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自由 


by seikoitonovel
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7-3-2


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  『BLIND』9-3-2

 もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
 疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。「あらはばきランド」本体としては、「レイン・レイン」が水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
 そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
 園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
 僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、「レイン・レイン」のパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
 それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
 ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
 かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。 
 結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、「レイン・レイン」のエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
 スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
 こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。



 9-3-1、9-3-2 報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
 
 
 
 
# by seikoitonovel | 2011-05-03 14:40 | 第一小説

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6、69年の年末選挙で更に前進・沖縄復帰運動に参加

西村委員長時代の総選挙は69年の年末(12月27日)に行われたが、党は32名の議席を確保した。民社党は第三勢力の地位を確立し、長期腐敗の自民党と反対のための反対勢力社会党という二大勢力による不毛の対決政治を終わらせ、真の議会制民主主義政治を実現する役割を担うこととなったのである。
 西村委員長は委員長就任と同時に自ら団長となって沖縄を訪問、野党党首として初めての訪沖であり、この際の「沖縄の返還は核抜き本土並みとすべし」との提案がやがて国民世論となり、佐藤首相を動かして72年の沖縄本土復帰へと連動したのであった。
 私たち青年党員も毎年「沖縄青年使節団」を組織して復帰運動の一翼をになったが、私は70年に約30名の第5次青年使節団の事務局長(団長・西田八郎衆議員)として訪沖した。この時には台風が襲来し、鹿児島で2日間足止めを食っての船旅であった。西田団長は飛行機で先行してわれわれを那覇港で迎えてくれたものであった。
 民社党の沖縄調査団は第1次から第7次に及び、青年使節団も6次にわたった。
 現地での交流は、当時沖縄の大きな政治勢力であった沖縄社会大衆党の主要幹部と沖縄同盟(海員組合、電力労組、全繊同盟など)の幹部などが中心であった。
 党のこうした沖縄復帰運動は70年に行われた国政参加選挙(復帰の前段で行われた衆議院選挙)で当選した社会大衆党委員長安里積千代氏の民社党国会議員団加入に繋がったのである。



<伊藤幸子注:(前節4-8に付けるべきものとして、母からの原稿が先日届いたので足しておきたい)
 夫の初めての海外出張のときには大変心配でした。自分の身の回りのことが何も出来ない人でしたからです。
 IUSYの国際的な集まりで10日間もオランダの地方でキャンプを張るということでした。私はIUSYという国際組織のことは良く知りませんでしたが、夫にとってはかなり重要なようでした。それに参加する日本代表団の事務局長でしたから、私はただその任務を果たして無事帰ってきて欲しいと祈っていました。
 羽田出発の時には兄邦雄が私と小学一年生の正幸と幼稚園児の美香を見送りに連れていってくれました。
 幸い夫は何の怪我もなく無事帰国しましたが、家族へのお土産は“赤い木靴”ひとつだけでした。夫はそうしたことが大変不得手でしたので土産などは最初から期待してはおりませんでしたので、何も言いませんでした。
 ところが旅行鞄の中から煙草と洋酒がたくさん出てきたのにはいささか驚きました。しかしそれは餞別を下さった仲間などへのお返しだろうと思い、納得したのでした。
 私としては無事帰国出来たことが何よりのお土産だったのです>
<いとうせいこう注:
 私は見送りに行ったことを覚えていない。 
 ただ、“赤い木靴”のことはよく覚えている。それはずいぶん長く家にあった。どうやって遊ぶということもない。たぶん初めは妹にはかせたりしてみたのだろう。だがやがて、靴は私たちには小さくなった。
 にもかかわらず、それは捨てられずに家の中にいつまでもあった。私たちはどこかでそれを特別なものとして扱っていたのである。父の初の外遊の土産だったということを、私たち兄妹はすっかり忘れていた>


# by seikoitonovel | 2011-04-27 16:07 | 第三小説「思い出すままに」

父4-8


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8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊


 統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
 新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
 私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
 私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
 さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
 IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。                                 
 10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
 このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。

追記 西村委員長のこと
 西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
 今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。

   三   訓
 1、己れを捨てよ
 1、反省を忘れるな
 1、最後までねばれ

   五   戒
 1、時間を守れ
 1、言訳はするな
 1、愚痴をこぼすな
 1、陰口をつつしめ
 1、けじめをつけよ

 これは私の座右の銘でもある。
 私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。

<いとうせいこう注
 しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
 だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
 彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
 その母にも今、原稿を書いてもらっている。
 この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>


# by seikoitonovel | 2011-04-10 00:00 | 第三小説「思い出すままに」

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7、続いて統一地方選挙・都知事選対へ派遣さる

 私たちに総選挙の勝利に浸る暇などなく、4月は結党以来2度目の統一選挙であった。この選挙では都道府県議98名、政令市議58名が当選し、地方組織も前進体制を整えつつあった。
 私は東京都知事選に急遽候補者となった松下正寿選対に派遣された。松下先生は私たちが作った核禁会議の初代議長・立教大学総長であり、党とは深い関係にあった。その松下先生に東竜太郎知事引退のあとの駒探しに迷ってすったもんだを繰り返していた自民党が白羽の矢をあて民社に協力を求めてきたのであった。松下先生も相手が社・共推薦の美濃部亮吉ならばと引き受けたのだ。
 保守か社共かまさに天下分け目の戦いとなった。この選挙でマスコミの大半は美濃部に好意的で、最初から松下不利の情勢がつくられていった。私はこの選挙を通じて首都決戦というものの実態のすさまじさを知るのであるが、その一つがスパイ合戦であった。相手陣営にスパイを紛れ込まして相手候補の行動・戦略を自陣営に知らせ,相手の裏をかく。また弱点を握ってそれを針小棒大に宣伝する。また何々地区では選挙違反で何人も調べられている、といったデマを流して活動をにぶらせる、などなど。すさまじいものであった。
 また、自民党の金の使い方にはびっくりさせられた。私のような立場で自民党本部からもオルグが派遣されて來たが、彼の袖机にはいつも札束が用意されていたのである。私たちは金には全く無縁で、熱意と行動の多寡が勝負の基本であったから彼の行動は真に信じられないものであった。ある日、選挙ビラが印刷会社から100万部届けられた。そのビラに一箇所誤字があると指摘するものがあった。すると彼はそのビラ全部の印刷変えを命じたのである。われわれなら一箇所はもとよりかなり目立ったミスでもそのまま使うのであるが、なんと無駄なことを平気するものか、と思ったものである。しかしこの話はこれで終わったのでなく、実は彼と印刷屋はあらかじめ示し合わせていて僅かの部数を誤字にみせかけ、全部数を印刷換えしたこととして、それに見合うニセ印刷費を本部に請求して山分けしていたのであった。
 松下先生は美濃部に敗れたが、翌年の参議院東京地方区選挙で勝利した。


# by seikoitonovel | 2011-04-04 20:15 | 第三小説「思い出すままに」

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『BLIND』9-3-1

 翌日も同じ銀色の電車に乗り、同じ駅で降りて「あらはばきランド」まで歩いた。
 僕は気に入っていた黄色いベルトのスウォッチを何度も確認したし、運営本部の上方に掛けられた丸い時計とタイムカードを見比べた。いつもより少し早いペースで歩いたはずなのに、僕は普段と同じ時間に会社に着いていた。
 ロッカールームでつなぎに着替え、担当エリアごとに本部の壁面に並べて下げられた鍵束をつかむと、連絡書類にサインをしてからバックヤードに入り込んだ。午前中の空気はまだ肌寒かった。指定のボア裏地付きジャンパーをはおって出ればよかったと思った。少なくとも、すれ違う僕と“ハロー、おはようございます”と決まった挨拶を交わし合うスタッフは男も女も年齢問わず、みなその群青色のジャンパーを着ていた。
 さらに早足になった僕はN扉の位置からバックヤードを抜け、開園前の「レイン・レイン」の裏口に移動した。ちなみに当時は設計変更にまだ対応しておらず、N扉は裏口から二メートルほどずれていた。そのせいで、もしお客さんが入場している時間だと、スタッフが一瞬見えざるを得なかった。だからN扉の内側、目の高さあたりには常に『ここから先はあなた自身がアトラクション!』という貼紙があった。
 裏口の鉄扉は外壁よりかすかに濃い色に塗られていた。僕は三つある錠をすべて開け、冷たく湿った空気の中に入った。常時回っているモーターの低い音が地の底から重層的に響いていた。振動そのものを耳にしているのは、今自分だけだと思った。
「レイン・レイン」はアトラクションとしては七つのブロックに分かれていた。時おり一階から二階、あるいは地下へと部屋が移るのは、全体がH2Oの分子構造、つまりV字型の連なりを模しているからで、水平にV字のゾーンなら階は変わらず道が分かれるし、上下に階段が向かっていればV字が垂直になっているのだった。
 僕は連続する分岐の最も手前にある操作室に入り、複数あるモニターのスイッチをひとつずつつけた。タイムラグがあって、やがて各ブロックの映像がモノクロで揺れ出した。
 特に闖入者がいる様子もなかった。流れるべき水はすべて正しい方向に流れていたし、夜になると嵐がやむ区域は豪雨を待っていた。内壁をつたう水滴はほとんど落ちきっており、それが床に隠されたパイプを通って排出されているのは、湿度メーターや自動ポンプの動きで確認出来た。各ブロックを視認しようと、僕は備え付きの懐中電灯を片手に操作室を出た。
 来た、と思うと裏口の鉄扉のノブが回った。逆の順ではなかった。
「お、早いじゃないか」
 扉から館内に体を滑り込ませながら、園田さんは僕の姿を見ずに言った。
「ハロー、おはようございます」
「ほい、ハロー」
 古参の中でも、園田さんは特別に挨拶が雑だった。曖昧に下を向いたまま操作室に入った園田さんは群青色のジャンパーを肩にはおっていた。頭上にはその日、白い煙がただよっていなかったように思う。
 ゴミ箱に何か軽いものを放った音がした。鍵束を確認し、作業連絡ノートを開いたのもわかった。一度ティッシュで鼻をかむのに続いて、まだノートに目を落としているだろうと思われるくぐもった声が部屋から漏れてきた。
「人生に不均衡があらわれるときは、まず地鳴りが聞こえるんだよ。やつも聞いただろう」
「え?」
 という声が自分の咽喉の奥からした。地鳴りという単語から、さっき聴いたモーター音を連想するのが精いっぱいだった。園田さんは続けて、しかし今度は少しゆっくりと言った。
「キシロウ・ナカムラは今日、捕まる」
 ますますわけがわからなくなった僕は、思わず操作室の中に戻った。園田さんは新聞に目を落としていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「斡旋収賄。国会会期中に逮捕される議員は、ずいぶん久しぶりなんだとさ。あ、わかるか、ゼネコンの」
「わかります。あの、その前に園田さんが言ってた地鳴りの話なんですけど……」
 園田さんはそれにはまったく答える気がないようだった。
「俺も読みでは一字違いのキチロウだけに気になるんだよ、キシロウ・ナカムラのことは。こっちはしがない雨職人、向こうは大物政治家だけどな」
 ようやく園田さんは僕を見た。そしてくしゃくしゃっと笑った。もう何を聞いても答えないだろうと思った。園田さんの中で物事が短く完結してしまったのだ。
 ヘルメットをかぶった園田さんの後ろを僕は歩いた。まず入り口から最も近い『ジャスト・ビフォー・ザ・レイン』の点検だった。夏の夕立が始まる直前の湿度を、その部屋は完全再現していた。不連続にそよぐ不穏な南風も、みるみる空を覆う黒雲も、急激な気圧の変化もすべて園田さんのプログラム通り動いていた。お客さんはその日もこのアトラクション内で、“動物ならではの勘を取り戻す”に違いなかった。雨が降る、と思うのだ。
  
# by seikoitonovel | 2011-03-06 22:35 | 第一小説