カレンダー
S |
M |
T |
W |
T |
F |
S |
|
|
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
11
|
12
|
13
|
14
|
15
|
16
|
17
|
18
|
19
|
20
|
21
|
22
|
23
|
24
|
25
|
26
|
27
|
28
|
29
|
30
|
31
|
私の中で、それはすでに灰青色の、触れれば冷たい彫像である。足元の小さな金箔塗りのパネルには『すっぽん 1974』と黒く荒々しく刻まれている。
私を解放しようとして書けば書くほど、私はこうして重く揺るがぬ存在となっていく。私は記憶の底に固着し、輪郭ごと浮き上がって剥がれ、引き伸ばされ、否定しようのない偉大さにまで膨れ上がって重量を増す。私は悪循環の中にいる。
解放されるべき中学生の私を私1とし、悪循環の中にいる今の私を私2とすれば、私2こそが私1を時間のどん詰まりに追い込み、太らせてそこから出られなくしているのだ。では、私2は私1を忘れてしまえばよいのだろうか。
私2はそうは思わない。記憶からの緊急避難をしたところで、いずれにしろそれはいつかぬるりと魚影のごとく動くからである。完全に忘れることは不可能なのだ。そして、過去を変えることも絶対に不可能なのである以上、私2は私2で可能性のどん詰まりに追い込まれている。私1によって。すでに。
私1が私2にしがみついているのか、私2が私1の足をつかんで離さないのか。しかも困ったことに、どちらもすっぽんであることには変わりない。これはまさに泥仕合だ。
ちなみに、私1、私2というイメージしにくい分類で現在、少なからぬ読者の混乱を招いていると思う。ここはひとつ、中学生の私を私13とし、今の私を私48にしてみたらどうだろう。いや、それでは年齢表示みたいで面白くない。私は私を更新して連なってきたのだから、私10と私152くらいが適正ではないか。
祖先たるダニエル1と、未来のダニエル25が語りを進める奇怪な長編があったけれども(ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』)、こちらは私10と私152で互いの足を奪い合っている。あまり格好のいい話ではない。
ただ、私152は経験を経た私であり、いかに悪循環の中にあっても、かつてのようにじっと耐えているつもりはない。どこかに事態の突破口はないかと目をこらしながら、しかしどうもしばらく動けそうもないという予測を、私10の脇や腰をこちょこちょくすぐることで伝えるだろう。
今のところ、それが私152から私10への能う限りの、渾身のメッセージだ。
そのくすぐりが。
第一章
1-1
出生
1930年(昭和5年9月11日)。長野県諏訪市岡村北沢で父友幸、母よしのの6男として出生。
長男源蔵(1920年生・大正9年)、次男治幸(1922年生・大正11年)、三男巻男(1924年生・大正13年)、四男計男(1926年生・大正15年・昭和元年)、五男武男(1928年生・昭和3年)の兄達は皆健康であった。
母親よしのは2年に一人づつ生みつづけてきたのである。長男源蔵と私とは10才違いであった。私が小学校に上がったときには源蔵はすでに尋常高等小学校も卒業して家業に従事していた。兄弟は兄弟であってもこの差は大きい。私は幼少時に源蔵と親しく話を交わしたという記憶はなく、恐ろしく力の強い頼もしい兄貴という印象でしかない。
父の家業
私が生まれた頃には牛乳処理販売業を営む、○井(井の○囲い)伊藤牛乳店といい、その頃の上諏訪の同業者は大手町の○中(中の○囲い)という牛乳処理販売店が一軒あるだけであった。最初は5頭ばかりの乳牛を家の庭で飼い、母が搾乳していたことを朧気に覚えているが、それはわずかな期間だけだったのではないかと思う。その後は乳牛農家(せいぜい5頭位しか飼っていない小規模農家)から牛乳を集めてきてそれを熱処理し一本一本一合ビンに詰め宅配した。最初は販売先の開拓・集金など父が行っていたようだが、父は源蔵の高等小学校の卒業を待ち構えていてもっぱら自分の手足のように使った。
家業は父母と源蔵が支えていたといっていい。
1
#『我々の恋愛』、3-1の冒頭に「まず一人の男がいた」という一行を付け足した。
これで全体の見通しがよくなったと思う。
#また、今日から、伊藤郁男(私の父)に一年以上前に依頼して書き下ろしてもらっている自叙伝『思い出すままに・自叙伝にかえて』を掲載していくこととなった。
息子である私(いとうせいこう)はいつごろ出現するだろうか。
#さらに、私は父の自叙伝にコメントを付けていくはずだ。
つまりこれは、史上初の「親子小説」であり、「私小説」ならぬ「我々小説」ということになる。
#連載小説空間はこうして、他人の小説さえ連載する。
3-4
『BLIND』-4
なだめる者は、相手の感情の起伏にぴったりと寄り添いながらそれを完全に統御しようと最大限の力を注ぎ、しかも事を成功裡に終わらせるまでにたいていは複数回の失敗を余儀なくされて傷つく。したがって俊子をなだめ終えた要は、すでにその短い時間の中で、ひとつの恋のプロセスを経験していたと言える。
二年後、二人は結婚した。
世界では同時革命が叫ばれていた。
徹が生まれるのはさらに一年後、1971年のことだった。
臨月になってもなお、俊子は金沢市内の街頭デモに参加した。やがて日本を代表する国際空港となるナリタではその年の2月22日、第一次強制代執行が始まった。延べ2万人の警官が、土地収用に反対する延べ2万人の地元農民や学生と衝突した。農民の中には立ち木に自らをくくりつけて抵抗する者もあった。俊子は代執行に反対しなければ筋が通らないと言った。要は筋そのものがのみ込めなかった。
仕事に対する徹の真面目さは、この母から来ている、と言ってよい。そして父・要は最初に図書館で俊子に気づかなかったように、徹の中に厳然としてある岩めいた頑固さに気づかなかった。何事に対しても集中出来ずにぼんやりしている、という息子観はそのまま要自身にこそ当てはまった。
だが、徹はただ母だけに似ていたのではない。「あらはばきランド」で徹が最も深く慕っていた上司、ここでは仮に園田吉郎(きちろう)としておくが、この園田の性格や風貌が父・要に大変よく似ていた。けれど、徹はその誰にとっても明らかな事実に気づかなかった。まるで父のように。
奇妙なことに、この父によく似た男・園田吉郎(45歳)こそが、徹が恋に落ちるきっかけを、本人もそうとは知らぬまますでに作り出していたのであった。
園田はまた、「レイン・レイン」を作った人物でもあった。
小さな私はまだ中学生であったろう、と今ではずいぶん確かにわかる。なぜなら同級生の足にしがみつき、ふりほどかれまいとする私の頭はいがぐり坊主だったはずだからだ。
高校生の私は髪を伸ばした。もしその私が足にしがみついたなら、同級生は真っ先に髪をつかみ、私をひきはがそうとしただろう。私はいずれ顎を上げざるを得なくなる。上げた顎に上腕部をねじ込まれれば、もう私はすっぽんではいられなかった。
中学生という不安定な時期の中に、同級生も私も固定されていた。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。
私は部屋中のすべての物を紙でラッピングしないといられない子供でもよかった。不潔を何よりも嫌い、形状がばらつくことを嫌い、物の色を自分の好みで完全に支配したくて、私は過去のノート類を黄緑色の紙に包み、思い出のみやげの数々をベージュ色の厚紙で箱状に包み、本はすべて色違いの紙に包んで本棚に並べ、椅子の背をピンク色の紙で包み、蛍光灯のスイッチの紐の垂れた先端を小さな白い紙で四角く包み、ティッシュの箱を青くざらついた紙でさらに覆って使いにくくし、あれやこれやと開けては包み、包んでは開けることに一日の労力を使い果たしていてもよかった。
同級生もまた、自分で大事だと感じることを、必ず三回前転をしないと始められない中学生でもよかった。それをしないと胸がふさがってきて呼吸がしづらくなり、やがて母親が死んでしまうばかりか、世界がみるみる焼け焦げて白く消滅することがはっきりわかるので、人前で恥ずかしいのを耐えて同級生は床を三回、転がる。デパートで、親戚の家の客間で、自転車屋の店先で。誰も自分が世界を救っていることに気づいてはくれないのだけれど、だからといって迫りくる破滅を見過ごしにすれば、自分は何より失いたくないものを失ってしまう。だから同級生は勇敢に三回、転がる。そういう中学生でもよかった。
あるいは私は数十年ほどを経て佐渡で一人前の刀鍛冶になり、毎日真っ赤に燃える鉄をハンマーで打って結晶をより細密に仕立て、若い弟子を二人取って作業を見せて習わせ、息を深く整えることこそが刀鍛冶の仕事の最も肝要な事柄だと喝破して朝六時に起きては座禅を組み、ついに清冽な湧き水のごとき剣を一本作り上げてもよかったし、同級生は同じ年月を親の都合で渡ったボリビアで暮してローマカソリックの神父の経験を積み、ある新月の晩に光の啓示を受けたのちに異教的な信仰を持って教団を形成するとみるみる南米各地に信者を増やして弾圧され、たった一冊の、のちに信者にとって聖なる書とされるノートを残した他はまったくの行方知れずで人生を終わったのでもよかった。
だが、私は私でしかなかった。同級生も同級生でしかなかった。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。