父2-5
2009年 07月 11日
都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-1
35年1月24日の民社党の結党は大変な反響を呼び、新党ブームが起こった。社会党が内部抗争もさることながら院内闘争での審議拒否、暴力による抵抗戦術など、議会制民主主義に反する行動に終始したからであった。
「議会は論戦の場であり、審議拒否などの戦術はとらない。審議を通じて考え方を広く国民に伝え、次の選挙で国民審判を受ける。それが多数を獲得する道である」とする民社党の主張に期待感が膨れ上がったのである。当時のマスコミの大半は「これで日本も健全なる2大政党時代が来る」と評価したものであった。入党者もうなぎのぼりに増え、一時は8万名に達した。池田内閣が解散で国民の信を問うことが予想され、党の衆議院選挙体制は急ピッチですすみ、130の選挙区のほとんどで候補者が揃ったのである。
ところが日比谷公会堂で開催の自・社・民社3党立会演説会で、社会党浅沼委員長が右翼愛国党の暴漢に壇上で刺殺された事件を契機として社会党への同情が集まり、11月20日に行われた総選挙の結果は自民296、社会145となり、民社は17名に止まった。選挙前40議席だったから惨敗であった。この選挙で私たちが住んでいた東京7区でも北条秀一先生が落選した。
このあとで私に突然難題が降りかかってきた。三鷹市で東京都議会議員をしていた社会党の田山東虎氏が、この総選挙の直前に都議を辞任して郷里茨城の衆議院候補者となった。三鷹市の都議の定員は1人のため、総選挙後に都議の補欠選挙が行われることとなり、私がその選挙の候補者としてにわかに浮上してきたのである。
北条先生は剛気の人であり、「民社党が大惨敗を喫したこの時こそ、民社党のど根性を見せるときだ。民社党は死なない。そのためにはこの都議補欠選挙に候補者を立てて戦うことだ」と主張した。落選の悲哀を味わったばかりのこの北条先生の気合いに反対できる者はいず、「そうだ、そうだ」と同意するものばかりであったが、ではだれを候補者にするかが大問題となった。
三鷹総支部長をはじめ数人の名前が上がったが、引き受けようという者は出てこない。私は総支部書記長ではあったが、三鷹の住民になったばかりで友人、知人はおろか知名度もゼロに近い。出ても勝てる要素は何もない。しかし、党本部書記局員であり、北条先生の考え方にも大賛成。頼まれたらむげに断れない立場であった。
切羽詰まった段階でついに私に白羽の矢が立てられた。私は結党─結婚─総選挙と続いて疲れ果てていたし、何よりもこの時点で妻幸子が4カ月の身重であった。断りたいというのが本音であった。それにはどうすればいいか。体調を理由にする以外にないと考えて野村病院で診察を受けた。慈恵医大の先生の回診日で、この先生の診断は「肝臓が腫れている。選挙などやったら命は保証出来ない。すぐ入院だ」という。私はその通りに直ちに入院の手続きをとり、総支部の吉田君(党本部機関誌局の後輩)に連絡し、幸子への連絡を依頼した。
吉田君からの伝言をうけた幸子は仰天したらしい。幸子は事のいきさつは何も知らない、いきなり夫がなんの病気で入院したのか、大変なことになったと思ったらしい。入院に必要な最低のものを用意して駆け付けてきたのであった。
これで私の立候補は無くなったと思って、医者の指示に忠実に従った。毎朝太い注射管で葡萄糖注射を打たれた。
<『私のつぶやき』2 伊藤幸子
「夫の都議会議員選挙の時のことについて 1」
私は全く無視された出来事でした。
報告があった時、ただただ驚くばかりで、何も言えませんでした。
結婚したからには夫に協力するのが妻の役目としか考えられず、覚悟したつもりでおりましたが、腑に落ちないことばかりでした。
夫は総選挙活動の疲れから入院せざるを得なくなったのですが、入院している病室に立派な方がお見えになったので、夫は立候補をお断りすることになったことをお伝えしました。するとその方がいきなり「面子を潰された」と百万円の札束を机の上に叩きつけられました。私はその時、五ヶ月の身重でしたので驚きのあまり立てなくなったように覚えております>
<いとうせいこう注
この時、「腑に落ちないことばかり」の母の腹の中にいたのが私なのであった>
by seikoitonovel
| 2009-07-11 22:44
| 第三小説「思い出すままに」