9-5
2011年 08月 05日
『BLIND』9-5
それからというもの、美和は何かを忘れたような気持ちにとらわれた。入社研修の予定表を何度も見直したし、提出書類の点検もした。母からの頼まれ事がなかったか、キッチンの横を通る度に冷蔵庫に貼られたパネルを見るのだが、壮子の乱暴な文字は姉・香に貸した千円の返却を要求するのみだった。
胸に空洞が出来ていた。失った部分があるのだが、それが何かわからなかった。空洞をのぞき込もうとすると周縁がキュッと閉じた。すると痛みに似た感覚が美和に生じた。美和はその痛みに執着し、かえって繰り返し失ったものを探した。
同時に、忘れたもの、失ったものが不意に現れ、自分を罰するのではないかという漠然とした怖れもあった。リビングでノートに新しいパンの構想を書きつけている時も、“女子大生たちがひなびた温泉旅館を建て直す”という内容のテレビドラマシリーズ(『湯けむり女子大生騒動』と判明。八十年代中盤から日本では女子大学生がもてはやされた。ちなみにこの時期くらいを境にして対象は女子高生になる)を母とぼんやりと見ている合間にも、電話を切ってからめっきり増えた鼻歌のとぎれた瞬間にも、美和は急にひどく罰せられるような気持ちになった。
一方、徹は失ったものを明確に知り、苦しんでいた。前の晩の数分、徹は相手の名前も電話番号も聞かなかったことに満ち足りていた。何もわからないのに自分たちがつながっていたのは奇跡だと思った。
だが、蛍光灯の明かりの下で灰色の電話機KL-B200を見た途端、徹は巨大な不安に包囲された。自分からかけることが不可能なのだった。黄色くぶ厚い電話帳を開いたところで自分は相手の名前すら知らない。
二度とかかってこないのではないか。
徹はそう思った。もともと気まぐれにかかってきた電話だった。声を聞けば知らない人だった。会話がはずんだわけでもなかった。むしろ沈黙が支配していた。考えは悪いほうにばかり向いた。
徹は無言で小さな赤いソファの上に座り続けた。電話の内容を幾度も反復し、彼女の声を思い出してみた。たった一人につながれないというだけで、あらゆる連絡網から断絶されている気がした。世界の中で孤立していると思った。
あくる日は土曜日で、晴天だった。「あらはばきランド」には予想以上に客が入った。徹は「レイン・レイン」の操作室にこもり、通常より多く『サンダーフォレスト』に嵐を起こした。
その間も徹はずっと考えていた。
二度とかかってこないのではないか、と。
9-5
ヘレン・フェレイラ(米国)
ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
by seikoitonovel
| 2011-08-05 17:21
| 第一小説