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2012年 01月 15日
タイの恋愛学者アピチャイ・ホンターイが故国で悲惨な事故にあう百日ほど前、つまり彼と私が共に日本の事例を調査研究していた折に判明したことだが、1994年3月19日に「あらはばきランド」で縄文デイを見ていた華島徹と園田吉郎をさらに遠くから眺めていたのが企画部の犀川奈美38才なのであった。
犀川は当日の午後、四階建ての本部ビルの屋上にいた。社内で飼っていたハムスターを透明の球体に入れて散歩させたすぐあとのことである。犀川はその屋上からランド全体、またはその西側に連なる小山を見るのを息抜きとしていた。イベント会場にいる華島と園田がこそこそと話をしているのを見つけた犀川はメンソール入りの細い煙草をくわえ、一度大きく煙を吸うと、社の者には絶対に聞かせることのない深いため息をついた。まるで小さな黒い岩をビルの上から落とすかのように。
ため息は華島にも園田にも関係がなかった。それは純粋に犀川の個人的な問題に起因していた。彼女は二年以上、ある変事を抱えていた。端的にいえば、犀川奈美は悪霊と大恋愛をしていたのである。
始まりはもっと前、六年はさかのぼる。犀川は一人の男を愛した。痩せていて羊のような癖毛をした男は時に犀川に暴力をふるい、金を借り倒し、連絡なしに外泊を続けた。だが、犀川は男との関係に固執した。半同棲生活が一年ほど続いたあと、男は忽然と姿を消した。
少ない友人たちにも男のふた親にも弟にもいっこうに連絡がなかった。犀川は警察に捜索願を出して男を待った。自分に男が必要であるように、男にも犀川しかないと思った。二人は傷をつくりあい、それを強く押しつけあい、互いの肉と骨とを癒着させたのだと犀川は考えた。離れられないのだ、と。
亡くなったことにしないと奈美ちゃんが壊れる、と友人たちが言い出した。新しい縁もあるだろうにと心配してくれたのだった。
男が消えて二年後のこと、犀川自身は拒んだのだけれど、ある冬の晩に数人の男女が犀川の家に集まって男をしのぶ会を行った。位牌こそ作らなかったものの、友人たちはテーブルに果物や酒や男の好きだったビーフジャーキーなどを置き、献杯めいたことをした。
犀川はただ黙って儀式につきあった。もしかしてという憂いはあったが、犀川は男が死んでいるとは思いたくなかった。
行方不明になった男が死んだとされたその晩遅く、友人たちがみな帰ったあとのがらんとした部屋でラップ音が始まった。リビングの中央に吊り下げられたバラの形の照明の周囲を小さな破裂音が駆けた。やはり男はこの世のものではないのか、と犀川は胸が潰れるように思い、同時に体の奥が熱く溶けるような幸福感にも貫かれた。男は自分に会いに来たのだと思った。犀川は立ち上がり、音を追って部屋をへめぐった。
気づくと、玄関とリビングをつなぐ廊下の白壁に薄茶色の古い血痕めいたシミが浮き出ていた。シミからはそれより少し濃い色の液体が垂れた。犀川は何度も深呼吸をし、頬を叩き、洗面所で鏡の中に自分を映して正気を確認してから廊下に戻った。シミも液体も変らずそこにあった。犀川はへたり込んで壁に手をつき、しみ出る液体をぬぐって口にした。男の精液の味がした。犀川は太い声で泣いた。息が長く出来ないほどの命がけの嗚咽だった。体から体がごっそり抜け出るように感じた。
いつの間にか、犀川は冷え冷えとした廊下に身を横たえて眠っていた。悪夢が彼女を襲った。眠りの中で女の体は宙を浮き、地に叩き落とされ八つ裂きにされ火にくべられた。目玉をくりぬかれ、舌を切られ喉を何度も鋭利な刃物で突かれた。痛みはきわめてリアルで度々夢から醒めた。
しかし彼女はしがみつくようにまた眠りに向かった。戦いに挑むように、大切なものを二度と失わぬように、女は自分を傷つける世界へ走り込んだ。
それが毎晩だった。光のあるうちに犀川は仕事に出かけ、夕食を外ですませて家に帰った。部屋の中はいつもめちゃくちゃだった。テレビは倒れ、CDは散乱し、メダカのいる小さな水槽の中にスリッパが突っ込まれていたこともあるし、天井には切りつけられたナイフの跡、壁のシミは日々別な場所に現れ、床自体に糞尿じみた臭いのする粘液が溜まっていた。
犀川は生きた男の粗相を片づけるように鼻歌など歌いながら二時間強をかけて部屋を元に戻した。天井の切り跡や壁のシミは翌日には必ず消えたが、犀川はそれでも濡れタオルをよく絞り、男の体に出来た疱瘡を癒すような丁寧さでそこを拭いた。
現象は犀川だけの思い込みではなかった。男の仮の葬式以来あまり招かれなくなった友人の一人、元木和江はある時、地下鉄有楽町線の駅構内でばったり犀川に会い、驚愕して彼女の腕をつかんだ。
「奈美、その腰に憑いてる犬は何?」
元木によれば犀川の腰回りにぐるりと一頭の茶色い中型犬が張り付いており、その他にもよく見れば赤い老婆や厚い眼鏡の青白い青年などが背中に覆いかぶさったり、頭の上によじのぼったりしていたのだという。
あたしも霊感の強い方ではあるけれど、と元木は私たちに向かって目を丸くしたものだ。あそこまではっきりと霊の憑いた人間を見たことがない、と。
元木以外にも、特に茶色い中型犬の存在を見てとる者は少なくなかった。犀川が街を歩いていると横断歩道で、スーパーマーケットの冷凍品売り場の前で、タクシーの後部座席で犀川は何度となく話しかけられた。一刻も早くその犬の霊を祓うべきだと彼女は忠告された。私が今から祓おうと池袋駅のホームで言い出した僧侶もいた。犀川の肩をつかんで早くしないとあなたは死んでしまうと言った女性もいた。
先に名を挙げた元木和江はそのまま犀川の家に押しかけた。部屋に入った途端、元木もまた怒り狂うような激しいラップ音を聞き、目の前の壁にシミが浮き出ては消え、小刻みに停電したり触ってもいないラジオが大音量で鳴ったりするのを体験した。悲鳴を上げ続けた元木の声は一時間もしないうちに嗄れてしまったのだそうだ。
だが犀川は絶対に霊を祓わないと言った。中型犬も老婆も青年も男に関係した何かなのだ。むしろ自分は男自身にとり憑かれる日を待っているのだし、毎晩のむごい悪夢こそが男からの愛の濃さだと知っている、と犀川は澄みきった目で元木にそう話した。その時の声の優しさはまさに聖母というべきものだった、と元木は語っている。
酒乱の男に尽くす女のように、犀川は不可思議な現象にこそ喜びを感じていたのだった。コップが浮き、壁に叩きつけられて割れ、破片の断面から血のようなものがにじみ出てくると、犀川はそれを口の中に入れた。キッチンに飾った切り花はひとつずつ潰されたが、女はその潰れた形のままをドライフラワーにして保存しようとした。引き出しが開けられ、中の物をすべて床にぶちまけられれば、その散乱の中に男との思い出の品がないかひとつひとつつまんで眺め、あるとそれを写真に撮った。
元木和江に再会した日からだと犀川は記憶しているが、悪夢の中に茶色い中型犬が出てくるようになった。犬はまずさかんに骨を欲しがった。犀川は男がどこかで圧死したのだと思った。骨を粉々にされて死んでいるからこそ、男はかわりの骨を求めているのだ、と。犀川は泣いた。男の無残な死に方が可哀想で仕方なかったし、そのことを犀川に訴えるようになった男により一層の愛しさを感じた。
やがて犬は遠吠えを始めた。家がきしむような、不安定な長い声だったという。犀川はそれを男のオペラだと直感した。男は犬に変容して歌っている。自分がそれを聴く以外、誰が耳を傾けるだろうか。犀川は夢の中で腕を切り落とされ、足の裏に真っ赤な焼きごてを押しつけられ、喉の奥に金属の棒を突き込まれながら目をつぶり、男の歌劇を聴いた。男は犀川への未練を歌っていた。
ただ、行方不明になるまでの男の趣味はブルースギターであり、オペラを好んだ形跡などどこにもなかった。むしろオペラは犀川の好みだった。男がオペラを歌うなどということは、友人たちからすれば絶対にあり得ないことだった。
どうやらそのようにして、犀川奈美は悪夢を手なづけつつあった。悪霊自体そうだったといえる。霊の引き起こす無意味な現象のひとつずつを、犀川は例外なく自分への愛を基本として解釈し、対応し、受け入れた。根負けしたのは悪霊の方だったかもしれない。
したがって、犀川が華島徹や園田吉郎を屋上から見てため息をついた頃には小康状態が訪れていた。悪霊の暴れ方にアイデアがなくなってきていたのである。
ありとあらゆる事態に犀川奈美は素早く最適の処理をした。部屋中に防水処理がしてあったし、割れる素材の小物は捨てられ、ゴムやビニールに変えられた。スピーカーを廃品処分したため、男の残していったステレオはヘッドフォンを通した最大音量を出すのみですっかりポルターガイストの迫力を失っていた。何よりも悪霊は恐ろしさを感じない犀川に落胆の色を隠せないでいたのではないか。やることの規模が小さくまとまり、同じことが夜毎おざなりに繰り返されていたことでそれがわかる。
むしろ、犀川が本部ビルの屋上から落としたため息は、求める刺激を得られない女のそれだったともいえるだろう。悪霊と隠れて過ごした波乱の恋愛の日々が、すっかり落ち着いたものになっていた。もちろん犀川はまだ愛に満ち、男への思いに燃えてはいたのだが。
そして私ワガン・ンバイ・ムトンボは思うのだ。
女に辟易とした悪霊が同志アピチャイ・ホーンターイに憑き、海を渡ってあの大事な人を死に至らしめたのではないかと。その意味では、私は犀川奈美を決して許すことが出来ない。彼女がもっときちんと悪霊に振り回されるふりをしていれば、我々はあの笑顔の柔らかい優秀な恋愛学者を失わなくてすんだのである。
ワガン・ンバイ・ムトンボ(セネガル)
ーアピチャイの思い出とともに
by seikoitonovel
| 2012-01-15 18:01
| 第一小説