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2009年 08月 25日
銀座線上野駅から地上に出、たくさんの勤め人と歩調を合わせて信号を渡り、ついにアメ横へ入らんとした私は右手の上野の山をぼんやりと視界の端に入れ、おかげでいつものように後藤明生の『挟み撃ち』の名シーンを思い出したのである。
私はほぼいつでも、駅から山側に渡ったところのいまだに二階が工事中の「聚楽」のあたり、似顔絵師が数人いる大階段や京成上野駅の入り口を見ると、『挟み撃ち』の世界に迷い入った気になる。
主人公・赤木はまさに上野駅前の映画館周辺をうろつき、かつて伴淳・アチャコの二等兵物語の宣伝のために、自分が戦後ゲートルを巻いてバイト仲間と列を作り、模擬的な捧げ銃をしたことを想起する。その想起は小説内の現在とも、戦時中の兄とのエピソードとも自在に行き来しあうから、こちらは多重露光したフィルムを見ているような錯覚におちいる。今読み返しても、時間軸の移動の技巧は他作家を圧倒して凄まじく、しかし小説自体はあくまでものほほんとしている。
ちなみに、私が行方も知れぬまま書いているこの文章もまた、後藤明生の作品、特に『挟み撃ち』をそもそも文体、制作精神の最高峰としているのであった。その小説らしくなさ、文と文の間の隙の大きさ、平気で他人の作品に重心を移してしまう自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさ。
だが、書けば書くほど私には後藤明生の天才的な境地がひしひしと実感され、ひるがえって自分が書くもののある種の小説らしさ、文と文の間の隙の大きさへの恐れ、平気で他人の作品に重心を移してしまう際に無駄な力が入ってしまう不自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさの不在に絶望する以外なくなる。
ああ、もっと自由を、もっと高度な、しかしこわばりのない技術を、私の小説に!
こういうことを考えながらふらふら朝のアメ横を歩いていた私には、当然誰も声をかけなかった。トロ箱を店の前に出したり、道に水をまいたりしているばかりだ。むしろ、この道で小説のことなんか考えているやつは邪魔だとばかりに、私は無視すべき存在として扱われ、むしろこちらが注意深く歩かなければ準備中の品物にぶつかりそうな具合だった。もしも太い黒縁メガネの人が、山と積まれたサキイカの袋の向こうから、おい、ゴーゴリの『外套』を仔細に読んでから出直せとダミ声で言ってくれたなら、私はどれほど心強かっただろう。
ただ、そんな風に後藤明生の霊が爽やかな初夏の朝のアメ横に現れたとしても、私は『外套』を仔細になど読まないだろう。負ける勝負はするべきではないし、後藤明生を遠い目標として目指す者はいい加減が身上でなければならない。
by seikoitonovel
| 2009-08-25 13:55
| 第二小説