自由 


by seikoitonovel
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カテゴリ:第三小説「思い出すままに」( 36 )

父1-6


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就職ー2



 待望の新聞記者生活は誠に楽しいものであった。自転車での取材活動があり、午前中には編集室に帰って記事を書き、午後5時頃に印刷されるまでセントラルで映画を観ていた。上映されるのは西部劇などの洋画が中心であった。
 新聞の印刷が刷り上がると、それを一読してあとは毎日のように酒盛りをした。私は編集長の命令で、大きな鉄瓶を自転車にのせて横手町の密造どぶろくを買ってきた。ここで私は酒の洗礼を受けたのであるが、父の遺伝子を受け継いだらしく幾ら飲んでも悪酔いはしなかった。たまに頭がぐらぐらするほど飲んで吐くことはあったが、一升以上飲まない限り悪酔いはしなかった。
 月給は出たことは出たが、支給日がずれることがしばしばあり、半月も出ないことがあった。労働組合が結成され、若手の私は青年部長に選出された。新聞労連に加盟して、その全国大会に出たこともあった。そんな中である日、給料の遅配・欠配を許すなと叫び、編集局の同僚今井君と夜に社長室を占拠し、断食闘争に入った。しかし、社長と編集長の話し合いが行われ、善処するというのでこの闘争は一日で終わった。S25年の赤狩り(共産党員の追放)の余波をうけて、我々が尊敬していた永井組合長が追放された。サンケイ新聞で宮内庁詰め記者をやった経験があり、どうもそのころ共産党員とみなされたらしい。しかしこの疑いはすぐにとけてまもなく編集局に帰ってきた。
 さて、私は初任給が幾らだったか思い出せないが、毎日のように昼飯に寄った飯屋の中華ソバが確か35円であった。それから推量すると3,000円位ではなかったか。私は給料の半分を父に送った。宿泊所が編集局の片隅で宿直を兼ねたから、日常生活の費用はほとんど必要なかったからでもある。
 信陽新聞の四苦八苦の状況のなかで、S26年、読売新聞が支援に乗り出してきた。読売本社から営業責任者として大江原氏が、編集顧問として梅津氏が派遣されてきた。ともに本社の重役で相当の腕利きとの触れ込みであった。読売新聞本社がなぜ信陽新聞の再建に乗り出してきたのか。それは朝日新聞との対抗のためであった。



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by seikoitonovel | 2009-05-12 22:48 | 第三小説「思い出すままに」

父1-5


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就職ー1



 S24年に岡谷南を卒業。治幸兄の世話で松本の信陽新聞社の編集局に入った。当時治幸兄が信陽新聞の諏訪支局の記者をやっていたこと、信陽新聞の社長が諏訪の有名な宮坂酒造会社の息子だったことによる。大学への道は諦め、とにかく早く働きに出て少しでも親の助けになりたいと私は考えていた。もともと文章を書くことは嫌いではなく、新聞記者に憧れていたからでもある。
 牛乳の販売は戦時に引き続きなお統制されており、苦しい家計のなかにあった。一番早く家に帰ってきたのは計男兄で、朝早くから列車で伊那方面へ買い出しに出掛け、夕方薩摩芋などをリュックサックに一杯詰め込んで帰ってきた。そのうちに兄武男が海軍兵学校から帰ってきた。そして「われわれはいつ米軍に掴まるかもしれない」といっていた。
 私と弟の幸男・安幸は新聞販売店で夕刊の配達のアルバイトをやっていた。大黒柱の源蔵兄は20年の初めに戦死の公報が入り、高島小学校で合同慰霊祭がすでに行われていた。後に南方の戦地で九死に一生を得て帰ってきたが──。はやく働きに出て親の助けになりたいとおもったのには、この様な家の事情があった。振り返ればこうしたなかで父はよく我々の学費を出してくれていたと思う。
 さて当時、長野県での本格的地方新聞は本社を置く「信濃毎日新聞」(信毎)だけであったが、松本でセントラルという映画館を経営していた宮坂社長がこれに対抗して松本を中心とする本格的地方新聞を設立したのであった。最初は夕刊だけの発行であった。資本に物をいわせた強引な新聞社づくりではあったが、戦後直後のことであり、そう順調に運ぶわけはなかった。しかし文化的土壌をもつ信州の真ん中の松本(国宝の松本城があり、旧制松本高校の所在地でもある)だけに地方の情報紙への待望感があり、購読者は順次増加していった。自信を持った宮坂社長は長野市や諏訪市など地方支局の設立も進めた。映画館の利益を新聞にかなり注ぎ込んだようだが、苦しい経営が続いていた。
 本社社屋はセントラルの一角におき、編集局は一階、印刷と文選工場はセントラルの地下にあった。中央の記事は共同新聞社と契約していたが、とにかく新聞を発展させるには膨大な人員が必要であった。一線記者、整理記者、校正記者、地方支局記者、文選工、印刷工、販売所、拡張員、広告取りなどなど。良い新聞を作ろうとすれば途方もない資金が必要である。
 私は就職と同時に編集局の隅の2畳の部屋で寝泊まりすることとなった。仕事は朝一番の列車で送られてくる共同新聞社の記事を取りにいくこと、その後は整理記者が整理した原稿を地下の文選工室に運ぶこと、編集室内の掃除など。1年後からは校正を受け持った。編集長の「新聞記者になるには給仕からやるものだ」を信じて働いていたから、与えられた仕事を苦労と感じたことはまったくなかった。2年後に待望の記者を命ぜられ、警察と市役所を受けもった。ここから本格的記者生活が始まったのである。


<いとうせいこう注
 この「就職」の項目は長いので、私の編集者的な判断で三つに分割して掲載する。父はこの間の事情を事細かに覚えていて(正確に言えば「思い出して」)、まことに丁寧に書き込んでいる。項目ごとの長さは、父の自分自身の過去への思い入れに比例すると思われ、その意味で本項は父の記憶にとってきわめて重要な位置を占めるだろう>


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by seikoitonovel | 2009-05-06 02:06 | 第三小説「思い出すままに」

父1-4


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終戦と混乱


 終戦時、私たちは中学3年生になっていた。8月14日、学校から「明日、登校するように」との連絡が伝えられ、9時までに登校すると全員講堂に集合させられた。校長先生から「12時にラジオで重大放送があるから聞くように」との話があり、ただちに下校を命じられた。私は同級生の松沢と歩いて上諏訪へ向かった。雲ひとつ無い猛暑で、歩けば砂煙が立った。
 12時の天皇陛下の玉音を聞いたのは上諏訪の石屋の前であった。雑音が多くてその内容はほとんど聞きとれなかったが、石屋の主人から「日本が戦争に負けたんだ」と聞かされた。大変なショックだった。2人はそれから黙ったままそれぞれの家に向かった。
 家にはだれも居なかった。私は奥の間で呆然と仰向けになって天井をみつめていた。一体これから日本はどうなるのだろうか。戦地にいる兄たち(源蔵は南方、治幸は東京の軍需工場、計男は新潟の連隊、武男は呉の海軍兵学校)は無事だろうか。父親の牛乳屋はどうなるだろうか。そして俺はどうすればいいのか。意識は混濁し、すべてを投げ出したくなるような、無気力になっていく自分を感じていた。
 障子を開けて兄嫁が顔をみせたが、そのまま黙って台所の方へ消えた。
 夕方になって父母がどこからか帰ってきたが、これまた押し黙ったままであった。
 8月30日、マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日、米艦ミズーリ号上で降伏文書の調印が行われた。
 2学期から学校が始まり、われわれはとりあえず学校に戻った。S21年は中学4年生となった。部活がはじまり野球部、スケート部などが活発に練習を開始した。私は最初はバスケット部に入り、ついでボート部に入った。
 文化活動の分野では弁論部ができたのでこれに参加した。学内対抗弁論部大会があり、優勝して中部地方大会に学校代表で参加し、4位となった。どんな事を題材にして弁論したか定かには覚えていないが、どんな事でもいいから皆で力を合わせて一生懸命やれば成らぬ事も成るといったことを、蟻の働きを例にしながら論じたように思う。
 学校のすぐ前が諏訪湖なのでボート部に入ったのだが、ボートは分厚い板で出来ていて10人乗りくらいのもの。船体は大変重く、オールの重みも尋常でなかった。思うようにボートを漕ぐことが出来なかったのですぐ退部したがそのうちにボート部も解散した。
 S22年には新憲法が施行され、6・3・3・4制の新学制が4月から施行された。国民学校が小学校に改称され、新たに3年制の新制中学校がもうけられた。しかし新制高校の発足は翌年度からであった。S23年の3月、旧制中学5年の卒業期を迎えたが、新制高校の発足に伴って3年に編入する制度が設けられ、旧制5年で卒業するものと、あと1年、新制高校に進むものと2手に別れ、複雑な卒業式となった。私は新制高校(岡谷南)に進む方を選択した。
 岡谷南校での思い出の中では、野球部が強く、県優勝の一歩手前までいったこと。この野球部の応援で松本まででかけて声を振り絞ったこと。スケート部がオリンピック選手を2人も出したこと。男子バレーで全国優勝したことなどである。
スケートのことでは諏訪湖が毎年全面結氷し、いいスケートリンクがつくられていた。下駄スケート時代で、よくその刃をヤスリで磨いて滑りに出掛けたものであった。戦後になって靴スケートで滑る少年が現れはじめ、両手を腰に悠々滑る姿が羨ましかった。私たちはついに靴スケートとは無縁で下駄スケートを押し通した。


<いとうせいこう注
 玉音放送を聞いた状況について、父は何度か私に話したことがある。それが「石屋の前」であったことも、もしかしたら父は話していたのかもしれないが、息子の私はディテールに無関心であった。
 だが今、文章として改めてその体験を読むと、記憶のリアリティがひしひしと迫ってくるのを感じる。その暑さとその静けさと、その思考の停止、つまり動けなさが。
 また、兄嫁が一度入ってきて出て行くくだりなど、息子の私が言うのもなんだが実にうまい。このエピソードは今まで聞いた体験談からは確実に省かれており、今回書くことを強制しなければ決して出てこなかっただろう。
 父にこのような筆力があることを、私は初めて知ったのである>


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by seikoitonovel | 2009-04-27 23:51 | 第三小説「思い出すままに」

父1-3


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狂気の時代の少年期


 敗戦まで20年間の昭和は日本狂気の時代であった。
 ざっと主な出来事を抽出すれば─
 S2年・金融恐慌。4年・ニューヨーク株式大暴落、世界恐慌へ。5年・米の暴落、農村恐慌激化。浜口首相東京駅で狙撃さる。6年・満州事変勃発。7年・満州国建国宣言。8年・国際連盟脱退。9年・ワシントン海軍軍縮条約破棄をアメリカに通告。東北地方の冷害・大凶作で娘の身売り、欠食児童続出。10年・中国共産党、抗日宣言。11年・ロンドン軍縮会議脱退通告。2・26事件、内大臣斉藤実・蔵相高橋是清ら殺害。12年・日中全面戦争始まる。13年・第2次人民戦線事件(大内兵衛ら検挙)。国家総動員法公布。14年・第2次世界大戦始まる。15年・日独伊3国同盟締結。大政翼賛会発足。政党崩壊。総同盟解散。16年・東条内閣発足・12月8日対米宣戦布告・真珠湾攻撃。20年・広島長崎に原爆投下。8月15日敗戦。
 こんな時代に幼少時代をすごしたのだが、そんな大変な事が進行しているとは知らず、「日本軍は世界最強」を信じ、「大きくなったら軍人になってお国のために尽くす」ことが男の役割だと考えていた。日本は神国、必ず神風が吹き、勝利する。と信じて疑うことはなかった。  
 S12年(1937年)高島尋常小学校に入学、諏訪市には小学校はこの高島小学校だけ。クラスは10クラス。1クラス40名として400名が入学した。
 8月に「支那戦争」(日中戦争)が始められた。次の2年生の時は「国家総動員法」が施行され、日本は国民挙げての戦時体制に入った。国語の教科書は「サイタサイタ サクラガサイタ」で始まる「サクラ読本」だが、つづくページには「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。修身教科書には「キグチコヘイハテキノタマニ アタリマシタガ シンデモラッパヲ ハナシマセンデシタ」があり、最初から軍国少年に育てられていった。先生は「君達は大きくなったら何になりたいか」と質問したが、ほとんどの生徒は兵隊になりたいと答えたものだ。私のクラスに一人だけ「商工大臣になりたい」と答えた者がいて、皆に笑われ非難された。かれは豆腐屋の一人息子で親が日頃から家を継がせようとしていたのではないかと思う。彼は大学教授となったが……。
 3年生になったS14年9月はドイツがポーランドに侵入、英・仏が対独宣戦布告し第二次世界大戦が始められた。そして5年生になったS16年12月8日、真珠湾攻撃がおこなわれ、日本はアメリカとの戦争を開始した。
 私たちは毎日、大本営発表の各地戦線の勝利を聞かされた。
 私の小学校時代はクラス一番の健康優良児、相撲は強くクラスでは西の横綱、グランド一周の徒競走はいつも1番、学年対抗のリレー競争ではいつも代表選手に選ばれていた。デブといわれるほど太っていたし背もクラスの中では低い方であったが、とにかく足は早かったのである。
 町の毎年の相撲大会では負け知らず、いつも優勝してバケツや箒などの商品をもらった。
 学校から帰るとすぐカバンを放り出して弟の幸男、安幸らをつれて山で蝉やかぶと虫などを捕り、川で鮒などの小魚を笊で掬ったり釣ったり、近くの寺のお墓でメンコやケン玉遊びなどに夢中になっていた。父から兎の餌を取ってこいなどといわれると喜び勇んで近くの畑や土手や畦などを駆け巡った。
 ある時、弟2人と兎の餌をとりにいったとき、途中の畑の人参の葉が青々としていた。兎が人参を好んで食べることを知っていたのと、その辺にだれもいないのを確かめてこれを盗んだ。弟たちも俺にならって盗み始めた。ところがこの時「この野郎たち、なにをするんだ。返していけ」と大きな怒鳴り声が聞こえた。この時ほど慌てたことはない。3人で必死に逃げた。途中の畑に「どつぼ」(人糞を溜めておく所)があり、そこを飛び越えながら逃げたのであった。これは初めての事でほんの出来心であったが、以来こうした悪いことは絶対にしまいと誓った。
 小学校での鮮烈な思い出のなかでは、S15年11月10日の紀元2千600年式典、全国各地で式典が繰り広げられ、私たちも旗行列に参加、一人一人に紅白の落雁が支給されたこと。

<いとうせいこう注>
 人参を盗んだ話を、私も数度聞いたことがある。
 どうやらこれは父の得意の笑い話であるようだ。
 だが、父は必ず誰か私以外の人間にそれを話すのだった。
 これ以降、いずれ訪れる見合いの席でも父はこの話をするはずだが、それも見合い相手の母にではない。
 父を母に引き合わせた母の兄・邦雄さんに対してなのだ。
 


混迷の中学生時代


 S18年に岡谷市が市政7周年の最大の記念事業として設立した岡谷中学校に入学したのであるが、諏訪地方には諏訪中学校と言う名門中学があり、クラスで成績のいい者だけがここを受験できた。私は「抜群の体育以外の成績は“良上”。このため諏訪中学は駄目で岡谷中学へいけ」と言われた。小学校はS16年から「国民学校」に改称され、成績評価は優、良上、良、可、不可の5段階でその順位によって中学受験が振り分けられた。入学試験はすでに筆記試験が廃止され、国民学校からの内申書と口答試験、身体検査だけであった。
 私の成績評価が“良上”ばかりだったのには、どうやら私の学習態度が関係していたようであった。6年生の時に、隣の椅子に座った女の子の頭を殴ったりしたのがどうやら先生の印象を悪くしたらしかった。
 私は諏訪中学校にはいけなかったが、上諏訪から岡谷までの汽車通学がむしろ嬉しかった。
 制服はカーキ色の国民服に戦闘帽、挨拶はすべて軍隊式の敬礼を強制され、登下校の時はもとより街中でも上級生へは敬礼した。しないと後で呼び出されてこっぴどく殴られた。だから早く2年生になりたかった。2年生になって最初にやったのが、敬礼しない下級生を登校途中でみつけ、休み時間に呼び出して椅子を逆さにし、そこに座らせて殴りつけ制裁したことである。われわれから制裁を受けた下級生の一人が戦後初めての冬季オリンピックでスケートの日本代表になった。彼は我々に殴られたこと対しては一言の愚痴もいったことは無い。
 中学の先生の中には恐怖を感ずるような先生がいた。いちばん怖かったのは国語の先生の「クボケン」(窪田健一)だった。有名な島木赤彦の息子であった。授業の時、教科書を読まされるのであるが、一字でも読み違えるといきなり拳骨が飛んできた。怖いからまた間違える、するとまた拳骨である。国語の時間はまさに恐怖の時間であった。
 1年生の時は学科の授業も普通に行われ、まだ「英語」の時間もあった。しかし「教練」という学科が設けられ、陸軍将校(中尉)が派遣されてきた。中尉といっても50才台の郎中尉であった。私たちは敬礼姿勢や行進などの初歩的なことや匍匐前進の訓練などを教えられた。
 私は2年生になって「陸軍幼年学校」を受験した。試験は松本でおこなわれたが、陸軍大臣の名前も答えられず見事不合格であった。一緒に受験した同級生のなかからは1人が合格しただけであった。
 前年には兄武男が「海軍兵学校」に合格した。同時に従兄弟の小松の「幸三」ちゃんは「陸軍士官学校」、武男と同年の小松の「清ちゃん」は「海軍兵学校」に合格した。幸ちゃんと清ちゃんは兄弟、母の兄さんの子供であった。ともに諏訪中学からの合格者で、従兄弟3人が同時に町のみんなに盛大に送られて入学していった。
 俺もという意気込みで、私は陸軍幼年学校を目指したのであった。
 さて、学科の授業が型どおりに行われたのは2年生になったS19年の2学期までであったが、突然われわれの間から英語追放運動がおきた。英語は敵性語だというわけである。われわれは英語教師の小宮山先生が教室に入れないようにピケをはった。ストライキである。このストの首謀者はクラスで一番の小口雄康であり、このために皆が結束した。これには学校側が驚いたようで校長が先頭になって説得を始めた。われわれのストは2日間で終結した。だれも処罰を受けなかった。それだけ戦況は不利になっている事が想像された。
 この事件が起こってから暫くして我々は高砂というところにあった「中島飛行機製作所」に勤労動員された。仕事は雑務でありどんな事をやらされたかは覚えていない。
 ある日、この工場の工場長が私たちを案内してつくった飛行機をみせてくれたが、木製の飛行機でせいぜい10人くらいか乗れる程度のものであった。「これが空をとべるんですか」と思わず聞いた。はっきりした答えは無かった。私のような者でもこんな飛行機で戦えるはずがないと実感したものであった。同級生同士で「これは敵の目を欺くために飛行場に並べておく模擬飛行機ではないか」と噂しあった。
 19年から20年前半までの戦況はどうであったか。歴史をひもとけば19年にはマリアナ沖海戦で日本海軍は航空戦力の大半を失い、サイパン島で日本軍全滅、東条内閣が総辞職に追い込まれた。ついでレイテ島沖海戦で日本連合艦隊の主力を失う。そして神風特攻隊が組織された。米機動部隊が沖縄の空襲をはじめた。日本軍はすでに制空権を失っていて、20年3月の東京大空襲をはじめ主要都市が米軍の空襲に晒されていたのである。
 そんな状態になっていることはつゆ知らず、われわれはこの時点でも日本の勝利を信じていた。20年の6月ころ上空にB29戦闘機が銀翼を輝かせてあらわれた。B29を見るのは初めてでありみんなで見上げていたのであるが突然何かがおちてきた。「伏せ」という大声が聞こえ、思わず身を伏せたのであるが、爆弾は落ちては来ず、チラシが舞い落ちてきた。拾い上げてみると日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになったことが日本字で書かれていた。それを見た私たちはなお「これはアメリカの謀略だ。だまされるな」と憤慨した。この時点でも諏訪はのんびりしたものであった。



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by seikoitonovel | 2009-04-19 00:21 | 第三小説「思い出すままに」

父1-2


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1-2


父と母について

 父友幸は北沢の隣の南沢の小平家の次男で伊藤家に養子として迎えられた。母は同じ上諏訪の湯の脇の小松家(宮大工の次女)から迎えられた。即ち両養子として伊藤家を継いだのである。私は祖父・祖母をまったく知らない。兄達からも祖父・祖母の事を聞いたことがないから私たちが生まれるかなり以前になくなっていたものと思う。
 父からは伊藤家の本家は庄屋で米俵に小判が一杯入っていたんだといった話を聞いたことはある。父が養子に入った伊藤家はその分家、小農である。
 父は小学生の頃、鉄棒の宙返りなど造作なくやってのける運動神経の持ち主で徴兵検査は勿論甲種合格、徴兵されて中国での戦争も経験している。
 尋常高等小学校を卒業してから農業に従事していたが、馬や牛を霧ヶ峰の牧場に連れて行くばくろうの仕事を手伝っていた(兄治幸から一度父につれられて牧場にいった、という話を聞いたことがある)。その頃の農家は牛か馬を牧場から借りて、田の耕しが一段落するとそれを返すために霧ヶ峰の牧場に連れていったのであるが、自動車などない時代だからこの労働はかなり辛いものであったらしい。父がその役を引き受けたものと思う。
 これが牛乳処理販売業を始めたきっかけであったと思う。
 母は小学校卒業と同時に製糸業の糸紡ぎの女工となった。父の話によれば母は糸紡ぎが非常に上手で優秀な働き手であったようだ。


<いとうせいこう注>
 父は自分は祖父も祖母も「まったく知らない」、と言う。しかも「両養子」という形なのだそうだ。伊藤家自体との血のつながりは一切ないわけである。いわば、私自身、ルーツを断たれているも同然で、この事実には少なからぬ感慨を持たざるを得ない。

     

9人兄弟

 私の後に7男幸男(1932年生・昭和7年)、8男安幸(1934年生・昭和9年)、長女寿美路(1936年生・昭和11年)が生まれた。8男1女、最後が女。生めよ増やせよで子沢山の家はそう珍しくはなかったが、続けて男が8人という子沢山は珍しかった。それも皆健康優良児で子供の中で病気になったり入院したものは一人もいない。これは父・母が健康であったこと、とくに母が人並外れた健康の人であったからである。
 6人とも人に後ろ指を指されるようなこともなく、学業の方も落ち零れたものはいない。治幸は早稲田大学、安幸は中央大学、武男は海軍兵学校へ入学している。



私の生まれた頃-農村恐慌・自殺者1万3942人

 1927年(昭和2年)は片岡直温蔵相の失言から金融恐慌、29年(昭和4年)はニューヨーク株式相場が大暴落し世界恐慌となった。このため輸出産業の中心だった絹の値段が大暴落し製糸業の危機となり、片岡製糸を中心とする岡谷製糸業は倒産の危機に直面した。各地から働きに出てきた女工たちは首切り・失業者となった。米価も暴落し農村恐慌はますます深刻化し、娘の身売り、一家心中、自殺者の急増という事態を招来した。
 一方で日本の軍事的膨張が満州を舞台に始められていた。満州地方(中国の東北部)は日露戦争で勝利した日本がロシヤの権益の一部(南満州の利権)を譲り受けたものであった。日本はこの権益の拡張を目指し関東軍が中心となって様々な工作を行い溥儀を担いで執政とする満州国(奉天・吉林・黒竜江・熱河の4省を中心にし首都を新京とする)の建国へと突き進んで行く。
 建国の宣言が32年(S7年)、この満州国建国は欧米列強の反感を買い、国際連盟で日本非難決議が25対1で可決され、日本は国連を脱退し、国際的に孤立した。
 ところが日本国民は国際連盟の脱退を歓呼の声で支持した。「満州へ満州へ」のもとに満蒙開拓団が結成され、日本人はぞくぞく満州へわたっていった。
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by seikoitonovel | 2009-04-14 22:52 | 第三小説「思い出すままに」

父1-1


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 第一章

 1-1


 出生


 1930年(昭和5年9月11日)。長野県諏訪市岡村北沢で父友幸、母よしのの6男として出生。
 長男源蔵(1920年生・大正9年)、次男治幸(1922年生・大正11年)、三男巻男(1924年生・大正13年)、四男計男(1926年生・大正15年・昭和元年)、五男武男(1928年生・昭和3年)の兄達は皆健康であった。
 母親よしのは2年に一人づつ生みつづけてきたのである。長男源蔵と私とは10才違いであった。私が小学校に上がったときには源蔵はすでに尋常高等小学校も卒業して家業に従事していた。兄弟は兄弟であってもこの差は大きい。私は幼少時に源蔵と親しく話を交わしたという記憶はなく、恐ろしく力の強い頼もしい兄貴という印象でしかない。



父の家業

 
 私が生まれた頃には牛乳処理販売業を営む、○井(井の○囲い)伊藤牛乳店といい、その頃の上諏訪の同業者は大手町の○中(中の○囲い)という牛乳処理販売店が一軒あるだけであった。最初は5頭ばかりの乳牛を家の庭で飼い、母が搾乳していたことを朧気に覚えているが、それはわずかな期間だけだったのではないかと思う。その後は乳牛農家(せいぜい5頭位しか飼っていない小規模農家)から牛乳を集めてきてそれを熱処理し一本一本一合ビンに詰め宅配した。最初は販売先の開拓・集金など父が行っていたようだが、父は源蔵の高等小学校の卒業を待ち構えていてもっぱら自分の手足のように使った。
 家業は父母と源蔵が支えていたといっていい。


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by seikoitonovel | 2009-04-09 22:05 | 第三小説「思い出すままに」