自由 


by seikoitonovel
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<   2011年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

父5-1


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5-1 しまった、街頭演説に間に合わない!

 昭和五十五年六月二十四日の朝、目を覚まして時計を見た。針は午前八時を指していた。その瞬間、私は頭をハンマーでなぐられたような衝撃を受けた。
「しまった、たいへんなことになった。この時間ではもう朝の演説に間に合わない、さあ、どうすべきか」
 胸がドキドキ高鳴っている。
「どうしたことだ、今までこんな失敗をしたことはないのに……」
 長い選挙期間中、私は出発予定時間の一時間前に必ず起きた。そして洗顔の後、狭いホテルの部屋のなかで軽い体操をやり、千回から千五百回の足踏みをして体調をととのえ、心気を充実させて迎えの車を待った。
 こうしてホテルを出発し、午前六時半ないしは七時ごろから支援組織の職場の門前に立って出勤してくる組合員のみなさんに向かってあいさつを繰り返す。これが私の朝の主な選挙運動であった。
 ところがその朝は迂闊にも寝すごしてしまったのである。候補者カーはとっくに朝の日程を終了し、今ごろは次の職場に向けて突っ走っているにちがいない。そこにこれから追いつくにはどうすればよいか。ホテルはひっそりとしていて、いつも私より早く起きて出発準備をしている本間隆君のあの大きな張りのある声も聞こえない。
 いまごろ現場では、組合幹部や運動員が宣伝カーの運転手に向って「候補者はどうした。なぜ乗せて来なかったのか」と、怒鳴り散らしているであろうことを想像し、私はとにかくここを一刻も早く出なければならないと思った。
 急いで着替えをしながら、「それにしても、一体ここはどこなのか」と頭をゴツゴツ叩き、ガタガタと窓を開け放った。そして外の景色をみて私は、
「おやっ」と思った。
「ここは東京だ。芝のグランド・ホテルではないか。そうだ、選挙は終わっているんだ」
 完全にねぼけていたのである。いや選挙が終わっているのに、私の体は無意識のうちにまだ選挙運動を継続していたのであった。
「ああ、みんなに迷惑をかけなくてよかった」
 と胸をなでおろしながら、
「当選したんだ。ついさっきまで当選祝いでもみくちゃになりながら、ここに来て午前四時半ごろ寝たんだ」
 開票は前日二十三日午後六時からはじまった。私の順位は五十位前後を行ったり来たりし、結局当選のテロップがNHK・TVに出たのが、真夜中の午前二時であった。当選者五十人のうち最後から三番目にようやく決まるという、まさに薄氷を踏む思いのきわどい当選であった。  
             (『鷹の目』より)


<いとうせいこう注
 今回から、父が昔自費出版した著作『鷹の目』を編集して足していく。
 とはいえ、まずは著作冒頭そのままである。
 ここから父の人生の変化が語られていく>

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by seikoitonovel | 2011-05-20 20:48 | 第三小説「思い出すままに」

父4-13


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10、ようやく春を実感しながら

 79年10月の総選挙の結果は大きな希望になった。
 この選挙で私は長野県第四区の小沢貞孝選対に派遣された。8月の下旬から選挙の終わるまでの約40日間、一度も帰京せず連日睡眠時間4時間のきびしい戦いに耐え続けた。
 それは小沢先生にとっても政治生命をかけた戦いであった。当選の次は落選、その次は当選というエレベーター選挙をやってきた小沢先生であり、72年で当選された先生は76年の選挙では落選されており、今度敗れれば引退といわれ、ご本人もそのように覚悟されているようであった。しかしそんなことになれば民社党長野県連は壊滅の危機を迎える。なんとしても勝たねばならない。
 私は総選挙の度に何回となく小沢選対と関係を持った。そして不思議にも私が選対に張り付け(派遣オルグ)になった時は当選、ならなかった時は落選であった。そんな奇妙な因縁を小沢先生も知っていて“来てくれていて座っていてくれればいい”とそれとなく本部に私の派遣を要請していたようであった。当時私は千葉の加藤綾子選対に拘わり合いを持っていたが、解散の見通しが次第にあきらかになってきた8月下旬に松本に入り、10月の選挙が終わるまで選挙対策に専念したのである。
 この選挙で小沢先生は7万9千票を獲得して見事第一位で返り咲いた。その上、党全体としては10議席増の36議席獲得の輝かしい戦果であった。念願の結党時の議席に限りなく近づいたのであり、私は久方ぶりに体の中から湧き上がる喜びを味わったのである。20年の冬の時代を経て、民社党にも春がめぐってきたことを実感したのであった。
 しかし春といってもほんの春の入り口であり、肌寒さの残る浅春というべきであった。民社党にとってそれからがまさしく本当の勝負時である。民社党がお手本にしてきた西欧の友党、すなわち西ドイツ社民党にしてもイギリス労働党にしてもそれぞれ100年を越す歴史を持っているのであり、それに比べれば民社党はまだ中学生といったところであろう。
 激しかった10月の選挙の疲れを癒しながら私はこれからの私自身の人生というか、私自身の果たすべき役割について深く思いをめぐらせた。来年は50才になるし、人生の最終コースを自ら選択しなければならないと思うのであった。そして得た結論は、党組織拡大のために裏方に徹すること、それが私に与えられた使命である、ということであった。
 私もやがては表舞台でという願望を持った時代もあった。長野県では県会議員や衆議院議員候補にという話も合った。今回の選挙の前には長野県3区の候補者に内定していたG氏が突然候補者辞退してきたため、衆議院候補者選考委員長の春日先生の命を受けてG氏の説得役となったが、どうにもならず断念せざるをえなくなった。すると春日先生は“それでは伊藤が次の候補者だ。真剣に考えろ”となった。強引な話だとは思いつつも、私も無下に断るわけに行かず、親戚の人たちに集まってもらい、また地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし大方は反対であり、私はこの話を断念して春日先生に報告した。
 一方、私は77年には組織局次長として和田春生、ついで柳沢鍛造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いた。74年の衆議院選、75年の参議院選を通じて党は一定の地歩を固めたが、党員数は依然として3万名前後に低迷していた。毎月の新入党者は結構な数にのぼっていたが、それと同じ程度の離党者があり結果として党員数は3万名に留まる、という状況を繰り返していた。78年には選挙はなく、79年4月には統一地方選挙が予定されていた。この時期に本腰を入れて党勢拡大を図り、それを統一地方選挙の勝利につなげたい、これが私と和田局長との一致した戦略であった。しかし今までと同じことをやっていたのでは成果は見えている。そこで党勢拡大月間を設定して、同盟各産別との個別の話し合い、総支部強化のための研修会などを行った。その内容をくわしくのべるわけにはいかないが、この試みで党勢は飛躍的に拡大した。
 私はこの経過を通じて、党勢拡大への確固たる視点を持つことが出来た。これが、俺はこれからは“裏方に徹していこう”との決意になったのであった。 


<伊藤幸子注
 夫は総選挙、参議院選挙、四年ごとの統一地方選挙とその準備期間、一年中選挙活動に明け暮れておりました。そして国会議員選挙の時などはしばしば二ヶ月や四ヶ月くらいの出張は当たり前でした。その間、電話や手紙は一通も来ません。それでも私は政党本部に勤めているからにはそれが当然のことだと、割り切っていましたから特別なことだとは思いませんでした。今考えてみますと、少々のんびりしすぎたように思いますが>

<いとうせいこう注
 このあと、父の人生は思いがけなく変化する。
 そして、私自身は79年にはもう18才になっているのだった>

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by seikoitonovel | 2011-05-16 13:21 | 第三小説「思い出すままに」

父4-12


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9、70年代の出来事・春日は共産党と対決  

 振り返ってみると70年代というのは特異な年代であった。さまざまな転換があったがそれを羅列すると、
 
*70年に入るや、65年11月から続いてきた日本の“いざなぎ景気”が終わり、74年にはマイナス成長へ転じた。労働組合の賃金交渉は30%もの史上最高の妥結賃金時代から一転して半減するきびしいものとなった。
*また72年には5月15日に沖縄が日本に返還され、75年にはサイゴン陥落でベトナム戦争が終結した。南ベトナム支援で兵力投入の米国が敗退した。
*さらに72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件があり、74年にはルパング島から小野田少尉が帰還した。 
*72年7月、佐藤内閣が田中内閣に代わった。福田赳夫絶対有利と思われていた総裁選挙で田中角栄が圧勝したのである。そして前述したように12月総選挙が行われ、公明、民社が敗北し、共産党が38もの議席をえた。
*74年、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中が金脈問題で辞任に追い込まれ、三木内閣となる。76年7月遂にロッキード問題で田中は逮捕されるが、田中逮捕を容認した三木首相は自民党内の激しい三木降しにあい、福田内閣となった。その前6月には、自民党から河野らが離党して新自由クラブを旗揚げした。
*75年11月、国鉄労組がスト権スト、国鉄全線を止めた。これがやがて国鉄民営化へと繋がっていく。
*76年の私たちにとっての大きな出来事は、春日委員長が1月27日の衆議院に於ける代表質問で宮本共産党委員長の「リンチ事件」を取り上げ、政府の見解をただしたことであった。昭和8年、当時共産党中央委員の宮本が仲間の佐藤達雄をリンチにかけ死に至らしめたといわれる事件であるが、この事件の真相はあいまいのままであった。それを文芸春秋で立花隆が「日本共産党の研究」の中で取り上げたのをキッカケに、春日が追求したのである。宮本らは佐藤はリンチと関係なく異常体質のため死んだのであると抗弁したが、共産党が仲間をしばしばリンチにかけてきたのは明らかで、佐藤がそのリンチで殺されたというのが真実ではないか、それを明らかにしたいというのが春日の狙いであった。
 共産党は狼狽し、あらゆる手段を講じて春日への反撃を仕掛けてきた。しかし春日ははじめからそれを想定しており、こちらからさらに追い討ちをかけ、予算委員会の場で塚本三郎をたててさらに追及した。共産党の民社攻撃はその後熾烈を極めたが、民社党は「歴史を偽造する日本共産党ーリンチ事件をめぐる九つの嘘」を出版。この本はあっという間に売り切れたのであった。タブーに挑戦した春日の勇気はさすがであった。
 かくしてこの年の11月15日公示、12月5日投票の総選挙でロッキードの自民党は22議席減、共産党は21議席減。そしてわが党は10議席増の29議席となったのである。
*日本社会党内の左派社会主義協会と右派江田三郎派との対立が再燃、77年3月遂に江田が離党、社会民主連合(社民連)を結成、江田はその直後逝去、社民連は田英夫を代表として発足してゆく。

 こうした様々な背景のなかで77年の参議院選挙を迎えた。私はこの選挙で東京選挙区木島則夫選対に派遣された。木島は6年前NHKのキャスターから民社党の参議院候補者となった。木島はTV放送界で初めて街頭放送をやるなど、そのソフトな語り口とスマートさで抜群の人気があって見事当選したが、2期目の今回は極めて厳しいとの予想がなされていた。私は党本部からの事務責任者であったが、選挙の実働部隊は東京都連であり、私は事務所の雰囲気を盛り上げることと、本部との連絡にあたった。
 幸いこの選挙でも木島の人気は保たれていて三位当選を果たした。
 選挙事務所の一切の事後処理を終えたとき、その安堵感から私はむしょうに煙草が吸いたくなった。同僚からホープ一本もらって吸った。頭がぐらぐらしたがやがてそれも納まった。苦労して禁煙に成功していたがこれでまた喫煙者となってしまった。
 この選挙が終わってから3ヵ月後、突如春日委員長が辞任表明した。女性問題がその原因であった。かくして11月の臨時大会で佐々木が委員長となり、書記長には塚本三郎が選出された。
 そして佐々木体制の中で79年総選挙を迎えることとなったのである。

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by seikoitonovel | 2011-05-13 20:58 | 第三小説「思い出すままに」

9


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 第一小説、2項の「イスタンブール読書新聞」の発行日を、7/15から7/30に。

 4-1項の「島橋百合子からカシム・ユルマズへの書簡」の消印を7/22から7/25に変更いたしました。

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by seikoitonovel | 2011-05-11 21:24 | 雑記

8


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8

件名  親愛なる百合子-さん-へ
送信者 カシム・ユルマズ
受信者 島橋百合子
受信日時 2001年8月3日

 はじめまして、百合子-さん-。
 と書くのは、我々にとってまったく新しいこの「手紙」の上では、という意味です。
 昨日届いたあなたの手紙は、私が長年慣れ親しんできた、しかしもはや懐かしい形式にのっとった手書きの、紙と万年筆で作られたものでしたから。
 しかし幸運なことに、そうでなければ私は手紙を書き送って下さったあなたが本当の百合子-さん-か、つまりつい十日ほど前にコウベで奇跡のように再会できた「神秘嬢」かどうかしつこく疑っていたことでしょう。私は『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』に出席し、我が国のとある新聞記事を快適なホテルで書き上げたあと、ヤマナシからコウベへと向かったのでした。祖国に帰る便をトウキョウ発からオオサカ発に変更してまで、私はあの港町をこの目で見ておきたかったのです。
 再会の折にしどろもどろでお話ししたことの繰り返しになりますが、私はK商科大学を訪問し、かつての母校の隆盛ぶりをこの目で確かめました。私が在籍していた当時は、ご存知の通り日本が戦争に負けた直後でまだ学舎も小さく、すべてが出来たばかりだったのです。例えば、今のような貫録のあるツタなどどこの壁にも這ってはいませんでした。
 私は満足して翌日、空港に向かいました。そして、私たちは互いに出合い頭、相手が誰であるかを知りました。覚えていたのです。忘れはしなかったのです。まさに空港のロビーで。あと数分でイミグレーションに入ってしまうというところで。友人を見送るあなたと、日本を立とうとする私は、信じられない確率で出会ったのでした。友人に手を振るあなたが私の足をしたたかに踏むという形で。
 さて、私はあなたの重さを覚えていたわけではありません。謝るあなたのおっとりした声と困惑した表情が、私に五十年あまりの時を超えさせたのです。あなたはあなた以外の誰でもなかった。
 私はまた、あなたの優しい手が生み出す文字の癖も覚えていました。これは手紙をいただいて初めてわかったことです。アルファベットの中の幾つかの文字にそれは顕著でしたが、私は自分があなたの手跡を覚えていることに面食らいました。私はそれまで長らくあなたの書く文字を忘れていたからです。空港であなたの手帳に私の住所を走り書きした時にも、私は自分の悪筆を恥じるばかりで、あなたにも文字の癖があることを想像しませんでした。私は忘れていたのです。あなたのQが繊細な髭を持っていることを。そして思い出したのです。あなたのCが笑顔のように楽しげに空気を吐き出すことを。
 さて、あなたからの手紙は、二十世紀が終わって間もない今、私が受け取る最後の手書きの郵便ではないかと思います。もう誰も、いまや編集者からの依頼でさえも電子メール、少し旧式の仲間でもタイプを使いますから。
 みな、筆跡を残さないように生きているのです。あらがいようのない身体性は必要とされないのでしょうか? 私たちが迎えた世紀に癖など要らないというのでしょうか? つまり、あなたのQやCは。BやMの味わいは。
 いや、愚痴はやめましょう。私は老いていると思われたくないのだし、この「手紙」以降は、まさにその証拠の残らない書簡をあなたと交わしたいのですから。私は今、紙と万年筆の世界にあなたが戻ることを欲していません。私には時間がないのです。電子メールは身体性をはぎとるかわりに、私たちに大量の素早い情報をくれます。私はあなたと話したい思い出が、それこそ山ほどあるのでした。
 さて、百合子-さん-(こうして名前の後ろに付ける「さん」という日本語への懐かしさが、あなたにも理解していただければと熱望します。私はこの敬いの音をいつでもあなたと結びつけて胸の奥に抱いてまいりました。今でも様々な国のチャイナタウンで「先生(シンサン)」という敬称を聞く度、私は日本語の「さん」の響きをそこに重ねて甘酸っぱい気持ちになります。イスタンブールにチャイナタウンがないことを残念に思うくらいに)、私は思いがけない言葉をあなたの手紙の中にいくつか、まるで厳冬の湖に浮かぶ鳥の姿を見つけるように見つけました。
 例えばそのひとつが、あの頃少女のあなたが私にみじんも感じさせなかった異国の青年への憧れでした。むしろ反対にあなたは私に理知を匂わせ、距離を示し続けていると思っていました。若い私はあなたの冷静さを、十七歳の女性には不釣り合いなほどの堅牢さを特に強く感じていたのでした。そして、ここだけの話、私はその思い込みによって落胆もしていたのです。
 百合子-さん-、私は今年、七十歳になりました。自慢の孫さえいます。オルハンというもうすぐ成人する男の子と、ザムバックというあの頃のあなたの年齢に近い女の子で、両方とも名づけたのは私なのですよ。あなたの手紙を前にして、その私が一瞬にして二十歳そこそこの私と入れ替わりました。私は未来しか持たない若者のあてどない不安を今、理解出来ます。同時に可能性しか持たない人間の果敢さも魂の中央に感じます。百合子-さん-、私は私の日々が明るく照らされたことをたとえようもないほど感謝しております。人生の精妙な複雑さ、先の読めなさ、面白さを私は存分に味わっているのです。
 ああ、私はやはり古い人間なのでしょう。電子メールでこれほど長い文章を書いてはいけません。しかし、あなたには許されています。どうぞお好きな長さのお返事を、気の向いた時にでもお送りください。
 私からの懐旧の「手紙」、本日はここまでにしておきます。

     ユスキュダルの町からボスポラス海峡を見下ろして。 

                 あなたのカシムより
  

 
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by seikoitonovel | 2011-05-11 21:19 | 第一小説

父4-11


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8、それから10年も瞬く間に  

 70年代は激動の10年であったが、私にとっては40歳代の働き盛りでもあった。体力にはもともと自信があり、病気知らず、酒は親父譲りで一升程度では酔い崩れることなどなかった。
 春日体制の最初の試練は72年12月の総選挙であった。自民党内閣は佐藤から田中角栄に代わった。田中内閣の日本列島改造論は激しいインフレを引き起こし、庶民生活を直撃した。しかし電撃的な日中国交回復を実現した今太閤田中の人気は衰えず、土木建築業界の期待も高まるばかりであった。こうした情勢下で行われた選挙で民社党は29議席を19議席に減らして敗北した。公明党も49議席から29議席となり、共産党が14議席を38議席とした。
 私はこの選挙で長野第4区小沢貞考選対へ派遣された。私は結党以来長野県連とは常に関係を持ち、県連の諸行事には必ず参加するようにしていた。松本を中心とする4区選挙区は定員3名の厳しい選挙区、小沢先生は社会党時代に当選したが、民社党に参加してからは落選続きであった。今度こそはと準備を重ねてきていた。そして私にぜひ来て欲しいと強く要請された。本部もそれを了承して派遣が決まったのである。松本は私の始めての就職地であり、知人・友人も多く、楽しく選挙活動を行うことが出来た。しかも党全体の後退の中で見事な勝利を勝ち取ったのであった。
 ただ、12月の信州の寒さは半端ではない。しかし選挙というものはその寒さを克服させる魔物のようなものであることを実感したものである。
 選挙区は北アルプスの麓町・大町から南は木曽郡までの広大な範囲であり、いうなれば雪道をかきわけての選挙活動であった。私は早朝の街頭演説、宣伝カーからの連呼、夜の個人演説会での前座などなんでもやった。夜遅くまでの選挙戦術会議、それを終えてからの一杯の酔いに充実感を満喫した。
 しかし、党は再び再建へ歩を進めることになるのであった。
 目前に74年の参議院選挙が迫っていた。それだけに党再建に賭ける同盟の意気込みは従来とは違ったものがあった。
 民社党結党以来、全労・同盟は参議院全国区に必ず4名の組織内候補を擁立して闘い、68年選挙以来全員当選の成果を挙げてきた。候補者擁立産別は全国的基盤を持つ全繊、電力、自動車及び造船重機、海員、鉄労に限られていた。他の産別は4グループに分かれていずれかの候補者を支援した。民社党が総選挙で敗北したとはいえ、同盟は総評・社会党との対抗上1名の落選も許されない。共産党の異常な躍進で組織が侵食される恐れもあった。したがって同盟は選挙態勢の見直しとともに民社党員の拡大運動にも力を注ぐこととなったのである。
 私は引き続き組織第一部長として同盟の党員拡大運動に期待した。そして佐々木書記長とはしばしば党組織の在り方をめぐって意見を闘わせたものであった。
 佐々木書記長は私たちとの論議に真剣に対してくれた。論議は新橋の飲み屋で激論になったこともあった。私はこうした態度の書記長に好感がもてた。書記長が松本高校(旧制)で学び、信州をよく知っていたこと、俳句に親しんでいたことなども親近感がもてた理由であった。
 佐々木書記長との論議のなか私がまとめた組織方針の一つは「政党の日常活動」についてであった。支持団体などから常に指摘されていたのは「党の日常活動の不足」であった。では一体どのような活動を党の日常活動というのか。宣言カーを毎日動かすことか、演説会を開催することなのか、党員を増やしたり、党機関紙を拡張することかなどなど、それらはいずれも日常の党活動に違いないが、もっと体系的に説明できるものが欲しかった。私は考え抜いて次のようにした。
<政党の日常活動>とは
1、常に党員・支持者の声を聞く。
2、その声を整理・整頓して優先順位をつける。
3、その優先順位ごとに順次政策化する。
4、それを党議員および友好団体などを通じて議会に持ち込み、実現する。
5、実現のための宣伝活動を活発に行う。
6、その成果を通じて新しい党員・支持者を増やし、議員を増やしていく。
 また佐々木書記長とは党員は1選挙区ごとにどのくらい必要なのか。そのなかで党の中核的党員の数はどのくらい必要なのか、といった基本問題の議論をしたこともあった。
 佐々木良作という人は物事を突き詰めていく人で、自分の意見が理解されないときには頭から湯気を出すかのように激高することがあった。「瞬間湯沸かし器」と言われていたのだが、なぜか私たちとは常に冷静であった。

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by seikoitonovel | 2011-05-08 18:35 | 第三小説「思い出すままに」

雑記8


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 第一小説、9-3aと9-3bと分類していた項目を「9-3-1」「9-3-2」とした。
 7-1の書き直しを7-1bとしていたのと混同することに気づいたからである。
 9-3項はふたつとも、「ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)」による、つながったレポートである。

 また、レインレインを「レイン・レイン」、アラハバキランドを「あらはばきランド」と自分で校正した。


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by seikoitonovel | 2011-05-06 01:11 | 雑記

父4-10


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7、春日委員長体制の中で

 71年4月27日、西村委員長が逝去された。67歳。統一地方選挙の終わった直後であった。肝臓ガンを病まれながら党の最前線で指揮を執られていた。
 この地方選挙で党は大きく前進した。都道府県議140名(20名増)、市会議員470名(75%増)が当選。地方議会でも民社党が定着しつつあることを示した。その成果を聞きながらの逝去であった。
 西村委員長は53年の「バカヤロウ」解散の立役者として名をはせ、社会党右派の論客として、特に防衛・安保では自衛権問題などで常に明確な方向を示していた。党では選挙対策委員長、組織局長、国会議員団長、書記長を歴任、67年から委員長を5期務められた。私たちには常に「私の歩んだ道ではなく、私が志した道をたずねよ」と教えられた。
 党は6月の参議院選挙(全国区4、地方区2当選)のあと、8月に臨時党大会を開き、委員長に春日一幸(投票で春日330票。曽祢益216票を破る)、書記長佐々木良作を選出した。
 振り返ってみれば民社党結党からすでに10年が経過していた。この間の同志の悲願は結党時の衆議院議席40に一日でも早く到達することであった。だが、それまでに3回の総選挙、3回の参議院選挙、そして3回の統一地方選挙を必死の思いで闘ってきたが、展望は開かれなかった。
 政党は選挙で国民の支持を得る以外に生きるすべはない。そして政党本部書記局の役割はそのために最大限の智慧と労力を発揮することなのである。
 もちろん執行委員長を頂点とする執行部に最大の責任があるが、その執行部を支えるわれわれ裏方が大事なことはいうまでもない。10年間で選挙のなかった年は4年だけだったが、その4年は選挙準備の年であり、政党はまさしく「常在戦場」なのであった。
 その寧日なき闘いがまた始まるのであった。40議席の悲願には到達していないとしても希望の持てるところまで上がってきたのも事実である。希望は失われていないのだ。
 まだまだ長く、政権交代のないいびつな日本政治が続いていく。



<伊藤幸子注:
 党本部の選挙対策に集中して、家のことなど顧みる暇のなかった夫だが、私はちょうど正幸、美香の子育てに夢中であった。最初の頃は夫からの生活資金では足りず、例えばお風呂に行くにも石けんがなかったこともあったほど。そんな時には子供にだけは不自由させないために私は一食抜いた。かなり痩せました。田舎の母が家に来た折など、心配してこっそり小遣いを懐に入れてくれたものです>
<いとうせいこう注:
 父は社会のことで頭がいっぱいであり、それは青年の闘志として美しくもある。だが、母の証言と重ね合わせるとどこか滑稽味も出てくる。不均衡なのだ>


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by seikoitonovel | 2011-05-05 20:19 | 第三小説「思い出すままに」

7-3-2


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  『BLIND』9-3-2

 もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
 疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。「あらはばきランド」本体としては、「レイン・レイン」が水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
 そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
 園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
 僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、「レイン・レイン」のパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
 それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
 ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
 かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。 
 結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、「レイン・レイン」のエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
 スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
 こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。



 9-3-1、9-3-2 報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
 
 
 
 
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by seikoitonovel | 2011-05-03 14:40 | 第一小説