自由 


by seikoitonovel
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<   2009年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

父1-8


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上京・日本社会新聞時代


 S28年4月、単身で上京した。新宿駅に市川君が出迎えていてくれた。早速、三宅坂の社会党本部の4階にあった編集局に連れていかれ、山崎編集長と先輩の平田修三さんを紹介してもらった。
 下宿は市川、平田両君が借りていた田無の下宿での共同生活であった。ここから毎日、中央線で新宿に出て都電に乗り、三宅坂に通った。
 日本社会新聞は右派社会党の中央機関紙であり、党の補助なしの独立採算の新聞であった。社長は右社書記長の浅沼稲次郎で専務は参議院議員の曽根益であった。私は労働組合関係を受け持ち、平田氏は議会活動と党の関係を主として受け持った。
 終戦直後に戦前の無産政党の各派は一つとなって日本社会党を結成した。中心的役割を担ったのは片山哲、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らであり、戦後第2回目の総選挙で第一党となって片山内閣を組織した。官房長官は西尾末広であった。
 しかし社会党内閣は出発当初から左右の思想対立を抱えたままであり、左派マルクス主義者の鈴木茂三郎が予算委員長となったが内閣提出の予算案を自民党と一緒になって否決したため、社会党内閣はわずか7カ月で潰れていく。そしてS24年の第3回総選挙で143の議席が僅か48議席となり、片山委員長までも落選した。
 党の再建を巡って左右が激しく対立、右派の森戸辰男が党はマルクス主義と対決する政党であるべきことを主張し、左派稲村順三がマルクス主義は人類解放の理論であり、真の社会主義を建設し得るものは労働者階級であること、社会党はあくまでも労働者階級の政党であることを主張した。この森戸・稲村論争はいわゆる「国民政党か階級政党か」の論争で、これが26年の全面講和か単独講和かの論争と絡んで、ついに左右社会党に分裂していく。
 労働組合運動では、戦後の産別会議(共産党)主導の階級闘争至上主義運動に反対して民主化運動が起こり、これがS25年の総評結成へと進んで行く。ところがこの総評がマルクス主義者の高野事務局長を中心とする左派勢力によって1年も経たずして左旋回、と同時に破壊的な階級闘争至上主義への傾斜を強めていく。
 その闘争の象徴となったのがS27年の秋期闘争の、電産の電源ストをふくむ約3カ月、炭労の約2カ月に及ぶ長期ストであった。結局この無謀・無法の闘争は世論の批判にさらされ、全面的敗北となった。これに対して全繊、海員、日放労、全映演の4単産が批判の共同声明を出し、S29年、これに共鳴する労働組合とともに全労を結成していく。
 私が上京したのはこうした変化の時であった。


<いとうせいこう注
 こうして父は戦後政治の世界に入っていく>


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by seikoitonovel | 2009-05-27 23:04 | 第三小説「思い出すままに」

父1-7


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就職ー3


 長野県では戦前から「信毎」が朝日系地方紙として圧倒的なシェアーを確保していた。読売の狙いはこの朝日の勢力と長野県で対等の地位を確保したいというもので、そのために新興勢力の信陽新聞と提携する戦略にでたのである。
 ただ私にとってはそんな事はどうでもよかった。良い記事を書く、この事しか念頭になかった。
 池田君という若い後輩の入社、校正係から一線記者を拝命されてから編集局隅の宿直生活から開放されて、印刷局の田中君の薦めで松本から大糸線で2つ先の島内駅の近くの貸家に田中君、営業の宮本君と3人での下宿生活にはいった。この下宿のご夫婦は温厚で親切であった。家のすぐ前には梓川がゆったりと流れていた。夕方になると、この家の小学生が釣りをしていた。
 編集局で仲の良かったのは整理記者の市川正二君だった。彼は大町の高校を卒業して入ってきた私の同期であった。頭のきれる優秀な男で整理(記事の過ちを正し、見出しをつけ、その記事を紙面のどの辺に入れるかを考えて割り付けする)の仕方をすぐ覚え、武井整理部長から信頼されていた。酒もよく飲んだ。
 S27年、彼は辞めて東京に出ていった。聞けば右派社会党の中央機関紙「日本社会新聞」に就職したとのことであった。どうやら毎日新聞を辞めて信陽新聞の編集長になっていた西沢さんの紹介と勧めによるものらしかった。この時点で私にはまだ辞める気持ちなどはなかった。
 ところが、その年の暮れ、市川君から電話があり、こちらの編集長が記者が欲しいといっているからこちらに出て来ないか、との誘いがあった。
 この話があってから、私の心に俄に勉学心が沸いてきた。田舎の蛙から脱却しようとの志である。松本ではよく社会党の演説会が開催されていた。松本出身の弁護士で代議士の棚橋小虎がいたからである。浅沼稲次郎、三宅正一など社会党の闘士らが弁士としてやってきた。私はなぜかそれを聞くのが好きで聞きに出掛けた。そして時には棚橋先生の弁護士事務所での記者会見へも顔を出した。秘書の岩垂寿喜夫君(後に総評の政治部長─社会党代議士・自社連立内閣で環境庁長官となる)とも親しくなった。このことも私の東京行きを決断させた背景であった。


<いとうせいこう注
 父は自分がかつて新聞記者であったことを、確かに何度か私に話した。今から思えば、である。
 だが、私には「信陽」とか「信毎」といった地方新聞自体がイメージしにくかったし、父がそこで記者として何をしていたのかをほとんど理解出来なかった。
 私はいつも、記憶から父の新聞記者時代を消してきた。それどころか、父からまさにその話を聞いている最中にさえ、私は理解しがたいイメージを次々に消去した。つまり、聞いていなかった。
 私は父の、おそらく最も青春に近い時代の思い出話をこれまでずっと無視してきたのである。

 また、ここでの父の“演説への興味”に私は驚愕せざるを得ない。
 ここ数年、私は日本語でのラップを単に80年代中盤以降のアメリカからの輸入文化として見ず、明治時代以降のあらゆる演説の歴史の延長としてとらえる考えを得、それを率先して実行していたつもりだったのである。
 だが、それを父の嗜好の遺伝とみてしまえば、私の考えは目新しくも何もない。
 果たして「カルマ」とはなんであろうか、と問わざるを得ない。
 我々はみな、なぜか親の嗜好、あるいはまたその親の嗜好から自由になれない。
 知らずにいても、嗜好は世代を越えてやってくる。
 嗜好を否定して冷徹に考えているつもりでも、小さな隙に嗜好は来る。
 我々を不自由にする、この強い力はなんだ?
 なんなのだ?>


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by seikoitonovel | 2009-05-22 23:23 | 第三小説「思い出すままに」

5


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5

#本日から、第二小説『すっぽん』の冒頭(1-1)に「第一章」、前回アップした項(2-1)に「第二章」と、章分けを表示した。
 つまり、(少なくともしばらくは)そういう小説として進行することが今日わかったのである。
 並走されている方々、どうぞ手直しをよろしく。


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by seikoitonovel | 2009-05-22 02:01 | 雑記

すっぽん2-1


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第二章


 しかしそれにしても、すっぽんとは何であろうか。いや、ここまで私はさかんにすっぽんすっぽんと連呼してきたわけだけれども、本当にそれが「喰らいついたら絶対離さない」動物であるか、私は唐突に疑問を持ったのである。
 もしも「喰らいついても、わりに離す」とか、「すぐさま離す」とか、そもそも「喰らいつかない」というような実態があれば、私10は何を糧にして理不尽に耐えていたのかということになる。
 実はこの長い文章を書き始める直前、つまり『すっぽん』という題名を思いついた日の午後(2009年2月末のことであった)、私は一度だけ、出先に近かった青山ブックセンター本店に駆け込んで、すっぽんに関する書籍を探してみたはみたのである。
 今となってはおかしな話だが、私は天井からぶら下がっている白い板(哲学とか、美術とか、日本文学とかの分類がしてある)に目をこらし、「すっぽん」というコーナーはどこかと、棚の間を小走りになった。そんなコーナーがあるはずもないことに気づいたのは、店の奥の壁まで到達し、振り返って舌打ちをした瞬間である。したがって、チッという舌打ちは「すっぽんコーナー」のなさを呪うと同時に、自分の愚かさを鋭く叱責するものとなった。ちなみに、青山ブックセンター本店には「爬虫類」のコーナー自体なかった。
 だからといって他の手段で猛然と調べたわけでもない。私は以来、すっぽんについて何も知らないまま、書き進んでいるのである。今あわててAMAZONに行き、「すっぽん」で書籍を検索してみたら、「もしかして:にっぽん」と出た。もしかしても何も、かなりのあてずっぽうと言わざるを得ない。推測にも適度な範疇というものがあるだろう。
 そして、行き当たったのが『 スッポン-習性と新しい養殖法』(農山漁村文化協会)という名著のムード濃い書物で、私は早速注文をしたのだが、残念ながら当然、本日ご紹介するわけにはいかない。余談になるけれども、同時に注文した品はグローヴァー・ワシントンJRの懐かしい名盤『ワインライト』(1980年に出たメロウなフュージョン)だから、注文票を受け取った係の人は相手が都会派か農村派か、まったくわからないだろう。ただなんにせよ、『スッポン-習性と新しい養殖法』が82年刊で、『ワインライト』とほぼ同時期の作品であることだけはここに書き記しておきたい。それは世界の複雑さと奥行きを如実に示している。
 さて果たして、すっぽんは「喰らいついたら絶対離さない」のかどうか。二週間ほど前、かなり物知りな友人の家に遊びに行って酒を飲んでいたらやはりその話になり、「雷が鳴っても離さないって言うよね」と友人が言い出した。私もその決まり文句は知っていたので黙ってうなずくと、友人はそのままの勢いで「だけど、そもそも雷が鳴ると離すって前提、変だよね」と言い、一秒ほど考えて「雷はよほどの力を持ってるって前提でしょう」と続け、話柄は雷の方へ雷の方へと傾いていって、じきすっぽんは行方不明になった。
 

 

 
  
 
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by seikoitonovel | 2009-05-20 20:00 | 第二小説

父1-6


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就職ー2



 待望の新聞記者生活は誠に楽しいものであった。自転車での取材活動があり、午前中には編集室に帰って記事を書き、午後5時頃に印刷されるまでセントラルで映画を観ていた。上映されるのは西部劇などの洋画が中心であった。
 新聞の印刷が刷り上がると、それを一読してあとは毎日のように酒盛りをした。私は編集長の命令で、大きな鉄瓶を自転車にのせて横手町の密造どぶろくを買ってきた。ここで私は酒の洗礼を受けたのであるが、父の遺伝子を受け継いだらしく幾ら飲んでも悪酔いはしなかった。たまに頭がぐらぐらするほど飲んで吐くことはあったが、一升以上飲まない限り悪酔いはしなかった。
 月給は出たことは出たが、支給日がずれることがしばしばあり、半月も出ないことがあった。労働組合が結成され、若手の私は青年部長に選出された。新聞労連に加盟して、その全国大会に出たこともあった。そんな中である日、給料の遅配・欠配を許すなと叫び、編集局の同僚今井君と夜に社長室を占拠し、断食闘争に入った。しかし、社長と編集長の話し合いが行われ、善処するというのでこの闘争は一日で終わった。S25年の赤狩り(共産党員の追放)の余波をうけて、我々が尊敬していた永井組合長が追放された。サンケイ新聞で宮内庁詰め記者をやった経験があり、どうもそのころ共産党員とみなされたらしい。しかしこの疑いはすぐにとけてまもなく編集局に帰ってきた。
 さて、私は初任給が幾らだったか思い出せないが、毎日のように昼飯に寄った飯屋の中華ソバが確か35円であった。それから推量すると3,000円位ではなかったか。私は給料の半分を父に送った。宿泊所が編集局の片隅で宿直を兼ねたから、日常生活の費用はほとんど必要なかったからでもある。
 信陽新聞の四苦八苦の状況のなかで、S26年、読売新聞が支援に乗り出してきた。読売本社から営業責任者として大江原氏が、編集顧問として梅津氏が派遣されてきた。ともに本社の重役で相当の腕利きとの触れ込みであった。読売新聞本社がなぜ信陽新聞の再建に乗り出してきたのか。それは朝日新聞との対抗のためであった。



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by seikoitonovel | 2009-05-12 22:48 | 第三小説「思い出すままに」

第一5-1


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5-1

    人に知られりゃ浮名も立つが
         知られないのも惜しい仲

      
              日本近代・明治期の都々逸より


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by seikoitonovel | 2009-05-11 01:43 | 第一小説

父1-5


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就職ー1



 S24年に岡谷南を卒業。治幸兄の世話で松本の信陽新聞社の編集局に入った。当時治幸兄が信陽新聞の諏訪支局の記者をやっていたこと、信陽新聞の社長が諏訪の有名な宮坂酒造会社の息子だったことによる。大学への道は諦め、とにかく早く働きに出て少しでも親の助けになりたいと私は考えていた。もともと文章を書くことは嫌いではなく、新聞記者に憧れていたからでもある。
 牛乳の販売は戦時に引き続きなお統制されており、苦しい家計のなかにあった。一番早く家に帰ってきたのは計男兄で、朝早くから列車で伊那方面へ買い出しに出掛け、夕方薩摩芋などをリュックサックに一杯詰め込んで帰ってきた。そのうちに兄武男が海軍兵学校から帰ってきた。そして「われわれはいつ米軍に掴まるかもしれない」といっていた。
 私と弟の幸男・安幸は新聞販売店で夕刊の配達のアルバイトをやっていた。大黒柱の源蔵兄は20年の初めに戦死の公報が入り、高島小学校で合同慰霊祭がすでに行われていた。後に南方の戦地で九死に一生を得て帰ってきたが──。はやく働きに出て親の助けになりたいとおもったのには、この様な家の事情があった。振り返ればこうしたなかで父はよく我々の学費を出してくれていたと思う。
 さて当時、長野県での本格的地方新聞は本社を置く「信濃毎日新聞」(信毎)だけであったが、松本でセントラルという映画館を経営していた宮坂社長がこれに対抗して松本を中心とする本格的地方新聞を設立したのであった。最初は夕刊だけの発行であった。資本に物をいわせた強引な新聞社づくりではあったが、戦後直後のことであり、そう順調に運ぶわけはなかった。しかし文化的土壌をもつ信州の真ん中の松本(国宝の松本城があり、旧制松本高校の所在地でもある)だけに地方の情報紙への待望感があり、購読者は順次増加していった。自信を持った宮坂社長は長野市や諏訪市など地方支局の設立も進めた。映画館の利益を新聞にかなり注ぎ込んだようだが、苦しい経営が続いていた。
 本社社屋はセントラルの一角におき、編集局は一階、印刷と文選工場はセントラルの地下にあった。中央の記事は共同新聞社と契約していたが、とにかく新聞を発展させるには膨大な人員が必要であった。一線記者、整理記者、校正記者、地方支局記者、文選工、印刷工、販売所、拡張員、広告取りなどなど。良い新聞を作ろうとすれば途方もない資金が必要である。
 私は就職と同時に編集局の隅の2畳の部屋で寝泊まりすることとなった。仕事は朝一番の列車で送られてくる共同新聞社の記事を取りにいくこと、その後は整理記者が整理した原稿を地下の文選工室に運ぶこと、編集室内の掃除など。1年後からは校正を受け持った。編集長の「新聞記者になるには給仕からやるものだ」を信じて働いていたから、与えられた仕事を苦労と感じたことはまったくなかった。2年後に待望の記者を命ぜられ、警察と市役所を受けもった。ここから本格的記者生活が始まったのである。


<いとうせいこう注
 この「就職」の項目は長いので、私の編集者的な判断で三つに分割して掲載する。父はこの間の事情を事細かに覚えていて(正確に言えば「思い出して」)、まことに丁寧に書き込んでいる。項目ごとの長さは、父の自分自身の過去への思い入れに比例すると思われ、その意味で本項は父の記憶にとってきわめて重要な位置を占めるだろう>


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by seikoitonovel | 2009-05-06 02:06 | 第三小説「思い出すままに」

雑記4


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#09/5/4、新作狂言『老河童(おいがっぱ)』をアップ。
 この新作は池田小事件を契機に、誰の依頼もなく書いた古典新作だから、2001年かその翌年には出来ていたはずだ。
 当時、狂言師に読んでもらったが、だからといって発表のあてもなく、現在に至っている。
 もちろん公開する以上は、日本中の狂言師(プロ・アマ問わず)に自由に使っていただいてけっこうだ(一応、公演の案内をしてくれるとうれしいし、映像をリンクさせてくれるとなおありがたい)。
 その際、「すり足」という古典芸能ならではの技術を生かしたスラップスティック性と、老いたる者から世の中への、切々たる訴えの悲しさがないまぜになってくれるといいと思う。
 だが、中世の狂言作者の名が残っていないのと同じく、私も自分の名をこの作品に付けたくはない。古典芸能にかかわるというのは、そういうことだと私は考えている。
 つまり結局、まあ自由にやってください。


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by seikoitonovel | 2009-05-04 23:46 | 雑記

新作狂言1


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  シテ  太郎河童
  アド  老河童
  小アド 次郎河童



 老河童、杖をつきながらよろよろと舞台に現れる。
 太郎河童、次郎河童、続いて登場し、控える。

老  「このあたりの川底に住まいいたす河童でござる。よわい百年(ももとせ)も過ぎ、目がどんみりといたして、魚(うお)の流れも見えぬ身なれど、近頃、子河童どもの乱暴狼藉。川上、川下もわきまえぬ所業。許しおくわけにもまいらぬ。まずはきゃつらを呼び出し、説教いたそうと存ずる。子河童ども、 あるかやい」
太・次「ハアー」

 太郎河童は下手、次郎河童は上手。
 老河童に向かって両者、観客に背中を向ける形。

老  「いたか」
太  「お前に」
老  「念無う早かった。汝ら呼び出すも別のことでない。近頃の、いやはや乱暴狼藉。河童の川上にも置けぬ。このように老いたる身なれど、あまりのことなれば、きつう説教いたそうと存ずるが、よいか」
太  「はあ、説教……と申されても、身に覚えのないことでござる。のう、次郎河童」
次  「まことに。太郎河童の申す通り、我ら若い河童、説教いたされるような悪行はひとつもいたしておりませぬ」
老  「なんと、ひとつも?」
太  「その上、先程来、野分でこの(と下を見回して)川底の流れもいこう激しゅうなってきてござる。お話はまた……別の機会にうかがおうと存ずる」

 太郎、次郎、帰ろうと立ち上がるのを止めて。

老  「待たぬかやい。なんの野分じゃ、身に覚えがないじゃ。太郎河童、近頃、汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太  「……」
老  「いにしえより、我ら河童は正々堂々相撲をとり、人に勝ってこそその尻小玉をいただく。また(と次郎河童を見る)、次郎河童、汝、抜いた尻小玉を味わいもせず、石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな」
次  「……」
老  「果ては汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの(と指で小ささを示す)尻小玉を抜いて回る」
太  「(次郎河童に)尻小玉の話ばかりでござる」
老  「なにを言うて。まだあるわ。まだ………(忘れているが)……おお…そうじゃそうじゃ、森のあなたの畑へ上がり……」

 ここで後見、棒の先に付けた魚を一匹、上手の床に泳がせる。
 太郎、次郎、魚をじっと見て、話はうわの空になる。
 老河童は気づかず続ける。

老  「食べきれぬほどキュウリを盗んでおいて、あらかた腐らせるとはお百姓の迷惑。一本もいで食べ、腹が減ればまた出かけて取るが河童の智恵。その間に次のキュウリも、黄色のあのかわゆらしい花から、ひょいと育つ」

 老河童の「ひょい」を合図に、魚もひょいと消える。
 太郎、次郎、魚の消えた先をぼんやりと見ているが、やがて太郎はあくびをする。

老  「やいやい、太郎河童」
太  「は(不服従の声音)」
老  「聞いておるかやい」
太  「は(不服従の声音)」
老  「そもそも……(話を思い出しながら)汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太  「……?」
老  「また、次郎河童、汝は石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな。果ては、汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの尻小玉を抜いて回る」
次  「(途中で太郎河童に)これは同じ話でござる」
太  「老河童殿は、魚も見えぬほど、もうろくなされておりゃる。説教されるもかなわぬによって、なんぞよいしようを……おお、それそれ、致しようがある」
次  「致しようとは?」
太  「老河童殿、野分がうるそうて大事なお話を聞き逃しそうにござる。もそっと前へお出くだされ」
老  「おお、これはよい事をおしゃった。聞かすぞよ。聞かすぞよ(前に出る)」
次  「これでは説教がうるそうなるが」
太  「よいよい。まあ、見てござれ」
老  「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 老河童、川底の流れに乗り、説教しながら、すり足で橋がかりへと横移動していってしまう。
 太郎、次郎、その移動をぼんやり見ている。
 老河童はやがて、橋がかりの途中で止まり、きょろきょろとあたりを見回す。

次  「これはいかなこと。説教がいこう遠くなった」
太  「野分でほれ、ここの(前を指し)川底の流れが違うてござる。老河童殿はそれに乗って流れて行かれた」
次  「老河童殿が川流れ」

 太郎、次郎、笑う。

老  「や、子河童どもがおらぬ。さては逃げおったか。待て、待て。どこじゃ。逃がさぬぞ」

 老河童、笑い声に聞き耳を立て、流れをそれて戻って来る。

老  「なんと汝ら、わしの目がどんみりとして見えぬを幸い、説教を聞かずに逃げたであろう」
太  「いやいや、逃げはいたしませぬ」
次  「老河童殿から動いていかれた」
老  「や、わしが? (見えぬ目で川底を見、足でおそるおそる川底に触れ)これは野分で流れが違うた。この、ここで(流れない場所を確認して)、も一度話すによってよく聞くがよい」
太  「老河童殿、みどもら、もそっとお近くで説教承りたく存ずる」
老  「おお、これはよい事をおしゃった」
次  「わごりょ、何を申す」
太  「よいよい、そこへ出なされ」
老  「さあて、聞かすぞよ。聞かすぞよ」

 次郎、少し老河童に近づく。太郎も、少し下手へ行く。

老   「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」    

 説教の間に、下手の太郎はすり足で橋がかりに横移動、上手の次郎は太郎のいた位置へと移動。

老  「(目をこらして前を見て)や、太郎河童が次郎河童に。いや(あたりを必死に透かし見て)、河童がたった一匹」

 太郎、次郎、大声で笑う。

老  「やいやい、子河童ども、なぜ動く」
次  「動くつもりはござらぬが、勝手に流れてござる。野分で」
老  「野分で?」
太  「(戻ってきて)これは申し訳もござらぬ。聞きたくとも聞けずじまいでござった。今度こそ誰も動かぬところを探し、説教いたされようと存ずる。ええ、次郎河童殿は、そこへ」
次  「ここへ」
太  「みどもは、ここ。老河童殿は、その少うし右、いやいや左へ」
老  「聞かすぞよ、聞かすぞよ(と移動)」
次  「あ、いや、もそっと後ろへ」
老  「うむ、聞かすぞよ、聞かすぞよ」
太  「そこがいちだんとようござる。さらば、説教なされてくだされませ」
老  「心得た。よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 説教を始めた途端、三人はすり足であちらこちらへと、時々折れ曲がったりなどしながら、移動。
 最後の真言だけ、太郎、次郎は馬鹿にするように唱える。

太・次「オン・カッパ・ヤ・ソワカ、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」

 太郎、次郎、大声で笑いながら、流されたふりで橋がかりを通り、消え去る。
 しばしして、それに気づいた老河童は揚げ幕の方向へ杖を振り上げる。

老  「おのれ、ようもだましおったな。打擲してくるる」

 だが、流れはやまない。動く(老河童の移動は北斗七星の形をなぞること)。
 老河童、上手で杖にすがり、流されぬようにしているが、やがて杖を川底に刺したまま(後見、杖を斜めに支え持つ)、自らは正面前に流され、そこから後方の杖に手を差し伸べようとする。
 が、体はくるりくるりと回転するばかりである。

老  「おのれ、ようもようも」

 流れがおさまり、ぼうぜんと立つ老河童。
 もう杖がどこにあるのかまるでわからない。
 間。
 老河童は、目のあたりを両の手でかすかに押さえて。

老  「おうお、今日はまたよう濡るるわ」

 その形のままで間。

老  「くっさめ」
    
 老河童、去る。
 後見、杖を持って退場。


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by seikoitonovel | 2009-05-04 23:37 | 新作狂言

雑記3


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3

#第一小説3-5「結果、回ってるだろ?」→
「マワッテルダロ?」に訂正。
 それにともなって、この項の関連箇所を変更。

#第一小説4-1、(カシム・ユルマズ、島橋百合子両氏の許諾により発表)→(本人許諾により発表)に訂正。

 
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by seikoitonovel | 2009-05-02 03:05 | 雑記