自由 


by seikoitonovel
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<   2009年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧

父2-3


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私の結婚


 私が結婚を真剣に考えるようになったのは、母の死からである。母はS34年の1月に亡くなった。前年の12月に脳溢血で倒れたのであるが、ちょうど年始年末の帰郷中であった。すこし快方に向かいつつあるという医者の言葉を信じて1月5日に帰京した。
 帰京の直前、母の枕元で「頑張ってね」と激励した。その時母がうなづきつつ「郁もそろそろ年だし、嫁をもらわねば」と呟くように言った。私も母を安心させるつもりで「うん。考えているから。そんな事を心配するな」と答えたのであった。
 しばらくは大丈夫だろうと考えていたのだが、7日の朝「ハハ、シス」の電報である。頭に釘を打ち付けられたような衝撃であった。ただちに飛んで帰り、母の骨を拾った。「郁、そろそろ嫁をもらわねば」が私への母の遺言となったのである。
 この年のある日、民主社会主義連盟(民社連)の編集長をやっていた高木邦雄氏から「俺の妹と見合いしてみないか」との話があった。民社連はS26年12月に結成された民主社会主義を普及・啓蒙する思想団体で、右派社会党を支える理論集団であった。高木氏は中央大学を卒業後、青森の中学校の先生をしていたが、民主社会主義に共鳴して上京し、民社連発行の雑誌の編集長となった。聞けば岡谷市今井の出身とのことで急速に親しく交際することとなった。
 母の遺言のことがいつも頭にあったので、私はためらわず「いつでもいいよ」と答えた。すると1カ月もしないうちに「妹も承諾したから俺の岡谷の実家で会ってみてくれ」との事であった。その見合いの日取りも決めてくれた。
 邦雄氏の弟の弘康氏がすべてを段取りして待っていた。弘康氏はお父さんの政司氏が開設した今井郵便局の局長を引き継いでいた。大変な酒豪で、挨拶もそこそこにすぐ酒盛りとなった。見合い相手の幸子はその途中で挨拶に来たが、私は弘康氏とすっかり意気投合して2人で1升瓶を軽く空にした。
 弘康氏は人を決してそらさず冗句を連発して笑わせた。誠に爽やかな印象だった。幸子は料理を運んで来ながら私を観察していたらしいが、結局私とは一言もかわさず、私もそんなことなど気にもならず、この見合いは終わった。ただ、弘康さんの妹ならうまくやって行けるだろうと思ったのである。


<いとうせいこう注
 ついに母が現れた。
 だが、父はまだ“一言もかわ”していない。
 むしろ父は、まず母の兄である邦雄さん、弘康さんになついたようだ(そして、父にとってそうであったろうように、両叔父は私の人格形成にも大きな影響を及ぼしていく)。なにしろ、母にでなく、弘康さんに対して「誠に爽やかな印象だった」と言っているくらいだ。果たしてそれが見合いだろうか。
 
 さて、次回からは母の証言も同時に、この場に載せていく。
 母は私同様、父のこの自叙伝を読み、自分としてのコメントをしていくのである。
 この自叙伝はつまり、家族による、複数の視点からのレポートと化していく。
 いわば「我々の家族小説」といったものになるわけだ。

 ちなみに、母は自分の原稿に『私のつぶやき』という題名を付けている>


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by seikoitonovel | 2009-06-22 22:12 | 第三小説「思い出すままに」

雑記5


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5

 #第二小説『すっぽん』、第一章の5節(1-5)のラスト部分が長らく気になっていたので、本日切った。
 以下が、その切れ端である。

「そして、くすぐられて震える私10のおかげか、私152の記憶は揺すられ、重要な事実のかけらを飛び出させる。
 同級生は実際は複数であった。それが入れ替わり立ち替わり、あるいは何日かに一人ずつ、休み時間の私にちょっかいを出した。
 彼らは中学生特有のあり余る粗暴な、方向の定まらない力を、標的となった子供にぶつけてくる。やり返せば、待ってましたとばかりに力がより強く誇示され、標的でいる時間が長くなる。
 逆に言えば、私10は理由を持つ一人の人間につけ狙われていたのではなかった。いや、だからこそ、私10はいじめられていたと言えるのだ。どこからいつぶつかってくるともしれない理不尽な力に、私10は常に身構えていなければならなかった。そうやって、きっと三年間を過ごしたのである」

 私と並走してくれている方々も出来ればこの部分を切って、1-5をアップし直して欲しいのだが、それは絶対の要請ではない。
 様々な版が出来ていくこともまた、この連載小説空間の特徴だからだ。
 といっても、マルチエンディング的なテキストの散乱を私はイメージしているのでは決してない。
 私は私にとって完全なバージョンを提示するつもりなのだ。そして同時に、バージョン違いの存在も受け入れるということである。
 歴史的に言って、テキストは常にそのようにバージョン違いの渦の中にあった。そうでないのは、著作権という現代的な考え方に縛られて以降のきわめて短い時間の中の現象に過ぎない。
 

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by seikoitonovel | 2009-06-14 21:50 | 雑記

父2-2


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父2-2


右社外郭青年組織への参加(東京民社青同の事務局長に選出さる)


 右派社会党は民主社会主義をその指導理念とした。社会党分裂がS26年の10月の臨時党大会であったが、丁度この年の7月ドイツのフランクフルトで開催された社会主義インター大会(長い大戦でばらばらとなっていた西欧各国の社会主義組織が初めて一同に会した)が新しい「民主主義に関する宣言」を発表した。通称これをフランクフルト宣言と呼ぶのであるが、この宣言でロシヤなどの共産主義運動を「新たな帝国主義」とよび、「自由無き社会主義は社会主義でない」「民主主義を通じて社会主義を建設」とうたった。共産主義(マルクス・レーニン主義)への決別宣言であった。
 この宣言は日本社会党内のマルクス主義でない人々に有力な理論的武器を提供することになった。それまで日本の中では民主社会主義という言葉はなかった。したがってそれまでの発言や文書はすべて「社会民主主義」という言葉が使われていたのである。朝日新聞などの左派系はいまだに民主社会主義という言葉を使ったことがない。このためわれわれの考えが明確に伝わらないことがしばしばあった。
 さて、右派社会党は青年部を持たず、青年対策本部を持った。初代青年対策本部長は浅沼稲次郎。青年部を作らなかったのは日本社会党の「青年部」がしばしば党の決定方針に反対し、党内党的行動によって党を混乱させたこと。党外の青年への影響力とならないこと。などの理由によるものであった。
 そこでS28年1月の全国大会で党の外郭組織として自主的青年組織の結成をはかり、そのことによって党に直接入ることを躊躇する青年達にも広く党の影響を及ぼすことを狙ったのである。それまで右派系青年団体として独立青年同盟の活動があり、これが左派攻撃で潰されたあとに重枝琢巳氏らが青年懇話会を作って活動した。これがひとつの基盤となって「民主社会主義青年同盟」(民社青同)が29年1月に結成される。私たちはただちにこの民社青同の東京組織に加盟して活動した。
 結成直後の民社青同に降りかかってきた難題は両社統一問題であった。私達は民主社会主義という新しい理論のもとで右派社会党を支えていこうとして意気ごんでいたのだが、党内に統一積極派と慎重派が生まれ、これに民社青同も強い影響を受けて激しい論争が展開された。
 慎重派の代表は西尾末広で「左派はマルクシズムに立脚し、必ずしも暴力革命を否定していない。これに対して右社は暴力を否定し、選挙の結果多数をとれば政局を担当し、少数になれば下野するという考えである。この相違の解決をはかろうとしないで、ただ大衆が要望しているからといって無原則な歩み寄りや妥協をすれば、数は多くなっても政局を担当するや直ちに政策的に行き詰まって破綻する。それでは大衆の要望に反することになる」「割れた茶碗を継ぎたしたような安易な統一をやれば、下手をすれば再分裂という結果さえ引き起こすであろう」との考えを明らかにしていた。この考え方に同調する青年たちも多かった。
 また、日本の安全保障問題に関連して「憲法9条が自衛権まで放棄しているとみるのはどうか」「このさいこの問題の理論統一が必要ではないか」の意見があり、民社青連は一時分裂の危機に直面した。この危機は統一積極派の麻生良方会長と慎重派の黒田忠氏ら総同盟系との話し合いによって「われわれの団体はそれ自身政党ではない。思想と志を同じくする民主社会主義的政党の発展に貢献し、同党を通じて目的を達成する」など結成時の5原則を確認し、両派社会党の統一如何にかかわらず組織を存続させ、主体性を強化するとの方針を確認して収拾した。
 こうして、民社青同は両者統一後も活動を続けた。私は東京民社青同の事務局長に選出されたが、西尾派と見做されていてその代表として担がれたのであった。
 しかし両社統一後の統一社会党青年部が、党の外郭に2つの青年組織(社青同と民社青同)があるのはまずいとの考えから両組織の統一を絶えず働きかけたこともあって、民社青同の活動には次第にブレーキがかかっていった。



民社党の結成に参加


 統一社会党は西尾末広の予言どおりかえって内部対立が深くなり、参院地方選の相次ぐ敗北によって、再び大衆政党か階級政党かの議論を蒸し返すこととなり、左派の「西尾除名」問題を契機として社会党は再び分裂してS35年の民社党結党へと推移する。
 私は当然、民社党に参加した。そして民主社会主義青年運動の再構築を目指して民社青同を解散して「民社青連」を発足させ、初代事務局長に選出された。
 日本社会新聞も解散され、あらたに民社党中央機関紙「週刊民社」が発行され、私は引き続きその記者(身分は正式な民社党書記局員として採用された)となった。
 党活動の面では三鷹総支部の書記長に選出された。


<いとうせいこう注
 こうして読んでみると、端的に言って父は活動家なのだった。
 考えてみれば当然なのだが、ここまでそうだったのかと私は驚いている。
 個人的な事柄がほとんど書かれていないのは、社会と思想それ自体が激動していたからだろう>




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by seikoitonovel | 2009-06-14 21:34 | 第三小説「思い出すままに」

2-2


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 そのまま数日が過ぎた。友人と私との間で姿をくらましたすっぽんもそうだが、読者諸氏と私の前に見え隠れしていたすっぽんそれ自体も行方知れずのままであった。
 おかげで私は『 スッポン-習性と新しい養殖法』も熟読したし(二時間ほどで)、『ワインライト』を何回も聴いた。そして、あちこちですっぽんの話を持ちかけられた。
 広東語で「水魚」といえばすっぽんのことだそうである。知人の香港人女性Jさんが、私に会うなり「Iさんは『水魚』という小説を書いてるそうですね」と、ちょっとたどたどしく言ったのである。問題の箇所の発音は“ソイユィ”。Jさんはあくまでも広東語でそこを発音したかったらしい。
「ソイ……ユ、ですか?」
「はい、その小説、internetでやってる」
「あ……確かにネットでは連載してますが」
「そう、それ。『ソイユィ』。昔の自分の話」
 私は別の自分がこの世に、特になぜか上海あたりにいるような錯覚におちいり、混乱した。
 Jさんのある種のいたずら心から、題名が勝手に翻訳されていたのだと理解したあとも、自分が自分から剥離していく感じが消えなかった。『水魚』という話を書いている自分が確かにいる、という実感がむしろ強まった。
 たたしマンダリン(北京語)では水魚の意味がちかいますよ、ともJさんは濁音が抜けがちの日本語と人懐っこい笑顔で付け足した。例えば「水魚の交わり」は『三国志』に出てくる有名な逸話で、それは固い友情を示す。中国本土でも日本でも、水魚を水と魚に分けて考え、分けた上で分け得ないものとする。
 だが、その考えを広東語圏には持ち込めない。厚い友情を示すつもりで香港人に「水魚の交わり」を宣言すれば、周囲の喧騒が一気にやむだろう。人気俳優を迎えてノワール映画ロケ中の早朝の灣仔(ワンチャイ)でも、屋台が並び始めた午後の旺角(モンコック)でも、若きデザイナー集団が新事務所を構えてパーティをしている夕方の銅鑼灣(トンローワン)でも、酒と音楽が作り出す乱痴気が最高潮に達した夜中の蘭桂坊(ランカイフォン)でも、一瞬の完全な静寂があたりを支配する。水魚の交わり? 水魚の? 
 それはつまり、すっぽん同士の交際を指すのである。我もすっぽん、汝もすっぽん。我ら脊椎動物亜門・爬虫網・カメ目。そう宣言することの意味は奈辺にありや、ということになる。そうですよね、Jさん?
 まあ、そうですしね、とJさんは私の想像のアンバランスな広がりを多少警戒しながら微妙な訂正をした。広東語で「水魚」と言った場合、それは主に“吸いつかれる側”を指すらしいのであった。ことに金銭にまつわってその比喩はあり、人がすっぽんの生き血を吸って精力をつけようとするかのように、例えばヒモは「水魚」を金づるにして生きていく。喰らいついたら絶対離さないのはすっぽんではなく、逆に広東語圏のすっぽんは喰らいつかれ、離してもらえないのだ。
 そこで私が即座に思い出したのが『ワインライト』の聴きどころ、「just the two of us」だったといえば、少々分裂的だろうか。グローバー・ワシントンJRはこのアルバムにビル・ウィザースの名曲を取り入れ、歌わせ、彼を世界的な存在にした。
 吃音を持つビル・ウィザースの、歌えば甘く厚ぼったく滑らかな声。しばらく話が脱線することが予想されるが、言葉と歌が異なる次元に属していることの、これは大変な証左なのではないか。
 言葉が連続的に歌になれば、あるいは近頃私が考えているように歌こそが先にあって、やがてそれが言葉になったのだと仮定すれば、しかしこの吃音の問題を解決出来ない。語ると吃音が生じ、歌うと生じないという現象から類推するに、言葉と歌の間に何か決定的な違いがあると考える以外にないからだ。私にちかしいある人間も吃音という障害を持っているが、彼女に聞くと“しゃべることと歌うことでは、呼吸が根本的に違う”と言う。だから、歌えば彼女も吃音にはならない。
 声を統御するある種の弁を持つ生き物は、この地球上でクジラと鳥と人間のみだそうです。それがどんな弁か聞き忘れたが、先日食事を共にしたベテラン演出家がそう言ったのを思い出す。吃音はその弁に何か関係がないか。クジラは歌うが語らない。鳥もしかり。歌から言葉に至ったとき、機能的に別次元の事件が起こった。そこに吃音が関係ないか。
 突然だが、クリスタルの恋人たち、という。「just the two of us」の日本題である。サビの歌詞を私が訳すならこうなる。
 二人きり/二人きりでいればかなう/僕ら二人でいれば/砂上に楼閣を築きあげて/たった二人/君と僕
 二人しかいない世界の、この幸福感。そして、本当は決して実現しない愛を歌っているのであろう切なさ。しかし、どちらかが水魚であったとしたらどうか。執拗に関係を癒着させるのが僕、もしくは君であったのだとしたら。
 上野にすっぽん売り場がある、と教えてくれたのは地下鉄銀座線の浅草行き先頭車両に乗っていた青年であった。黒いダテ眼鏡をかけた痩身の青年は、ずいぶん長くこちらを気にしていたのだが、やがて意を決したように立ち上がり(大きな紙を切り抜いて作った人形が急に糸で吊られたような動きだった)、向かいの席に座っていた私に覆いかぶさるようになって、Iさんですよね?と聞いてきたのである。
 ええまあ、そうですがと目をそらして答えると、もしよかったら二駅戻ってみてくださいと青年は言った。上野にすっぽん売り場がありますから、と。私たちはすでに上野を過ぎ、田原町という駅まで来ていた。青年が秘密めかした低い声で手短かに説明するビル自体は、私もよく知っていた。あんな場所にすっぽん売り場などあったろうか。私の好奇心はおおいにくすぐられた。
 しかしさすがに、ああそうですかと即座に電車を降りるわけにもいかなかった。メンツというか、まず若者がなぜそのような忠告をしたのかがわからなかった。もし彼がこの小説の読者であったとして(それ以外考えられないのだが)、私がすっぽん売り場を見るべきだと考える彼の思考が謎であった。その謎の思考に軽々しく従うことには抵抗があった。そもそも私はすっぽん見たさで小説を書いているわけではなかった。
 ビルに向かったのは、翌朝早くであった。


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by seikoitonovel | 2009-06-13 15:57 | 第二小説

父2-1


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第二章


新しい出発


 S28年(23歳)の上京の時期は、左右社会党も労働運動も激しい対立抗争の最中にあった。それはその後の日本の政治と労働運動の進路を決定づける思想対立であった。階級闘争によって共産主義的革命政権(独裁政権)を樹立するか、自由と民主主義を発展させる立場から民主的手段によって政権を獲得して政治を行うのか(選挙による政治家の選出、議会主義)の闘いであった。私は後者を選択したのである。またそれは新聞記者から政党活動家への選択であり、新しい出発であった。
 日本社会新聞の記者となり、労働組合運動の担当となった私は、毎日のように当時芝市兵衛町にあった海員組合の本部と三田の総同盟本部に通った。自転車もなく、三宅坂からすべて徒歩であった。私は海員組合では和田春生、木畑公一氏ら、総同盟本部では古賀専、中島桂太郎氏らにあって、取材活動を続けた。上京当初の私に確たる信念はまだなかったが、これらの指導者の話を聞く度にだんだんその運動の目指すものが理解できるようになっていった。
 私は右派社会党の書記ではなかったが、武蔵野支部の党員となった。支部長は中村高一代議士であり、書記長は市議の後藤喜八郎氏(きいちゃんと呼ばれ人気があった。のちに武蔵野市長)であった。私に目をかけてくれたのが伊藤重雄市議であり、伊藤さんには新しい下宿を探してもらったりした。選挙の時にはこの伊藤さんの事務所に張り付いて応援した。
 さて労働運動の方はといえば、4単産声明後これに賛同する産別の間で「全国民主主義運動連絡協議会」(民労連)が設立され、4単産のほかに総同盟、常磐炭労、全食品、日本鉱山、全国港湾同盟、全化同盟、造船労連、国鉄民主化同盟、全造船石川島分会、全国土建総連などの産別が加わった。そしてS29年4月22日、全労会議の結成となった。組織人員80万名であった。
 一方、左右社会党が急速に接近し、S30年の統一へと進む。森戸・稲村論争、講話問題、日米安保問題などで激しく対立し、その社会党を支える労働組合が大きく分裂したのにもかかわらず、両社会党がなぜ統一を急いだのか。一つは自民党の吉田内閣が崩壊し、鳩山内閣となり、にわかに鳩山人気がたかまったこと、総選挙を目前にひかえて左右分裂のままでは共に低落するのではないかとの危機感によるものであった。このため基本理念は置き去りにされ、統一綱領では党の性格を「階級的国民政党」とした。まさに水と油を混ぜ合わせたようなものであった。すなわち階級政党論は暴力革命をも容認して一党独裁政権を目指すものであり、自由と民主主義を否定する内容を包含する。国民政党論はこれを否定し、国民の自由意志による選挙によって多数を占めた政党が政治を担うという民主主義にもとづく。まさに相容れない思想なのである。
 全労はこうした便宜主義的な統一に強く反対した。
 私たちは両者統一後も日本社会新聞の発行を独自に続けた。私は総評批判を止めることはなかった。このため統一社会党書記長となった浅沼(稲次郎)さんから「おい、あまり総評批判ばかり書くな」と言われたことがあった。


<いとうせいこう注
 ここまで読む限り、父にプロレタリア独裁を選択する余地はなかったようだ。
 いわんや無政府主義をや。

 また、今回から「第二章」と区分を付けた。
 さかのぼって冒頭に「第一章」という一行を入れる>
 


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by seikoitonovel | 2009-06-05 20:16 | 第三小説「思い出すままに」

第一6-1


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   『BLIND』-6


 遠野美和はもちろん仮名だが、その名前が日本の古代史の集約された土地、ナラの神聖な山々からとられていることは、事実と変わりない。このレポートの中で美和の姉を香(かおり)と呼ぶのも、同じ理由からである。我々は名付けにあたって三輪山と香具山(後者の名の中にある「カ」という音節は、「香り」をあらわす表意文字で示されている)を選んだが、彼女らの父、まさにそのナラで日本の敗戦日1945年8月15日の正午過ぎに生まれた遠野太一は(したがってこの人物こそ、日本の戦後そのものだと言える)、さてどうであったろう。
 そもそも、なぜ太一はそこまで故郷の、しかも山に思い入れたのか。もし山に思い入れがなかったのだとしても、すでに他県で数年生活していた太一が、なぜ遠く離れたナラの山々と自分の娘の名に関係を持たせようとしたのか。妻である壮子にも、実はきちんとした説明がなかったのだという。
 遠野美和が生まれた翌年の1975年、太一はナラ市内に住む親戚に歳暮の礼状を書き、その中で「重蔵おじ、もし次が男の子だったら俺は」と仮定して、やはりナラの山から名をとっている。ちなみに、この遠野重蔵氏(郷土史家)は電話取材に際して、三つの山の頂点を地図上でつないでみるとどうなるか、とさかんに我々を挑発したのだが、ここで古代ミステリーの世界に迷い込むわけにもいかない。
 むしろこの名付けのエピソードには、無口だと誰もが口をそろえて言い、いつまでもよくわからない人物と評される太一の、何事か手触りのある思考の輪郭を我々は感じる。決して気分屋には出来ない、継続した沈思黙考の中に遠野太一はおり、次女の美和はそれを鋭敏に受け取っていた。父はいつでも何かを考えていました、けれども父自身にもそれが何であるかがわかっていない風でした、と美和は言っている。
 残念ながら現在、太一の思考の内容を確認する手段はない。なぜなら4年前の1990年、美和が16歳になった夏に、遠野太一は長年家族と住んだ群馬県桐生市の一軒家を出たまま帰らなくなってしまったからである。死んだのでは、少なくとも当時はなかった。美和によれば、父はまるで帰り道を忘れたようにいなくなった、のであった。
 実際、太一は年に数回、美和にだけ電話をしてきた。つまり、美和が最初に電話を取り、しばらく無言でいる父の息遣いと耳を澄ましているらしき集中に気づいて、近くには誰もいないと告げた時にだけ、太一はしゃべり出した。したがって、太一からの着信自体はもっとずっと多かったと思われる。
 美和との通話において、太一は主に妻・壮子と長女・香の消息を聞きたがった。したがって、美和は自分のみが父の声を聴き得るという特権のかわりに、父が自分については何も知ろうとしないという事実を突きつけられて混乱した。だが、だからといって美和は父からの電話を拒絶しなかった。
 その太一からの電話が途絶えたのが1993年5月4日以降、と手帳も見ずに日付を言ったのは美和で、拒絶するどころか彼女が父からの発信を心待ちにしていたことがよくわかる。さらにこの証言の直後、美和は同日カンボジアのバンテアイミアンチェイ州で(何度か録音テープを聞いたが、美和はこの州の名をよどみなく発音している)日本から派遣された文民警察官が武装集団に襲われ、死傷者が出たことを思い出している。遠野美和に取材したことのある人間で、こうした彼女のきわめて高い記憶力に驚きをもらさなかった者は一人もいない。
 

 
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by seikoitonovel | 2009-06-03 18:43 | 第一小説