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自由 


by seikoitonovel
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父5-3


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5-3  候補者に選ばれるまでの二十年

 一体、なぜ私が参議院議員候補者として選ばれたのか。私には不思議でならないし、それだけに天命と言ったものを感じるのである。
 それまで民社党が地方区で候補者を立てることのできた地方は北海道、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡などの大都市に限定された。時には栃木、岐阜などが加えられたが、これらの地方区で当選できる候補者は余程の知名度がなければならない。だから特定の支持母体を持たない党本部書記局員が参議院議員になろうなどとは考えも及ばないのである。
 〝私もやがて表舞台で〟という強い願望をもった時代があったことも事実である。民社党の結党と同時に党本部書記局入りした私は、中央機関紙事務局長、組織局第一部長、国民運動事務局長、総務局次長、組織局次長などを歴任した。この間長野県連では私を県会候補にという話もあった。さらに五四年には長野県第三区から衆議院候補にという話もあった。この長野県第三区の場合は、すでに公認候補として確定していたG氏が、統一地方選挙直前になって突如公認辞退を申し入れてきたため、衆議院議員候補者選考委員長として候補者の発掘に四苦八苦されていた春日一幸先生が私を呼んで〝辞退させないよう説得せよ〟と厳命された、この厳命を受けて私は、G氏に何度か会ってみたがどうにもならず、公認発表の五月党大会の段階であきらめざるを得なかった。そこで春日先生は〝それでは伊藤君が次の候補だ。真剣に考えろ〟ということであった。強引な話だとは思ったが私もこれを真剣に受けとめ、親戚の人たちに集まってもらい話し合いをしたし、また支援母体というべき地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし地区同盟はG氏の準備活動をつづけてきており、今更候補者の切りかえはむずかしいとのことであった。それではたたかいにならない。私はこの話を断念した。
 一方、私は五二年以来組織局次長として和田晴生についで柳沢錬造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いていた。前にも述べた通り、私はこの経過を通じて党勢拡大への確固たる視点をもつようになった。〝裏方に徹して民社党発展のために自分自身の与えられた役割を果たしていこう〟との決意となったのである。

 そんな中、五四年十月選挙の勝利の余韻が未ださめやらぬ十一月の初めに、建設同盟の鈴木委員長と豊島書記長が党本部を訪ねてきた。会って話を聞くと組合の政治活動をもっと強めるために全化政連方式を採用したいとのことであった。全化政連方式というのはいわば民社党への団体加盟方式である。時宜を得た話で私はたいへん嬉しかった。
 その折、鈴木委員長が来年の参議院選挙をたたかう同盟内の全国区候補は、向井長年(電力)、田淵哲也(自動車)、柄谷道一(ゼンセン)=いずれも現職=の三名に決まっているが、あとの一人がまだ決まらない、なにをもたもたしているのだろうか、早く決めてもらわないと困る、という話であった。私も全く同感であった。全国区候補はいままで同盟から四名を出してきており、同盟はまた、四名は必ず当選させることができる力をもっている。ところが三名は早くから決まっていたが、あとの一候補がなかなか決まらない。全金、造船、海員、鉄労のいずれかの組合のなかから候補者がでてくるのだろうとみられていたが、それぞれの組織に事情があってなかなかまとまらない。しかし総選挙も終わり、いよいよ来年は参議院選挙、党躍進ムードのなかで従来より少ない三名の候補で全国区選挙を迎えることは到底できない。同盟本部第四候補選考委員会(委員長前川一男氏)も年内決着をめざして精力的に動き出した。しかし同盟の組織内からは、この時点ではもはや第四候補者を出すことは断念せざるを得ない状態となり、選考委員会は最終的に党本部の佐々木委員長に選考を一任し、同委員長が決めた候補者を同盟の組織内候補とする、との結論となった。この段階でも私は最後は同盟の有力単産から候補者がでてくるに違いないと信じていた。私にお鉢が回ってこようなどとは夢にも考えていなかったのである。

# by seikoitonovel | 2011-07-07 14:14 | 第三小説「思い出すままに」

父5-2


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5-2 参議院「惨酷区」

 振りかえれば大変なたたかいであった。
 過去に一度でも参議院全国区の選挙運動を経験した人々はいまでも言う。「郁さん、君があんな短い準備活動で当選できるなんて、どうしても考えられなかったよ」と。
 あの有名な政治評論家の俵孝太郎さんも「せいぜい30万票もとればいい方ではないかとみていたよ」と言った。専門家は一様にそうみていたのであった。私自身も長い政党本部での経験から、そのことは十分すぎるほどわかっていた。
 私は知名度ゼロの無名の新人候補者であった。同盟一ー産別の支援を受けたとはいえ、これら産別の組合員にとって、私の名前も経歴も何ひとつ知られていなかったのである。それが勝てたのだから奇跡に近い出来事だったと言える。
「惨酷区」とさえ呼ばれる参議院全国区のたたかいは、四七都道府県をまたにかけた壮大なたたかいである。壮大といえば聞こえはいいが、それは候補者になったものでなければ決して理解することのできない大変なたたかいである。
 たしかにそうだ。例えば、一県を二日間ずつ回ったとしても三ヵ月と四日を要する。北海道から遊説を開始するとして、再び東京に戻ることのできるのは三ヵ月と五日後になるのである。しかも、一県を二日間だけという日程では、主要な都市の目抜き通りを猛スピードで素通りするだけで終わってしまうのである。事実、私の選挙運動も、支援組織の職場に五分ないしは十分間程度ずつ顔を出すという猛スピードの運動であった。知名度の高い候補者ならばそれでも当選できるであろうが、私のような知名度ゼロの新人は一県を二日間ずつ回るだけではまず当選はおぼつかない。したがって新人候補者ならば少なくとも一年半か二年、現職議員でも一年間の準備活動期間が必要だというのが全国区選挙の常識なのである。
 それが私の場合は、僅か六ヶ月間の準備活動期間しかなかったのである。まさしく無暴なたたかいへの挑戦というべきであった。しかも「八〇万票」という途方もない票をめざすたたかいであった。だから立候補を決意してから選挙の終わるまで私の念頭には〝当選〟の二文字は全くなかった。私は私自身に与えられた使命にしたがって全力をつくす以外にないと思った。支援組織のひとびとの足手まといにならないように、候補者として後ろ指を指されないように、真剣に立ち向かっていこうと、ただそう心に言い続け、たたかい続けてきたのであった。
 結果は六十八万三千五百二票という票を得た。私個人で獲得し得た票はそのうち三〇〇分の一にも達しないであろう。支援産別がその威信をかけて叩き出してくれた、まさしく組織の力の勝利であった。
 短いようで長く、長いようで短かったこの異例のたたかいを振り返りながら思い出すままに書きつづってみたい。

# by seikoitonovel | 2011-06-06 15:21 | 第三小説「思い出すままに」

父5-1


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5-1 しまった、街頭演説に間に合わない!

 昭和五十五年六月二十四日の朝、目を覚まして時計を見た。針は午前八時を指していた。その瞬間、私は頭をハンマーでなぐられたような衝撃を受けた。
「しまった、たいへんなことになった。この時間ではもう朝の演説に間に合わない、さあ、どうすべきか」
 胸がドキドキ高鳴っている。
「どうしたことだ、今までこんな失敗をしたことはないのに……」
 長い選挙期間中、私は出発予定時間の一時間前に必ず起きた。そして洗顔の後、狭いホテルの部屋のなかで軽い体操をやり、千回から千五百回の足踏みをして体調をととのえ、心気を充実させて迎えの車を待った。
 こうしてホテルを出発し、午前六時半ないしは七時ごろから支援組織の職場の門前に立って出勤してくる組合員のみなさんに向かってあいさつを繰り返す。これが私の朝の主な選挙運動であった。
 ところがその朝は迂闊にも寝すごしてしまったのである。候補者カーはとっくに朝の日程を終了し、今ごろは次の職場に向けて突っ走っているにちがいない。そこにこれから追いつくにはどうすればよいか。ホテルはひっそりとしていて、いつも私より早く起きて出発準備をしている本間隆君のあの大きな張りのある声も聞こえない。
 いまごろ現場では、組合幹部や運動員が宣伝カーの運転手に向って「候補者はどうした。なぜ乗せて来なかったのか」と、怒鳴り散らしているであろうことを想像し、私はとにかくここを一刻も早く出なければならないと思った。
 急いで着替えをしながら、「それにしても、一体ここはどこなのか」と頭をゴツゴツ叩き、ガタガタと窓を開け放った。そして外の景色をみて私は、
「おやっ」と思った。
「ここは東京だ。芝のグランド・ホテルではないか。そうだ、選挙は終わっているんだ」
 完全にねぼけていたのである。いや選挙が終わっているのに、私の体は無意識のうちにまだ選挙運動を継続していたのであった。
「ああ、みんなに迷惑をかけなくてよかった」
 と胸をなでおろしながら、
「当選したんだ。ついさっきまで当選祝いでもみくちゃになりながら、ここに来て午前四時半ごろ寝たんだ」
 開票は前日二十三日午後六時からはじまった。私の順位は五十位前後を行ったり来たりし、結局当選のテロップがNHK・TVに出たのが、真夜中の午前二時であった。当選者五十人のうち最後から三番目にようやく決まるという、まさに薄氷を踏む思いのきわどい当選であった。  
             (『鷹の目』より)


<いとうせいこう注
 今回から、父が昔自費出版した著作『鷹の目』を編集して足していく。
 とはいえ、まずは著作冒頭そのままである。
 ここから父の人生の変化が語られていく>

# by seikoitonovel | 2011-05-20 20:48 | 第三小説「思い出すままに」

父4-13


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10、ようやく春を実感しながら

 79年10月の総選挙の結果は大きな希望になった。
 この選挙で私は長野県第四区の小沢貞孝選対に派遣された。8月の下旬から選挙の終わるまでの約40日間、一度も帰京せず連日睡眠時間4時間のきびしい戦いに耐え続けた。
 それは小沢先生にとっても政治生命をかけた戦いであった。当選の次は落選、その次は当選というエレベーター選挙をやってきた小沢先生であり、72年で当選された先生は76年の選挙では落選されており、今度敗れれば引退といわれ、ご本人もそのように覚悟されているようであった。しかしそんなことになれば民社党長野県連は壊滅の危機を迎える。なんとしても勝たねばならない。
 私は総選挙の度に何回となく小沢選対と関係を持った。そして不思議にも私が選対に張り付け(派遣オルグ)になった時は当選、ならなかった時は落選であった。そんな奇妙な因縁を小沢先生も知っていて“来てくれていて座っていてくれればいい”とそれとなく本部に私の派遣を要請していたようであった。当時私は千葉の加藤綾子選対に拘わり合いを持っていたが、解散の見通しが次第にあきらかになってきた8月下旬に松本に入り、10月の選挙が終わるまで選挙対策に専念したのである。
 この選挙で小沢先生は7万9千票を獲得して見事第一位で返り咲いた。その上、党全体としては10議席増の36議席獲得の輝かしい戦果であった。念願の結党時の議席に限りなく近づいたのであり、私は久方ぶりに体の中から湧き上がる喜びを味わったのである。20年の冬の時代を経て、民社党にも春がめぐってきたことを実感したのであった。
 しかし春といってもほんの春の入り口であり、肌寒さの残る浅春というべきであった。民社党にとってそれからがまさしく本当の勝負時である。民社党がお手本にしてきた西欧の友党、すなわち西ドイツ社民党にしてもイギリス労働党にしてもそれぞれ100年を越す歴史を持っているのであり、それに比べれば民社党はまだ中学生といったところであろう。
 激しかった10月の選挙の疲れを癒しながら私はこれからの私自身の人生というか、私自身の果たすべき役割について深く思いをめぐらせた。来年は50才になるし、人生の最終コースを自ら選択しなければならないと思うのであった。そして得た結論は、党組織拡大のために裏方に徹すること、それが私に与えられた使命である、ということであった。
 私もやがては表舞台でという願望を持った時代もあった。長野県では県会議員や衆議院議員候補にという話も合った。今回の選挙の前には長野県3区の候補者に内定していたG氏が突然候補者辞退してきたため、衆議院候補者選考委員長の春日先生の命を受けてG氏の説得役となったが、どうにもならず断念せざるをえなくなった。すると春日先生は“それでは伊藤が次の候補者だ。真剣に考えろ”となった。強引な話だとは思いつつも、私も無下に断るわけに行かず、親戚の人たちに集まってもらい、また地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし大方は反対であり、私はこの話を断念して春日先生に報告した。
 一方、私は77年には組織局次長として和田春生、ついで柳沢鍛造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いた。74年の衆議院選、75年の参議院選を通じて党は一定の地歩を固めたが、党員数は依然として3万名前後に低迷していた。毎月の新入党者は結構な数にのぼっていたが、それと同じ程度の離党者があり結果として党員数は3万名に留まる、という状況を繰り返していた。78年には選挙はなく、79年4月には統一地方選挙が予定されていた。この時期に本腰を入れて党勢拡大を図り、それを統一地方選挙の勝利につなげたい、これが私と和田局長との一致した戦略であった。しかし今までと同じことをやっていたのでは成果は見えている。そこで党勢拡大月間を設定して、同盟各産別との個別の話し合い、総支部強化のための研修会などを行った。その内容をくわしくのべるわけにはいかないが、この試みで党勢は飛躍的に拡大した。
 私はこの経過を通じて、党勢拡大への確固たる視点を持つことが出来た。これが、俺はこれからは“裏方に徹していこう”との決意になったのであった。 


<伊藤幸子注
 夫は総選挙、参議院選挙、四年ごとの統一地方選挙とその準備期間、一年中選挙活動に明け暮れておりました。そして国会議員選挙の時などはしばしば二ヶ月や四ヶ月くらいの出張は当たり前でした。その間、電話や手紙は一通も来ません。それでも私は政党本部に勤めているからにはそれが当然のことだと、割り切っていましたから特別なことだとは思いませんでした。今考えてみますと、少々のんびりしすぎたように思いますが>

<いとうせいこう注
 このあと、父の人生は思いがけなく変化する。
 そして、私自身は79年にはもう18才になっているのだった>

# by seikoitonovel | 2011-05-16 13:21 | 第三小説「思い出すままに」

父4-12


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9、70年代の出来事・春日は共産党と対決  

 振り返ってみると70年代というのは特異な年代であった。さまざまな転換があったがそれを羅列すると、
 
*70年に入るや、65年11月から続いてきた日本の“いざなぎ景気”が終わり、74年にはマイナス成長へ転じた。労働組合の賃金交渉は30%もの史上最高の妥結賃金時代から一転して半減するきびしいものとなった。
*また72年には5月15日に沖縄が日本に返還され、75年にはサイゴン陥落でベトナム戦争が終結した。南ベトナム支援で兵力投入の米国が敗退した。
*さらに72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件があり、74年にはルパング島から小野田少尉が帰還した。 
*72年7月、佐藤内閣が田中内閣に代わった。福田赳夫絶対有利と思われていた総裁選挙で田中角栄が圧勝したのである。そして前述したように12月総選挙が行われ、公明、民社が敗北し、共産党が38もの議席をえた。
*74年、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中が金脈問題で辞任に追い込まれ、三木内閣となる。76年7月遂にロッキード問題で田中は逮捕されるが、田中逮捕を容認した三木首相は自民党内の激しい三木降しにあい、福田内閣となった。その前6月には、自民党から河野らが離党して新自由クラブを旗揚げした。
*75年11月、国鉄労組がスト権スト、国鉄全線を止めた。これがやがて国鉄民営化へと繋がっていく。
*76年の私たちにとっての大きな出来事は、春日委員長が1月27日の衆議院に於ける代表質問で宮本共産党委員長の「リンチ事件」を取り上げ、政府の見解をただしたことであった。昭和8年、当時共産党中央委員の宮本が仲間の佐藤達雄をリンチにかけ死に至らしめたといわれる事件であるが、この事件の真相はあいまいのままであった。それを文芸春秋で立花隆が「日本共産党の研究」の中で取り上げたのをキッカケに、春日が追求したのである。宮本らは佐藤はリンチと関係なく異常体質のため死んだのであると抗弁したが、共産党が仲間をしばしばリンチにかけてきたのは明らかで、佐藤がそのリンチで殺されたというのが真実ではないか、それを明らかにしたいというのが春日の狙いであった。
 共産党は狼狽し、あらゆる手段を講じて春日への反撃を仕掛けてきた。しかし春日ははじめからそれを想定しており、こちらからさらに追い討ちをかけ、予算委員会の場で塚本三郎をたててさらに追及した。共産党の民社攻撃はその後熾烈を極めたが、民社党は「歴史を偽造する日本共産党ーリンチ事件をめぐる九つの嘘」を出版。この本はあっという間に売り切れたのであった。タブーに挑戦した春日の勇気はさすがであった。
 かくしてこの年の11月15日公示、12月5日投票の総選挙でロッキードの自民党は22議席減、共産党は21議席減。そしてわが党は10議席増の29議席となったのである。
*日本社会党内の左派社会主義協会と右派江田三郎派との対立が再燃、77年3月遂に江田が離党、社会民主連合(社民連)を結成、江田はその直後逝去、社民連は田英夫を代表として発足してゆく。

 こうした様々な背景のなかで77年の参議院選挙を迎えた。私はこの選挙で東京選挙区木島則夫選対に派遣された。木島は6年前NHKのキャスターから民社党の参議院候補者となった。木島はTV放送界で初めて街頭放送をやるなど、そのソフトな語り口とスマートさで抜群の人気があって見事当選したが、2期目の今回は極めて厳しいとの予想がなされていた。私は党本部からの事務責任者であったが、選挙の実働部隊は東京都連であり、私は事務所の雰囲気を盛り上げることと、本部との連絡にあたった。
 幸いこの選挙でも木島の人気は保たれていて三位当選を果たした。
 選挙事務所の一切の事後処理を終えたとき、その安堵感から私はむしょうに煙草が吸いたくなった。同僚からホープ一本もらって吸った。頭がぐらぐらしたがやがてそれも納まった。苦労して禁煙に成功していたがこれでまた喫煙者となってしまった。
 この選挙が終わってから3ヵ月後、突如春日委員長が辞任表明した。女性問題がその原因であった。かくして11月の臨時大会で佐々木が委員長となり、書記長には塚本三郎が選出された。
 そして佐々木体制の中で79年総選挙を迎えることとなったのである。

# by seikoitonovel | 2011-05-13 20:58 | 第三小説「思い出すままに」