7-2
2011年 02月 06日
『BLIND』9-2
ヘレン・フェレイラは黄金色の髪をした長身のアメリカ人女性で、我々の中では執拗なほど細かい聞き取りをする調査員として有名だし、パリで数年間カール・ラガーフェルドのフィッティングモデルをつとめていたという異色の経歴の持ち主だが、御存知のように彼女もまた、その日の遠野美和による5回に及ぶ通話を克明に記録している。
一回目の時刻はもう我々がそらで言えるはずの、午前8時46分である。
二回目は切ってすぐ。美和は目当てのパン屋に電話がつながっていないと考え、その理由がわからず不安になり、もしかするとテープの中で店名を言っていたのを聞き逃したのかもしれないと思い直しながらも、すでにその時点で例の音楽の、海底をたゆたう藻のような揺れや曇天の下の群衆のざわめきに似たくぐもりをかなり正確にとらえていたと言われている。
その証拠にとヘレンは、美和が通話時に開いていたノートの隅に描かれた意味不明な、もじゃもじゃした、西部劇などで風に吹かれて地を転がってくる枯れ枝の塊のような図を添付している。それは一回目の電話と二回目の電話の間に描かれたいたずら書きとされているのだが、『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』分科会において、ヘレンはボールペンの赤インクの跡が、件の曲のキーボードの音の高低に完全に一致していると抑制的な声で主張し、それもひとえに驚異的なリスニング能力、表現力ゆえだと称賛した。美和=超人説も我々の中に絶えないが、ヘレン・フェレイラはその説をとる最右翼の人物だろう。
ともかく、美和は数分のち、リダイアル機能を使うことなく番号を入力し直した。押し間違いの可能性を考慮したからだが、かといってノートを再確認することはしなかった。
呼び出し音が切り替わると、またあの音楽が押し寄せてきた。南国の湿気のような、心地よい疲れのような、あの音楽。クリーム色の竜巻がスローモーションになって見えた、と美和は言っている。これはヘレン・フェレイラ以外の調査員も一様にレポートに書き込んでいる言葉だ。
“絶えず空気が上昇する竜巻の中で”、美和はこの曲を聞いたことがある、と思った。けれどそれがどんな歌手の、なんという曲かを自分は教えてもらっているだろうか。はっきりとは思い出せないが、私は知りたがったはずだ。曲の名がわからないように、襲いかかる寂しさにも美和は名前がつけられなかった。
すると、靄の奥から、くぐもった男の声が聞こえた。
はい、華島徹です。
美和はうろたえた。そして、間違い電話をしたのだとはっきり認識した。
ただ今留守にしています。
ではこの人にも曲名を聞くことが出来ないのだな、と美和は奇妙な感慨を抱いたという。と同時に、見知らぬ人の家に呼び出し音を響かせたことに怖れを感じもした。21世紀の現在においてさえ、間違い電話には奇妙な罪悪感がつきまとう。いや、“罰せられるのではないか”という反射的な怖れというべきだろうか。けれど、途中で切ることも美和には出来なかった。その方が罪が重いと思った彼女は、罰を受けるように録音テープの声に耳を澄ました。
ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
謝罪の言葉が出かかった。しかし、美和がとどまったのは、自分がすぐにもう一度電話をするとわかったからだった。
次で必ず、記憶を呼び起こしてみせる。美和はそう考えながら子機2の『切』ボタンを押し、今度はリダイアルの機能を使った。その瞬間、あえて間違い電話をかけるという次元の違う行為に美和は足を踏み入れたことになる。
ヘレン・フェレイラは、三度目の電話のあとの遠野美和の落胆を想像してみるよう、レポートの読者に訴えている。もやもやはいっそう増し、罪の意識も“出来あがったソーセージを羊の腸でもう一度包むように” 厚くなった。
美和はいったん階下に降り、電話帳で番号を確認し直した。写し間違いの事実は、記憶をたどれなかった敗北感とともに彼女を打った。美和はその場で親機を使い、開店直後のパン屋『デルスウザーラ』に電話をすると、一方的に酵母の話をして店員をとまどわせたという。「あの時、美和の話していたアイデアは画期的でした。酵母を進化させるんじゃなくて……ちょっと今はくわしく言えないんですが、私は発想を盗まれてしまうんじゃないかと心配で、キッチンから飛び出しそうになったほどです。幸運なことに、相手が酵母の知識のないアルバイトの男の子だったようで、美和もあきらめて電話を切りました」(遠野壮子)。
壮子によれば、それから夕方まで二人は基本的に、一階のリビングルームにいた。掃除も洗濯も久しぶりに一緒にしたのだが、美和は考えごとにふける様子で、時おりテレビを置いたチーク材の幅広い棚からアナログレコードを引っ張り出しては、それに針を落として聴いたという。美和自身は物心つく頃からCDにしか触れていなかったから、そのほとんどが父の太一
の残していった所有物で、壮子が言うには “アジアの民族音楽やロシア聖教の音楽コレクションがたくさんあるのに、娘は俗な音楽ばかり選んで少しずつかけてやめ、せっかく掃除した部屋を絶えず埃臭くした”のだそうだ。
四回目と五回目の電話は、姉の香の帰宅を待った夕食後、それも明らかに壮子の入浴時を狙った21時過ぎに行われた。それは姉の“やましい電話ではないかと感じた”という証言でもわかる。美和は壮子の監視をさけるように、母親がバスルームに入るのを待って二階に上がったのだった。
若い方々はもう御存知ないだろう。子機の通話は親機のボタンの緑色の点滅で必ず確認出来た。かつて一家に一台の電話が当たり前の時代があり、誰がいつ使っているのかを家族はお互い暗黙のうちに知っていたのである。
もしもつながったら切るつもりだった、と美和本人は言っている。音楽のことを思い出しているうちに、徹の言葉と声の記憶を何度もなぞるようになったのだ、とも。
by seikoitonovel
| 2011-02-06 21:36
| 第一小説