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2011年 12月 31日
『BLIND』10-1
電話口で美和は息をのんだ。
その言葉が相手から来ないと思ったことはなかった。自分から言ってもおかしくなかった。
それでも美和の心臓は飛び上がるように動いた。
ついにその時だと思った。
数秒の沈黙に徹はとまどった。言ってしまうべきではなかったと後悔し、アサリのボンゴレの話に戻る方法をとっさに探した。しかし、そんなものはどこにもなかった。
会えないかな、という言葉が発された瞬間に二人の無邪気な遊びは終わったのかもしれなかった。責任のない場所で誰でもない人物として存在出来る長い自由時間は途切れた。
徹の脳裏にヒビの入った二人の男女の金属の彫像が浮かんだ。それは錆びていた。だが同時に、徹の体の奥で地上の魚のように跳ね回っている感情があった。会いたいと思う心、あらがえない欲望、そして会えるという期待だった。
会いたいの?
と美和がようやく言った。
甘えるような声だと徹は感じた。
だが、美和には脅えるような音色だった。
窮地に追いつめられたと美和は思い、その場しのぎのように口から問いを漏らしたのだった。そして、「うん」と答えられて逃げ場はもはやないと感じた。
会えないとか、会いたくないという選択肢はなかった。自分も会いたいと思っていた。
けれど、美和は恐れてもいた。自分を醜いと思ったことはなかったが、だからといって容姿に特別な自信があるわけでもなかった。それまで延々と話をし続け、興味の対象やユーモアや道徳観念がよく似ていると思ってきた相手に、実際の自分がどう見えるかまったく想像が出来なかった。
落胆、という言葉が美和の頭の中を占めた。
何か徹が言っていた。
え?
と美和は悲鳴のように聞いた。
名前、教えて欲しいんだ。
と徹は言っていた。せきを切ってあふれ出す好奇心にあらがえなかったのだった。口に出してみて改めて、二人が避けてきたことが自分たちを悲劇に近づけるのではないかと徹は予感した。
だが、引き返すには遅過ぎた。徹は先へ進んだ。
僕は華島徹。華やかな島に、徹底的の徹。
その漢字を思い浮かべてみながら美和は、同時に自分は嘘をつくかどうかに迷った。仮名を使うことは、それまでの数日の間に何度か考えていた。けれど徹の素直な様子が美和にそうさせてくれなかった。ただし、当時の再現であるこの文章の中では仮の名である。
あたしは遠野美和。
と美和は言った。
二人は歩み寄った。
遠い野原に、美しい和の国の和。なんかのんびりした名前でしょ。
美和……ちゃん。
と徹は復唱した。
そう。
と美和は言い、すぐに
徹くん。
とつぶやいた。独り言だったと美和は言っている。
だが、徹は何か語りかけられたと思った。
何?
と徹は聞いた。
二人の対話の調子はそこで逆にかみ合った。
美和はうれしかった。
徹は『美和』という響きが美和の声に合っていると思った。
いつの間にか、二人はアサリのボンゴレが何より春にふさわしい食べ物だという話に戻った。どうやってそうなったかを二人とも覚えていない。ただ、潮干狩りの話題が持ち上がったのは確かだった。日本の子供たちは古い時代から春に遠浅の砂浜に出かけ、そこで貝を採るのだった。
こうして、会えないかという徹の提案は宙に浮いたまま消え去りそうになった。返事は次の機会でもいいと徹は思ったが、美和が電話をかけてこなかったらとも考え、続く話題、やはり春の風物詩のひとつである菓子サクラモチの葉を食べるべきか否か、に集中出来なくなった。
すると、サクラモチはともかく、と言ったのは美和の方であった。
私たち、会えるのかな?
今度は徹が息をのむ番だった。会うことに何か大きな問題があるのだろうかと徹はいぶかしみ、会えない理由を素早く探した。
察して美和は続けた。
会えるのかなって言うのはつまり、どこで会えるのかしらということなんだけど。
ああ。
と徹は安堵した。
えっと、僕は東京の西なんだけど。
と言ってから、徹はその先まで話すべきかわからなくなった。一方、美和はやはり間違いなくそうなのだと思った。彼女は市外局番を知っていたのだから。
わかっていたことでありながら美和は相手がひどく遠いと感じたし、だから自分がいる場所を打ち明けられないと思った。都心まで電車を乗り継いで二時間以上かかると知ったら、徹は自分への興味を失うのではないか。
その徹がささやくように呼びかけてきていた。
美和ちゃん。
うん。
質問が当然あるわけだけど。
うん。
聞いていい?
うん。
君は?
うん?
君はどのへんに住んでるの?
うん。
声は遠くないから、まさか京都とか九州ってことはないと思うんだけど。
うん。
いや、京都でも福岡でもいいよ。遠距離でも。
そこで会話は一瞬ぴたりと止まった。
美和は賭けるように言った。
遠距離でも?
と。
10-1 金郭盛(韓国)
by seikoitonovel
| 2011-12-31 00:38
| 第一小説