自由 


by seikoitonovel
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6、69年の年末選挙で更に前進・沖縄復帰運動に参加

西村委員長時代の総選挙は69年の年末(12月27日)に行われたが、党は32名の議席を確保した。民社党は第三勢力の地位を確立し、長期腐敗の自民党と反対のための反対勢力社会党という二大勢力による不毛の対決政治を終わらせ、真の議会制民主主義政治を実現する役割を担うこととなったのである。
 西村委員長は委員長就任と同時に自ら団長となって沖縄を訪問、野党党首として初めての訪沖であり、この際の「沖縄の返還は核抜き本土並みとすべし」との提案がやがて国民世論となり、佐藤首相を動かして72年の沖縄本土復帰へと連動したのであった。
 私たち青年党員も毎年「沖縄青年使節団」を組織して復帰運動の一翼をになったが、私は70年に約30名の第5次青年使節団の事務局長(団長・西田八郎衆議員)として訪沖した。この時には台風が襲来し、鹿児島で2日間足止めを食っての船旅であった。西田団長は飛行機で先行してわれわれを那覇港で迎えてくれたものであった。
 民社党の沖縄調査団は第1次から第7次に及び、青年使節団も6次にわたった。
 現地での交流は、当時沖縄の大きな政治勢力であった沖縄社会大衆党の主要幹部と沖縄同盟(海員組合、電力労組、全繊同盟など)の幹部などが中心であった。
 党のこうした沖縄復帰運動は70年に行われた国政参加選挙(復帰の前段で行われた衆議院選挙)で当選した社会大衆党委員長安里積千代氏の民社党国会議員団加入に繋がったのである。



<伊藤幸子注:(前節4-8に付けるべきものとして、母からの原稿が先日届いたので足しておきたい)
 夫の初めての海外出張のときには大変心配でした。自分の身の回りのことが何も出来ない人でしたからです。
 IUSYの国際的な集まりで10日間もオランダの地方でキャンプを張るということでした。私はIUSYという国際組織のことは良く知りませんでしたが、夫にとってはかなり重要なようでした。それに参加する日本代表団の事務局長でしたから、私はただその任務を果たして無事帰ってきて欲しいと祈っていました。
 羽田出発の時には兄邦雄が私と小学一年生の正幸と幼稚園児の美香を見送りに連れていってくれました。
 幸い夫は何の怪我もなく無事帰国しましたが、家族へのお土産は“赤い木靴”ひとつだけでした。夫はそうしたことが大変不得手でしたので土産などは最初から期待してはおりませんでしたので、何も言いませんでした。
 ところが旅行鞄の中から煙草と洋酒がたくさん出てきたのにはいささか驚きました。しかしそれは餞別を下さった仲間などへのお返しだろうと思い、納得したのでした。
 私としては無事帰国出来たことが何よりのお土産だったのです>
<いとうせいこう注:
 私は見送りに行ったことを覚えていない。 
 ただ、“赤い木靴”のことはよく覚えている。それはずいぶん長く家にあった。どうやって遊ぶということもない。たぶん初めは妹にはかせたりしてみたのだろう。だがやがて、靴は私たちには小さくなった。
 にもかかわらず、それは捨てられずに家の中にいつまでもあった。私たちはどこかでそれを特別なものとして扱っていたのである。父の初の外遊の土産だったということを、私たち兄妹はすっかり忘れていた>


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by seikoitonovel | 2011-04-27 16:07 | 第三小説「思い出すままに」

父4-8


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8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊


 統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
 新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
 私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
 私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
 さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
 IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。                                 
 10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
 このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。

追記 西村委員長のこと
 西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
 今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。

   三   訓
 1、己れを捨てよ
 1、反省を忘れるな
 1、最後までねばれ

   五   戒
 1、時間を守れ
 1、言訳はするな
 1、愚痴をこぼすな
 1、陰口をつつしめ
 1、けじめをつけよ

 これは私の座右の銘でもある。
 私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。

<いとうせいこう注
 しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
 だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
 彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
 その母にも今、原稿を書いてもらっている。
 この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>


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by seikoitonovel | 2011-04-10 00:00 | 第三小説「思い出すままに」

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7、続いて統一地方選挙・都知事選対へ派遣さる

 私たちに総選挙の勝利に浸る暇などなく、4月は結党以来2度目の統一選挙であった。この選挙では都道府県議98名、政令市議58名が当選し、地方組織も前進体制を整えつつあった。
 私は東京都知事選に急遽候補者となった松下正寿選対に派遣された。松下先生は私たちが作った核禁会議の初代議長・立教大学総長であり、党とは深い関係にあった。その松下先生に東竜太郎知事引退のあとの駒探しに迷ってすったもんだを繰り返していた自民党が白羽の矢をあて民社に協力を求めてきたのであった。松下先生も相手が社・共推薦の美濃部亮吉ならばと引き受けたのだ。
 保守か社共かまさに天下分け目の戦いとなった。この選挙でマスコミの大半は美濃部に好意的で、最初から松下不利の情勢がつくられていった。私はこの選挙を通じて首都決戦というものの実態のすさまじさを知るのであるが、その一つがスパイ合戦であった。相手陣営にスパイを紛れ込まして相手候補の行動・戦略を自陣営に知らせ,相手の裏をかく。また弱点を握ってそれを針小棒大に宣伝する。また何々地区では選挙違反で何人も調べられている、といったデマを流して活動をにぶらせる、などなど。すさまじいものであった。
 また、自民党の金の使い方にはびっくりさせられた。私のような立場で自民党本部からもオルグが派遣されて來たが、彼の袖机にはいつも札束が用意されていたのである。私たちは金には全く無縁で、熱意と行動の多寡が勝負の基本であったから彼の行動は真に信じられないものであった。ある日、選挙ビラが印刷会社から100万部届けられた。そのビラに一箇所誤字があると指摘するものがあった。すると彼はそのビラ全部の印刷変えを命じたのである。われわれなら一箇所はもとよりかなり目立ったミスでもそのまま使うのであるが、なんと無駄なことを平気するものか、と思ったものである。しかしこの話はこれで終わったのでなく、実は彼と印刷屋はあらかじめ示し合わせていて僅かの部数を誤字にみせかけ、全部数を印刷換えしたこととして、それに見合うニセ印刷費を本部に請求して山分けしていたのであった。
 松下先生は美濃部に敗れたが、翌年の参議院東京地方区選挙で勝利した。


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by seikoitonovel | 2011-04-04 20:15 | 第三小説「思い出すままに」