父4-5
2011年 02月 23日
5、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果
63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。
by seikoitonovel
| 2011-02-23 23:14
| 第三小説「思い出すままに」