父2-3
2009年 06月 22日
私の結婚
私が結婚を真剣に考えるようになったのは、母の死からである。母はS34年の1月に亡くなった。前年の12月に脳溢血で倒れたのであるが、ちょうど年始年末の帰郷中であった。すこし快方に向かいつつあるという医者の言葉を信じて1月5日に帰京した。
帰京の直前、母の枕元で「頑張ってね」と激励した。その時母がうなづきつつ「郁もそろそろ年だし、嫁をもらわねば」と呟くように言った。私も母を安心させるつもりで「うん。考えているから。そんな事を心配するな」と答えたのであった。
しばらくは大丈夫だろうと考えていたのだが、7日の朝「ハハ、シス」の電報である。頭に釘を打ち付けられたような衝撃であった。ただちに飛んで帰り、母の骨を拾った。「郁、そろそろ嫁をもらわねば」が私への母の遺言となったのである。
この年のある日、民主社会主義連盟(民社連)の編集長をやっていた高木邦雄氏から「俺の妹と見合いしてみないか」との話があった。民社連はS26年12月に結成された民主社会主義を普及・啓蒙する思想団体で、右派社会党を支える理論集団であった。高木氏は中央大学を卒業後、青森の中学校の先生をしていたが、民主社会主義に共鳴して上京し、民社連発行の雑誌の編集長となった。聞けば岡谷市今井の出身とのことで急速に親しく交際することとなった。
母の遺言のことがいつも頭にあったので、私はためらわず「いつでもいいよ」と答えた。すると1カ月もしないうちに「妹も承諾したから俺の岡谷の実家で会ってみてくれ」との事であった。その見合いの日取りも決めてくれた。
邦雄氏の弟の弘康氏がすべてを段取りして待っていた。弘康氏はお父さんの政司氏が開設した今井郵便局の局長を引き継いでいた。大変な酒豪で、挨拶もそこそこにすぐ酒盛りとなった。見合い相手の幸子はその途中で挨拶に来たが、私は弘康氏とすっかり意気投合して2人で1升瓶を軽く空にした。
弘康氏は人を決してそらさず冗句を連発して笑わせた。誠に爽やかな印象だった。幸子は料理を運んで来ながら私を観察していたらしいが、結局私とは一言もかわさず、私もそんなことなど気にもならず、この見合いは終わった。ただ、弘康さんの妹ならうまくやって行けるだろうと思ったのである。
<いとうせいこう注
ついに母が現れた。
だが、父はまだ“一言もかわ”していない。
むしろ父は、まず母の兄である邦雄さん、弘康さんになついたようだ(そして、父にとってそうであったろうように、両叔父は私の人格形成にも大きな影響を及ぼしていく)。なにしろ、母にでなく、弘康さんに対して「誠に爽やかな印象だった」と言っているくらいだ。果たしてそれが見合いだろうか。
さて、次回からは母の証言も同時に、この場に載せていく。
母は私同様、父のこの自叙伝を読み、自分としてのコメントをしていくのである。
この自叙伝はつまり、家族による、複数の視点からのレポートと化していく。
いわば「我々の家族小説」といったものになるわけだ。
ちなみに、母は自分の原稿に『私のつぶやき』という題名を付けている>
by seikoitonovel
| 2009-06-22 22:12
| 第三小説「思い出すままに」