自由 


by seikoitonovel
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父4-5


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5、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果


 63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
 自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
 江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
 こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
 そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
 また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
 当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
 64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。


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by seikoitonovel | 2011-02-23 23:14 | 第三小説「思い出すままに」

父4-4


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4、党再建の第一歩・63年総選挙


 62年の参議院選挙、63年4月の統一選挙では党再建が始められたばかりであり、参議院選挙は全国区3名、地方区1名の当選に留まって、統一地方選挙も成果は乏しかった。
 私は参議院選挙では古賀専(全国区候補・造船総連会長)の秘書役として加わり、地方選挙では武蔵野市の伊籐重雄さんの参謀として活動した。古賀さんは落選、伊籐さんは当選した。
 党の浮沈は次の総選挙にかけられることとなった。その機会が63年11月巡ってきた。私は選挙中は各候補の健闘ぶりを取材して書き、またしばしば党本部に寝泊りして各選挙区との連絡などにあたった。21日投票、翌22日が開票、この日の興奮はいまでも脳裏に鮮やかである。
 選挙区をしぼり、59候補を擁立した闘いで23名当選、次点者11名。自民283名(13減)社会144名(1減)のなかでわが党だけが5議席増の成果であった。選挙前のマスコミの「5名くらいになってしまうのではないか」の予測を完全に覆したのであった。勝利の喜びの中で開催した全国代表者会議で、西尾委員長は「トンネルを抜け出て原野に頭を出した。暗い谷間から小高い丘に駆け上がったところだ。前がよく見えるようになった。これからだ。全党員心を一つにして次に備えよう」とのべた。
 民社党一本支持で闘った全労は10年の歴史を閉じ、翌64年総同盟と合体して「同盟」を結成、180万組織となり、民間の労働組合数では総評を凌駕するにいたった。民社支持母体はより強化されたのである。


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by seikoitonovel | 2011-02-16 21:56 | 第三小説「思い出すままに」

父4-3


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3、激しい東西対立を背景に・呼び合うこだま運動を組む

 私たちを取り巻いていた諸情勢は一刻たりとも安閑としていることを許さぬものがあった。60年にはベトナム戦争が勃発、61年には東ベルリンの壁(東西ベルリン境界上43キロ)が東ドイツによって構築された。東ドイツから西ドイツへの亡命阻止の壁であった。そして62年キューバ危機発生。キューバにソ連が中距離ミサイルを配置、これに対して米ケネデイ大統領は海上封鎖を宣言してミサイル撤去を要求。まさに一触即発、核戦争まで予測され、世界は固唾をのんだ。
 米・ソの核兵器開発競争も熾烈なものであった。ソ連が61年に49回、米国が62年に60回もの原水爆実験を繰り返したのであった。
 こうした東西対立が日本国内に持ち込まれ、60年の安保改定には左翼陣営が総動員体制で闘いを組んだ。国会周辺には連日数万が動員されて騒然たるものであった。そして全学連のデモ隊が国会正面玄関を突破、警備隊との押し合いのなかで東大生樺美智子さんが押しつぶされて死亡。安保改定案は自民党の単独多数で成立していくが、岸内閣は総辞職に追い込まれる。
 また62年の原水爆禁止世界大会は大会中にソ連が核実験を行うが、共産党勢力はこれを無視、対して日青協(日本青年団協議会)、地婦連(地方婦人団体連合会)などが「いかなる国の核実験にも反対すべきだ」と抗議して退場。原水協は分裂してゆく。
 こうした情勢のなかでの民社党勢力の復活には幾多の障害があった。しかし共産主義陣営のこれ以上の勢力拡大を許すわけにいかないとの私たちの思いには切羽詰ったものがあった。
 その思いの中で、全労の青年婦人部の仲間たちと私たちが起こした運動のひとつが「呼び合うこだま運動」であった。この運動は当時、共産党の「民青」が集団就職で都会に出てきて孤独に陥りやすい青年男女を巧みに誘導し、「歌って、踊って……」の遊びに参加させて民青会員(共産党員)にしていくという活動が全労の青年婦人活動を脅かしつつあったのに対抗するためのものであった。
 全労のなかから、民青に対抗して真の文化運動を起こそうとの動きが起こって「全国勤労者文化協会」(全文協)がつくられ、どのような活動をやるか模索しており、私たちにその案づくりの相談が持ちかけられたのである。ちょうど民社青連は2年目の活動として蓼科高原キャンプ大会を目論んでいた。私の親戚が長野県茅野市奥蓼科の持山を利用して「みどり山荘」というキャンプ場を経営していたので、私の提案で計画したものであった。
 この計画を全文協で持ち出したところ、この際友好団体が互いに協力しあって一つの行事としたらどうかということになり、全文協、全労青婦、民社青連に加え青学会議、日本婦人教室,海友婦人会、民社研で実行委員会を組織し、「第一回呼び合うこだま働く者の山の集い」が開催されたのである。全体として400余名が参加、大成功であった。
 集いの趣向も青年らしい創造的なものだった。まず集まってきた青年-婦人たちの”自治村“という想定で村三役として村長赤松常子(日婦)、助役伊籐郁男、収入役船田登美(日婦)、公安委員長綿引伊好(全文協)をおき、バンガロー毎に参加団体が自由な集落名をつけた。民社青連はこれから育つという意味から「ひよっこ部落」と命名した。グループ活動は絵画、彫刻、和歌、詩、コーラス、盆踊り、フォークダンスなど。夜はキャンプファイヤーを囲み、夜空に二十発の花火を打ち上げた。この花火は長野の私の仲間のサービスであった。
 この集いの成功によって、呼び合うこだま運動は各地域に急速に広がってゆき、やがて各産別の青年婦人行事のひとつとして定着していったのである。
 そして、この年は夏に民社・全労が中心となって「核兵器禁止・平和建設国民大会」を開催、10月に「核禁会議」を結成(前述)、私は事務局次長となり、以後今日まで核兵器禁止運動を続けることとなる。

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by seikoitonovel | 2011-02-11 11:22 | 第三小説「思い出すままに」

父4-2


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2、党機関紙記者と青年組織の活動家として


 既に記したように、私は右派社会党中央機関紙『日本社会新聞』の記者としての活動とともに民主社会主義青年同盟の一員として活動、東京民社青同事務局長にも選出されたが、民社党の結党と同時に日本社会新聞は「旬刊社会新聞」と名を変えて民社党中央機関紙となった。私は引き続きその記者として採用された。そして身分は民社党書記局員となった。それまでは書記局員の身分でなかったから党に縛られずに自由に活動できたのだが、これからはそういうわけにもゆくまいとは思いつつも思う存分「総評批判」が出きる喜びがあった。
 青年活動の分野では、民社党結党の翌日に「民主社会主義青年連合」(民社青同の名称を民社青連と変えた)を結成。初代事務局長となった。会長には海員組合の小川純一氏が選ばれた。 
 私たちは民社党全面支援の活動を展開した。活動資金は海員組合長中地熊三さんが「これからは青年が頑張らねば」となんの条件もつけずに出してくれた。その額は月30万円という多額であった。(いまならどの位の金額になるだろうか。それを惜しみも無く出してくれるこのような怪物が当時はいたのである)。このため私たちは民社党本部事務所(森ビル)の地下1階に事務所を設置し、3名の専従者を配置することができた。組織作りは順調に推移し、岡山民社青連の会長生末敏夫君は民社党の衆院議員候補者に選出された。
 こうした私たちの希望に満ちた活動が始まったばかりの、緒戦の総選挙で民社党は大敗北したのであるが、私たちもくじけてはいなかったのである。私たちは「民社党に投票してくれた350万人の期待にこたえねばならない」との意思固めと同時に党外青年への一層の宣伝活動の活発化を誓ったのである。


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by seikoitonovel | 2011-02-09 12:36 | 第三小説「思い出すままに」

7-2


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    『BLIND』9-2

 ヘレン・フェレイラは黄金色の髪をした長身のアメリカ人女性で、我々の中では執拗なほど細かい聞き取りをする調査員として有名だし、パリで数年間カール・ラガーフェルドのフィッティングモデルをつとめていたという異色の経歴の持ち主だが、御存知のように彼女もまた、その日の遠野美和による5回に及ぶ通話を克明に記録している。
 一回目の時刻はもう我々がそらで言えるはずの、午前8時46分である。
 二回目は切ってすぐ。美和は目当てのパン屋に電話がつながっていないと考え、その理由がわからず不安になり、もしかするとテープの中で店名を言っていたのを聞き逃したのかもしれないと思い直しながらも、すでにその時点で例の音楽の、海底をたゆたう藻のような揺れや曇天の下の群衆のざわめきに似たくぐもりをかなり正確にとらえていたと言われている。
 その証拠にとヘレンは、美和が通話時に開いていたノートの隅に描かれた意味不明な、もじゃもじゃした、西部劇などで風に吹かれて地を転がってくる枯れ枝の塊のような図を添付している。それは一回目の電話と二回目の電話の間に描かれたいたずら書きとされているのだが、『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』分科会において、ヘレンはボールペンの赤インクの跡が、件の曲のキーボードの音の高低に完全に一致していると抑制的な声で主張し、それもひとえに驚異的なリスニング能力、表現力ゆえだと称賛した。美和=超人説も我々の中に絶えないが、ヘレン・フェレイラはその説をとる最右翼の人物だろう。
 ともかく、美和は数分のち、リダイアル機能を使うことなく番号を入力し直した。押し間違いの可能性を考慮したからだが、かといってノートを再確認することはしなかった。
 呼び出し音が切り替わると、またあの音楽が押し寄せてきた。南国の湿気のような、心地よい疲れのような、あの音楽。クリーム色の竜巻がスローモーションになって見えた、と美和は言っている。これはヘレン・フェレイラ以外の調査員も一様にレポートに書き込んでいる言葉だ。
“絶えず空気が上昇する竜巻の中で”、美和はこの曲を聞いたことがある、と思った。けれどそれがどんな歌手の、なんという曲かを自分は教えてもらっているだろうか。はっきりとは思い出せないが、私は知りたがったはずだ。曲の名がわからないように、襲いかかる寂しさにも美和は名前がつけられなかった。
 すると、靄の奥から、くぐもった男の声が聞こえた。
 はい、華島徹です。
 美和はうろたえた。そして、間違い電話をしたのだとはっきり認識した。
 ただ今留守にしています。
 ではこの人にも曲名を聞くことが出来ないのだな、と美和は奇妙な感慨を抱いたという。と同時に、見知らぬ人の家に呼び出し音を響かせたことに怖れを感じもした。21世紀の現在においてさえ、間違い電話には奇妙な罪悪感がつきまとう。いや、“罰せられるのではないか”という反射的な怖れというべきだろうか。けれど、途中で切ることも美和には出来なかった。その方が罪が重いと思った彼女は、罰を受けるように録音テープの声に耳を澄ました。
 ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
 謝罪の言葉が出かかった。しかし、美和がとどまったのは、自分がすぐにもう一度電話をするとわかったからだった。
 次で必ず、記憶を呼び起こしてみせる。美和はそう考えながら子機2の『切』ボタンを押し、今度はリダイアルの機能を使った。その瞬間、あえて間違い電話をかけるという次元の違う行為に美和は足を踏み入れたことになる。
 ヘレン・フェレイラは、三度目の電話のあとの遠野美和の落胆を想像してみるよう、レポートの読者に訴えている。もやもやはいっそう増し、罪の意識も“出来あがったソーセージを羊の腸でもう一度包むように” 厚くなった。
 美和はいったん階下に降り、電話帳で番号を確認し直した。写し間違いの事実は、記憶をたどれなかった敗北感とともに彼女を打った。美和はその場で親機を使い、開店直後のパン屋『デルスウザーラ』に電話をすると、一方的に酵母の話をして店員をとまどわせたという。「あの時、美和の話していたアイデアは画期的でした。酵母を進化させるんじゃなくて……ちょっと今はくわしく言えないんですが、私は発想を盗まれてしまうんじゃないかと心配で、キッチンから飛び出しそうになったほどです。幸運なことに、相手が酵母の知識のないアルバイトの男の子だったようで、美和もあきらめて電話を切りました」(遠野壮子)。
 壮子によれば、それから夕方まで二人は基本的に、一階のリビングルームにいた。掃除も洗濯も久しぶりに一緒にしたのだが、美和は考えごとにふける様子で、時おりテレビを置いたチーク材の幅広い棚からアナログレコードを引っ張り出しては、それに針を落として聴いたという。美和自身は物心つく頃からCDにしか触れていなかったから、そのほとんどが父の太一
の残していった所有物で、壮子が言うには “アジアの民族音楽やロシア聖教の音楽コレクションがたくさんあるのに、娘は俗な音楽ばかり選んで少しずつかけてやめ、せっかく掃除した部屋を絶えず埃臭くした”のだそうだ。
 四回目と五回目の電話は、姉の香の帰宅を待った夕食後、それも明らかに壮子の入浴時を狙った21時過ぎに行われた。それは姉の“やましい電話ではないかと感じた”という証言でもわかる。美和は壮子の監視をさけるように、母親がバスルームに入るのを待って二階に上がったのだった。
 若い方々はもう御存知ないだろう。子機の通話は親機のボタンの緑色の点滅で必ず確認出来た。かつて一家に一台の電話が当たり前の時代があり、誰がいつ使っているのかを家族はお互い暗黙のうちに知っていたのである。
 もしもつながったら切るつもりだった、と美和本人は言っている。音楽のことを思い出しているうちに、徹の言葉と声の記憶を何度もなぞるようになったのだ、とも。

 

 
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by seikoitonovel | 2011-02-06 21:36 | 第一小説

父4-1


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まず党の再建に全力投球・惨敗にめげず


 民社党が最初に迎えた1960年(S35)11月の総選挙は予期せぬ惨敗であったが、私の東京都議会補欠選挙への挑戦が示しているように同志たちの闘志は健在であった。マスコミの一部には民社党の前途を悲観的にみるのもあったが、私たちは必ず立ち直ってみせると意気軒昂であった。
 敗北の原因は社会党浅沼委員長が日比谷公会堂で演説中右翼青年に刺殺されるという不幸な事件によるものであって、民社党の思想・信条が国民に否定されたものではないと信じていたからであった。また民社党の結党を支持し選挙を全面支援した最大の支持団体全労はより強力な体制で民社再建を約束した。
 民社党の本部には有識者の多くから激励の声が続々寄せられてきた。尾崎士郎は「私は民社党に好意を持っていました。意外に負けたので、これではいかん。本当に積極的に支持する気持ちになった」と語った。そして徳川夢声、平林たい子、唐島基智三,矢部貞治,菊田一夫、竹山道雄、佐古純一郎、蝋山政道らの学者・文化人が発記人となって「民社党を励ます会」を開いた。
 とくに私たちに大きな勇気を与えてくれたのは次の菊田一夫の「民社党におくる」と題した詩であった。


 庶民は政治というものを知らない
 庶民は春の陽炎のなかに
 いつも睡たげな眼をして
 のどかに暮らしていればいいものだから……

 政治が悪いとき
 乱暴者が世にはびこるとき
 庶民は ひょいと眼をさます
 政治はどうなっているだろう
 政治とは中庸の道ではないかしら
 古すぎては困り
 激しすぎては世の中がひっくりかえる
 その中庸の道も
 世につれて進んでゆく

 政治は常に 世間より
 一歩進んでよい加減
 二歩進めば怪我人がでる
 ……といって
 退歩すれば
 支持というローラーにひきつぶされて死ぬ人も出る
 民主社会党は中道の政党        
 中庸とは昼寝をしていることではない 
 政党が庶民のせっかくの特権を奪ってはならない
 日本人は中庸を好む国民だ
 自分個人の人生には
 いつも中庸の道を選んでいる

 そのくせ……
 他人様を批判するときは
 いつも 前か後ろか 右か左か 赤いか白いか……
 それは……
 自分個人の道を選ぶ道が 
 勇気のない卑怯さからの中庸の道だからである
 自分自身に勇気がないから
 他人様に 激しさ古さ 右か左かをもとめるのだろう
  
 激しさには喝采が与えらえる
 古さと頑迷には老人達の拍手がおくられる
 意気地なしと言われながら
 中庸の道を選ぶには
 勇気がいる

 民主社会党よ
 日本国を
 我々の国を
 正しい軌道に進めるための
 激しい闘いを起こしたまえ
 
 国民は一億
 ほんとうは みんな
 破壊主義でない 
 頑迷でない
 ほんとうの民主主義
 新しい道が
 好きなのです


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by seikoitonovel | 2011-02-01 20:53 | 第三小説「思い出すままに」