父1-2
2009年 04月 14日
1-2
父と母について
父友幸は北沢の隣の南沢の小平家の次男で伊藤家に養子として迎えられた。母は同じ上諏訪の湯の脇の小松家(宮大工の次女)から迎えられた。即ち両養子として伊藤家を継いだのである。私は祖父・祖母をまったく知らない。兄達からも祖父・祖母の事を聞いたことがないから私たちが生まれるかなり以前になくなっていたものと思う。
父からは伊藤家の本家は庄屋で米俵に小判が一杯入っていたんだといった話を聞いたことはある。父が養子に入った伊藤家はその分家、小農である。
父は小学生の頃、鉄棒の宙返りなど造作なくやってのける運動神経の持ち主で徴兵検査は勿論甲種合格、徴兵されて中国での戦争も経験している。
尋常高等小学校を卒業してから農業に従事していたが、馬や牛を霧ヶ峰の牧場に連れて行くばくろうの仕事を手伝っていた(兄治幸から一度父につれられて牧場にいった、という話を聞いたことがある)。その頃の農家は牛か馬を牧場から借りて、田の耕しが一段落するとそれを返すために霧ヶ峰の牧場に連れていったのであるが、自動車などない時代だからこの労働はかなり辛いものであったらしい。父がその役を引き受けたものと思う。
これが牛乳処理販売業を始めたきっかけであったと思う。
母は小学校卒業と同時に製糸業の糸紡ぎの女工となった。父の話によれば母は糸紡ぎが非常に上手で優秀な働き手であったようだ。
<いとうせいこう注>
父は自分は祖父も祖母も「まったく知らない」、と言う。しかも「両養子」という形なのだそうだ。伊藤家自体との血のつながりは一切ないわけである。いわば、私自身、ルーツを断たれているも同然で、この事実には少なからぬ感慨を持たざるを得ない。
9人兄弟
私の後に7男幸男(1932年生・昭和7年)、8男安幸(1934年生・昭和9年)、長女寿美路(1936年生・昭和11年)が生まれた。8男1女、最後が女。生めよ増やせよで子沢山の家はそう珍しくはなかったが、続けて男が8人という子沢山は珍しかった。それも皆健康優良児で子供の中で病気になったり入院したものは一人もいない。これは父・母が健康であったこと、とくに母が人並外れた健康の人であったからである。
6人とも人に後ろ指を指されるようなこともなく、学業の方も落ち零れたものはいない。治幸は早稲田大学、安幸は中央大学、武男は海軍兵学校へ入学している。
私の生まれた頃-農村恐慌・自殺者1万3942人
1927年(昭和2年)は片岡直温蔵相の失言から金融恐慌、29年(昭和4年)はニューヨーク株式相場が大暴落し世界恐慌となった。このため輸出産業の中心だった絹の値段が大暴落し製糸業の危機となり、片岡製糸を中心とする岡谷製糸業は倒産の危機に直面した。各地から働きに出てきた女工たちは首切り・失業者となった。米価も暴落し農村恐慌はますます深刻化し、娘の身売り、一家心中、自殺者の急増という事態を招来した。
一方で日本の軍事的膨張が満州を舞台に始められていた。満州地方(中国の東北部)は日露戦争で勝利した日本がロシヤの権益の一部(南満州の利権)を譲り受けたものであった。日本はこの権益の拡張を目指し関東軍が中心となって様々な工作を行い溥儀を担いで執政とする満州国(奉天・吉林・黒竜江・熱河の4省を中心にし首都を新京とする)の建国へと突き進んで行く。
建国の宣言が32年(S7年)、この満州国建国は欧米列強の反感を買い、国際連盟で日本非難決議が25対1で可決され、日本は国連を脱退し、国際的に孤立した。
ところが日本国民は国際連盟の脱退を歓呼の声で支持した。「満州へ満州へ」のもとに満蒙開拓団が結成され、日本人はぞくぞく満州へわたっていった。
by seikoitonovel
| 2009-04-14 22:52
| 第三小説「思い出すままに」