すっぽん1-5
2009年 04月 13日
私の中で、それはすでに灰青色の、触れれば冷たい彫像である。足元の小さな金箔塗りのパネルには『すっぽん 1974』と黒く荒々しく刻まれている。
私を解放しようとして書けば書くほど、私はこうして重く揺るがぬ存在となっていく。私は記憶の底に固着し、輪郭ごと浮き上がって剥がれ、引き伸ばされ、否定しようのない偉大さにまで膨れ上がって重量を増す。私は悪循環の中にいる。
解放されるべき中学生の私を私1とし、悪循環の中にいる今の私を私2とすれば、私2こそが私1を時間のどん詰まりに追い込み、太らせてそこから出られなくしているのだ。では、私2は私1を忘れてしまえばよいのだろうか。
私2はそうは思わない。記憶からの緊急避難をしたところで、いずれにしろそれはいつかぬるりと魚影のごとく動くからである。完全に忘れることは不可能なのだ。そして、過去を変えることも絶対に不可能なのである以上、私2は私2で可能性のどん詰まりに追い込まれている。私1によって。すでに。
私1が私2にしがみついているのか、私2が私1の足をつかんで離さないのか。しかも困ったことに、どちらもすっぽんであることには変わりない。これはまさに泥仕合だ。
ちなみに、私1、私2というイメージしにくい分類で現在、少なからぬ読者の混乱を招いていると思う。ここはひとつ、中学生の私を私13とし、今の私を私48にしてみたらどうだろう。いや、それでは年齢表示みたいで面白くない。私は私を更新して連なってきたのだから、私10と私152くらいが適正ではないか。
祖先たるダニエル1と、未来のダニエル25が語りを進める奇怪な長編があったけれども(ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』)、こちらは私10と私152で互いの足を奪い合っている。あまり格好のいい話ではない。
ただ、私152は経験を経た私であり、いかに悪循環の中にあっても、かつてのようにじっと耐えているつもりはない。どこかに事態の突破口はないかと目をこらしながら、しかしどうもしばらく動けそうもないという予測を、私10の脇や腰をこちょこちょくすぐることで伝えるだろう。
今のところ、それが私152から私10への能う限りの、渾身のメッセージだ。
そのくすぐりが。
by seikoitonovel
| 2009-04-13 13:03
| 第二小説