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by seikoitonovel
| 2011-05-11 21:24
| 雑記
8
件名 親愛なる百合子-さん-へ
送信者 カシム・ユルマズ
受信者 島橋百合子
受信日時 2001年8月3日
はじめまして、百合子-さん-。
と書くのは、我々にとってまったく新しいこの「手紙」の上では、という意味です。
昨日届いたあなたの手紙は、私が長年慣れ親しんできた、しかしもはや懐かしい形式にのっとった手書きの、紙と万年筆で作られたものでしたから。
しかし幸運なことに、そうでなければ私は手紙を書き送って下さったあなたが本当の百合子-さん-か、つまりつい十日ほど前にコウベで奇跡のように再会できた「神秘嬢」かどうかしつこく疑っていたことでしょう。私は『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』に出席し、我が国のとある新聞記事を快適なホテルで書き上げたあと、ヤマナシからコウベへと向かったのでした。祖国に帰る便をトウキョウ発からオオサカ発に変更してまで、私はあの港町をこの目で見ておきたかったのです。
再会の折にしどろもどろでお話ししたことの繰り返しになりますが、私はK商科大学を訪問し、かつての母校の隆盛ぶりをこの目で確かめました。私が在籍していた当時は、ご存知の通り日本が戦争に負けた直後でまだ学舎も小さく、すべてが出来たばかりだったのです。例えば、今のような貫録のあるツタなどどこの壁にも這ってはいませんでした。
私は満足して翌日、空港に向かいました。そして、私たちは互いに出合い頭、相手が誰であるかを知りました。覚えていたのです。忘れはしなかったのです。まさに空港のロビーで。あと数分でイミグレーションに入ってしまうというところで。友人を見送るあなたと、日本を立とうとする私は、信じられない確率で出会ったのでした。友人に手を振るあなたが私の足をしたたかに踏むという形で。
さて、私はあなたの重さを覚えていたわけではありません。謝るあなたのおっとりした声と困惑した表情が、私に五十年あまりの時を超えさせたのです。あなたはあなた以外の誰でもなかった。
私はまた、あなたの優しい手が生み出す文字の癖も覚えていました。これは手紙をいただいて初めてわかったことです。アルファベットの中の幾つかの文字にそれは顕著でしたが、私は自分があなたの手跡を覚えていることに面食らいました。私はそれまで長らくあなたの書く文字を忘れていたからです。空港であなたの手帳に私の住所を走り書きした時にも、私は自分の悪筆を恥じるばかりで、あなたにも文字の癖があることを想像しませんでした。私は忘れていたのです。あなたのQが繊細な髭を持っていることを。そして思い出したのです。あなたのCが笑顔のように楽しげに空気を吐き出すことを。
さて、あなたからの手紙は、二十世紀が終わって間もない今、私が受け取る最後の手書きの郵便ではないかと思います。もう誰も、いまや編集者からの依頼でさえも電子メール、少し旧式の仲間でもタイプを使いますから。
みな、筆跡を残さないように生きているのです。あらがいようのない身体性は必要とされないのでしょうか? 私たちが迎えた世紀に癖など要らないというのでしょうか? つまり、あなたのQやCは。BやMの味わいは。
いや、愚痴はやめましょう。私は老いていると思われたくないのだし、この「手紙」以降は、まさにその証拠の残らない書簡をあなたと交わしたいのですから。私は今、紙と万年筆の世界にあなたが戻ることを欲していません。私には時間がないのです。電子メールは身体性をはぎとるかわりに、私たちに大量の素早い情報をくれます。私はあなたと話したい思い出が、それこそ山ほどあるのでした。
さて、百合子-さん-(こうして名前の後ろに付ける「さん」という日本語への懐かしさが、あなたにも理解していただければと熱望します。私はこの敬いの音をいつでもあなたと結びつけて胸の奥に抱いてまいりました。今でも様々な国のチャイナタウンで「先生(シンサン)」という敬称を聞く度、私は日本語の「さん」の響きをそこに重ねて甘酸っぱい気持ちになります。イスタンブールにチャイナタウンがないことを残念に思うくらいに)、私は思いがけない言葉をあなたの手紙の中にいくつか、まるで厳冬の湖に浮かぶ鳥の姿を見つけるように見つけました。
例えばそのひとつが、あの頃少女のあなたが私にみじんも感じさせなかった異国の青年への憧れでした。むしろ反対にあなたは私に理知を匂わせ、距離を示し続けていると思っていました。若い私はあなたの冷静さを、十七歳の女性には不釣り合いなほどの堅牢さを特に強く感じていたのでした。そして、ここだけの話、私はその思い込みによって落胆もしていたのです。
百合子-さん-、私は今年、七十歳になりました。自慢の孫さえいます。オルハンというもうすぐ成人する男の子と、ザムバックというあの頃のあなたの年齢に近い女の子で、両方とも名づけたのは私なのですよ。あなたの手紙を前にして、その私が一瞬にして二十歳そこそこの私と入れ替わりました。私は未来しか持たない若者のあてどない不安を今、理解出来ます。同時に可能性しか持たない人間の果敢さも魂の中央に感じます。百合子-さん-、私は私の日々が明るく照らされたことをたとえようもないほど感謝しております。人生の精妙な複雑さ、先の読めなさ、面白さを私は存分に味わっているのです。
ああ、私はやはり古い人間なのでしょう。電子メールでこれほど長い文章を書いてはいけません。しかし、あなたには許されています。どうぞお好きな長さのお返事を、気の向いた時にでもお送りください。
私からの懐旧の「手紙」、本日はここまでにしておきます。
ユスキュダルの町からボスポラス海峡を見下ろして。
あなたのカシムより
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by seikoitonovel
| 2011-05-11 21:19
| 第一小説
8、それから10年も瞬く間に
70年代は激動の10年であったが、私にとっては40歳代の働き盛りでもあった。体力にはもともと自信があり、病気知らず、酒は親父譲りで一升程度では酔い崩れることなどなかった。
春日体制の最初の試練は72年12月の総選挙であった。自民党内閣は佐藤から田中角栄に代わった。田中内閣の日本列島改造論は激しいインフレを引き起こし、庶民生活を直撃した。しかし電撃的な日中国交回復を実現した今太閤田中の人気は衰えず、土木建築業界の期待も高まるばかりであった。こうした情勢下で行われた選挙で民社党は29議席を19議席に減らして敗北した。公明党も49議席から29議席となり、共産党が14議席を38議席とした。
私はこの選挙で長野第4区小沢貞考選対へ派遣された。私は結党以来長野県連とは常に関係を持ち、県連の諸行事には必ず参加するようにしていた。松本を中心とする4区選挙区は定員3名の厳しい選挙区、小沢先生は社会党時代に当選したが、民社党に参加してからは落選続きであった。今度こそはと準備を重ねてきていた。そして私にぜひ来て欲しいと強く要請された。本部もそれを了承して派遣が決まったのである。松本は私の始めての就職地であり、知人・友人も多く、楽しく選挙活動を行うことが出来た。しかも党全体の後退の中で見事な勝利を勝ち取ったのであった。
ただ、12月の信州の寒さは半端ではない。しかし選挙というものはその寒さを克服させる魔物のようなものであることを実感したものである。
選挙区は北アルプスの麓町・大町から南は木曽郡までの広大な範囲であり、いうなれば雪道をかきわけての選挙活動であった。私は早朝の街頭演説、宣伝カーからの連呼、夜の個人演説会での前座などなんでもやった。夜遅くまでの選挙戦術会議、それを終えてからの一杯の酔いに充実感を満喫した。
しかし、党は再び再建へ歩を進めることになるのであった。
目前に74年の参議院選挙が迫っていた。それだけに党再建に賭ける同盟の意気込みは従来とは違ったものがあった。
民社党結党以来、全労・同盟は参議院全国区に必ず4名の組織内候補を擁立して闘い、68年選挙以来全員当選の成果を挙げてきた。候補者擁立産別は全国的基盤を持つ全繊、電力、自動車及び造船重機、海員、鉄労に限られていた。他の産別は4グループに分かれていずれかの候補者を支援した。民社党が総選挙で敗北したとはいえ、同盟は総評・社会党との対抗上1名の落選も許されない。共産党の異常な躍進で組織が侵食される恐れもあった。したがって同盟は選挙態勢の見直しとともに民社党員の拡大運動にも力を注ぐこととなったのである。
私は引き続き組織第一部長として同盟の党員拡大運動に期待した。そして佐々木書記長とはしばしば党組織の在り方をめぐって意見を闘わせたものであった。
佐々木書記長は私たちとの論議に真剣に対してくれた。論議は新橋の飲み屋で激論になったこともあった。私はこうした態度の書記長に好感がもてた。書記長が松本高校(旧制)で学び、信州をよく知っていたこと、俳句に親しんでいたことなども親近感がもてた理由であった。
佐々木書記長との論議のなか私がまとめた組織方針の一つは「政党の日常活動」についてであった。支持団体などから常に指摘されていたのは「党の日常活動の不足」であった。では一体どのような活動を党の日常活動というのか。宣言カーを毎日動かすことか、演説会を開催することなのか、党員を増やしたり、党機関紙を拡張することかなどなど、それらはいずれも日常の党活動に違いないが、もっと体系的に説明できるものが欲しかった。私は考え抜いて次のようにした。
<政党の日常活動>とは
1、常に党員・支持者の声を聞く。
2、その声を整理・整頓して優先順位をつける。
3、その優先順位ごとに順次政策化する。
4、それを党議員および友好団体などを通じて議会に持ち込み、実現する。
5、実現のための宣伝活動を活発に行う。
6、その成果を通じて新しい党員・支持者を増やし、議員を増やしていく。
また佐々木書記長とは党員は1選挙区ごとにどのくらい必要なのか。そのなかで党の中核的党員の数はどのくらい必要なのか、といった基本問題の議論をしたこともあった。
佐々木良作という人は物事を突き詰めていく人で、自分の意見が理解されないときには頭から湯気を出すかのように激高することがあった。「瞬間湯沸かし器」と言われていたのだが、なぜか私たちとは常に冷静であった。
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by seikoitonovel
| 2011-05-08 18:35
| 第三小説「思い出すままに」
7、春日委員長体制の中で
71年4月27日、西村委員長が逝去された。67歳。統一地方選挙の終わった直後であった。肝臓ガンを病まれながら党の最前線で指揮を執られていた。
この地方選挙で党は大きく前進した。都道府県議140名(20名増)、市会議員470名(75%増)が当選。地方議会でも民社党が定着しつつあることを示した。その成果を聞きながらの逝去であった。
西村委員長は53年の「バカヤロウ」解散の立役者として名をはせ、社会党右派の論客として、特に防衛・安保では自衛権問題などで常に明確な方向を示していた。党では選挙対策委員長、組織局長、国会議員団長、書記長を歴任、67年から委員長を5期務められた。私たちには常に「私の歩んだ道ではなく、私が志した道をたずねよ」と教えられた。
党は6月の参議院選挙(全国区4、地方区2当選)のあと、8月に臨時党大会を開き、委員長に春日一幸(投票で春日330票。曽祢益216票を破る)、書記長佐々木良作を選出した。
振り返ってみれば民社党結党からすでに10年が経過していた。この間の同志の悲願は結党時の衆議院議席40に一日でも早く到達することであった。だが、それまでに3回の総選挙、3回の参議院選挙、そして3回の統一地方選挙を必死の思いで闘ってきたが、展望は開かれなかった。
政党は選挙で国民の支持を得る以外に生きるすべはない。そして政党本部書記局の役割はそのために最大限の智慧と労力を発揮することなのである。
もちろん執行委員長を頂点とする執行部に最大の責任があるが、その執行部を支えるわれわれ裏方が大事なことはいうまでもない。10年間で選挙のなかった年は4年だけだったが、その4年は選挙準備の年であり、政党はまさしく「常在戦場」なのであった。
その寧日なき闘いがまた始まるのであった。40議席の悲願には到達していないとしても希望の持てるところまで上がってきたのも事実である。希望は失われていないのだ。
まだまだ長く、政権交代のないいびつな日本政治が続いていく。
<伊藤幸子注:
党本部の選挙対策に集中して、家のことなど顧みる暇のなかった夫だが、私はちょうど正幸、美香の子育てに夢中であった。最初の頃は夫からの生活資金では足りず、例えばお風呂に行くにも石けんがなかったこともあったほど。そんな時には子供にだけは不自由させないために私は一食抜いた。かなり痩せました。田舎の母が家に来た折など、心配してこっそり小遣いを懐に入れてくれたものです>
<いとうせいこう注:
父は社会のことで頭がいっぱいであり、それは青年の闘志として美しくもある。だが、母の証言と重ね合わせるとどこか滑稽味も出てくる。不均衡なのだ>
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by seikoitonovel
| 2011-05-05 20:19
| 第三小説「思い出すままに」