自由 


by seikoitonovel
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父1-5


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就職ー1



 S24年に岡谷南を卒業。治幸兄の世話で松本の信陽新聞社の編集局に入った。当時治幸兄が信陽新聞の諏訪支局の記者をやっていたこと、信陽新聞の社長が諏訪の有名な宮坂酒造会社の息子だったことによる。大学への道は諦め、とにかく早く働きに出て少しでも親の助けになりたいと私は考えていた。もともと文章を書くことは嫌いではなく、新聞記者に憧れていたからでもある。
 牛乳の販売は戦時に引き続きなお統制されており、苦しい家計のなかにあった。一番早く家に帰ってきたのは計男兄で、朝早くから列車で伊那方面へ買い出しに出掛け、夕方薩摩芋などをリュックサックに一杯詰め込んで帰ってきた。そのうちに兄武男が海軍兵学校から帰ってきた。そして「われわれはいつ米軍に掴まるかもしれない」といっていた。
 私と弟の幸男・安幸は新聞販売店で夕刊の配達のアルバイトをやっていた。大黒柱の源蔵兄は20年の初めに戦死の公報が入り、高島小学校で合同慰霊祭がすでに行われていた。後に南方の戦地で九死に一生を得て帰ってきたが──。はやく働きに出て親の助けになりたいとおもったのには、この様な家の事情があった。振り返ればこうしたなかで父はよく我々の学費を出してくれていたと思う。
 さて当時、長野県での本格的地方新聞は本社を置く「信濃毎日新聞」(信毎)だけであったが、松本でセントラルという映画館を経営していた宮坂社長がこれに対抗して松本を中心とする本格的地方新聞を設立したのであった。最初は夕刊だけの発行であった。資本に物をいわせた強引な新聞社づくりではあったが、戦後直後のことであり、そう順調に運ぶわけはなかった。しかし文化的土壌をもつ信州の真ん中の松本(国宝の松本城があり、旧制松本高校の所在地でもある)だけに地方の情報紙への待望感があり、購読者は順次増加していった。自信を持った宮坂社長は長野市や諏訪市など地方支局の設立も進めた。映画館の利益を新聞にかなり注ぎ込んだようだが、苦しい経営が続いていた。
 本社社屋はセントラルの一角におき、編集局は一階、印刷と文選工場はセントラルの地下にあった。中央の記事は共同新聞社と契約していたが、とにかく新聞を発展させるには膨大な人員が必要であった。一線記者、整理記者、校正記者、地方支局記者、文選工、印刷工、販売所、拡張員、広告取りなどなど。良い新聞を作ろうとすれば途方もない資金が必要である。
 私は就職と同時に編集局の隅の2畳の部屋で寝泊まりすることとなった。仕事は朝一番の列車で送られてくる共同新聞社の記事を取りにいくこと、その後は整理記者が整理した原稿を地下の文選工室に運ぶこと、編集室内の掃除など。1年後からは校正を受け持った。編集長の「新聞記者になるには給仕からやるものだ」を信じて働いていたから、与えられた仕事を苦労と感じたことはまったくなかった。2年後に待望の記者を命ぜられ、警察と市役所を受けもった。ここから本格的記者生活が始まったのである。


<いとうせいこう注
 この「就職」の項目は長いので、私の編集者的な判断で三つに分割して掲載する。父はこの間の事情を事細かに覚えていて(正確に言えば「思い出して」)、まことに丁寧に書き込んでいる。項目ごとの長さは、父の自分自身の過去への思い入れに比例すると思われ、その意味で本項は父の記憶にとってきわめて重要な位置を占めるだろう>


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# by seikoitonovel | 2009-05-06 02:06 | 第三小説「思い出すままに」

雑記4


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#09/5/4、新作狂言『老河童(おいがっぱ)』をアップ。
 この新作は池田小事件を契機に、誰の依頼もなく書いた古典新作だから、2001年かその翌年には出来ていたはずだ。
 当時、狂言師に読んでもらったが、だからといって発表のあてもなく、現在に至っている。
 もちろん公開する以上は、日本中の狂言師(プロ・アマ問わず)に自由に使っていただいてけっこうだ(一応、公演の案内をしてくれるとうれしいし、映像をリンクさせてくれるとなおありがたい)。
 その際、「すり足」という古典芸能ならではの技術を生かしたスラップスティック性と、老いたる者から世の中への、切々たる訴えの悲しさがないまぜになってくれるといいと思う。
 だが、中世の狂言作者の名が残っていないのと同じく、私も自分の名をこの作品に付けたくはない。古典芸能にかかわるというのは、そういうことだと私は考えている。
 つまり結局、まあ自由にやってください。


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# by seikoitonovel | 2009-05-04 23:46 | 雑記

新作狂言1


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  シテ  太郎河童
  アド  老河童
  小アド 次郎河童



 老河童、杖をつきながらよろよろと舞台に現れる。
 太郎河童、次郎河童、続いて登場し、控える。

老  「このあたりの川底に住まいいたす河童でござる。よわい百年(ももとせ)も過ぎ、目がどんみりといたして、魚(うお)の流れも見えぬ身なれど、近頃、子河童どもの乱暴狼藉。川上、川下もわきまえぬ所業。許しおくわけにもまいらぬ。まずはきゃつらを呼び出し、説教いたそうと存ずる。子河童ども、 あるかやい」
太・次「ハアー」

 太郎河童は下手、次郎河童は上手。
 老河童に向かって両者、観客に背中を向ける形。

老  「いたか」
太  「お前に」
老  「念無う早かった。汝ら呼び出すも別のことでない。近頃の、いやはや乱暴狼藉。河童の川上にも置けぬ。このように老いたる身なれど、あまりのことなれば、きつう説教いたそうと存ずるが、よいか」
太  「はあ、説教……と申されても、身に覚えのないことでござる。のう、次郎河童」
次  「まことに。太郎河童の申す通り、我ら若い河童、説教いたされるような悪行はひとつもいたしておりませぬ」
老  「なんと、ひとつも?」
太  「その上、先程来、野分でこの(と下を見回して)川底の流れもいこう激しゅうなってきてござる。お話はまた……別の機会にうかがおうと存ずる」

 太郎、次郎、帰ろうと立ち上がるのを止めて。

老  「待たぬかやい。なんの野分じゃ、身に覚えがないじゃ。太郎河童、近頃、汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太  「……」
老  「いにしえより、我ら河童は正々堂々相撲をとり、人に勝ってこそその尻小玉をいただく。また(と次郎河童を見る)、次郎河童、汝、抜いた尻小玉を味わいもせず、石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな」
次  「……」
老  「果ては汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの(と指で小ささを示す)尻小玉を抜いて回る」
太  「(次郎河童に)尻小玉の話ばかりでござる」
老  「なにを言うて。まだあるわ。まだ………(忘れているが)……おお…そうじゃそうじゃ、森のあなたの畑へ上がり……」

 ここで後見、棒の先に付けた魚を一匹、上手の床に泳がせる。
 太郎、次郎、魚をじっと見て、話はうわの空になる。
 老河童は気づかず続ける。

老  「食べきれぬほどキュウリを盗んでおいて、あらかた腐らせるとはお百姓の迷惑。一本もいで食べ、腹が減ればまた出かけて取るが河童の智恵。その間に次のキュウリも、黄色のあのかわゆらしい花から、ひょいと育つ」

 老河童の「ひょい」を合図に、魚もひょいと消える。
 太郎、次郎、魚の消えた先をぼんやりと見ているが、やがて太郎はあくびをする。

老  「やいやい、太郎河童」
太  「は(不服従の声音)」
老  「聞いておるかやい」
太  「は(不服従の声音)」
老  「そもそも……(話を思い出しながら)汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太  「……?」
老  「また、次郎河童、汝は石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな。果ては、汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの尻小玉を抜いて回る」
次  「(途中で太郎河童に)これは同じ話でござる」
太  「老河童殿は、魚も見えぬほど、もうろくなされておりゃる。説教されるもかなわぬによって、なんぞよいしようを……おお、それそれ、致しようがある」
次  「致しようとは?」
太  「老河童殿、野分がうるそうて大事なお話を聞き逃しそうにござる。もそっと前へお出くだされ」
老  「おお、これはよい事をおしゃった。聞かすぞよ。聞かすぞよ(前に出る)」
次  「これでは説教がうるそうなるが」
太  「よいよい。まあ、見てござれ」
老  「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 老河童、川底の流れに乗り、説教しながら、すり足で橋がかりへと横移動していってしまう。
 太郎、次郎、その移動をぼんやり見ている。
 老河童はやがて、橋がかりの途中で止まり、きょろきょろとあたりを見回す。

次  「これはいかなこと。説教がいこう遠くなった」
太  「野分でほれ、ここの(前を指し)川底の流れが違うてござる。老河童殿はそれに乗って流れて行かれた」
次  「老河童殿が川流れ」

 太郎、次郎、笑う。

老  「や、子河童どもがおらぬ。さては逃げおったか。待て、待て。どこじゃ。逃がさぬぞ」

 老河童、笑い声に聞き耳を立て、流れをそれて戻って来る。

老  「なんと汝ら、わしの目がどんみりとして見えぬを幸い、説教を聞かずに逃げたであろう」
太  「いやいや、逃げはいたしませぬ」
次  「老河童殿から動いていかれた」
老  「や、わしが? (見えぬ目で川底を見、足でおそるおそる川底に触れ)これは野分で流れが違うた。この、ここで(流れない場所を確認して)、も一度話すによってよく聞くがよい」
太  「老河童殿、みどもら、もそっとお近くで説教承りたく存ずる」
老  「おお、これはよい事をおしゃった」
次  「わごりょ、何を申す」
太  「よいよい、そこへ出なされ」
老  「さあて、聞かすぞよ。聞かすぞよ」

 次郎、少し老河童に近づく。太郎も、少し下手へ行く。

老   「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」    

 説教の間に、下手の太郎はすり足で橋がかりに横移動、上手の次郎は太郎のいた位置へと移動。

老  「(目をこらして前を見て)や、太郎河童が次郎河童に。いや(あたりを必死に透かし見て)、河童がたった一匹」

 太郎、次郎、大声で笑う。

老  「やいやい、子河童ども、なぜ動く」
次  「動くつもりはござらぬが、勝手に流れてござる。野分で」
老  「野分で?」
太  「(戻ってきて)これは申し訳もござらぬ。聞きたくとも聞けずじまいでござった。今度こそ誰も動かぬところを探し、説教いたされようと存ずる。ええ、次郎河童殿は、そこへ」
次  「ここへ」
太  「みどもは、ここ。老河童殿は、その少うし右、いやいや左へ」
老  「聞かすぞよ、聞かすぞよ(と移動)」
次  「あ、いや、もそっと後ろへ」
老  「うむ、聞かすぞよ、聞かすぞよ」
太  「そこがいちだんとようござる。さらば、説教なされてくだされませ」
老  「心得た。よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 説教を始めた途端、三人はすり足であちらこちらへと、時々折れ曲がったりなどしながら、移動。
 最後の真言だけ、太郎、次郎は馬鹿にするように唱える。

太・次「オン・カッパ・ヤ・ソワカ、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 太郎、次郎、大声で笑いながら、流されたふりで橋がかりを通り、消え去る。
 しばしして、それに気づいた老河童は揚げ幕の方向へ杖を振り上げる。

老  「おのれ、ようもだましおったな。打擲してくるる」

 だが、流れはやまない。動く(老河童の移動は北斗七星の形をなぞること)。
 老河童、上手で杖にすがり、流されぬようにしているが、やがて杖を川底に刺したまま(後見、杖を斜めに支え持つ)、自らは正面前に流され、そこから後方の杖に手を差し伸べようとする。
 が、体はくるりくるりと回転するばかりである。

老  「おのれ、ようもようも」

 流れがおさまり、ぼうぜんと立つ老河童。
 もう杖がどこにあるのかまるでわからない。
 間。
 老河童は、目のあたりを両の手でかすかに押さえて。

老  「おうお、今日はまたよう濡るるわ」

 その形のままで間。

老  「くっさめ」
    
 老河童、去る。
 後見、杖を持って退場。


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# by seikoitonovel | 2009-05-04 23:37 | 新作狂言

雑記3


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3

#第一小説3-5「結果、回ってるだろ?」→
「マワッテルダロ?」に訂正。
 それにともなって、この項の関連箇所を変更。

#第一小説4-1、(カシム・ユルマズ、島橋百合子両氏の許諾により発表)→(本人許諾により発表)に訂正。

 
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# by seikoitonovel | 2009-05-02 03:05 | 雑記

第一4-1


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4-1

   『親愛なるカシムへ』
            2001年7月25日消印
             島橋百合子さんからの書簡1-1
               (本人許諾により発表)

 神戸に寄ってくださるとは、夢にも思っていませんでした。いえ、貴方が生きていることさえ、私は忘れていたのです。残酷だ、と貴方はあの夜と変わらぬ言葉をつぶやくでしょうか。
 私たちが同じ時間の中でとまどっていたあの頃、神戸にはまだ戦争の爪痕が点々と残っていました。私もまた、そのひとつだったかもしれません。父の庇護下で生活には困らなかったけれど、確かに私は敗戦国の娘で、十七年かけて覚えた人生の習慣をほぼすべてかなぐり捨てている最中だったのですから。
 けれど、カシム、貴方だけは無傷でした。貴方の魂それ自体、何も傷ついておらず、またそれが私をさげすんでもいないことが私をどれだけ救ったことか。
 港の揚げ荷を見るのが、私たちのお気に入りだったことを覚えていますか。月曜日と水曜日の午後、坂の上の教会で貴方に英語を半時間教わってから、狭い三叉路を歩いて港に出たものでした。錆の塊のような大きな船の横腹に荷がぶら下がるのを、私も貴方も飽きずに眺めていた。
 望郷が浮かんでいる、と貴方は何度か言いました。いつだったか、私にとっては解放だと言うと、貴方はようやく私を見た。その時の貴方の、形のよい眉の下の緑色の右目をはっきり覚えています。ただし、やがてまとまる貴方の処女詩集には、揚げ荷と望郷のテーマのみが出現して光輝き、解放の象徴として船腹にぶら下がる荷も、むろん貴方の緑色の右目も出ては来ないのだけれど。
 貴方が来た年、GHQは神戸港の占領を終えました。私にとってはその巡り合わせだけですでに、貴方が神秘でした。貴方が茶の湯を見たいと言い、華道や連歌に興味を持って私の師匠の会に出席し、私をユリコと呼ばず、「神秘嬢(miss mystique)」と言葉遊びのようなあだ名をつけてからかい出した時、私は貴方の色違いの目こそが神秘だし、同じ頭韻ならユリコ・ユルマズの方がよほど上等だ、と何度言いたかったことか。
 貴方の伴侶になる想像を、私は音の響きから偶然得たと当時、思っていました。若い私はまだ、恋の仕組みを知らなかったのです。


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# by seikoitonovel | 2009-04-30 23:26 | 第一小説

父1-4


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終戦と混乱


 終戦時、私たちは中学3年生になっていた。8月14日、学校から「明日、登校するように」との連絡が伝えられ、9時までに登校すると全員講堂に集合させられた。校長先生から「12時にラジオで重大放送があるから聞くように」との話があり、ただちに下校を命じられた。私は同級生の松沢と歩いて上諏訪へ向かった。雲ひとつ無い猛暑で、歩けば砂煙が立った。
 12時の天皇陛下の玉音を聞いたのは上諏訪の石屋の前であった。雑音が多くてその内容はほとんど聞きとれなかったが、石屋の主人から「日本が戦争に負けたんだ」と聞かされた。大変なショックだった。2人はそれから黙ったままそれぞれの家に向かった。
 家にはだれも居なかった。私は奥の間で呆然と仰向けになって天井をみつめていた。一体これから日本はどうなるのだろうか。戦地にいる兄たち(源蔵は南方、治幸は東京の軍需工場、計男は新潟の連隊、武男は呉の海軍兵学校)は無事だろうか。父親の牛乳屋はどうなるだろうか。そして俺はどうすればいいのか。意識は混濁し、すべてを投げ出したくなるような、無気力になっていく自分を感じていた。
 障子を開けて兄嫁が顔をみせたが、そのまま黙って台所の方へ消えた。
 夕方になって父母がどこからか帰ってきたが、これまた押し黙ったままであった。
 8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われた。
 2学期から学校が始まり、われわれはとりあえず学校に戻った。S21年は中学4年生となった。部活がはじまり野球部、スケート部などが活発に練習を開始した。私は最初はバスケット部に入り、ついでボート部に入った。
 文化活動の分野では弁論部ができたのでこれに参加した。学内対抗弁論部大会があり、優勝して中部地方大会に学校代表で参加し、4位となった。どんな事を題材にして弁論したか定かには覚えていないが、どんな事でもいいから皆で力を合わせて一生懸命やれば成らぬ事も成るといったことを、蟻の働きを例にしながら論じたように思う。
 学校のすぐ前が諏訪湖なのでボート部に入ったのだが、ボートは分厚い板で出来ていて10人乗りくらいのもの。船体は大変重く、オールの重みも尋常でなかった。思うようにボートを漕ぐことが出来なかったのですぐ退部したがそのうちにボート部も解散した。
 S22年には新憲法が施行され、6・3・3・4制の新学制が4月から施行された。国民学校が小学校に改称され、新たに3年制の新制中学校がもうけられた。しかし新制高校の発足は翌年度からであった。S23年の3月、旧制中学5年の卒業期を迎えたが、新制高校の発足に伴って3年に編入する制度が設けられ、旧制5年で卒業するものと、あと1年、新制高校に進むものと2手に別れ、複雑な卒業式となった。私は新制高校(岡谷南)に進む方を選択した。
 岡谷南校での思い出の中では、野球部が強く、県優勝の一歩手前までいったこと。この野球部の応援で松本まででかけて声を振り絞ったこと。スケート部がオリンピック選手を2人も出したこと。男子バレーで全国優勝したことなどである。
スケートのことでは諏訪湖が毎年全面結氷し、いいスケートリンクがつくられていた。下駄スケート時代で、よくその刃をヤスリで磨いて滑りに出掛けたものであった。戦後になって靴スケートで滑る少年が現れはじめ、両手を腰に悠々滑る姿が羨ましかった。私たちはついに靴スケートとは無縁で下駄スケートを押し通した。


<いとうせいこう注
 玉音放送を聞いた状況について、父は何度か私に話したことがある。それが「石屋の前」であったことも、もしかしたら父は話していたのかもしれないが、息子の私はディテールに無関心であった。
 だが今、文章として改めてその体験を読むと、記憶のリアリティがひしひしと迫ってくるのを感じる。その暑さとその静けさと、その思考の停止、つまり動けなさが。
 また、兄嫁が一度入ってきて出て行くくだりなど、息子の私が言うのもなんだが実にうまい。このエピソードは今まで聞いた体験談からは確実に省かれており、今回書くことを強制しなければ決して出てこなかっただろう。
 父にこのような筆力があることを、私は初めて知ったのである>


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# by seikoitonovel | 2009-04-27 23:51 | 第三小説「思い出すままに」

第一小説3-5


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3-5

         『BLIND』-5

 1994年3月10日、華島徹が「あらはばきランド駅」で銀色に赤い線が一本だけ太く入った私鉄電車の先頭車輌を降り、そこから現実の小雨の中、徒歩10分をかけて坂を登り下りして「あらはばきランド」運営本部に到着したのが午前8時32分。それはタイムカードにはっきりと記録されている。
 傘をさして歩いたにもかかわらず、普段より数分早かったのは、その日の気温が前日よりぐっと下がったからだろうと本人は話している。寒さが足を速めさせた、というのだ。
 事実、ロッカールームで緑色のつなぎに着替える時(胸には「レインレイン 華島」とベージュの糸で刺繍があった)、徹はいったんランニングシャツのままで汗が引くのを待った。その徹に背後から声をかけた者がいた。
「マワッテルダロ?」
 一瞬、誰が誰に問いかけているのかさえ徹にはわからなかったので、そのままの姿勢でいた。すると、声は繰り返した。
「マワッテ……」
 途中で園田吉郎の声だと気づき、徹は苦笑しながら振り向いたという。そのように唐突な話し方をするのは園田の特徴だった。話題の導入部を平気で削ってしまい、核心しか口に出さない。
 ちなみにこのとき、背の低い園田(すでに緑のつなぎ着用済み)の頭部がいくぶん白く煙っているように見えたと華島徹は言い、それは毛髪の薄い頭頂部が化学反応を起しているかのようだったとも真剣に強調するのだが、理由はいまだにわからない。少なくとも我々は、園田が運命を透視する能力を持っていたという前提には立たないし、ましてや園田の頭頂部がその能力の受け皿であったとも思わない。
 ともかく園田は、本部の企画係が飼い始めたハムスターのケージの回し車のことを言っていたのだった。その年、日本に輸入されたばかりのロボロフスキーという体の小さな種を、犀川奈美という中年女性がいち早く入手し、数日前からケージごと社内に持ち込んでいた。この動物は必ずアトラクション化出来る、と犀川奈美は考えており、その研究を各部署で横断的に行うべきだと主張したのだ。
 しかし、我々が問題にしている日の前日、それまでさかんに回し車を回していたハムスターの様子が変わった。回し車に乗るには乗るのだが、ハムスター(この頃には「ベン」と呼ばれていた)はじっとうずくまり、ピンク色の鼻だけをひくつかせた。犀川はケージのそばにつきっきりになり、通りかかるあちこちの部署の人間をつかまえては、ベンが回らない、ベンがおかしいと言った。
 園田はその変化が、ちょっとした不調をきっかけとしており(おそらく便秘か何かだろうと指摘し、園田は“確かにベンがおかしかったのだ”という洒落を何度も反復して、その度ひとりで笑ったそうだ)、あとは犀川奈美自身のヒステリックな大声によるものだと陰で徹に言った。小動物がおびえているだけなのだ、と。
 というわけで、マワッテルダロ?という言葉は、犀川奈美が前日の午後、心労で早退したことを暗に指していた。そして事実、ハムスターは犀川の早退後、元のように元気よく回った。
 しかし、のちにわかることだが、この園田の言葉が発されたと思われる午前8時46分、華島徹のアパートの部屋で留守番電話が第一回目の作動を始めていた。
 はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。と、まさにテープは“”回って”いたのである。
 これこそ遠野美和が初めて聞いた華島徹の声であり、そこから恋愛のすべてが始まったのだった。
 

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# by seikoitonovel | 2009-04-25 22:10 | 第一小説

雑記2


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#私が父に依頼して書いてもらっている自叙伝『思い出すままに・自叙伝にかえて』を、私自身のふたつの小説よりも少し頻繁に発表することにした。
 父は来年80歳であり、私の小説が設定する完成目標(早くても三年後)を共に迎えられるとは限らないためである。


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# by seikoitonovel | 2009-04-19 00:36 | 雑記

父1-3


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狂気の時代の少年期


 敗戦まで20年間の昭和は日本狂気の時代であった。
 ざっと主な出来事を抽出すれば─
 S2年・金融恐慌。4年・ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌へ。5年・米の暴落、農村恐慌激化。浜口首相東京駅で狙撃さる。6年・満州事変勃発。7年・満州国建国宣言。8年・国際連盟脱退。9年・ワシントン海軍軍縮条約破棄をアメリカに通告。東北地方の冷害・大凶作で娘の身売り、欠食児童続出。10年・中国共産党、抗日宣言。11年・ロンドン軍縮会議脱退通告。2・26事件、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清ら殺害。12年・日中全面戦争始まる。13年・第2次人民戦線事件(大内兵衛ら検挙)。国家総動員法公布。14年・第2次世界大戦始まる。15年・日独伊3国同盟締結。大政翼賛会発足。政党崩壊。総同盟解散。16年・東条内閣発足・12月8日対米宣戦布告・真珠湾攻撃。20年・広島長崎に原爆投下。8月15日敗戦。
 こんな時代に幼少時代をすごしたのだが、そんな大変な事が進行しているとは知らず、「日本軍は世界最強」を信じ、「大きくなったら軍人になってお国のために尽くす」ことが男の役割だと考えていた。日本は神国、必ず神風が吹き、勝利する。と信じて疑うことはなかった。  
 S12年(1937年)高島尋常小学校に入学、諏訪市には小学校はこの高島小学校だけ。クラスは10クラス。1クラス40名として400名が入学した。
 8月に「支那戦争」(日中戦争)が始められた。次の2年生の時は「国家総動員法」が施行され、日本は国民挙げての戦時体制に入った。国語の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まる「サクラ読本」だが、つづくページには「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。修身教科書には「キグチコヘイハテキノタマニ アタリマシタガ シンデモラッパヲ ハナシマセンデシタ」があり、最初から軍国少年に育てられていった。先生は「君達は大きくなったら何になりたいか」と質問したが、ほとんどの生徒は兵隊になりたいと答えたものだ。私のクラスに一人だけ「商工大臣になりたい」と答えた者がいて、皆に笑われ非難された。かれは豆腐屋の一人息子で親が日頃から家を継がせようとしていたのではないかと思う。彼は大学教授となったが……。
 3年生になったS14年9月はドイツがポーランドに侵入、英・仏が対独宣戦布告し第二次世界大戦が始められた。そして5年生になったS16年12月8日、真珠湾攻撃がおこなわれ、日本はアメリカとの戦争を開始した。
 私たちは毎日、大本営発表の各地戦線の勝利を聞かされた。
 私の小学校時代はクラス一番の健康優良児、相撲は強くクラスでは西の横綱、グランド一周の徒競走はいつも1番、学年対抗のリレー競争ではいつも代表選手に選ばれていた。デブといわれるほど太っていたし背もクラスの中では低い方であったが、とにかく足は早かったのである。
 町の毎年の相撲大会では負け知らず、いつも優勝してバケツや箒などの商品をもらった。
 学校から帰るとすぐカバンを放り出して弟の幸男、安幸らをつれて山で蝉やかぶと虫などを捕り、川で鮒などの小魚を笊で掬ったり釣ったり、近くの寺のお墓でメンコやケン玉遊びなどに夢中になっていた。父から兎の餌を取ってこいなどといわれると喜び勇んで近くの畑や土手や畦などを駆け巡った。
 ある時、弟2人と兎の餌をとりにいったとき、途中の畑の人参の葉が青々としていた。兎が人参を好んで食べることを知っていたのと、その辺にだれもいないのを確かめてこれを盗んだ。弟たちも俺にならって盗み始めた。ところがこの時「この野郎たち、なにをするんだ。返していけ」と大きな怒鳴り声が聞こえた。この時ほど慌てたことはない。3人で必死に逃げた。途中の畑に「どつぼ」(人糞を溜めておく所)があり、そこを飛び越えながら逃げたのであった。これは初めての事でほんの出来心であったが、以来こうした悪いことは絶対にしまいと誓った。
 小学校での鮮烈な思い出のなかでは、S15年11月10日の紀元2千600年式典、全国各地で式典が繰り広げられ、私たちも旗行列に参加、一人一人に紅白の落雁が支給されたこと。

<いとうせいこう注>
 人参を盗んだ話を、私も数度聞いたことがある。
 どうやらこれは父の得意の笑い話であるようだ。
 だが、父は必ず誰か私以外の人間にそれを話すのだった。
 これ以降、いずれ訪れる見合いの席でも父はこの話をするはずだが、それも見合い相手の母にではない。
 父を母に引き合わせた母の兄・邦雄さんに対してなのだ。
 


混迷の中学生時代


 S18年に岡谷市が市政7周年の最大の記念事業として設立した岡谷中学校に入学したのであるが、諏訪地方には諏訪中学校と言う名門中学があり、クラスで成績のいい者だけがここを受験できた。私は「抜群の体育以外の成績は“良上”。このため諏訪中学は駄目で岡谷中学へいけ」と言われた。小学校はS16年から「国民学校」に改称され、成績評価は優、良上、良、可、不可の5段階でその順位によって中学受験が振り分けられた。入学試験はすでに筆記試験が廃止され、国民学校からの内申書と口答試験、身体検査だけであった。
 私の成績評価が“良上”ばかりだったのには、どうやら私の学習態度が関係していたようであった。6年生の時に、隣の椅子に座った女の子の頭を殴ったりしたのがどうやら先生の印象を悪くしたらしかった。
 私は諏訪中学校にはいけなかったが、上諏訪から岡谷までの汽車通学がむしろ嬉しかった。
 制服はカーキ色の国民服に戦闘帽、挨拶はすべて軍隊式の敬礼を強制され、登下校の時はもとより街中でも上級生へは敬礼した。しないと後で呼び出されてこっぴどく殴られた。だから早く2年生になりたかった。2年生になって最初にやったのが、敬礼しない下級生を登校途中でみつけ、休み時間に呼び出して椅子を逆さにし、そこに座らせて殴りつけ制裁したことである。われわれから制裁を受けた下級生の一人が戦後初めての冬季オリンピックでスケートの日本代表になった。彼は我々に殴られたこと対しては一言の愚痴もいったことは無い。
 中学の先生の中には恐怖を感ずるような先生がいた。いちばん怖かったのは国語の先生の「クボケン」(窪田健一)だった。有名な島木赤彦の息子であった。授業の時、教科書を読まされるのであるが、一字でも読み違えるといきなり拳骨が飛んできた。怖いからまた間違える、するとまた拳骨である。国語の時間はまさに恐怖の時間であった。
 1年生の時は学科の授業も普通に行われ、まだ「英語」の時間もあった。しかし「教練」という学科が設けられ、陸軍将校(中尉)が派遣されてきた。中尉といっても50才台の郎中尉であった。私たちは敬礼姿勢や行進などの初歩的なことや匍匐前進の訓練などを教えられた。
 私は2年生になって「陸軍幼年学校」を受験した。試験は松本でおこなわれたが、陸軍大臣の名前も答えられず見事不合格であった。一緒に受験した同級生のなかからは1人が合格しただけであった。
 前年には兄武男が「海軍兵学校」に合格した。同時に従兄弟の小松の「幸三」ちゃんは「陸軍士官学校」、武男と同年の小松の「清ちゃん」は「海軍兵学校」に合格した。幸ちゃんと清ちゃんは兄弟、母の兄さんの子供であった。ともに諏訪中学からの合格者で、従兄弟3人が同時に町のみんなに盛大に送られて入学していった。
 俺もという意気込みで、私は陸軍幼年学校を目指したのであった。
 さて、学科の授業が型どおりに行われたのは2年生になったS19年の2学期までであったが、突然われわれの間から英語追放運動がおきた。英語は敵性語だというわけである。われわれは英語教師の小宮山先生が教室に入れないようにピケをはった。ストライキである。このストの首謀者はクラスで一番の小口雄康であり、このために皆が結束した。これには学校側が驚いたようで校長が先頭になって説得を始めた。われわれのストは2日間で終結した。だれも処罰を受けなかった。それだけ戦況は不利になっている事が想像された。
 この事件が起こってから暫くして我々は高砂というところにあった「中島飛行機製作所」に勤労動員された。仕事は雑務でありどんな事をやらされたかは覚えていない。
 ある日、この工場の工場長が私たちを案内してつくった飛行機をみせてくれたが、木製の飛行機でせいぜい10人くらいか乗れる程度のものであった。「これが空をとべるんですか」と思わず聞いた。はっきりした答えは無かった。私のような者でもこんな飛行機で戦えるはずがないと実感したものであった。同級生同士で「これは敵の目を欺くために飛行場に並べておく模擬飛行機ではないか」と噂しあった。
 19年から20年前半までの戦況はどうであったか。歴史をひもとけば19年にはマリアナ沖海戦で日本海軍は航空戦力の大半を失い、サイパン島で日本軍全滅、東条内閣が総辞職に追い込まれた。ついでレイテ島沖海戦で日本連合艦隊の主力を失う。そして神風特攻隊が組織された。米機動部隊が沖縄の空襲をはじめた。日本軍はすでに制空権を失っていて、20年3月の東京大空襲をはじめ主要都市が米軍の空襲に晒されていたのである。
 そんな状態になっていることはつゆ知らず、われわれはこの時点でも日本の勝利を信じていた。20年の6月ころ上空にB29戦闘機が銀翼を輝かせてあらわれた。B29を見るのは初めてでありみんなで見上げていたのであるが突然何かがおちてきた。「伏せ」という大声が聞こえ、思わず身を伏せたのであるが、爆弾は落ちては来ず、チラシが舞い落ちてきた。拾い上げてみると日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになったことが日本字で書かれていた。それを見た私たちはなお「これはアメリカの謀略だ。だまされるな」と憤慨した。この時点でも諏訪はのんびりしたものであった。



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# by seikoitonovel | 2009-04-19 00:21 | 第三小説「思い出すままに」

父1-2


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1-2


父と母について

 父友幸は北沢の隣の南沢の小平家の次男で伊藤家に養子として迎えられた。母は同じ上諏訪の湯の脇の小松家(宮大工の次女)から迎えられた。即ち両養子として伊藤家を継いだのである。私は祖父・祖母をまったく知らない。兄達からも祖父・祖母の事を聞いたことがないから私たちが生まれるかなり以前になくなっていたものと思う。
 父からは伊藤家の本家は庄屋で米俵に小判が一杯入っていたんだといった話を聞いたことはある。父が養子に入った伊藤家はその分家、小農である。
 父は小学生の頃、鉄棒の宙返りなど造作なくやってのける運動神経の持ち主で徴兵検査は勿論甲種合格、徴兵されて中国での戦争も経験している。
 尋常高等小学校を卒業してから農業に従事していたが、馬や牛を霧ヶ峰の牧場に連れて行くばくろうの仕事を手伝っていた(兄治幸から一度父につれられて牧場にいった、という話を聞いたことがある)。その頃の農家は牛か馬を牧場から借りて、田の耕しが一段落するとそれを返すために霧ヶ峰の牧場に連れていったのであるが、自動車などない時代だからこの労働はかなり辛いものであったらしい。父がその役を引き受けたものと思う。
 これが牛乳処理販売業を始めたきっかけであったと思う。
 母は小学校卒業と同時に製糸業の糸紡ぎの女工となった。父の話によれば母は糸紡ぎが非常に上手で優秀な働き手であったようだ。


<いとうせいこう注>
 父は自分は祖父も祖母も「まったく知らない」、と言う。しかも「両養子」という形なのだそうだ。伊藤家自体との血のつながりは一切ないわけである。いわば、私自身、ルーツを断たれているも同然で、この事実には少なからぬ感慨を持たざるを得ない。

     

9人兄弟

 私の後に7男幸男(1932年生・昭和7年)、8男安幸(1934年生・昭和9年)、長女寿美路(1936年生・昭和11年)が生まれた。8男1女、最後が女。生めよ増やせよで子沢山の家はそう珍しくはなかったが、続けて男が8人という子沢山は珍しかった。それも皆健康優良児で子供の中で病気になったり入院したものは一人もいない。これは父・母が健康であったこと、とくに母が人並外れた健康の人であったからである。
 6人とも人に後ろ指を指されるようなこともなく、学業の方も落ち零れたものはいない。治幸は早稲田大学、安幸は中央大学、武男は海軍兵学校へ入学している。



私の生まれた頃-農村恐慌・自殺者1万3942人

 1927年(昭和2年)は片岡直温蔵相の失言から金融恐慌、29年(昭和4年)はニューヨーク株式相場が大暴落し世界恐慌となった。このため輸出産業の中心だった絹の値段が大暴落し製糸業の危機となり、片岡製糸を中心とする岡谷製糸業は倒産の危機に直面した。各地から働きに出てきた女工たちは首切り・失業者となった。米価も暴落し農村恐慌はますます深刻化し、娘の身売り、一家心中、自殺者の急増という事態を招来した。
 一方で日本の軍事的膨張が満州を舞台に始められていた。満州地方(中国の東北部)は日露戦争で勝利した日本がロシヤの権益の一部(南満州の利権)を譲り受けたものであった。日本はこの権益の拡張を目指し関東軍が中心となって様々な工作を行い溥儀を担いで執政とする満州国(奉天・吉林・黒竜江・熱河の4省を中心にし首都を新京とする)の建国へと突き進んで行く。
 建国の宣言が32年(S7年)、この満州国建国は欧米列強の反感を買い、国際連盟で日本非難決議が25対1で可決され、日本は国連を脱退し、国際的に孤立した。
 ところが日本国民は国際連盟の脱退を歓呼の声で支持した。「満州へ満州へ」のもとに満蒙開拓団が結成され、日本人はぞくぞく満州へわたっていった。
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# by seikoitonovel | 2009-04-14 22:52 | 第三小説「思い出すままに」

すっぽん1-5


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 私の中で、それはすでに灰青色の、触れれば冷たい彫像である。足元の小さな金箔塗りのパネルには『すっぽん 1974』と黒く荒々しく刻まれている。
 私を解放しようとして書けば書くほど、私はこうして重く揺るがぬ存在となっていく。私は記憶の底に固着し、輪郭ごと浮き上がって剥がれ、引き伸ばされ、否定しようのない偉大さにまで膨れ上がって重量を増す。私は悪循環の中にいる。
 解放されるべき中学生の私を私1とし、悪循環の中にいる今の私を私2とすれば、私2こそが私1を時間のどん詰まりに追い込み、太らせてそこから出られなくしているのだ。では、私2は私1を忘れてしまえばよいのだろうか。
 私2はそうは思わない。記憶からの緊急避難をしたところで、いずれにしろそれはいつかぬるりと魚影のごとく動くからである。完全に忘れることは不可能なのだ。そして、過去を変えることも絶対に不可能なのである以上、私2は私2で可能性のどん詰まりに追い込まれている。私1によって。すでに。 
 私1が私2にしがみついているのか、私2が私1の足をつかんで離さないのか。しかも困ったことに、どちらもすっぽんであることには変わりない。これはまさに泥仕合だ。
 ちなみに、私1、私2というイメージしにくい分類で現在、少なからぬ読者の混乱を招いていると思う。ここはひとつ、中学生の私を私13とし、今の私を私48にしてみたらどうだろう。いや、それでは年齢表示みたいで面白くない。私は私を更新して連なってきたのだから、私10と私152くらいが適正ではないか。
 祖先たるダニエル1と、未来のダニエル25が語りを進める奇怪な長編があったけれども(ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』)、こちらは私10と私152で互いの足を奪い合っている。あまり格好のいい話ではない。
 ただ、私152は経験を経た私であり、いかに悪循環の中にあっても、かつてのようにじっと耐えているつもりはない。どこかに事態の突破口はないかと目をこらしながら、しかしどうもしばらく動けそうもないという予測を、私10の脇や腰をこちょこちょくすぐることで伝えるだろう。
 今のところ、それが私152から私10への能う限りの、渾身のメッセージだ。
 そのくすぐりが。
 

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# by seikoitonovel | 2009-04-13 13:03 | 第二小説

父1-1


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 第一章

 1-1


 出生


 1930年(昭和5年9月11日)。長野県諏訪市岡村北沢で父友幸、母よしのの6男として出生。
 長男源蔵(1920年生・大正9年)、次男治幸(1922年生・大正11年)、三男巻男(1924年生・大正13年)、四男計男(1926年生・大正15年・昭和元年)、五男武男(1928年生・昭和3年)の兄達は皆健康であった。
 母親よしのは2年に一人づつ生みつづけてきたのである。長男源蔵と私とは10才違いであった。私が小学校に上がったときには源蔵はすでに尋常高等小学校も卒業して家業に従事していた。兄弟は兄弟であってもこの差は大きい。私は幼少時に源蔵と親しく話を交わしたという記憶はなく、恐ろしく力の強い頼もしい兄貴という印象でしかない。



父の家業

 
 私が生まれた頃には牛乳処理販売業を営む、○井(井の○囲い)伊藤牛乳店といい、その頃の上諏訪の同業者は大手町の○中(中の○囲い)という牛乳処理販売店が一軒あるだけであった。最初は5頭ばかりの乳牛を家の庭で飼い、母が搾乳していたことを朧気に覚えているが、それはわずかな期間だけだったのではないかと思う。その後は乳牛農家(せいぜい5頭位しか飼っていない小規模農家)から牛乳を集めてきてそれを熱処理し一本一本一合ビンに詰め宅配した。最初は販売先の開拓・集金など父が行っていたようだが、父は源蔵の高等小学校の卒業を待ち構えていてもっぱら自分の手足のように使った。
 家業は父母と源蔵が支えていたといっていい。


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# by seikoitonovel | 2009-04-09 22:05 | 第三小説「思い出すままに」

雑記1


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1

#『我々の恋愛』、3-1の冒頭に「まず一人の男がいた」という一行を付け足した。
 これで全体の見通しがよくなったと思う。

#また、今日から、伊藤郁男(私の父)に一年以上前に依頼して書き下ろしてもらっている自叙伝『思い出すままに・自叙伝にかえて』を掲載していくこととなった。
 息子である私(いとうせいこう)はいつごろ出現するだろうか。

#さらに、私は父の自叙伝にコメントを付けていくはずだ。
 つまりこれは、史上初の「親子小説」であり、「私小説」ならぬ「我々小説」ということになる。
 
#連載小説空間はこうして、他人の小説さえ連載する。



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# by seikoitonovel | 2009-04-09 21:52 | 雑記

第一小説3-4

 
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3-4

        『BLIND』-4

 なだめる者は、相手の感情の起伏にぴったりと寄り添いながらそれを完全に統御しようと最大限の力を注ぎ、しかも事を成功裡に終わらせるまでにたいていは複数回の失敗を余儀なくされて傷つく。したがって俊子をなだめ終えた要は、すでにその短い時間の中で、ひとつの恋のプロセスを経験していたと言える。
 二年後、二人は結婚した。
 世界では同時革命が叫ばれていた。
 徹が生まれるのはさらに一年後、1971年のことだった。
 臨月になってもなお、俊子は金沢市内の街頭デモに参加した。やがて日本を代表する国際空港となるナリタではその年の2月22日、第一次強制代執行が始まった。延べ2万人の警官が、土地収用に反対する延べ2万人の地元農民や学生と衝突した。農民の中には立ち木に自らをくくりつけて抵抗する者もあった。俊子は代執行に反対しなければ筋が通らないと言った。要は筋そのものがのみ込めなかった。
 仕事に対する徹の真面目さは、この母から来ている、と言ってよい。そして父・要は最初に図書館で俊子に気づかなかったように、徹の中に厳然としてある岩めいた頑固さに気づかなかった。何事に対しても集中出来ずにぼんやりしている、という息子観はそのまま要自身にこそ当てはまった。
 だが、徹はただ母だけに似ていたのではない。「あらはばきランド」で徹が最も深く慕っていた上司、ここでは仮に園田吉郎(きちろう)としておくが、この園田の性格や風貌が父・要に大変よく似ていた。けれど、徹はその誰にとっても明らかな事実に気づかなかった。まるで父のように。
 奇妙なことに、この父によく似た男・園田吉郎(45歳)こそが、徹が恋に落ちるきっかけを、本人もそうとは知らぬまますでに作り出していたのであった。
 園田はまた、「レイン・レイン」を作った人物でもあった。


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# by seikoitonovel | 2009-04-04 22:24 | 第一小説

第二小説1-4


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 小さな私はまだ中学生であったろう、と今ではずいぶん確かにわかる。なぜなら同級生の足にしがみつき、ふりほどかれまいとする私の頭はいがぐり坊主だったはずだからだ。
 高校生の私は髪を伸ばした。もしその私が足にしがみついたなら、同級生は真っ先に髪をつかみ、私をひきはがそうとしただろう。私はいずれ顎を上げざるを得なくなる。上げた顎に上腕部をねじ込まれれば、もう私はすっぽんではいられなかった。
 中学生という不安定な時期の中に、同級生も私も固定されていた。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。
 私は部屋中のすべての物を紙でラッピングしないといられない子供でもよかった。不潔を何よりも嫌い、形状がばらつくことを嫌い、物の色を自分の好みで完全に支配したくて、私は過去のノート類を黄緑色の紙に包み、思い出のみやげの数々をベージュ色の厚紙で箱状に包み、本はすべて色違いの紙に包んで本棚に並べ、椅子の背をピンク色の紙で包み、蛍光灯のスイッチの紐の垂れた先端を小さな白い紙で四角く包み、ティッシュの箱を青くざらついた紙でさらに覆って使いにくくし、あれやこれやと開けては包み、包んでは開けることに一日の労力を使い果たしていてもよかった。
 同級生もまた、自分で大事だと感じることを、必ず三回前転をしないと始められない中学生でもよかった。それをしないと胸がふさがってきて呼吸がしづらくなり、やがて母親が死んでしまうばかりか、世界がみるみる焼け焦げて白く消滅することがはっきりわかるので、人前で恥ずかしいのを耐えて同級生は床を三回、転がる。デパートで、親戚の家の客間で、自転車屋の店先で。誰も自分が世界を救っていることに気づいてはくれないのだけれど、だからといって迫りくる破滅を見過ごしにすれば、自分は何より失いたくないものを失ってしまう。だから同級生は勇敢に三回、転がる。そういう中学生でもよかった。
 あるいは私は数十年ほどを経て佐渡で一人前の刀鍛冶になり、毎日真っ赤に燃える鉄をハンマーで打って結晶をより細密に仕立て、若い弟子を二人取って作業を見せて習わせ、息を深く整えることこそが刀鍛冶の仕事の最も肝要な事柄だと喝破して朝六時に起きては座禅を組み、ついに清冽な湧き水のごとき剣を一本作り上げてもよかったし、同級生は同じ年月を親の都合で渡ったボリビアで暮してローマカソリックの神父の経験を積み、ある新月の晩に光の啓示を受けたのちに異教的な信仰を持って教団を形成するとみるみる南米各地に信者を増やして弾圧され、たった一冊の、のちに信者にとって聖なる書とされるノートを残した他はまったくの行方知れずで人生を終わったのでもよかった。
 だが、私は私でしかなかった。同級生も同級生でしかなかった。私たちは両方いがぐり坊主で、日の陰る廊下の奥にいた。


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# by seikoitonovel | 2009-03-28 22:58 | 第二小説

第一小説3-3


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3-3

          『BLIND』-3

 だが、華島の父によると、職を得る前までの華島は違った。幼い頃から、何事に対しても集中出来ずにぼんやりしているというのが華島要(徹の父)の息子観で、長年小学校の国語教諭を務めている立場からも、その観察に間違いはないと要は確信していた。
 むしろ執着という醜いものを故意に身につけるぐらいが妥当ではないかと、徹が小学校高学年になった1981年5月17日午後、父親は息子の部屋にあったありとあらゆる物(家具以外)を物置に隠そうとした。帰宅した徹が号泣してくれることを要は熱望した。作業にとりかかって五分ほどで耳慣れぬ物音をいぶかしんだ妻・俊子に見つかり、その激しい抗議によって目論見は中止されたものの、要はそれくらいショッキングな“事件”が徹の人生に起こるべきだ、と真剣に考えていた。
 俊子(旧姓・幅田)は要のかつての教え子だった。石川県金沢市立味ケ岡小学校で俊子が六年生の時、要は担任を務めたのである。私立中学に提出する内申書に「幅田さんの正義感はクラス一」と要は書いた。その事実を俊子が知ったのは、十年後、地元の短大を卒業して司書の資格を取り、親戚のつてを頼って公立図書館に勤めてからのことだった。授業の資料を集めに来た華島要を、俊子はすぐに認識した。だが、話しかけてみると、要は俊子をすぐには思い出さなかった。
 ほら、理科実験部の、と俊子は誘い水を与えた。
 高桑さん?と要は言った。
 違います、ええと、交換留学生のルイーズさんを一ヶ月間、家まで送り迎えしていた……。
 あ、和泉さん。
 いえ、和泉さんじゃありません。
 侮蔑されたような気持になった俊子の、半ばうるみかかった目の端で、一人の初老の女性がつまずいた。若い男が椅子に浅く座って足を机とは正反対の方向に伸ばしていた。その男の右足に、女性の左足がぶつかったのだった。黄色い装丁のドイツ語の本を大事そうに抱えた白髪の女性は軽く頭を下げた。園芸雑誌を開いていた男は舌打ちをした。
 途端に、俊子は俊敏な野生動物のように小さく飛び上がり、大股で五歩ほど行って若い男の背後に立った。そこから先は書くまでもないだろう。
 幅田さん、もう彼も謝っていることですし、と華島要は数分後、ささやき声で俊子に話しかけたのである。

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# by seikoitonovel | 2009-03-27 21:33 | 第一小説

第一小説3-2


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3-2

         『BLIND』-2


 コーポ萱松203号室から東亀沢駅までは大人の足で歩いて15分ほど。そこから急行で七つ進めば、目的地「あらはばきランド」駅である。したがって、華島が出勤にかける時間は多く見積もっても45分で済んだ。
 70年代後半に出来た大型遊園地「あらはばきランド」には、当時、23個のアトラクションが存在した、と記録されている。大観覧車、ふたつの大人用ジェットコースター(ひとつは室内型)とひとつの子供用ジェットコースター、垂直落下するゴンドラ、メインキャラクターあらはばきちゃんの赤い人形が運転士を務める三両の小さな汽車、白馬だらけのメリーゴーランド、各種の錯覚を利用したいわゆるビックリハウス、昆虫(主にカブトムシ)を模した椅子がついた空中ブランコなど、ほとんどが王道と言えるアトラクションの中、唯一「レイン・レイン」が異彩を放っていたというのがもっぱらの評判で、それがまさに華島の担当だった。
「レイン・レイン」は虹色に塗られたドームで、入場者は全員透明なビニール傘と、これまた透明な合羽を渡されて中に入った。アトラクション内には雨が降っており、それが奥へ奥へと歩いていくうちに激しさを増した。日本的な梅雨から大陸的な豪雨、ロンドンのしとしと雨とアラスカのみぞれ、ついには熱帯雨林の耳をつんざくような雷までを体験し終えれば、入場者は晴れ上がる空(疑似)の下、出口へと導かれる。
 こんな独創的なアトラクションは世界に類を見ないと評価する者と、雨の日に入った時のつまらなさを強調する者、そもそも冬には館内が寒過ぎるという主に高齢者の指摘や、逆に夏の自然な涼しさを言う者など、「レイン・レイン」には常に毀誉褒貶があった。
 華島はと言えば、そのどちらでもなかったと我々は聞いている。地方の大学を出て「あらはばきランド」に就職をした華島は、与えられた仕事をとにかく丁寧に覚えた。好き嫌いを仕事に持ち込むべきではない、というのが華島の考えだった。
 研修期間中、人事課に連れられてディズニーランドを視察したおりにも、同期五人が各種アトラクションに興じている間、華島だけがしばらくの間、スタッフのあとをつけ続けた。ゴミ発見の秘訣が知りたかったのだそうだ。それは華島の同期にとって、華島という人間を最もよく示すエピソードらしく、全員で会う機会があるごとにその話を華島にした。
 
 
 

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# by seikoitonovel | 2009-03-23 21:23 | 第一小説

読み方の一例など1



読み方の一例など1


#2009/3/1から、この連載は始まりました(まずは第一、数日後に第二が)。
 その時点に遡って読んでいただけたら幸いですが、それで順序が正しいかどうか、あるべき姿なのかどうかは私にもわかりません。
 なお、小説が終わるまで少なくとも数年はかかると予想されます。長い時間ですね。でも、終わったらあっけないのかも。いや、終われるかどうか。
#また、4/9から掲載が始まった『思い出すままに 自叙伝にかえて』は、私の父・伊藤郁男に依頼して書いてもらった作品です。

#2009/3/19から、空けていた行間を詰めました。
 思いの外はやく、連載小説空間の拡大を呼びかけることになったからで、実際以下のサイトが開いています。
http://case-k.com/itosan/

第一小説(bcck版)
第二小説(bcck版)

第一小説×クズ写真(bcck版)

 などなど。
 もしも、行間を空けて読みたい人がいれば、どうぞ好きな形にしてアップしてください。
 私は私の書き方でまいります。

#音楽をつけたい方がいれば音楽を是非!
 挿し絵をつけたい方がいれば挿し絵を是非!
 各国語への翻訳なども同時進行していただけたら、かなり面白いことになると思っています。
 各サイト、得手勝手に横に横に拡大していただいてなんの問題もない……どころか、実に望ましいのですが、とりあえずリンクも貼りたいのでアドレスを御一報ください。


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# by seikoitonovel | 2009-03-19 22:23 | 読み方の一例

第二小説1-3

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 早生まれの私はいつも小さかった。
 制服を着ている限り、私は必ず列の先頭か、前から二番目に立っていた。それより後ろに、私は存在したことがない。
 3月下旬に生まれたので、例えば4月生まれとは一年近く差がつくことになる。子供時代の私にとって、この一年は半分永遠みたいなものであった。
 小さな私は少し胸を突かれただけで吹き飛ぶように後方に弾かれた。背中を突かれれば前にのめったし、はがいじめにされれば動けなくなった。
 何度も思い出されるのは、濃い灰色のロッカー群で、私はそのロッカーにしたたか背を打つのである。誰かに胸を押されたに違いなかった。小さな私は、半ば変形しかけたロッカーの扉にほとんどめり込むようになる。
 私はその、後方へとはたらく大きな力に逆らうことが出来ない。記憶の中でさえも。
 私は幾度も宙を飛び、ロッカーの薄い扉で肩甲骨を打った。私の頭はがくんと揺れ、ガラクタをひっくり返すような音が背後から耳に響いた。
 今、同級生の足にしがみついているのも、この小さな私である。青黒い制服を着て、私を振り回そうとする力に精いっぱい抵抗し、だがしがみついていることしか出来ないのは、早生まれの私である。
 私をこうした小ささの中に閉じこめていた、半分永遠のような一年はいつどこに消えてしまったのか。気づいた時には私の背丈は170センチ近くになり、むしろ周囲が小さく見えていた。思い返せば、大学に入ったあたりから学年と年齢は別々のものになり始めていたのである。
 その変化に取り紛れて、私の一年、追っても追っても追いつきようがなかった年月の絶対的な差が私に無断で消去された。閏年式に、私の半分永遠は時の計算の裏側に隠し去られてしまった。
 おかげで、同級生の足にしがみつく私は、いまだすっぽんのように同じ姿勢を続けている。前後の時間とのつながりを持たなくなった本シーンは、ゆえに私に帰って来続けるのではないか。
 私は逃れられないと思っていた。同級生からの毎日続く力の行使から逃れられず、自分の小ささから逃れられないと思っていた。
 私はその自分に呼びかけたいのだが、小さな私に聞く耳はあるだろうか。
 
 

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# by seikoitonovel | 2009-03-19 22:01 | 第二小説

第二小説1-2

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 私は同級生の片足にしがみついている。私を振り払おうとする片足は強く動く。私の背中や後頭部には、拳が打ちつけられたかもしれない。
 同じように相手の片足にしがみついた者たちの影を私は思う。筆頭が『金色夜叉』の鴫沢宮だろう。尾崎紅葉の代表作の中で、間貫一を裏切るこの女は何度となく貫一にすがりつく。私の子供時代には、この貫一/お宮の不可解な愁嘆場がよくテレビでパロディにされていた。
 お宮は資産家の富山と結婚する流れに逆らわない。だから恋人である貫一は、熱海の海岸でお宮を責める。「一生を通して僕は今月今夜を忘れん」とまでイジケるのだから、すがりつくべきはむしろ貫一なのではないか。子供の私は白黒テレビの中の“二人連れ”を、いつもそういう奇異な思いで観ていた。
 イジイジした敗北者がなぜか威張っている。いずれ資産家の妻になる人生の勝利者が、その敗北者の“脚に縋付(すがりつ)き”、振りちぎられて膝頭を血に染めたりしている。
 これはまことにおかしな話だ。奇怪なイジケ構造である。
 だが、やがて私もまた、同級生に蹴られるのを避けるためにその片足にしがみつき、じっと離さずにいたことで勝利感を得るのだ。この場合、私は敗北者として貫一であり、しかし勝利することにおいてお宮である。
 さらにさかのぼって近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』もまた、片足にしがみつく者の話だ。しがみつくのは醤油屋の手代、徳兵衛。遊女お初との仲を裂かれ、勘当され、親友に裏切られて体面を潰され、徳兵衛は死ぬ以外ないと考える。
 色茶屋・天満屋の縁の下に隠れる徳兵衛は、お初女郎の着物の裾から出た白い足に頬を寄せたまま、裏切り者の親友が自分を勝手放題に侮辱しているのをひそかに聞く。そして、しがみついたその足をついに首にあてたとき、お初は徳兵衛が首吊り心中をはっきりと示しているのを知るのである。
 人形浄瑠璃においては通常、女の人形に足はない。だから、お初の足は特別で異様で艶めかしい。ただし、甲に頬ずりするような型は昔はなかったと聞いた気がする。故吉田玉男の工夫だという話が、私の記憶にはある。
 ともかく、ここでは男が女の片足をつかんで離さない。『金色夜叉』とは反対のパターンである。しかも、徳兵衛は足蹴にされない。
 ただ、主人公のイジケた気持ちだけは変わらないのである。貫一がイジケていたのと同様、徳兵衛もイジけている。親友に大事な金を貸し、返してもらえず、それどころか詐欺だと言われ、公衆の面前で殴られるのだから。
 徳兵衛は鮮やかな反駁とは無縁である。証文をたてに論理的に切り返す術がない。無策無能だとさえ言える。ゆえに粘りもなく、死ぬしかないと一足飛びの結論にはまり込む。
 近松は実際の心中事件をわずか一ヶ月後に舞台化したわけで、徳兵衛が死ぬことは絶対であった。あ、この手があった!などと思いつかれても物語が不鮮明になる。近松はトンチ話を書きたかったわけではないのだ。
 だから、徳兵衛はお初の片足にしがみつく他なかった。あたかも近松が遣う人形のように、徳兵衛は自由な道を塞がれていた。イジケが高まる中、徳兵衛は死だけを思いつくように仕向けられていた。あ、この死があった!ということになる。
 すっぽんと心の中で自称した私にだって、当時、その人形じみた思いつきがあったのではないか。



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# by seikoitonovel | 2009-03-16 00:07 | 第二小説

第一小説3-1

 
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3-1

         『BLIND』

 まず、一人の男がいた。
 男は不思議な夕焼けの夢を見た、と言っている。
 行ったこともない南の島の、長く白い砂浜に男は素足で立っていた。
 濃いオレンジに溶けた太陽はすでに左手の岬を覆う黒い山の向こうに沈みきっており、残光だけが薄く残る山頂付近以外、空は藍色に染まっていた。
 やがて、夜の始まりを告げるかのように、背後からコーランがエコーたっぷりに鳴り響いた。そこがイスラム教圏内であることを、男は知っていたと思った。
 次の瞬間、立ちくらみのように視界が狭まった。不安に襲われて男は何度かまばたきをした、と言う。すると、暗くなっていくと思われたあたり一面が、みるみる茜色に変わっていくのがわかって、男の胸はつまった。
 たちまち、あらゆるものが茜色になった。見渡す限りの空が茜色であり、吸う空気も吐く空気も茜色だった。砂がどこまでも茜色だったし、波のしぶきも、ビーチを走る馬の汗ばんだ皮膚も茜色だった。
 そうだ、ほんとうの夕焼けとはこういうものだと男は思った。すっかり終わったかに見えたあと、夕焼けは復活のようにやって来て、太陽のない世界を茜色に染め変えてしまう。
 圧倒的な幸福感があった。茜色の光が、波動になって体中の細胞を震わせている気がした。茜色は男の体を自由に出入りした。
 1994年3月10日早朝、目が覚めたあとも同じ幸福感がまったく途切れなかった、と華島徹(仮名)は言っている。それほど影響力のある夢を、華島はかつて見たことがなかったそうだ。
 前夜からの雨がサッシを細かく叩く音は、確かに波が引く音に少し似ていただろう、と我々は想像する。したがって、華島の住むアパートの二階はいまだ夢の中の海に近かったのかもしれない。
 予感といえば予感でした、とは華島徹の言葉だが、むろんこれは事態が深まったあとでそう思っただけであり、恋愛はこうしてすべての物事を、遠い過去に至るまで「当事者二人」の運命の中に整列させてやまない。
 以後も、この思考は華島を強く捉えるし、我々はそれを逐一報告するだろう。
 なぜなら、無意味な事象の偶然的積み重ねに過ぎない人生を、一気に意味づけ、一気に色鮮やかにするのはわずかに恋愛と宗教くらいのものであり、後者の場合が“すべての物事を、遠い過去に至るまで「神と自分」の運命の中に整列させてやまない”のである以上、我々は恋愛研究において神を扱うも同然だからである。そして、御存知のように、神は細部に宿るのだ。 
 ともかく、1994年3月10日木曜日、華島徹は帰宅後に起こる予期せぬ出来事には実際はまったく盲目なまま、顔を洗い歯を磨き背広に着替え、しかし夢の残照とも言える茜色の幸福感にはなお満たされつつ、入社一年目の職場「あらはばきランド」へと向かったのだった。


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# by seikoitonovel | 2009-03-11 20:56 | 第一小説

第二小説1-1

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第一章

 俺はすっぽんだ、喰らいついたら絶対離さない。
 まったく同じこの言葉が何年かに一度、冬の池の中でかすかな泥をまきあげて動く魚影のように私の記憶の底をぬるりとよぎってきた。
 冬の池の中でかすかな泥をまきあげて動く魚影、というのはまんざら比喩でもない。
 昨年末、私は八十才近くなった両親と共に父の郷里を訪れ、とうに亡くなっている父方の祖父の墓参りをする流れになった。墓は上諏訪からタクシーで五分ほど坂を上がっていった小さな寺の奥にあり、私はずいぶん前にそこを訪ねたことがあるのをおぼろげに思い出しながら、両親の後ろを歩いた。傘をさすまでもない微妙な雨が降っていた。
 乱立する墓石の中で、父はまったく迷わなかった。祖父の墓の前まで来ると、母が、おそらく何度もそうしたことがあるに違いない様子で周囲の墓石について父に聞いた。父はそれぞれの墓をほとんど見ずに、それは誰々の叔父だと言い、従姉妹の誰々ちゃんの墓だと答えながら新聞紙を丸め、マッチで火をつけた。母はおっとりと混乱し、幾つかの同じ墓について同じ質問をした。父はいらだちもせずに同じ返答を繰り返し、小さな火事めいた炎の中に線香をひと束差し入れた。
 墓参りのあと、無人の寺の汚れた縁側に私は両親と座った。目の前に池があり、腐った蓮の葉が浮いていた。大人の背丈ほどの松が水面ぎりぎりに枝を伸ばしており、その先に壊れた蜘蛛の巣がぶら下がっていた。季節外れのトンボの死骸が池の端で光っているのが見えた。微妙な雨が微妙な水紋を作っていた。
 縁側で休憩を取ろうとしたのは父だった。父はなんの感慨も持っていないような表情で膝に手を置き、空を見たり池を見たりした。母も同じだった。風景とはとてもいいがたいものを目の前にして、私はなぜ両親が黙ってそこに座っているのかまったく理解出来なかった。
 やがて、私の視界の端に、ぬるりと動くものが現れた。目をやると池の底で泥が巻いていた。泥の奥に私は黒い魚影を認めた。鯉だ、と思った。祖父の法事で出た鯉のあらいが自分には臭いような気がして食べられなかったことを、急激に私は思い出した。まさにその寺の座敷で、鯉はふるまわれていたのだった。寺は当時、もっと清潔だった。
 と、その記憶に重なって、ぬるりと、としか言えない感覚で、あの言葉が来た。
 俺はすっぽんだ、喰らいついたら絶対離さない。
 冬の鯉の身体のゆらぎが、事実、私の脳の奥からすっぽんの頭を飛び出させたのである。あたかも両親は、それを待って静かに縁側に座っていたかのようだった。
 この言葉が私の中学時代、もしくは高校時代のいじめの体験から生まれたことは確かだから、私はこうしたすっぽんの出現を好まない。いったん現れたらそれが再び泥で覆われてこの世から姿を消すように、これまで私は対処してきたのだ。
 今、その言葉をめぐって自分が右往左往し始めた理由を、私はまだまったく知らない。
 

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# by seikoitonovel | 2009-03-05 23:53 | 第二小説

第一小説2

 
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 2


 『ヤマナシ・レポート』
              カシム・ユルマズ 
              (トルコ芸術音楽大学)
               2001年7月30日付け
            「イスタンブール読書新聞」より
        
 人生は旅である、と私は言いたくない。言ったところで何になるわけでもない常套句の、これこそ筆頭に挙げられるだろう。
 人生に旅券は必要ない。旅行鞄がなぞらえられるような対象は、特に人生には見当たらない。人生に終わりは絶対あるが、旅が必ず終わるとは限らない。
 人生は人生である。旅はただ旅である。だからこそ、両者は互いを豊かにするのだ。
 私は今、日本に来ている。訪れるのはこれで二度目だ。
 一度目は、第二次世界大戦の終戦から六年ほど経ってのことであった。私は大学院に籍を置きながら、神戸で二年間、父の仕事を手伝った。私はわずか二十才に過ぎなかった。自分の詩はまだ数えるほどしかなかった。
 思えば、当時の私は何も見ていなかった。何も聴いていなかった。日本は日本でなく、ただの異国だった。憧れは個別性の外にあった。
 今、ヤマナシという日本列島の中央部近くにいて、私は世界十五カ国の学者・有識者と論議を重ねている。前世紀を最もよく象徴する恋愛とはどのようなものであるかについて話し合いながら、我々はあたかもその恋に直接触れるかのように物語の輪郭をなぞり、恋を舌の上にのせて吟味し、血管の中に流し込んで共に生きている。
 イギリスの作家、アーロン・エメットが採集してきた“自分が蟻であると思い込んでいる男と、自分が枯れた樹木だと思い込んでいる女の恋愛”は我々を驚愕させた。
 サウジアラビアの財閥系研究機関で人間の行動パターンを数量分析しているハレド・オハイフは、“別れても別れても必ず三日以内に偶然出会ってしまう二人の奇跡の六十年間”という詳細なレポートを実験映像付きで提出し、パリ第8大学きっての無神論者(そう、エミールのことだ!)にも神の存在を再考させた。
 このように充実した時間を過ごしながら、私はひとつの確かな考えに支配される時の、あの希有な満足感を得つつある。
 人生が旅だとは言えない。
 だが、人生は恋愛のようだとは言える。
 どちらも時に熱狂的で、現実とはうらはらで、二度と訪れないチャンスの糸で縫い合わされているのだ。
 再びの日本滞在で、私はそれを知った。
 もう遅い、とあなたは言うだろうか?
 たった一人しかいないあなたは。
 私の読者よ。
 

 
 

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# by seikoitonovel | 2009-03-04 00:17 | 第一小説

第一小説1

 
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 ただいま過分な御紹介にあずかりました、デュラジア大学人間科学研究所・佐治真澄でございます。
 むしろジョルダーノ先生の長年にわたる御研究こそが我々恋愛学者の導きの星であり、この盛大なうちに幕を閉じようとしております『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』の締めくくりにふさわしいと考えます。けれども、最高賞を受賞した国の代表が最終報告を担当するという、かねてからの取り決めでございます。どうか御静聴ください。
 さて、涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない、とは御存知のごとく大文豪ゲーテの言葉であります。苦渋と励ましに満ちたこの言葉の主こそ、これまた言うまでもなく恋多き人物でございました。
 であるならば、皆さん、先に挙げた格言を我々はこう言い換えてよいのではないでしょうか? 恋愛とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない、と。
 ……拍手、おそれいります。事実我々は、会期初日の7月12日夜、山梨県民文化ホール内で行われましたレセプションパーティの席上、トルコ芸術音楽大学名誉教授・ユルマズ博士から、会議の名前自体を『20世紀を振り返る十五カ国会議』と短く変えてしかるべきではないか、との御意見もいただいたのです。
 それでは若干ぼんやりとした会議にならないかと危惧を示した我々に対して、ユルマズ博士が悠揚迫らず答えられたお言葉は大変印象的でありました。
 恋愛を振り返ることは、そのまま世界を振り返ることだ。
 ユルマズ博士はそうおっしゃったのです。
 会議の名こそ変わりませんでしたが、博士、まさしく我々は7日間をかけて、20世紀を総括したのであります。20世紀の歴史を、人間を、言葉を、仕草を、そして何より性そのものを。
 博士にどうぞ大きな拍手を……博士、お座り下さい。博士。
 それでは、お配りしたレジュメにしたがって、きわめて簡潔に、今回『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』において、最高賞を獲得した日本の恋愛事例をおさらいしたいと思います。
 まず、一人の男がおりました。
 
 

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# by seikoitonovel | 2009-03-01 00:40 | 第一小説