自由 


by seikoitonovel
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<   2009年 07月 ( 6 )   > この月の画像一覧

父3-1


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正幸誕生-1


 民社党の結党・民社青連の結成・結婚・都議補欠選挙への立候補と慌ただしかった35年が明けて、久し振りに三鷹の新居での穏やかな正月を迎えた。
 この新居は吉祥寺駅から井の頭線で二つ目の三鷹台駅から歩いて5分のところの2階家で、その2階の6畳間であった。幸子は料理が得意で毎晩おいしいものを作ってくれた。独身時代には味わうことのなかった物ばかりで、うまいうまいを連発して食っていた。もちろん酒は欠かさなかった。たちまち太っていくのが実感された。
 この時点で幸子はすでに妊娠7カ月目を迎えていた。7カ月を迎えても幸子のつわり症状はまだ続いていて苦しそうだった。そのこともあり、幸子は2月に入ってから今井の実家にお産のために里帰りした。私としても安心であった。
 ただ、大家さんの言うのには子供ができたら別の家に引っ越して欲しいとの事であった。慌てて家探しを始めた。幸子には帰ってくるまでには探しておくからと約束した。一軒家を不動産屋で探し始めたところ、三鷹市牟礼というところに新築の貸家があるという。早速出掛けてみると、6畳と4畳だけのこぢんまりした家が6軒建っていた。そのなかで道路に近い家を借りた。このことを連絡すると幸子から「引っ越しの時は姉の愛に手伝ってもらって」との事であった。愛さんはそのころ帝人に勤めていて、都内の中野に住んでいた。この愛さんのおかげで引っ越しはスムースに行われ、幸子と「正幸」を待つばかりとなった。
 3月19日、朝から雪まじりの雨が降る寒い日であった。昼過ぎ「生まれた」と電報がきた。私は列車に飛び乗るようにして今井へ急いだ。母子共に元気そうであった。その姿をみて安心し、2日後、諏訪の実家に寄って報告し、再び帰京した。
 子の名前は私が双方の父親の名前の一字を貰うこととして、幸子の父親の政司の「政」と私の父の友幸の「幸」から「政幸」としたが、もっと簡略な字にと思い、政を「正」としてみた。こうすると左右対象に近くなり、簡便でかつ座りがいい、と自分で勝手に納得した。
 だが、これを「まさゆき」と呼称したのでは面白くないなあと感じたのである。それには理由があった。青年運動の仲間に「古田政行」(ふるたまさゆき)という、口下手で酒が入ると愚痴ばかりいう酒乱気味な男がいたのである。そこで正幸をまさゆきと呼ばず「せいこう」と呼ぶことにした。「まさゆき」より、このほうがなんとなく響きがよかった。


<いとうせいこう注
 私は三鷹市牟礼にまったく思い出がない。
 自分が西東京にいたことが、長らく下町に住み慣れていると不思議で仕方がない。
 さて、私は自分の名「正幸」が、「まさゆき」でなく「せいこう」であることで子供の頃によく笑われた。今の私の通り名がひらがなであるのは、漢字で書いてあれば誰も正確に読んではくれず、訂正するのも面倒だとあきらめたからである。
 一度、中学生だったか高校生くらいの時だったか、母に自分はなんでこんな名前になってしまったのかと問いつめると、母は洗濯物をタンスにしまいながら、「お父さんが選挙のときに呼びやすいようにって言ってた気がするけど」と答えた。私は選挙に出る未来を勝手に予定されていたことに、非常に奇妙な感じがして吹き出したように記憶している。父は私に何かを強制したことがなかったから、私は初めて父の沈黙のうちでの希望を理解した気がしたのだ。
 その名付けが今回、実は「酒乱の友人」との区別をつけるためだと判明した。これは父が一度も話してくれたことのない事実である。
 そして、「このほうがなんとなく響きがよかった」のだそうだ。
 「なんとなく」……>


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by seikoitonovel | 2009-07-29 11:53 | 第三小説「思い出すままに」

父2-6


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都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-2

 ところがである。都議選告示の日の朝、まだベッドの中の私の耳に選挙カーのマイクの声が聞こえてきた。どうやら「伊藤云々」と聞こえる。そして、その声がだんだん近くなってくるうちにはっきり「こちらは民社党から立候補しました伊藤郁男です」と聞こえてきたのであった。これにはびっくりした。ベッドからとび跳ねて起き上がると、宣伝カーが病院の前に止まり、吉田君が病室に飛び込んできた。
「伊藤さん、申し訳ないがお聞きの通りとなった。病院でこのまま寝ていてくれて結構です。同志みんなで代わりを勤めますから」との事で、私もこれにはただ呆れるばかり、しかし成り行きに身を任せることとなった。
 党本部の仲間が連日、入れ替わり立ち替わり宣伝カーに乗って、私の名前を連呼して回っているようだった。ところが同志達が次々と病室にやってきて、「毎日伊藤なる人物が変わっていたのでは、本物はどれか、ということになる。有権者に対する冒涜だ」、「私が伊藤ですとやっているが、どうしても力が入らない」などと言う。
 中には見舞いの酒だと一升瓶を持ってきて、これを飲めという者もいた。肝臓病に一番悪いことは分かっているはずだが、「これを飲んでくたばったら奥さんを身代わりに立てる。そうしたら当選だ」と言う。こういう乱暴な奴までやってきたのである。
 約束と大分ちがうじゃないかと思いつつ、私も覚悟して5日目から街頭に出た。朝8時から12時、午後1時から5時まで街頭に出、最後には私から社会党候補に申し込んで都議選では初めての立会い演説会を実現させた。この立会いで私は「麦は踏まれて強くなる。民社党は今苦境にあるがやがて必ず大きくなる」と胸をはった。
 いずれにしろ、入院しながら選挙をやったのは私が最初で最後であった。選挙の結果は惨敗だった。しごく当然の結果というべきであった。
 S35年の政治混乱期とはいえ、いかにも馬鹿らしい無茶をやったものだと思う。自分が選択した民社の思想・理念への確信、何としてもこの党を消滅させてはならぬとの情熱が、こんなことに走らせた要因である。


<『私のつぶやき』3 伊藤幸子
 「夫の都議会議員選挙の時のことについて 2」
 とうとう立候補したのですが、ある時夫の街頭演説を聞いておりましたら、遠くの方から別の宣伝カーで「民社党の伊藤郁男をよろしくお願いします」と言って下さっている声が聞こえてきました。不思議に思いました。調べてみましたら、その声は前浅沼稲次郎社会党委員長の奥様のお声でした。
 奥様は社会党の候補者の応援に来ておられたとのことでした。あとで問題になったと伺いました。
 浅沼社会党委員長様とは、夫が右派社会党の機関誌に勤務している時に大変お世話になったと聞いておりましたし、私たちの結婚の時には記念品として大理石の置時計を頂戴しました。そんな関係で委員長様の奥様とはお逢いしておりましたから、夫を見て心配のあまり遂に口に出してしまわれたのではないかと思います。
 
 数日後に夫の入院している病室に行きましたら、夫がおりません。30分位待っても帰ってきません。病院の係りの方に伺ってみましたが、全く分からないという返事でした。
 私は先日の札束の件がありましたので、大変不吉な予感に襲われました。もしかしたらと悪い方に考え、胸の動悸は激しくなるし、息苦しくなってしまい、いろいろ考えました。最悪の時には実家に戻ろうと思い、心を落ち着かせようとしました。
 それから1時間以上たっていたと思います。夫が晴々とした顔をして戻って来ました。聞くと、床屋さんに行って来たとのことでした。私は少々頭にきましたが、無事だからよかったと何も言いませんでした。
 あの時夫にもしもの事があったとしたら、長男(正幸)、長女(美香)と巡りあうことはありませんでした。>

<いとうせいこう注
 父・郁男の最初の選挙戦はデタラメであった。
 それでよかった時代を、今は懐かしむのみである。
 デタラメのうちには、母の証言にあるように、情によって敵に塩を送った浅沼稲次郎夫人の例も入っている。
 さて、今回も写真をつける。
 父の選挙事務所。
 父本人が乗る選挙カー。
 そして、父の立候補姿。
 母が並んで立っている。
 写っていないだけで、私はすでにいる>

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by seikoitonovel | 2009-07-24 22:38 | 第三小説「思い出すままに」

6-3


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       『BLIND』-8

 例えば、21世紀の明日生まれる子供は、「子機」という存在になんの思い入れも持たずに育つはずだ。彼らは思春期に至る以前に、個人的な通話のすべてを自分専用の携帯電話で行い始めるだろうからである。
 かつて子機は家族からの情報上の自立を象徴し、同時に家族からの微温的な監視をも暗示していた。つまり、「子機」はまさに家族と密接につながったメディアだったのであり、我々はその懐かしさを知る最後の世代なのに違いない。
 その朝、美和もまた子機を持ち、二階の自室に上がったのである。母・壮子が買った純白の留守番電話機セットには、もともと子機1しか付属していなかった。が、長電話のためだろう、壮子は子機2も追加購入し、1を自分専用として自室に置いたのだった。したがって、美和が使用したのは子機のうち、2の方である。
 美和は酵母について徹底的に学んでおくようにと、洞窟コーポレーション社長・黒岩茂助(62)から直接、厳命を受けていた。新しいパンのためには、まず新しい酵母をという先駆者的発想を、遠い目をした黒岩は濃いヒゲの下から低い声で朗々と語ったという。
 感激した美和はある限りの関係書籍を図書館から借りて読み、自宅でもパン生地の発酵を何度か試すうち、前日の昼間、数種類の酵母でパンを焼く店がトーキョーにあると、買い物から帰った壮子が言い出した。商店街でかかっていたFMラジオの番組(『モーニング・デュー』)で紹介されていたのだそうだ。壮子はそらで店の名前を覚えていた。
 美和は即座に、ぶ厚い電話帳から店の番号を見つけ出した。話を聞きに行くしかあるまいと美和は決意していた。誰も使ったことのない酵母でふくらんだパンについて、美和はすでに夢のような構想を、まさに発酵前のパン生地のごとく練っていたからであった。応接間のテーブルの上で、美和は9ケタの電話番号を『酵母ノート』に書き写した。このとき、右から二番目の数字を写し間違えていなければ(3であるべきところが5になっていた)、この長いレポートは生まれていない。
 本当は開店時間である午前9時きっかりに、調べた番号を押すつもりだった。だが、自室の机にノートを開き、子供の頃から使っている木の椅子に座ると気がはやった。営業日か否かも心配だったと美和は証言している。だから美和は相手が出るかどうかだけをまず確かめるために、電話をかけた。インターネットが出現する以前には、こうした行動は一般的にあり得た。
 相手が出た途端に切るつもりでかける電話は、当然かけ手に罪悪感を与える。03から始まる番号をプッシュしながら、美和は冷たい子機2を耳に押しつけて息を詰めた。
 コールは5回だったと美和は言っている。チャッという舌打ちのような音がして、美和の心臓ははね上がった。すると耳への圧力が変わり、速度の一定でないうねりが聞こえてきた。それが音楽であり、留守番電話につながったのだとわかるまでにわずかな時間がかかった。店が休みなのかもしれないと思う以前に、その音楽に聞き覚えがあることが美和を強くとらえた。甘く翳りのあるメロディだった。確かに自分はその曲を知っていた。だが、タイトルが出てこない。そのメロディにまつわる風景が、美和には思い出せなかった。
 はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
 数秒の音楽に続くメッセージを、美和はほとんど聞き逃した。1994年3月10日、午前8時46分の通話はそのまま終わった。
 園田吉郎が華島徹に譲り渡した古い留守番電話のテープには、したがって何も残らなかった。このMEISON製の初期型留守番電話KL-B200がなぜ、園田から華島に手渡されたのかはまたのちに語ることにして、我々はまずここで、美和をとらえた音楽について報告しておきたい。
 華島徹によって確認されたところによれば、それは紛れもなく『just the two of us』という1980年のヒットソングであった(グローヴァー・ワシントンJRのアルバム『ワインライト』収録)。ちなみに、本曲をBGMに使うようにと華島に古いカセットテープを渡したのはやはり園田吉郎で、そのため音の速度が一定でなく、美和を迷わせたことになる。
 歌詞が二人にとって大変予言的なので、一部をここに掲載しておく。

 透明な雨粒が落ちていく
 そして美しいことに
 太陽の光がやがて
 僕の心に虹を作る
 時々君を思う時にも
 一緒にいたい時にも

 二人きり
 二人きりでいればかなう
 僕ら二人でいれば
 砂上に楼閣を築きあげて
 たった二人
 君と僕             
             (日本語訳・佐治真澄)




  
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by seikoitonovel | 2009-07-18 20:57 | 第一小説

父2-5


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都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-1


 35年1月24日の民社党の結党は大変な反響を呼び、新党ブームが起こった。社会党が内部抗争もさることながら院内闘争での審議拒否、暴力による抵抗戦術など、議会制民主主義に反する行動に終始したからであった。
「議会は論戦の場であり、審議拒否などの戦術はとらない。審議を通じて考え方を広く国民に伝え、次の選挙で国民審判を受ける。それが多数を獲得する道である」とする民社党の主張に期待感が膨れ上がったのである。当時のマスコミの大半は「これで日本も健全なる2大政党時代が来る」と評価したものであった。入党者もうなぎのぼりに増え、一時は8万名に達した。池田内閣が解散で国民の信を問うことが予想され、党の衆議院選挙体制は急ピッチですすみ、130の選挙区のほとんどで候補者が揃ったのである。
 ところが日比谷公会堂で開催の自・社・民社3党立会演説会で、社会党浅沼委員長が右翼愛国党の暴漢に壇上で刺殺された事件を契機として社会党への同情が集まり、11月20日に行われた総選挙の結果は自民296、社会145となり、民社は17名に止まった。選挙前40議席だったから惨敗であった。この選挙で私たちが住んでいた東京7区でも北条秀一先生が落選した。
 このあとで私に突然難題が降りかかってきた。三鷹市で東京都議会議員をしていた社会党の田山東虎氏が、この総選挙の直前に都議を辞任して郷里茨城の衆議院候補者となった。三鷹市の都議の定員は1人のため、総選挙後に都議の補欠選挙が行われることとなり、私がその選挙の候補者としてにわかに浮上してきたのである。
 北条先生は剛気の人であり、「民社党が大惨敗を喫したこの時こそ、民社党のど根性を見せるときだ。民社党は死なない。そのためにはこの都議補欠選挙に候補者を立てて戦うことだ」と主張した。落選の悲哀を味わったばかりのこの北条先生の気合いに反対できる者はいず、「そうだ、そうだ」と同意するものばかりであったが、ではだれを候補者にするかが大問題となった。
 三鷹総支部長をはじめ数人の名前が上がったが、引き受けようという者は出てこない。私は総支部書記長ではあったが、三鷹の住民になったばかりで友人、知人はおろか知名度もゼロに近い。出ても勝てる要素は何もない。しかし、党本部書記局員であり、北条先生の考え方にも大賛成。頼まれたらむげに断れない立場であった。
 切羽詰まった段階でついに私に白羽の矢が立てられた。私は結党─結婚─総選挙と続いて疲れ果てていたし、何よりもこの時点で妻幸子が4カ月の身重であった。断りたいというのが本音であった。それにはどうすればいいか。体調を理由にする以外にないと考えて野村病院で診察を受けた。慈恵医大の先生の回診日で、この先生の診断は「肝臓が腫れている。選挙などやったら命は保証出来ない。すぐ入院だ」という。私はその通りに直ちに入院の手続きをとり、総支部の吉田君(党本部機関誌局の後輩)に連絡し、幸子への連絡を依頼した。
 吉田君からの伝言をうけた幸子は仰天したらしい。幸子は事のいきさつは何も知らない、いきなり夫がなんの病気で入院したのか、大変なことになったと思ったらしい。入院に必要な最低のものを用意して駆け付けてきたのであった。
 これで私の立候補は無くなったと思って、医者の指示に忠実に従った。毎朝太い注射管で葡萄糖注射を打たれた。
 

<『私のつぶやき』2 伊藤幸子
 「夫の都議会議員選挙の時のことについて 1」
 私は全く無視された出来事でした。
 報告があった時、ただただ驚くばかりで、何も言えませんでした。
 結婚したからには夫に協力するのが妻の役目としか考えられず、覚悟したつもりでおりましたが、腑に落ちないことばかりでした。
 夫は総選挙活動の疲れから入院せざるを得なくなったのですが、入院している病室に立派な方がお見えになったので、夫は立候補をお断りすることになったことをお伝えしました。するとその方がいきなり「面子を潰された」と百万円の札束を机の上に叩きつけられました。私はその時、五ヶ月の身重でしたので驚きのあまり立てなくなったように覚えております>

<いとうせいこう注
 この時、「腑に落ちないことばかり」の母の腹の中にいたのが私なのであった>


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by seikoitonovel | 2009-07-11 22:44 | 第三小説「思い出すままに」

父2-4


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私の結婚2


 帰京して邦雄氏に報告し、異存のないことを伝えた。それから暫くして邦雄氏から「幸子もいいと言っている」との返事があった。私は早速、結婚の日取りの検討に取り掛かる。民社党の結党(S35年1月24日)があって忙しかったので、すこし落ち着いてからと思い、5月中にと決めた。
 早速日本青年館に出向いたが、大安の日などはまったくふさがっていた。当時は結婚式・披露宴の会場は足場がよく、料金も安いこの日本青年館に人気があった。私もそこで結婚式をやろうと決めていたのだが、吉日はなかなか取れない。そんな時、係が「仏滅の日なら空いていますよ」という。冗談のつもりでいったのだろうが、私はこれにすぐに反応した。「俺は革新運動をやっている現代青年だ。大安とか仏滅などという旧来の慣習にこだわる必要もなかろう。仏滅の結婚式も話題性があっていいかもしれない」というわけで、5月31日(日曜日、仏滅)に決めたのであった。
 日と会場がきまれば最大の難問は誰に仲人になってもらうかであった。私は日本社会新聞の編集長山崎宏さんなら引き受けてくれるだろうと思い、相談した。すると山崎編集長は「西尾(末広)委員長がいいではないか。よかったら俺から頼んでやろう」とのこと。私にとって西尾委員長は私が尊敬する第一の人であり、私はこの人の思想と行動に共鳴して民社党を選択したのである。それまでにこの人の演説や文章に触発されてきたが、言葉を交わしたことはない。私のような一介の書記局員の仲人など引き受けてはくれまいと思ったが、「頼んでくれるだけで光栄です」と返事した。1週間もたたないうちに山崎編集長から「西尾先生がいいよと言っている」という連絡があった。私は感激した。
 山崎編集長は大島出身・東大をでて、戦後に出来た社会党内閣官房秘書官となった人。西尾官房長官時代の発言や文章は山崎さんの草案によるものが多かった。こうした強い繋がりによって西尾先生が仲人を引き受けてくれたのであった。
 3月のはじめに結婚式の案内状を島書記局長をはじめ今まで交友のあった仲間に送った。ところが、すっかり準備が整った段階で邦雄氏から「どうも幸子がこの結婚を断ってくれと言ってきている。結婚式など勝手に決めてくれても出席しないと言っているようだ」とのこと。
 これには愕然とした。案内状は送付ずみ、その案内状には「西尾末広御夫妻の媒酌によって」と記されている。なんとしても幸子を説得してもらう以外ない。邦雄氏に「こうなったら、とにかく出席してもらうだけでいいから」と懇願した。
 その後邦雄氏がどのように説得したかは知る由も無かったが「出席だけはさせるようにしたから」と返事があり、なんとか結婚式を済ますことができた。伊藤家からは父が、高木家からは両親が出席された。
 披露宴では渡辺朗さん(当時、党の国際局事務局長。後に代議士・浜松市長を歴任)が司会をひきうけてくれ、出席者も100人を超え、賑やかであった。披露宴が済むと党総務局阿部君運転の党の乗用車で東京駅まで送ってもらった。2日間の新婚旅行が組んであり、初日は箱根の小湧園、2日目は伊豆長岡の菊池旅館であった。この新婚旅行の費用は党書記局の仲間がカンパでまかなった。幸子は東京駅で列車に乗ってから覚悟を定めたようであった。
 こうして私たちの新婚生活がはじまった。
 最初の新居は三鷹市であった。


<いとうせいこう注
 淡々と書いてあるので見過ごしがちだが、父はデタラメである。
 母の都合も聞かずに式場を決め、日取りを仏滅にして「現代青年」を気取っている。
 これは父のせいではないが、そもそも母の結婚への意思はあやまって伝えられたらしい。
 母は話が勝手に決まっていると聞いて驚愕した。
 だからあわてて「この結婚を断ってくれ」と彼女の兄に伝えた。
 すると「(式に)出席してもらうだけでいいから」と父は懇願した。
 そして出席した母を、父は新婚旅行に連れていってしまった。
 これは略奪婚、と言ってもいいのではないか。

 母はどう証言するだろう。
 彼女が書いてくれた文章を以下に付す>


<『私のつぶやき』1(伊藤幸子)
「私の結婚のことについて」
 私の家は田舎の旧家でした。父は平凡なサラリーマン(特定郵便局長)をしておりました。 
 だから私はごく普通の家庭に育ったとおもいます。独身時代には5、6種のお稽古事をしながらのんびりすごしていました。
 したがって、縁談のお相手が政治活動をしている人だと聞いただけで、そんな人と添い遂げることなど自信がもてませんでした。私はあまり派手好みではありませんでしたし、都会の生活も不安でした。だから、すぐお断りしたのでした。
 ところが、兄たちに「縁というものは理屈でははかりきれないものだよ」などなど何度も説得されました。
 考えあぐんだ末、結婚を決意した次第です>


<いとうせいこう注
 やはり、これはほとんど略奪婚だ。
 そして、母が略奪される瞬間の写真が、先日実家で見つかったのである。
 箱根に向かう列車はまだ走り出していない>


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by seikoitonovel | 2009-07-06 13:05 | 第三小説「思い出すままに」

6-2


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『BLIND』-7

 その美和の能力によれば、彼女の母・壮子が、生まれ育った桐生市の友人らと共に『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』に関わり始めたのが、父・太一の失踪のちょうど7日前であった。壮子はその蒸し暑い日(1990年7月7日)の夜、彼女自身の証言では、出身校である桐生第三女子高等学校の同級生・花房由香里(『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』副会長)と二時間ほど「珍しく」長電話をした。
「珍しく」、と付け加えたのは壮子自身だが、ある時期から彼女の通話は常に長かったと美和は言っているし、姉・香もそれには完全に同意している。そして、その“ある時期”は、太一が50歳を過ぎて職を失った頃とぴったり重なる。
 それまで勤めていた会社は、壮子の父・数一が興した地方の代理店であり、太一はなんの手柄がなくても事業を継承することが内々に決まっていた。だが、太一は突然、社に退職願を出した。もちろん、“突然”と見たのは周囲の人間であり、太一は入社以来四半世紀、その日を予感し続けたのかもしれない。娘たちの名前が奈良の山からとられている理由を含め、太一に関する調査報告はのちの章に譲ることにして、レポートを先に進める。
 当時、壮子は自分の父とも、取引先の地方財閥の重鎮とも、社の株主たちとも電話で長い話をした。おそらく、この件に関しては太一とこそ最も会話をしていなかったのではないか。結果、壮子は父の財産であるマンションを二棟譲り受け、その家賃を運用することで遠野家の経済をまかなっていくこととなった。
 さて、1990年7月7日午後10時過ぎ、壮子は長い通話のあと、自分が養っている家族全員を居間に招集し、七夕は棚機とも書き、織物の文化と密接に結びついているというエピソードから始めて、桐生市の役場がオリヒメ市にあることを皆に思い出させたのち(オリヒメは7月7日を象徴する女神であり、一年に一度この日が晴れなければ愛する男神と邂逅出来ないという、遠距離恋愛の代表者でもある)、シロ玉という桐生特有のカイコが戦後十数年の間にいかに貴重で神秘的な絹を作り出したか、それがひいては貧しかった日本の産業の礎を築き、復興の役に立ったかについて滔々と熱弁をふるった。
 だが、シロ玉はウィルスに弱かった。他品種の輸入、交配を経て、かの美しい種は一気に絶滅した。あたしは、そのシロ玉をもう一度この桐生に甦らせたい。壮子は七夕の夜、家族の前でそう力強く言い放った。
 美和の中で、この不在のカイコ復活への母の情熱は、退職以来まるで仕事をしようとしない父への叱咤激励と直接つながっており、同時に皮肉にも当の父を失踪させてしまう原因でもあった。
 しかしながら、シロ玉と同じく太一が不在になったからといって、壮子の活動が終息することはなかった。むしろ、そのカイコが太一自身であるかのように、壮子はシロ玉の復活を願った。ちなみに、それ以来毎年七夕には、遠野家の居間に巨大な笹が飾られ、短冊に「甦れ!」「甦れ!」「甦れ!」と執拗に同じ達筆が踊ることともなったのである。
 我々の調べでは、娘二人のうちで美和のみが両親のこうした行動のちょっとした過剰を気に病み、逐一記憶にとどめていた。姉・香は幼稚園の頃から、我関せずという外界への一貫した態度でつとに知られており、一時は自閉傾向も認められていたくらいだった。
 家族の中で最もよく繰り返されたのは、香が小学校高学年の修学旅行時、同級生集団とキョウト市内ではぐれた折の逸話である。一時間後、担任に発見された彼女は、交差点の中央で「人」の形になって止まった二台の大型トラックの、ちょうど文字の接点のあたりに立っていた。正面衝突という最も派手な交通事故に巻き込まれたのだが、奇跡的に香には怪我はなかった。そして、救急車とパトカーと野次馬と担任の金切り声で騒然とする夕方の交差点で、香は静かに大判の雑誌を読み始めたのだという。理由を聞かれる度に、暇だったからと香は面倒くさそうに答えた。
 美和は恋愛以前、この姉に苦手意識を持っていた。自分は愛されていないと感じたし、自分が愛しているのかどうかも不明だった。香をどう扱っていいのか、美和はまるでわからなかったのである。いや、それを言ったら、美和は母の扱い方もわからなかった。父に至っては、扱おうにも消えていた。
 だから遠野美和はいつも微笑んでいた。とまどっている時、美和の顔は柔和になった。その笑顔のまま高校を卒業し、短大英文科をトマス・ハーディ作品を使った文法教育を受けて出ると、祖父の会社に入る話を断って(先に姉がそうしてくれていたから、母からの反対はさほど強くなかった)、市内のパン屋を数店経営する会社に就職した。
 本社を『洞窟コーポレーション』と言った。チェーン店の名は『パン・ド・フォリア』、<狂気のパン>であった。美和は小学生の頃から通っていたこのパン屋で、自分が過去食べたパンの名前をすべて言えた。くるみパン、クロワッサン、狂気のクロワッサン、レーズン入り食パン、チーズ&パセリ練り込みロール、狂気のチーズ&パセリ練り込みロール、あずきカンパーニュ、クラブハウスサンド、懐かし蒸しパン、狂気の懐かし蒸しパン、有機野菜BLT……。美和は洞窟コーポレーションの社長から驚異の新人と呼ばれ、企画事業部に配属されることがすでに内定していた。
 そして、入社前研修中の1994年3月10日、あの午前8時46分が訪れる。
 華島徹のいる東京には雨が降っていた。だが、美和の桐生市は曇りだった。

 
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by seikoitonovel | 2009-07-05 13:28 | 第一小説