父1-4
2009年 04月 27日
終戦と混乱
終戦時、私たちは中学3年生になっていた。8月14日、学校から「明日、登校するように」との連絡が伝えられ、9時までに登校すると全員講堂に集合させられた。校長先生から「12時にラジオで重大放送があるから聞くように」との話があり、ただちに下校を命じられた。私は同級生の松沢と歩いて上諏訪へ向かった。雲ひとつ無い猛暑で、歩けば砂煙が立った。
12時の天皇陛下の玉音を聞いたのは上諏訪の石屋の前であった。雑音が多くてその内容はほとんど聞きとれなかったが、石屋の主人から「日本が戦争に負けたんだ」と聞かされた。大変なショックだった。2人はそれから黙ったままそれぞれの家に向かった。
家にはだれも居なかった。私は奥の間で呆然と仰向けになって天井をみつめていた。一体これから日本はどうなるのだろうか。戦地にいる兄たち(源蔵は南方、治幸は東京の軍需工場、計男は新潟の連隊、武男は呉の海軍兵学校)は無事だろうか。父親の牛乳屋はどうなるだろうか。そして俺はどうすればいいのか。意識は混濁し、すべてを投げ出したくなるような、無気力になっていく自分を感じていた。
障子を開けて兄嫁が顔をみせたが、そのまま黙って台所の方へ消えた。
夕方になって父母がどこからか帰ってきたが、これまた押し黙ったままであった。
8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われた。
2学期から学校が始まり、われわれはとりあえず学校に戻った。S21年は中学4年生となった。部活がはじまり野球部、スケート部などが活発に練習を開始した。私は最初はバスケット部に入り、ついでボート部に入った。
文化活動の分野では弁論部ができたのでこれに参加した。学内対抗弁論部大会があり、優勝して中部地方大会に学校代表で参加し、4位となった。どんな事を題材にして弁論したか定かには覚えていないが、どんな事でもいいから皆で力を合わせて一生懸命やれば成らぬ事も成るといったことを、蟻の働きを例にしながら論じたように思う。
学校のすぐ前が諏訪湖なのでボート部に入ったのだが、ボートは分厚い板で出来ていて10人乗りくらいのもの。船体は大変重く、オールの重みも尋常でなかった。思うようにボートを漕ぐことが出来なかったのですぐ退部したがそのうちにボート部も解散した。
S22年には新憲法が施行され、6・3・3・4制の新学制が4月から施行された。国民学校が小学校に改称され、新たに3年制の新制中学校がもうけられた。しかし新制高校の発足は翌年度からであった。S23年の3月、旧制中学5年の卒業期を迎えたが、新制高校の発足に伴って3年に編入する制度が設けられ、旧制5年で卒業するものと、あと1年、新制高校に進むものと2手に別れ、複雑な卒業式となった。私は新制高校(岡谷南)に進む方を選択した。
岡谷南校での思い出の中では、野球部が強く、県優勝の一歩手前までいったこと。この野球部の応援で松本まででかけて声を振り絞ったこと。スケート部がオリンピック選手を2人も出したこと。男子バレーで全国優勝したことなどである。
スケートのことでは諏訪湖が毎年全面結氷し、いいスケートリンクがつくられていた。下駄スケート時代で、よくその刃をヤスリで磨いて滑りに出掛けたものであった。戦後になって靴スケートで滑る少年が現れはじめ、両手を腰に悠々滑る姿が羨ましかった。私たちはついに靴スケートとは無縁で下駄スケートを押し通した。
<いとうせいこう注
玉音放送を聞いた状況について、父は何度か私に話したことがある。それが「石屋の前」であったことも、もしかしたら父は話していたのかもしれないが、息子の私はディテールに無関心であった。
だが今、文章として改めてその体験を読むと、記憶のリアリティがひしひしと迫ってくるのを感じる。その暑さとその静けさと、その思考の停止、つまり動けなさが。
また、兄嫁が一度入ってきて出て行くくだりなど、息子の私が言うのもなんだが実にうまい。このエピソードは今まで聞いた体験談からは確実に省かれており、今回書くことを強制しなければ決して出てこなかっただろう。
父にこのような筆力があることを、私は初めて知ったのである>
by seikoitonovel
| 2009-04-27 23:51
| 第三小説「思い出すままに」