い丘に駆け上がったところだ。前がよく見えるようになった。これからだ。全党員心を一つにして次に備えよう」とのべた。
民社党一本支持で闘った全労は10年の歴史を閉じ、翌64年総同盟と合体して「同盟」を結成、180万組織となり、民間の労働組合数では総評を凌駕するにいたった。民社支持母体はより強化されたのである。
3、激しい東西対立を背景に・呼び合うこだま運動を組む
私たちを取り巻いていた諸情勢は一刻たりとも安閑としていることを許さぬものがあった。60年にはベトナム戦争が勃発、61年には東ベルリンの壁(東西ベルリン境界上43キロ)が東ドイツによって構築された。東ドイツから西ドイツへの亡命阻止の壁であった。そして62年キューバ危機発生。キューバにソ連が中距離ミサイルを配置、これに対して米ケネデイ大統領は海上封鎖を宣言してミサイル撤去を要求。まさに一触即発、核戦争まで予測され、世界は固唾をのんだ。
米・ソの核兵器開発競争も熾烈なものであった。ソ連が61年に49回、米国が62年に60回もの原水爆実験を繰り返したのであった。
こうした東西対立が日本国内に持ち込まれ、60年の安保改定には左翼陣営が総動員体制で闘いを組んだ。国会周辺には連日数万が動員されて騒然たるものであった。そして全学連のデモ隊が国会正面玄関を突破、警備隊との押し合いのなかで東大生樺美智子さんが押しつぶされて死亡。安保改定案は自民党の単独多数で成立していくが、岸内閣は総辞職に追い込まれる。
また62年の原水爆禁止世界大会は大会中にソ連が核実験を行うが、共産党勢力はこれを無視、対して日青協(日本青年団協議会)、地婦連(地方婦人団体連合会)などが「いかなる国の核実験にも反対すべきだ」と抗議して退場。原水協は分裂してゆく。
こうした情勢のなかでの民社党勢力の復活には幾多の障害があった。しかし共産主義陣営のこれ以上の勢力拡大を許すわけにいかないとの私たちの思いには切羽詰ったものがあった。
その思いの中で、全労の青年婦人部の仲間たちと私たちが起こした運動のひとつが「呼び合うこだま運動」であった。この運動は当時、共産党の「民青」が集団就職で都会に出てきて孤独に陥りやすい青年男女を巧みに誘導し、「歌って、踊って……」の遊びに参加させて民青会員(共産党員)にしていくという活動が全労の青年婦人活動を脅かしつつあったのに対抗するためのものであった。
全労のなかから、民青に対抗して真の文化運動を起こそうとの動きが起こって「全国勤労者文化協会」(全文協)がつくられ、どのような活動をやるか模索しており、私たちにその案づくりの相談が持ちかけられたのである。ちょうど民社青連は2年目の活動として蓼科高原キャンプ大会を目論んでいた。私の親戚が長野県茅野市奥蓼科の持山を利用して「みどり山荘」というキャンプ場を経営していたので、私の提案で計画したものであった。
この計画を全文協で持ち出したところ、この際友好団体が互いに協力しあって一つの行事としたらどうかということになり、全文協、全労青婦、民社青連に加え青学会議、日本婦人教室,海友婦人会、民社研で実行委員会を組織し、「第一回呼び合うこだま働く者の山の集い」が開催されたのである。全体として400余名が参加、大成功であった。
集いの趣向も青年らしい創造的なものだった。まず集まってきた青年-婦人たちの”自治村“という想定で村三役として村長赤松常子(日婦)、助役伊籐郁男、収入役船田登美(日婦)、公安委員長綿引伊好(全文協)をおき、バンガロー毎に参加団体が自由な集落名をつけた。民社青連はこれから育つという意味から「ひよっこ部落」と命名した。グループ活動は絵画、彫刻、和歌、詩、コーラス、盆踊り、フォークダンスなど。夜はキャンプファイヤーを囲み、夜空に二十発の花火を打ち上げた。この花火は長野の私の仲間のサービスであった。
この集いの成功によって、呼び合うこだま運動は各地域に急速に広がってゆき、やがて各産別の青年婦人行事のひとつとして定着していったのである。
そして、この年は夏に民社・全労が中心となって「核兵器禁止・平和建設国民大会」を開催、10月に「核禁会議」を結成(前述)、私は事務局次長となり、以後今日まで核兵器禁止運動を続けることとなる。
2、党機関紙記者と青年組織の活動家として
既に記したように、私は右派社会党中央機関紙『日本社会新聞』の記者としての活動とともに民主社会主義青年同盟の一員として活動、東京民社青同事務局長にも選出されたが、民社党の結党と同時に日本社会新聞は「旬刊社会新聞」と名を変えて民社党中央機関紙となった。私は引き続きその記者として採用された。そして身分は民社党書記局員となった。それまでは書記局員の身分でなかったから党に縛られずに自由に活動できたのだが、これからはそういうわけにもゆくまいとは思いつつも思う存分「総評批判」が出きる喜びがあった。
青年活動の分野では、民社党結党の翌日に「民主社会主義青年連合」(民社青同の名称を民社青連と変えた)を結成。初代事務局長となった。会長には海員組合の小川純一氏が選ばれた。
私たちは民社党全面支援の活動を展開した。活動資金は海員組合長中地熊三さんが「これからは青年が頑張らねば」となんの条件もつけずに出してくれた。その額は月30万円という多額であった。(いまならどの位の金額になるだろうか。それを惜しみも無く出してくれるこのような怪物が当時はいたのである)。このため私たちは民社党本部事務所(森ビル)の地下1階に事務所を設置し、3名の専従者を配置することができた。組織作りは順調に推移し、岡山民社青連の会長生末敏夫君は民社党の衆院議員候補者に選出された。
こうした私たちの希望に満ちた活動が始まったばかりの、緒戦の総選挙で民社党は大敗北したのであるが、私たちもくじけてはいなかったのである。私たちは「民社党に投票してくれた350万人の期待にこたえねばならない」との意思固めと同時に党外青年への一層の宣伝活動の活発化を誓ったのである。