自由 


by seikoitonovel
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カテゴリ:第三小説「思い出すままに」( 36 )

父3-2


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<『私のつぶやき』4 伊藤幸子
 「正幸誕生」

 3月19日、外は雪景色、しんしんと降り続いていました。
 昼頃、無事男の子が生まれ、まずはひと安心でした。それから正幸はすくすくと育っておりましたが、私が乳腺炎になってしまいました。大変苦しい思いをしました。母と兄が一生懸命看病してくれました。
 兄は私を慰めようと、面白いことを言っては笑わせてくれましたが、笑う度に傷口が痛くて閉口しました。だがそれを兄に伝えることが出来ませんでした。
 そんなある日、正幸に母乳を与えているときのことです。正幸が飲んでいるのをフトやめて、私の顔を見上げてニコニコと微笑みました。その時の顔は私が今まで見たことのなかった美しい顔でした。慈愛に満ちていたように思いました(親馬鹿かな)。
 その時、母が覗きこんで見ていて、ひと言言いました。”こんなすばらしい笑顔は今まで生きていて一度も見たことがない”と。そして”幸子、この子はこんなに母親のことを信頼しきっていて、ありがとうと言っているように思える。だから今は苦しいけれど頑張らなければいけないよ”と静かに言われました。私は黙って頷き、頑張ろうと決心したのでした。
 この時は母と兄には大変お世話になりっぱなしでしたので、いつかお礼をと思っておりましたが、ついその機会もなく、二人とも旅だってしまいました。私は大変不孝者だと悩んだ時期がありました。


「不思議に思うこと」

 時が過ぎ、子供たち二人も成人になり、平凡な生活が続いておりました。
 ある日、田舎で生活しております母が病に倒れました。私が見舞いに行った時のことです。
 田舎の姉と二人で床についている母の前で雑談をしておりました時、しばらく黙って聞いておりました母がニコニコと微笑んで、私達を包み込むような優しい顔をしました。その時私は、正幸が生まれて2、3カ月経った時に私に見せたあの微笑みと同じようだ、と思って不思議な感じに襲われたのでした。
 それから4、5カ月経って、姉に逢い、雑談していると、姉がひょいと母のあの微笑みのことを言い出しました。姉はおばあちゃんのあんなにいい顔は見たことが無いとのことでした。姉は不思議だねと言っておりました。私は姉には正幸が生まれて2、3カ月経った時に私の顔を見て母と同じような笑顔をしたことは話しておりませんでした。私は母と正幸の笑顔には何かを訴える共通点があるかもしれないと考えた事もありました。>


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by seikoitonovel | 2009-08-03 01:29 | 第三小説「思い出すままに」

父3-1


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正幸誕生-1


 民社党の結党・民社青連の結成・結婚・都議補欠選挙への立候補と慌ただしかった35年が明けて、久し振りに三鷹の新居での穏やかな正月を迎えた。
 この新居は吉祥寺駅から井の頭線で二つ目の三鷹台駅から歩いて5分のところの2階家で、その2階の6畳間であった。幸子は料理が得意で毎晩おいしいものを作ってくれた。独身時代には味わうことのなかった物ばかりで、うまいうまいを連発して食っていた。もちろん酒は欠かさなかった。たちまち太っていくのが実感された。
 この時点で幸子はすでに妊娠7カ月目を迎えていた。7カ月を迎えても幸子のつわり症状はまだ続いていて苦しそうだった。そのこともあり、幸子は2月に入ってから今井の実家にお産のために里帰りした。私としても安心であった。
 ただ、大家さんの言うのには子供ができたら別の家に引っ越して欲しいとの事であった。慌てて家探しを始めた。幸子には帰ってくるまでには探しておくからと約束した。一軒家を不動産屋で探し始めたところ、三鷹市牟礼というところに新築の貸家があるという。早速出掛けてみると、6畳と4畳だけのこぢんまりした家が6軒建っていた。そのなかで道路に近い家を借りた。このことを連絡すると幸子から「引っ越しの時は姉の愛に手伝ってもらって」との事であった。愛さんはそのころ帝人に勤めていて、都内の中野に住んでいた。この愛さんのおかげで引っ越しはスムースに行われ、幸子と「正幸」を待つばかりとなった。
 3月19日、朝から雪まじりの雨が降る寒い日であった。昼過ぎ「生まれた」と電報がきた。私は列車に飛び乗るようにして今井へ急いだ。母子共に元気そうであった。その姿をみて安心し、2日後、諏訪の実家に寄って報告し、再び帰京した。
 子の名前は私が双方の父親の名前の一字を貰うこととして、幸子の父親の政司の「政」と私の父の友幸の「幸」から「政幸」としたが、もっと簡略な字にと思い、政を「正」としてみた。こうすると左右対象に近くなり、簡便でかつ座りがいい、と自分で勝手に納得した。
 だが、これを「まさゆき」と呼称したのでは面白くないなあと感じたのである。それには理由があった。青年運動の仲間に「古田政行」(ふるたまさゆき)という、口下手で酒が入ると愚痴ばかりいう酒乱気味な男がいたのである。そこで正幸をまさゆきと呼ばず「せいこう」と呼ぶことにした。「まさゆき」より、このほうがなんとなく響きがよかった。


<いとうせいこう注
 私は三鷹市牟礼にまったく思い出がない。
 自分が西東京にいたことが、長らく下町に住み慣れていると不思議で仕方がない。
 さて、私は自分の名「正幸」が、「まさゆき」でなく「せいこう」であることで子供の頃によく笑われた。今の私の通り名がひらがなであるのは、漢字で書いてあれば誰も正確に読んではくれず、訂正するのも面倒だとあきらめたからである。
 一度、中学生だったか高校生くらいの時だったか、母に自分はなんでこんな名前になってしまったのかと問いつめると、母は洗濯物をタンスにしまいながら、「お父さんが選挙のときに呼びやすいようにって言ってた気がするけど」と答えた。私は選挙に出る未来を勝手に予定されていたことに、非常に奇妙な感じがして吹き出したように記憶している。父は私に何かを強制したことがなかったから、私は初めて父の沈黙のうちでの希望を理解した気がしたのだ。
 その名付けが今回、実は「酒乱の友人」との区別をつけるためだと判明した。これは父が一度も話してくれたことのない事実である。
 そして、「このほうがなんとなく響きがよかった」のだそうだ。
 「なんとなく」……>


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by seikoitonovel | 2009-07-29 11:53 | 第三小説「思い出すままに」

父2-6


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都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-2

 ところがである。都議選告示の日の朝、まだベッドの中の私の耳に選挙カーのマイクの声が聞こえてきた。どうやら「伊藤云々」と聞こえる。そして、その声がだんだん近くなってくるうちにはっきり「こちらは民社党から立候補しました伊藤郁男です」と聞こえてきたのであった。これにはびっくりした。ベッドからとび跳ねて起き上がると、宣伝カーが病院の前に止まり、吉田君が病室に飛び込んできた。
「伊藤さん、申し訳ないがお聞きの通りとなった。病院でこのまま寝ていてくれて結構です。同志みんなで代わりを勤めますから」との事で、私もこれにはただ呆れるばかり、しかし成り行きに身を任せることとなった。
 党本部の仲間が連日、入れ替わり立ち替わり宣伝カーに乗って、私の名前を連呼して回っているようだった。ところが同志達が次々と病室にやってきて、「毎日伊藤なる人物が変わっていたのでは、本物はどれか、ということになる。有権者に対する冒涜だ」、「私が伊藤ですとやっているが、どうしても力が入らない」などと言う。
 中には見舞いの酒だと一升瓶を持ってきて、これを飲めという者もいた。肝臓病に一番悪いことは分かっているはずだが、「これを飲んでくたばったら奥さんを身代わりに立てる。そうしたら当選だ」と言う。こういう乱暴な奴までやってきたのである。
 約束と大分ちがうじゃないかと思いつつ、私も覚悟して5日目から街頭に出た。朝8時から12時、午後1時から5時まで街頭に出、最後には私から社会党候補に申し込んで都議選では初めての立会い演説会を実現させた。この立会いで私は「麦は踏まれて強くなる。民社党は今苦境にあるがやがて必ず大きくなる」と胸をはった。
 いずれにしろ、入院しながら選挙をやったのは私が最初で最後であった。選挙の結果は惨敗だった。しごく当然の結果というべきであった。
 S35年の政治混乱期とはいえ、いかにも馬鹿らしい無茶をやったものだと思う。自分が選択した民社の思想・理念への確信、何としてもこの党を消滅させてはならぬとの情熱が、こんなことに走らせた要因である。


<『私のつぶやき』3 伊藤幸子
 「夫の都議会議員選挙の時のことについて 2」
 とうとう立候補したのですが、ある時夫の街頭演説を聞いておりましたら、遠くの方から別の宣伝カーで「民社党の伊藤郁男をよろしくお願いします」と言って下さっている声が聞こえてきました。不思議に思いました。調べてみましたら、その声は前浅沼稲次郎社会党委員長の奥様のお声でした。
 奥様は社会党の候補者の応援に来ておられたとのことでした。あとで問題になったと伺いました。
 浅沼社会党委員長様とは、夫が右派社会党の機関誌に勤務している時に大変お世話になったと聞いておりましたし、私たちの結婚の時には記念品として大理石の置時計を頂戴しました。そんな関係で委員長様の奥様とはお逢いしておりましたから、夫を見て心配のあまり遂に口に出してしまわれたのではないかと思います。
 
 数日後に夫の入院している病室に行きましたら、夫がおりません。30分位待っても帰ってきません。病院の係りの方に伺ってみましたが、全く分からないという返事でした。
 私は先日の札束の件がありましたので、大変不吉な予感に襲われました。もしかしたらと悪い方に考え、胸の動悸は激しくなるし、息苦しくなってしまい、いろいろ考えました。最悪の時には実家に戻ろうと思い、心を落ち着かせようとしました。
 それから1時間以上たっていたと思います。夫が晴々とした顔をして戻って来ました。聞くと、床屋さんに行って来たとのことでした。私は少々頭にきましたが、無事だからよかったと何も言いませんでした。
 あの時夫にもしもの事があったとしたら、長男(正幸)、長女(美香)と巡りあうことはありませんでした。>

<いとうせいこう注
 父・郁男の最初の選挙戦はデタラメであった。
 それでよかった時代を、今は懐かしむのみである。
 デタラメのうちには、母の証言にあるように、情によって敵に塩を送った浅沼稲次郎夫人の例も入っている。
 さて、今回も写真をつける。
 父の選挙事務所。
 父本人が乗る選挙カー。
 そして、父の立候補姿。
 母が並んで立っている。
 写っていないだけで、私はすでにいる>

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by seikoitonovel | 2009-07-24 22:38 | 第三小説「思い出すままに」

父2-5


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都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-1


 35年1月24日の民社党の結党は大変な反響を呼び、新党ブームが起こった。社会党が内部抗争もさることながら院内闘争での審議拒否、暴力による抵抗戦術など、議会制民主主義に反する行動に終始したからであった。
「議会は論戦の場であり、審議拒否などの戦術はとらない。審議を通じて考え方を広く国民に伝え、次の選挙で国民審判を受ける。それが多数を獲得する道である」とする民社党の主張に期待感が膨れ上がったのである。当時のマスコミの大半は「これで日本も健全なる2大政党時代が来る」と評価したものであった。入党者もうなぎのぼりに増え、一時は8万名に達した。池田内閣が解散で国民の信を問うことが予想され、党の衆議院選挙体制は急ピッチですすみ、130の選挙区のほとんどで候補者が揃ったのである。
 ところが日比谷公会堂で開催の自・社・民社3党立会演説会で、社会党浅沼委員長が右翼愛国党の暴漢に壇上で刺殺された事件を契機として社会党への同情が集まり、11月20日に行われた総選挙の結果は自民296、社会145となり、民社は17名に止まった。選挙前40議席だったから惨敗であった。この選挙で私たちが住んでいた東京7区でも北条秀一先生が落選した。
 このあとで私に突然難題が降りかかってきた。三鷹市で東京都議会議員をしていた社会党の田山東虎氏が、この総選挙の直前に都議を辞任して郷里茨城の衆議院候補者となった。三鷹市の都議の定員は1人のため、総選挙後に都議の補欠選挙が行われることとなり、私がその選挙の候補者としてにわかに浮上してきたのである。
 北条先生は剛気の人であり、「民社党が大惨敗を喫したこの時こそ、民社党のど根性を見せるときだ。民社党は死なない。そのためにはこの都議補欠選挙に候補者を立てて戦うことだ」と主張した。落選の悲哀を味わったばかりのこの北条先生の気合いに反対できる者はいず、「そうだ、そうだ」と同意するものばかりであったが、ではだれを候補者にするかが大問題となった。
 三鷹総支部長をはじめ数人の名前が上がったが、引き受けようという者は出てこない。私は総支部書記長ではあったが、三鷹の住民になったばかりで友人、知人はおろか知名度もゼロに近い。出ても勝てる要素は何もない。しかし、党本部書記局員であり、北条先生の考え方にも大賛成。頼まれたらむげに断れない立場であった。
 切羽詰まった段階でついに私に白羽の矢が立てられた。私は結党─結婚─総選挙と続いて疲れ果てていたし、何よりもこの時点で妻幸子が4カ月の身重であった。断りたいというのが本音であった。それにはどうすればいいか。体調を理由にする以外にないと考えて野村病院で診察を受けた。慈恵医大の先生の回診日で、この先生の診断は「肝臓が腫れている。選挙などやったら命は保証出来ない。すぐ入院だ」という。私はその通りに直ちに入院の手続きをとり、総支部の吉田君(党本部機関誌局の後輩)に連絡し、幸子への連絡を依頼した。
 吉田君からの伝言をうけた幸子は仰天したらしい。幸子は事のいきさつは何も知らない、いきなり夫がなんの病気で入院したのか、大変なことになったと思ったらしい。入院に必要な最低のものを用意して駆け付けてきたのであった。
 これで私の立候補は無くなったと思って、医者の指示に忠実に従った。毎朝太い注射管で葡萄糖注射を打たれた。
 

<『私のつぶやき』2 伊藤幸子
 「夫の都議会議員選挙の時のことについて 1」
 私は全く無視された出来事でした。
 報告があった時、ただただ驚くばかりで、何も言えませんでした。
 結婚したからには夫に協力するのが妻の役目としか考えられず、覚悟したつもりでおりましたが、腑に落ちないことばかりでした。
 夫は総選挙活動の疲れから入院せざるを得なくなったのですが、入院している病室に立派な方がお見えになったので、夫は立候補をお断りすることになったことをお伝えしました。するとその方がいきなり「面子を潰された」と百万円の札束を机の上に叩きつけられました。私はその時、五ヶ月の身重でしたので驚きのあまり立てなくなったように覚えております>

<いとうせいこう注
 この時、「腑に落ちないことばかり」の母の腹の中にいたのが私なのであった>


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by seikoitonovel | 2009-07-11 22:44 | 第三小説「思い出すままに」

父2-4


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私の結婚2


 帰京して邦雄氏に報告し、異存のないことを伝えた。それから暫くして邦雄氏から「幸子もいいと言っている」との返事があった。私は早速、結婚の日取りの検討に取り掛かる。民社党の結党(S35年1月24日)があって忙しかったので、すこし落ち着いてからと思い、5月中にと決めた。
 早速日本青年館に出向いたが、大安の日などはまったくふさがっていた。当時は結婚式・披露宴の会場は足場がよく、料金も安いこの日本青年館に人気があった。私もそこで結婚式をやろうと決めていたのだが、吉日はなかなか取れない。そんな時、係が「仏滅の日なら空いていますよ」という。冗談のつもりでいったのだろうが、私はこれにすぐに反応した。「俺は革新運動をやっている現代青年だ。大安とか仏滅などという旧来の慣習にこだわる必要もなかろう。仏滅の結婚式も話題性があっていいかもしれない」というわけで、5月31日(日曜日、仏滅)に決めたのであった。
 日と会場がきまれば最大の難問は誰に仲人になってもらうかであった。私は日本社会新聞の編集長山崎宏さんなら引き受けてくれるだろうと思い、相談した。すると山崎編集長は「西尾(末広)委員長がいいではないか。よかったら俺から頼んでやろう」とのこと。私にとって西尾委員長は私が尊敬する第一の人であり、私はこの人の思想と行動に共鳴して民社党を選択したのである。それまでにこの人の演説や文章に触発されてきたが、言葉を交わしたことはない。私のような一介の書記局員の仲人など引き受けてはくれまいと思ったが、「頼んでくれるだけで光栄です」と返事した。1週間もたたないうちに山崎編集長から「西尾先生がいいよと言っている」という連絡があった。私は感激した。
 山崎編集長は大島出身・東大をでて、戦後に出来た社会党内閣官房秘書官となった人。西尾官房長官時代の発言や文章は山崎さんの草案によるものが多かった。こうした強い繋がりによって西尾先生が仲人を引き受けてくれたのであった。
 3月のはじめに結婚式の案内状を島書記局長をはじめ今まで交友のあった仲間に送った。ところが、すっかり準備が整った段階で邦雄氏から「どうも幸子がこの結婚を断ってくれと言ってきている。結婚式など勝手に決めてくれても出席しないと言っているようだ」とのこと。
 これには愕然とした。案内状は送付ずみ、その案内状には「西尾末広御夫妻の媒酌によって」と記されている。なんとしても幸子を説得してもらう以外ない。邦雄氏に「こうなったら、とにかく出席してもらうだけでいいから」と懇願した。
 その後邦雄氏がどのように説得したかは知る由も無かったが「出席だけはさせるようにしたから」と返事があり、なんとか結婚式を済ますことができた。伊藤家からは父が、高木家からは両親が出席された。
 披露宴では渡辺朗さん(当時、党の国際局事務局長。後に代議士・浜松市長を歴任)が司会をひきうけてくれ、出席者も100人を超え、賑やかであった。披露宴が済むと党総務局阿部君運転の党の乗用車で東京駅まで送ってもらった。2日間の新婚旅行が組んであり、初日は箱根の小湧園、2日目は伊豆長岡の菊池旅館であった。この新婚旅行の費用は党書記局の仲間がカンパでまかなった。幸子は東京駅で列車に乗ってから覚悟を定めたようであった。
 こうして私たちの新婚生活がはじまった。
 最初の新居は三鷹市であった。


<いとうせいこう注
 淡々と書いてあるので見過ごしがちだが、父はデタラメである。
 母の都合も聞かずに式場を決め、日取りを仏滅にして「現代青年」を気取っている。
 これは父のせいではないが、そもそも母の結婚への意思はあやまって伝えられたらしい。
 母は話が勝手に決まっていると聞いて驚愕した。
 だからあわてて「この結婚を断ってくれ」と彼女の兄に伝えた。
 すると「(式に)出席してもらうだけでいいから」と父は懇願した。
 そして出席した母を、父は新婚旅行に連れていってしまった。
 これは略奪婚、と言ってもいいのではないか。

 母はどう証言するだろう。
 彼女が書いてくれた文章を以下に付す>


<『私のつぶやき』1(伊藤幸子)
「私の結婚のことについて」
 私の家は田舎の旧家でした。父は平凡なサラリーマン(特定郵便局長)をしておりました。 
 だから私はごく普通の家庭に育ったとおもいます。独身時代には5、6種のお稽古事をしながらのんびりすごしていました。
 したがって、縁談のお相手が政治活動をしている人だと聞いただけで、そんな人と添い遂げることなど自信がもてませんでした。私はあまり派手好みではありませんでしたし、都会の生活も不安でした。だから、すぐお断りしたのでした。
 ところが、兄たちに「縁というものは理屈でははかりきれないものだよ」などなど何度も説得されました。
 考えあぐんだ末、結婚を決意した次第です>


<いとうせいこう注
 やはり、これはほとんど略奪婚だ。
 そして、母が略奪される瞬間の写真が、先日実家で見つかったのである。
 箱根に向かう列車はまだ走り出していない>


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by seikoitonovel | 2009-07-06 13:05 | 第三小説「思い出すままに」

父2-3


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私の結婚


 私が結婚を真剣に考えるようになったのは、母の死からである。母はS34年の1月に亡くなった。前年の12月に脳溢血で倒れたのであるが、ちょうど年始年末の帰郷中であった。すこし快方に向かいつつあるという医者の言葉を信じて1月5日に帰京した。
 帰京の直前、母の枕元で「頑張ってね」と激励した。その時母がうなづきつつ「郁もそろそろ年だし、嫁をもらわねば」と呟くように言った。私も母を安心させるつもりで「うん。考えているから。そんな事を心配するな」と答えたのであった。
 しばらくは大丈夫だろうと考えていたのだが、7日の朝「ハハ、シス」の電報である。頭に釘を打ち付けられたような衝撃であった。ただちに飛んで帰り、母の骨を拾った。「郁、そろそろ嫁をもらわねば」が私への母の遺言となったのである。
 この年のある日、民主社会主義連盟(民社連)の編集長をやっていた高木邦雄氏から「俺の妹と見合いしてみないか」との話があった。民社連はS26年12月に結成された民主社会主義を普及・啓蒙する思想団体で、右派社会党を支える理論集団であった。高木氏は中央大学を卒業後、青森の中学校の先生をしていたが、民主社会主義に共鳴して上京し、民社連発行の雑誌の編集長となった。聞けば岡谷市今井の出身とのことで急速に親しく交際することとなった。
 母の遺言のことがいつも頭にあったので、私はためらわず「いつでもいいよ」と答えた。すると1カ月もしないうちに「妹も承諾したから俺の岡谷の実家で会ってみてくれ」との事であった。その見合いの日取りも決めてくれた。
 邦雄氏の弟の弘康氏がすべてを段取りして待っていた。弘康氏はお父さんの政司氏が開設した今井郵便局の局長を引き継いでいた。大変な酒豪で、挨拶もそこそこにすぐ酒盛りとなった。見合い相手の幸子はその途中で挨拶に来たが、私は弘康氏とすっかり意気投合して2人で1升瓶を軽く空にした。
 弘康氏は人を決してそらさず冗句を連発して笑わせた。誠に爽やかな印象だった。幸子は料理を運んで来ながら私を観察していたらしいが、結局私とは一言もかわさず、私もそんなことなど気にもならず、この見合いは終わった。ただ、弘康さんの妹ならうまくやって行けるだろうと思ったのである。


<いとうせいこう注
 ついに母が現れた。
 だが、父はまだ“一言もかわ”していない。
 むしろ父は、まず母の兄である邦雄さん、弘康さんになついたようだ(そして、父にとってそうであったろうように、両叔父は私の人格形成にも大きな影響を及ぼしていく)。なにしろ、母にでなく、弘康さんに対して「誠に爽やかな印象だった」と言っているくらいだ。果たしてそれが見合いだろうか。
 
 さて、次回からは母の証言も同時に、この場に載せていく。
 母は私同様、父のこの自叙伝を読み、自分としてのコメントをしていくのである。
 この自叙伝はつまり、家族による、複数の視点からのレポートと化していく。
 いわば「我々の家族小説」といったものになるわけだ。

 ちなみに、母は自分の原稿に『私のつぶやき』という題名を付けている>


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by seikoitonovel | 2009-06-22 22:12 | 第三小説「思い出すままに」

父2-2


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父2-2


右社外郭青年組織への参加(東京民社青同の事務局長に選出さる)


 右派社会党は民主社会主義をその指導理念とした。社会党分裂がS26年の10月の臨時党大会であったが、丁度この年の7月ドイツのフランクフルトで開催された社会主義インター大会(長い大戦でばらばらとなっていた西欧各国の社会主義組織が初めて一同に会した)が新しい「民主主義に関する宣言」を発表した。通称これをフランクフルト宣言と呼ぶのであるが、この宣言でロシヤなどの共産主義運動を「新たな帝国主義」とよび、「自由無き社会主義は社会主義でない」「民主主義を通じて社会主義を建設」とうたった。共産主義(マルクス・レーニン主義)への決別宣言であった。
 この宣言は日本社会党内のマルクス主義でない人々に有力な理論的武器を提供することになった。それまで日本の中では民主社会主義という言葉はなかった。したがってそれまでの発言や文書はすべて「社会民主主義」という言葉が使われていたのである。朝日新聞などの左派系はいまだに民主社会主義という言葉を使ったことがない。このためわれわれの考えが明確に伝わらないことがしばしばあった。
 さて、右派社会党は青年部を持たず、青年対策本部を持った。初代青年対策本部長は浅沼稲次郎。青年部を作らなかったのは日本社会党の「青年部」がしばしば党の決定方針に反対し、党内党的行動によって党を混乱させたこと。党外の青年への影響力とならないこと。などの理由によるものであった。
 そこでS28年1月の全国大会で党の外郭組織として自主的青年組織の結成をはかり、そのことによって党に直接入ることを躊躇する青年達にも広く党の影響を及ぼすことを狙ったのである。それまで右派系青年団体として独立青年同盟の活動があり、これが左派攻撃で潰されたあとに重枝琢巳氏らが青年懇話会を作って活動した。これがひとつの基盤となって「民主社会主義青年同盟」(民社青同)が29年1月に結成される。私たちはただちにこの民社青同の東京組織に加盟して活動した。
 結成直後の民社青同に降りかかってきた難題は両社統一問題であった。私達は民主社会主義という新しい理論のもとで右派社会党を支えていこうとして意気ごんでいたのだが、党内に統一積極派と慎重派が生まれ、これに民社青同も強い影響を受けて激しい論争が展開された。
 慎重派の代表は西尾末広で「左派はマルクシズムに立脚し、必ずしも暴力革命を否定していない。これに対して右社は暴力を否定し、選挙の結果多数をとれば政局を担当し、少数になれば下野するという考えである。この相違の解決をはかろうとしないで、ただ大衆が要望しているからといって無原則な歩み寄りや妥協をすれば、数は多くなっても政局を担当するや直ちに政策的に行き詰まって破綻する。それでは大衆の要望に反することになる」「割れた茶碗を継ぎたしたような安易な統一をやれば、下手をすれば再分裂という結果さえ引き起こすであろう」との考えを明らかにしていた。この考え方に同調する青年たちも多かった。
 また、日本の安全保障問題に関連して「憲法9条が自衛権まで放棄しているとみるのはどうか」「このさいこの問題の理論統一が必要ではないか」の意見があり、民社青連は一時分裂の危機に直面した。この危機は統一積極派の麻生良方会長と慎重派の黒田忠氏ら総同盟系との話し合いによって「われわれの団体はそれ自身政党ではない。思想と志を同じくする民主社会主義的政党の発展に貢献し、同党を通じて目的を達成する」など結成時の5原則を確認し、両派社会党の統一如何にかかわらず組織を存続させ、主体性を強化するとの方針を確認して収拾した。
 こうして、民社青同は両者統一後も活動を続けた。私は東京民社青同の事務局長に選出されたが、西尾派と見做されていてその代表として担がれたのであった。
 しかし両社統一後の統一社会党青年部が、党の外郭に2つの青年組織(社青同と民社青同)があるのはまずいとの考えから両組織の統一を絶えず働きかけたこともあって、民社青同の活動には次第にブレーキがかかっていった。



民社党の結成に参加


 統一社会党は西尾末広の予言どおりかえって内部対立が深くなり、参院地方選の相次ぐ敗北によって、再び大衆政党か階級政党かの議論を蒸し返すこととなり、左派の「西尾除名」問題を契機として社会党は再び分裂してS35年の民社党結党へと推移する。
 私は当然、民社党に参加した。そして民主社会主義青年運動の再構築を目指して民社青同を解散して「民社青連」を発足させ、初代事務局長に選出された。
 日本社会新聞も解散され、あらたに民社党中央機関紙「週刊民社」が発行され、私は引き続きその記者(身分は正式な民社党書記局員として採用された)となった。
 党活動の面では三鷹総支部の書記長に選出された。


<いとうせいこう注
 こうして読んでみると、端的に言って父は活動家なのだった。
 考えてみれば当然なのだが、ここまでそうだったのかと私は驚いている。
 個人的な事柄がほとんど書かれていないのは、社会と思想それ自体が激動していたからだろう>




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by seikoitonovel | 2009-06-14 21:34 | 第三小説「思い出すままに」

父2-1


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第二章


新しい出発


 S28年(23歳)の上京の時期は、左右社会党も労働運動も激しい対立抗争の最中にあった。それはその後の日本の政治と労働運動の進路を決定づける思想対立であった。階級闘争によって共産主義的革命政権(独裁政権)を樹立するか、自由と民主主義を発展させる立場から民主的手段によって政権を獲得して政治を行うのか(選挙による政治家の選出、議会主義)の闘いであった。私は後者を選択したのである。またそれは新聞記者から政党活動家への選択であり、新しい出発であった。
 日本社会新聞の記者となり、労働組合運動の担当となった私は、毎日のように当時芝市兵衛町にあった海員組合の本部と三田の総同盟本部に通った。自転車もなく、三宅坂からすべて徒歩であった。私は海員組合では和田春生、木畑公一氏ら、総同盟本部では古賀専、中島桂太郎氏らにあって、取材活動を続けた。上京当初の私に確たる信念はまだなかったが、これらの指導者の話を聞く度にだんだんその運動の目指すものが理解できるようになっていった。
 私は右派社会党の書記ではなかったが、武蔵野支部の党員となった。支部長は中村高一代議士であり、書記長は市議の後藤喜八郎氏(きいちゃんと呼ばれ人気があった。のちに武蔵野市長)であった。私に目をかけてくれたのが伊藤重雄市議であり、伊藤さんには新しい下宿を探してもらったりした。選挙の時にはこの伊藤さんの事務所に張り付いて応援した。
 さて労働運動の方はといえば、4単産声明後これに賛同する産別の間で「全国民主主義運動連絡協議会」(民労連)が設立され、4単産のほかに総同盟、常磐炭労、全食品、日本鉱山、全国港湾同盟、全化同盟、造船労連、国鉄民主化同盟、全造船石川島分会、全国土建総連などの産別が加わった。そしてS29年4月22日、全労会議の結成となった。組織人員80万名であった。
 一方、左右社会党が急速に接近し、S30年の統一へと進む。森戸・稲村論争、講話問題、日米安保問題などで激しく対立し、その社会党を支える労働組合が大きく分裂したのにもかかわらず、両社会党がなぜ統一を急いだのか。一つは自民党の吉田内閣が崩壊し、鳩山内閣となり、にわかに鳩山人気がたかまったこと、総選挙を目前にひかえて左右分裂のままでは共に低落するのではないかとの危機感によるものであった。このため基本理念は置き去りにされ、統一綱領では党の性格を「階級的国民政党」とした。まさに水と油を混ぜ合わせたようなものであった。すなわち階級政党論は暴力革命をも容認して一党独裁政権を目指すものであり、自由と民主主義を否定する内容を包含する。国民政党論はこれを否定し、国民の自由意志による選挙によって多数を占めた政党が政治を担うという民主主義にもとづく。まさに相容れない思想なのである。
 全労はこうした便宜主義的な統一に強く反対した。
 私たちは両者統一後も日本社会新聞の発行を独自に続けた。私は総評批判を止めることはなかった。このため統一社会党書記長となった浅沼(稲次郎)さんから「おい、あまり総評批判ばかり書くな」と言われたことがあった。


<いとうせいこう注
 ここまで読む限り、父にプロレタリア独裁を選択する余地はなかったようだ。
 いわんや無政府主義をや。

 また、今回から「第二章」と区分を付けた。
 さかのぼって冒頭に「第一章」という一行を入れる>
 


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by seikoitonovel | 2009-06-05 20:16 | 第三小説「思い出すままに」

父1-8


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上京・日本社会新聞時代


 S28年4月、単身で上京した。新宿駅に市川君が出迎えていてくれた。早速、三宅坂の社会党本部の4階にあった編集局に連れていかれ、山崎編集長と先輩の平田修三さんを紹介してもらった。
 下宿は市川、平田両君が借りていた田無の下宿での共同生活であった。ここから毎日、中央線で新宿に出て都電に乗り、三宅坂に通った。
 日本社会新聞は右派社会党の中央機関紙であり、党の補助なしの独立採算の新聞であった。社長は右社書記長の浅沼稲次郎で専務は参議院議員の曽根益であった。私は労働組合関係を受け持ち、平田氏は議会活動と党の関係を主として受け持った。
 終戦直後に戦前の無産政党の各派は一つとなって日本社会党を結成した。中心的役割を担ったのは片山哲、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らであり、戦後第2回目の総選挙で第一党となって片山内閣を組織した。官房長官は西尾末広であった。
 しかし社会党内閣は出発当初から左右の思想対立を抱えたままであり、左派マルクス主義者の鈴木茂三郎が予算委員長となったが内閣提出の予算案を自民党と一緒になって否決したため、社会党内閣はわずか7カ月で潰れていく。そしてS24年の第3回総選挙で143の議席が僅か48議席となり、片山委員長までも落選した。
 党の再建を巡って左右が激しく対立、右派の森戸辰男が党はマルクス主義と対決する政党であるべきことを主張し、左派稲村順三がマルクス主義は人類解放の理論であり、真の社会主義を建設し得るものは労働者階級であること、社会党はあくまでも労働者階級の政党であることを主張した。この森戸・稲村論争はいわゆる「国民政党か階級政党か」の論争で、これが26年の全面講和か単独講和かの論争と絡んで、ついに左右社会党に分裂していく。
 労働組合運動では、戦後の産別会議(共産党)主導の階級闘争至上主義運動に反対して民主化運動が起こり、これがS25年の総評結成へと進んで行く。ところがこの総評がマルクス主義者の高野事務局長を中心とする左派勢力によって1年も経たずして左旋回、と同時に破壊的な階級闘争至上主義への傾斜を強めていく。
 その闘争の象徴となったのがS27年の秋期闘争の、電産の電源ストをふくむ約3カ月、炭労の約2カ月に及ぶ長期ストであった。結局この無謀・無法の闘争は世論の批判にさらされ、全面的敗北となった。これに対して全繊、海員、日放労、全映演の4単産が批判の共同声明を出し、S29年、これに共鳴する労働組合とともに全労を結成していく。
 私が上京したのはこうした変化の時であった。


<いとうせいこう注
 こうして父は戦後政治の世界に入っていく>


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by seikoitonovel | 2009-05-27 23:04 | 第三小説「思い出すままに」

父1-7


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就職ー3


 長野県では戦前から「信毎」が朝日系地方紙として圧倒的なシェアーを確保していた。読売の狙いはこの朝日の勢力と長野県で対等の地位を確保したいというもので、そのために新興勢力の信陽新聞と提携する戦略にでたのである。
 ただ私にとってはそんな事はどうでもよかった。良い記事を書く、この事しか念頭になかった。
 池田君という若い後輩の入社、校正係から一線記者を拝命されてから編集局隅の宿直生活から開放されて、印刷局の田中君の薦めで松本から大糸線で2つ先の島内駅の近くの貸家に田中君、営業の宮本君と3人での下宿生活にはいった。この下宿のご夫婦は温厚で親切であった。家のすぐ前には梓川がゆったりと流れていた。夕方になると、この家の小学生が釣りをしていた。
 編集局で仲の良かったのは整理記者の市川正二君だった。彼は大町の高校を卒業して入ってきた私の同期であった。頭のきれる優秀な男で整理(記事の過ちを正し、見出しをつけ、その記事を紙面のどの辺に入れるかを考えて割り付けする)の仕方をすぐ覚え、武井整理部長から信頼されていた。酒もよく飲んだ。
 S27年、彼は辞めて東京に出ていった。聞けば右派社会党の中央機関紙「日本社会新聞」に就職したとのことであった。どうやら毎日新聞を辞めて信陽新聞の編集長になっていた西沢さんの紹介と勧めによるものらしかった。この時点で私にはまだ辞める気持ちなどはなかった。
 ところが、その年の暮れ、市川君から電話があり、こちらの編集長が記者が欲しいといっているからこちらに出て来ないか、との誘いがあった。
 この話があってから、私の心に俄に勉学心が沸いてきた。田舎の蛙から脱却しようとの志である。松本ではよく社会党の演説会が開催されていた。松本出身の弁護士で代議士の棚橋小虎がいたからである。浅沼稲次郎、三宅正一など社会党の闘士らが弁士としてやってきた。私はなぜかそれを聞くのが好きで聞きに出掛けた。そして時には棚橋先生の弁護士事務所での記者会見へも顔を出した。秘書の岩垂寿喜夫君(後に総評の政治部長─社会党代議士・自社連立内閣で環境庁長官となる)とも親しくなった。このことも私の東京行きを決断させた背景であった。


<いとうせいこう注
 父は自分がかつて新聞記者であったことを、確かに何度か私に話した。今から思えば、である。
 だが、私には「信陽」とか「信毎」といった地方新聞自体がイメージしにくかったし、父がそこで記者として何をしていたのかをほとんど理解出来なかった。
 私はいつも、記憶から父の新聞記者時代を消してきた。それどころか、父からまさにその話を聞いている最中にさえ、私は理解しがたいイメージを次々に消去した。つまり、聞いていなかった。
 私は父の、おそらく最も青春に近い時代の思い出話をこれまでずっと無視してきたのである。

 また、ここでの父の“演説への興味”に私は驚愕せざるを得ない。
 ここ数年、私は日本語でのラップを単に80年代中盤以降のアメリカからの輸入文化として見ず、明治時代以降のあらゆる演説の歴史の延長としてとらえる考えを得、それを率先して実行していたつもりだったのである。
 だが、それを父の嗜好の遺伝とみてしまえば、私の考えは目新しくも何もない。
 果たして「カルマ」とはなんであろうか、と問わざるを得ない。
 我々はみな、なぜか親の嗜好、あるいはまたその親の嗜好から自由になれない。
 知らずにいても、嗜好は世代を越えてやってくる。
 嗜好を否定して冷徹に考えているつもりでも、小さな隙に嗜好は来る。
 我々を不自由にする、この強い力はなんだ?
 なんなのだ?>


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by seikoitonovel | 2009-05-22 23:23 | 第三小説「思い出すままに」