9-4
2011年 08月 02日
『BLIND』9-4
ガチャリという音がした瞬間、美和は小宇宙を吸うかのように口を開けてのけぞり、そのまま動けなくなった。
はい、華島ですが。
という声が続いて受話器から耳に響いた。いや、本当はあとからそう思っただけで、実際は聞き取れない低い言葉が部屋にするりと入り込んできたと感じたはずだった。
翌3月11日金曜日、午後9時過ぎ。
自分がかけたのだから相手が出るのは当たり前だった。なのに美和は不意をつかれ、泣き出しそうになったのだった。
もしもし、もしもし。
声は何度か繰り返され、美和の正体を明かすよう迫った。美和は凍りついて動けなかった。
だがそのあと、意外なことに声は子供をあやすようにやわらいだ。
えっとー。
と声は言った。そして、
昨日に引き続きこんばんは。
という言葉になって短い笑いに変わった。
美和は思わず硬直をとかれ、
あ。
と言ってしまった。
それが最初の会話になった。
ごめんなさい、何度もあたし。
とだけ美和は続けた。言葉の束がほどけ出すような気がした、という。
すると今度は相手が、つまり徹が、
あ。
と言った。
ひとつ呼吸があって、
僕、子供かもしれないって思ってました。
と徹はなぜか感心するように言った。
あ、違うんです。
と美和は答えた。
子供じゃ……。
と言ったのは二人同時だった。それぞれに言いたいことは異なっていた。
ゆずりあって黙り、互いに相手の息の音を集中して聞いた。
しばらくそうしていた。相手の無言にじっと耳をすますことが、すでに両者にとって懐かしい行為になっていた。美和も徹も留守番電話のテープを通して、何度もそうしてきたのだ。
やがて美和はもう一度、ごめんなさいと謝り、間違い電話をかけたら留守番電話のメッセージに使っている音楽が気になり始めてしまって、と言った。
徹は即座に曲名を答え、どんなアルバムに入っている曲であるか説明をした。園田さんに借りたものであることまで言おうとして、徹は口をつぐんだ。
すると、その日三度目の、
あ。
という声が美和の小さな口から飛び出した。
知っていたのだった。前日、リビングルームで見ていたのに、かけそこなっていた。それはやはり父の持っていたレコードの中の一曲で、まだ父が家にいた頃、何度かかかっていたのだ。
それが大きな意味のある偶然だと美和は感じた。けれども、それを華島徹にどう話せばいいものか、そもそも話すべきかと美和は迷った。
美和は黙り込んだ。
その沈黙を徹は苦痛に感じなかった。
徹も黙っていた。
その沈黙に美和も耳を傾けていた。
ついにその日、三十分ほど二人は何も話さず、しかし受話器を握り続けた。
じゃあ、また明日とかに。
と徹が言い、
うん。
と美和は答えた。
電話を切ったあと、徹は相手の名前さえ聞いていないことに驚くとともに、そうであることに深い満足感を抱いた。
美和は階下に静かに降りてアナログレコードを一枚見つけ出し、それをカセットテープに録音して自室で聴いた。
9-4 金郭盛(韓国)
by seikoitonovel
| 2011-08-02 16:50
| 第一小説