自由 


by seikoitonovel
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カテゴリ:第三小説「思い出すままに」( 36 )

父4-6


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6、チャンス到来・兵庫1区永江選対へ派遣さる


 そうして、こうした努力の成果を試す機会が巡ってきた。それが67年1月の第31回衆議院選挙である。
 66年に自民党代議士の相次ぐ汚職・職権乱用事件が発生し、田中彰治、農相松野頼三、運輸相荒船清十郎などが相次いで逮捕、辞任に追い込まれた。これを新聞は「黒い霧」と呼んだ。自民党一党独裁の弊害が爆発的に噴出したのである。
 野党は11月の臨時国会で黒い霧の追及を要求するが、佐籐首相はこれを無視し与党単独で補正予算審議を強行した。しかし沸き立つ世論に抗せず、年末押詰まった12月27日遂に衆議院解散となり、明けて1月8日公示、29日投票の選挙となった。
 私は急遽、兵庫1区永江一夫の選挙オルグとして派遣された。永江先生は戦後社会党内閣の農林大臣となり、民社結党の立役者の一人であった。60年選挙で落選、63年でも涙を呑んだ。当時は党本部の組織局長であり、私の直接の上司であった。なんとしても復活を遂げねばならない。
 オルグに決まるや党兵庫県連からすぐ飛んで来いとのこと、一刻の猶予もない、28日に新幹線に飛び乗り神戸三宮の党事務所にかけつけたのであった。事務者は突然の解散で党幹部や党員がかけつけ、ごった返していた。先生に挨拶し、当面の宿舎(ホテル)を紹介された。そして31日と1日だけ家に帰って来てよい。2日から常駐だ、との命令であった。30日夜家に帰り、家族4人であわただしい年末年始を過ごすと、2日の夕方には三宮に戻った。妻幸子は愚痴ひとつ言わず、万全の旅支度を整えてくれた。
 3日は6時半から三宮駅頭の朝立ち。そのあと事務所で朝食。そのあとは夜遅くまで職場へのオルグ、ビラ張りなどなどとにかく休む暇なしの強行軍がつづいた。長野県出身の私だったが、この年の神戸の寒さはこたえた。しかし夜になると若い同志たち、民社青連で共に活動してきた仲間たちがやってきて、三宮の飲み屋で時には神戸牛のビフテキや時にはスッポン料理で励ましてくれた。こうした兵庫の同志の暖かさが翌日の活動の原動力となったのである。
 こうして28日間のオルグを終えて投票日には家に戻って、投票(東京10区に党候補がないため、西尾末廣と書く)を済まし、翌日は党本部で各候補者の開票結果を待った。永江先生は見事に復活当選し、民社全体として30名が当選した。党の前途にようやく灯りが点ったのである。この選挙では公明党が初めて衆議院選挙に参戦、25名を当選させた。そして自民党は得票率50%を切り、社会は4議席減であった。
 永江先生に教えられて未だに忘れないことは次の言葉である。
 <その1> 
「政治とは何ぞや」と問う
「政治とは生活のことなり」
「生活とはなんぞや」と問う
「生活とは衣食住のことなり」
 簡単明瞭、政治は国民の生活を守り、高めること以外のなにものでもない。この頃の党首たちが盛んに「国民の目線に立って」ともっともらしく強調するが、そんなことは政治のいろはなのである。
 <その2> 
「選挙に当選したらみなさんのおかげ」
「落選したら不徳の致すところ」
 決して、天狗になったり、応援してくれた人を批判してはならない、という教え。候補者の基本的心構えである。


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by seikoitonovel | 2011-03-06 15:50 | 第三小説「思い出すままに」

父4-5


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5、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果


 63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
 自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
 江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
 こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
 そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
 また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
 当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
 64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。


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by seikoitonovel | 2011-02-23 23:14 | 第三小説「思い出すままに」

父4-4


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4、党再建の第一歩・63年総選挙


 62年の参議院選挙、63年4月の統一選挙では党再建が始められたばかりであり、参議院選挙は全国区3名、地方区1名の当選に留まって、統一地方選挙も成果は乏しかった。
 私は参議院選挙では古賀専(全国区候補・造船総連会長)の秘書役として加わり、地方選挙では武蔵野市の伊籐重雄さんの参謀として活動した。古賀さんは落選、伊籐さんは当選した。
 党の浮沈は次の総選挙にかけられることとなった。その機会が63年11月巡ってきた。私は選挙中は各候補の健闘ぶりを取材して書き、またしばしば党本部に寝泊りして各選挙区との連絡などにあたった。21日投票、翌22日が開票、この日の興奮はいまでも脳裏に鮮やかである。
 選挙区をしぼり、59候補を擁立した闘いで23名当選、次点者11名。自民283名(13減)社会144名(1減)のなかでわが党だけが5議席増の成果であった。選挙前のマスコミの「5名くらいになってしまうのではないか」の予測を完全に覆したのであった。勝利の喜びの中で開催した全国代表者会議で、西尾委員長は「トンネルを抜け出て原野に頭を出した。暗い谷間から小高い丘に駆け上がったところだ。前がよく見えるようになった。これからだ。全党員心を一つにして次に備えよう」とのべた。
 民社党一本支持で闘った全労は10年の歴史を閉じ、翌64年総同盟と合体して「同盟」を結成、180万組織となり、民間の労働組合数では総評を凌駕するにいたった。民社支持母体はより強化されたのである。


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by seikoitonovel | 2011-02-16 21:56 | 第三小説「思い出すままに」

父4-3


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3、激しい東西対立を背景に・呼び合うこだま運動を組む

 私たちを取り巻いていた諸情勢は一刻たりとも安閑としていることを許さぬものがあった。60年にはベトナム戦争が勃発、61年には東ベルリンの壁(東西ベルリン境界上43キロ)が東ドイツによって構築された。東ドイツから西ドイツへの亡命阻止の壁であった。そして62年キューバ危機発生。キューバにソ連が中距離ミサイルを配置、これに対して米ケネデイ大統領は海上封鎖を宣言してミサイル撤去を要求。まさに一触即発、核戦争まで予測され、世界は固唾をのんだ。
 米・ソの核兵器開発競争も熾烈なものであった。ソ連が61年に49回、米国が62年に60回もの原水爆実験を繰り返したのであった。
 こうした東西対立が日本国内に持ち込まれ、60年の安保改定には左翼陣営が総動員体制で闘いを組んだ。国会周辺には連日数万が動員されて騒然たるものであった。そして全学連のデモ隊が国会正面玄関を突破、警備隊との押し合いのなかで東大生樺美智子さんが押しつぶされて死亡。安保改定案は自民党の単独多数で成立していくが、岸内閣は総辞職に追い込まれる。
 また62年の原水爆禁止世界大会は大会中にソ連が核実験を行うが、共産党勢力はこれを無視、対して日青協(日本青年団協議会)、地婦連(地方婦人団体連合会)などが「いかなる国の核実験にも反対すべきだ」と抗議して退場。原水協は分裂してゆく。
 こうした情勢のなかでの民社党勢力の復活には幾多の障害があった。しかし共産主義陣営のこれ以上の勢力拡大を許すわけにいかないとの私たちの思いには切羽詰ったものがあった。
 その思いの中で、全労の青年婦人部の仲間たちと私たちが起こした運動のひとつが「呼び合うこだま運動」であった。この運動は当時、共産党の「民青」が集団就職で都会に出てきて孤独に陥りやすい青年男女を巧みに誘導し、「歌って、踊って……」の遊びに参加させて民青会員(共産党員)にしていくという活動が全労の青年婦人活動を脅かしつつあったのに対抗するためのものであった。
 全労のなかから、民青に対抗して真の文化運動を起こそうとの動きが起こって「全国勤労者文化協会」(全文協)がつくられ、どのような活動をやるか模索しており、私たちにその案づくりの相談が持ちかけられたのである。ちょうど民社青連は2年目の活動として蓼科高原キャンプ大会を目論んでいた。私の親戚が長野県茅野市奥蓼科の持山を利用して「みどり山荘」というキャンプ場を経営していたので、私の提案で計画したものであった。
 この計画を全文協で持ち出したところ、この際友好団体が互いに協力しあって一つの行事としたらどうかということになり、全文協、全労青婦、民社青連に加え青学会議、日本婦人教室,海友婦人会、民社研で実行委員会を組織し、「第一回呼び合うこだま働く者の山の集い」が開催されたのである。全体として400余名が参加、大成功であった。
 集いの趣向も青年らしい創造的なものだった。まず集まってきた青年-婦人たちの”自治村“という想定で村三役として村長赤松常子(日婦)、助役伊籐郁男、収入役船田登美(日婦)、公安委員長綿引伊好(全文協)をおき、バンガロー毎に参加団体が自由な集落名をつけた。民社青連はこれから育つという意味から「ひよっこ部落」と命名した。グループ活動は絵画、彫刻、和歌、詩、コーラス、盆踊り、フォークダンスなど。夜はキャンプファイヤーを囲み、夜空に二十発の花火を打ち上げた。この花火は長野の私の仲間のサービスであった。
 この集いの成功によって、呼び合うこだま運動は各地域に急速に広がってゆき、やがて各産別の青年婦人行事のひとつとして定着していったのである。
 そして、この年は夏に民社・全労が中心となって「核兵器禁止・平和建設国民大会」を開催、10月に「核禁会議」を結成(前述)、私は事務局次長となり、以後今日まで核兵器禁止運動を続けることとなる。

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by seikoitonovel | 2011-02-11 11:22 | 第三小説「思い出すままに」

父4-2


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2、党機関紙記者と青年組織の活動家として


 既に記したように、私は右派社会党中央機関紙『日本社会新聞』の記者としての活動とともに民主社会主義青年同盟の一員として活動、東京民社青同事務局長にも選出されたが、民社党の結党と同時に日本社会新聞は「旬刊社会新聞」と名を変えて民社党中央機関紙となった。私は引き続きその記者として採用された。そして身分は民社党書記局員となった。それまでは書記局員の身分でなかったから党に縛られずに自由に活動できたのだが、これからはそういうわけにもゆくまいとは思いつつも思う存分「総評批判」が出きる喜びがあった。
 青年活動の分野では、民社党結党の翌日に「民主社会主義青年連合」(民社青同の名称を民社青連と変えた)を結成。初代事務局長となった。会長には海員組合の小川純一氏が選ばれた。 
 私たちは民社党全面支援の活動を展開した。活動資金は海員組合長中地熊三さんが「これからは青年が頑張らねば」となんの条件もつけずに出してくれた。その額は月30万円という多額であった。(いまならどの位の金額になるだろうか。それを惜しみも無く出してくれるこのような怪物が当時はいたのである)。このため私たちは民社党本部事務所(森ビル)の地下1階に事務所を設置し、3名の専従者を配置することができた。組織作りは順調に推移し、岡山民社青連の会長生末敏夫君は民社党の衆院議員候補者に選出された。
 こうした私たちの希望に満ちた活動が始まったばかりの、緒戦の総選挙で民社党は大敗北したのであるが、私たちもくじけてはいなかったのである。私たちは「民社党に投票してくれた350万人の期待にこたえねばならない」との意思固めと同時に党外青年への一層の宣伝活動の活発化を誓ったのである。


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by seikoitonovel | 2011-02-09 12:36 | 第三小説「思い出すままに」

父4-1


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まず党の再建に全力投球・惨敗にめげず


 民社党が最初に迎えた1960年(S35)11月の総選挙は予期せぬ惨敗であったが、私の東京都議会補欠選挙への挑戦が示しているように同志たちの闘志は健在であった。マスコミの一部には民社党の前途を悲観的にみるのもあったが、私たちは必ず立ち直ってみせると意気軒昂であった。
 敗北の原因は社会党浅沼委員長が日比谷公会堂で演説中右翼青年に刺殺されるという不幸な事件によるものであって、民社党の思想・信条が国民に否定されたものではないと信じていたからであった。また民社党の結党を支持し選挙を全面支援した最大の支持団体全労はより強力な体制で民社再建を約束した。
 民社党の本部には有識者の多くから激励の声が続々寄せられてきた。尾崎士郎は「私は民社党に好意を持っていました。意外に負けたので、これではいかん。本当に積極的に支持する気持ちになった」と語った。そして徳川夢声、平林たい子、唐島基智三,矢部貞治,菊田一夫、竹山道雄、佐古純一郎、蝋山政道らの学者・文化人が発記人となって「民社党を励ます会」を開いた。
 とくに私たちに大きな勇気を与えてくれたのは次の菊田一夫の「民社党におくる」と題した詩であった。


 庶民は政治というものを知らない
 庶民は春の陽炎のなかに
 いつも睡たげな眼をして
 のどかに暮らしていればいいものだから……

 政治が悪いとき
 乱暴者が世にはびこるとき
 庶民は ひょいと眼をさます
 政治はどうなっているだろう
 政治とは中庸の道ではないかしら
 古すぎては困り
 激しすぎては世の中がひっくりかえる
 その中庸の道も
 世につれて進んでゆく

 政治は常に 世間より
 一歩進んでよい加減
 二歩進めば怪我人がでる
 ……といって
 退歩すれば
 支持というローラーにひきつぶされて死ぬ人も出る
 民主社会党は中道の政党        
 中庸とは昼寝をしていることではない 
 政党が庶民のせっかくの特権を奪ってはならない
 日本人は中庸を好む国民だ
 自分個人の人生には
 いつも中庸の道を選んでいる

 そのくせ……
 他人様を批判するときは
 いつも 前か後ろか 右か左か 赤いか白いか……
 それは……
 自分個人の道を選ぶ道が 
 勇気のない卑怯さからの中庸の道だからである
 自分自身に勇気がないから
 他人様に 激しさ古さ 右か左かをもとめるのだろう
  
 激しさには喝采が与えらえる
 古さと頑迷には老人達の拍手がおくられる
 意気地なしと言われながら
 中庸の道を選ぶには
 勇気がいる

 民主社会党よ
 日本国を
 我々の国を
 正しい軌道に進めるための
 激しい闘いを起こしたまえ
 
 国民は一億
 ほんとうは みんな
 破壊主義でない 
 頑迷でない
 ほんとうの民主主義
 新しい道が
 好きなのです


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by seikoitonovel | 2011-02-01 20:53 | 第三小説「思い出すままに」

父3-5


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<いとうせいこう注

 前項を書いてから、一年以上が経ってしまった。
 伯父(以前は「叔父」と誤表記していた。訂正する)はあれからすぐに亡くなった。
 退院したあと、伯父は気持ちを変えていた。
 親戚である私のもとにも、「俺はもう十分生きた。これ以上はもういい」という伯父の言葉が伝わってきていた。いかにも伯父らしい、短く潔い宣言から一週間もしなかったのではないか、伯父は食べなくなり、意識を遠のかせ、つまりは死の準備を始めた。私たちもそうなるだろうと諦めをつけ、微笑んだ。
 2011年1月11日、高木邦雄は亡くなった。
 葛飾区鎌倉町の、すなわち私が育った町の小さな斎場で私たちは伯父を送った。小さな孫たちがたくさん来ていて、伯父の額に手を触れたり、泣いたりしていた。
 弔辞を読んだのは、私の父だった。
 邦雄さん、あなたは私の先生でした。
 そう始まる弔辞は感動的で、修飾に流されず、しかし敬意を直裁にあらわすものだったが、あとで聞いたところ原稿は残っていなかった。父は短い時間の中、紙の上で推敲し、直しの入った文をそのまま読んで、伯父の棺へと納めてしまったらしい。私はこの父の自伝に引用出来たらよかったのにと言ったのだが、父はきょとんとした顔でそうだったなと答えるばかりだった。
 さて、前項に訂正がある。
 私が病院を訪れたとき、伯父はベッドに腰かけていたと私は書いた。
 だが本当はおまるの上に座っていたのだった。
 おまるの上で伯父はびっくりしたような顔で私を見、しばらくそのままでいた。私が自分の名を言い、やがて伯父が涙と鼻水を流し始めたのも、おまるの上でだった。
 私はそのことを伯父の生前書けなかった。>
 




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by seikoitonovel | 2011-01-25 14:58 | 第三小説「思い出すままに」

父3-5


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<いとうせいこう注

 父が書く通り、私は“邦雄おいちゃん”(高木邦雄)の家の庭に建った小さな住宅に住んでいた。事情を知ったのはずいぶん大人になってからだが、すでに子供の頃から私にはわずかな引け目が存在していた。なにかしら両親が話す言葉を耳に入れていたのだろう。
 と同時に、私は叔父と叔父家族に強い憧れをもって育った。従姉妹にあたる陽子ちゃんは美しかった。陽子ちゃんはよくコーラを飲んでいた。60年代から70年代にかけて、私にはコーラというものが贅沢な舶来品にしか見えていなかった。私は陽子ちゃんがコーラを飲むのを見る度、どきどきした。小学校低学年の頃、私も一度陽子ちゃんにコーラを飲ませてもらった。泡の刺激に驚いて、私は液体を吹き出した。以来、私は炭酸飲料自体を好まなくなった。
 ただ、数年前熊野の海で遊ぼうとした夏の朝、40代後半の私は誰に勧められたわけでもなく突然スーパーでコーラの500mlペットボトルを買い、駐車場の中でほとんどひと息でそれを飲んだ。おいしい、と思った。こんなにおいしいものをなぜ自分は飲まずに来たのか。その日から毎日毎日、私はコーラを飲んだ。夏が終わっても、飲食店に行けば私はほぼ必ずコーラを頼んだ。数ヶ月前まで、私は人が変わったようにコーラを飲み続けた。自分の中で何が変わったのかはわからない。
 葛飾区に話は戻る。父が建てた住宅、つまり私が育った家の前には初め、ほんの小さな庭があった。今考えれば、本来は叔父たちが楽しむべき空間であった。だが、私たち家族の住宅がそれを密閉し、私たちだけの場所にしてしまっていた。叔父自身は日曜日の午後などに、たまに私の家に来て、母の出すインスタントコーヒーを飲んだ。縁側に座って庭を見ていることが多かった。煙草を吸っていたかもしれない。
 私が叔父の長男である健ちゃんと同じある大学付属の中学に受かった頃だったか、その庭もなくなった。私の部屋が建て増しされたからだった。どういう話の流れだったかはまったく知らない。私の家は叔父の庭いっぱいに広がった。金銭的な余裕がない中の建て増しだったことは、住宅の角がトタンで覆われていた記憶でもわかる。風呂はなかった。
 私は少し話を急ぎ過ぎた。父の語るテンポを超えて、私は書いてしまった。
 だが、以下の思い出だけは今書き足しておこうと思う。
 数年体調のよくなかった叔父が、昨年入院した。母は悔いが残らないように会いに行っておきなさい、と私に言った。実際私が見舞いに行ったのは、麻生政権が出来る少し前だった。部屋のドアを開けると、叔父はベッドに腰をかけていた。おいちゃん、僕だよと声をかけるが、数秒の間、叔父はぼんやりとこちらを見るばかりだった。正幸だよ、と重ねて声をかけたとき、叔父はぶるぶる震え出した。叔父の目や鼻から粘液が出始めた。私は常にお洒落だった叔父のその姿を見るべきでないと思い、とっさに扉を閉めた。
 正ちゃんか、正ちゃんか、という泣くようなかすかな声が中からした。私はずっと扉の前に立っていた。どうしてよいか、私に方策はなかった。しばらくすると、叔父の声が大きく強くなった。あれが伊藤正幸だ、知ってるか、私の甥だと言っていた。看護婦らしき人がそうですか、などと相づちを打った。叔父は何度も何度も私の自慢をした。そのままでいると、私が泣いてしまいそうだった。私は扉を再び開けた。
 叔父はすでにかくしゃくとしており、涙も鼻水も夢だったように消え失せていた。正ちゃん!と叔父は言った。うん、と私は答えた。今、君のことを##さんに教えてたとこだ、と叔父は信州なまりが残る語調で言った。また、うんとだけ私は答えた。そこから先は叔父のワンマンショーになった。昔、憲兵に殴られて以来、叔父は片耳の聴力を失っていた。だから、声がやたらに大きい。
 叔父はまず、郵政民営化はどうしたって間違っていると言い出した。正ちゃん、君らがたださねばならんとも言い、総裁選を見る限り自民党内部はバランスを完全に崩しており、麻生も小池も本来あんなに票数を取るタマではない、俺が読んでいた票数と離れ過ぎていると言いきった。政権交代が起きた今からすれば、叔父の政治勘は鋭かった。
 俺はな、正ちゃん、こうして病院に入ったことで老人福祉の現状をよくよく観察し、考え抜いたとパジャマ姿の叔父は演説し、ますます大声になった。80歳を超えた人の声では、とうていなかった。
 もしも俺が命をながらえて退院出来たら、俺は老人問題をやる、しかし残念ながら寿命がそれほどあるとは思えない。叔父は私をじっと見すえてそう言い、だから俺が死んだら正ちゃんがやれ、と命じた。
 じゃ、と手を上げたのは叔父の方だったと思う。言うだけ言って、叔父はベッドに横たわってしまった。
 私もうんとだけまた答えて、それじゃおいちゃん、と言いかけた。何と続けていいかわからなかったので、私はまたねと言った。叔父はこちらを見もしないで、はいと答えた。
 私が住んでいた庭の持ち主はそういう人である。>


  
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by seikoitonovel | 2009-11-22 17:25 | 第三小説「思い出すままに」

父3-4


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葛飾に家を建てるまで

 その頃の親は子供に”パパ、ママ”と呼ばせるのが普通であったが、私のような田舎ものでがさつな男としてはそう呼ばれるのになぜか抵抗があった。そこで「お父さん、お母さん」と呼ばせることとした。幸子も大賛成であった。
 正幸は言葉を覚えるのも早く、絵本が大好きであった。買ってきてあたえるとむさぼるようにして何度も読み返していた。ある日、三鷹の本屋に連れていって絵本を買ってやると、本屋を出た途端に道路に座り込んで読み始めた。そんなところで読まなくても家へ帰ってゆっくり読めばいいじゃないかといっても、読み始めたらテコでも動かないようなところがあった。これには親としては嬉しく誇らしいような思いであった。
 正幸が3才になってから、私たちは葛飾の邦雄兄の庭をかりて小さな家を建てた。
 私はかねてから早く自分の家を持ちたいと考えていた。そうかといって薄給の身で家を建てられるだけの資金など貯まるはずもない。手持ちの現金はゼロ。親から資金を借りる訳にもいかない。
 ところがある日、邦雄兄から「俺の家の庭を貸してやるから」という願ってもない話があった。邦雄兄は葛飾の鎌倉町に家を持っていた。庭は20坪ほどだったが、私はこの話に飛び付いた。早速父に連絡したところ「土台は新宿にいる知り合いに頼んでやる。それができたら、直(なお。母の実家の甥)に建ててくれるよう頼んでやろう」との事であった。それなら当面の資金は必要ないし、最後は父が費用を出してくれるものと勝手に理解して、父のいう通りに事を運んでいった。
 直ちゃんはある日、刻んだ建築材を車に積んで諏訪からやってきて、2日で家の骨組みを建てて帰っていった。そのあとは鎌倉町の大工に内装建築を頼んだ。内装建築は意外に時間がかかり2カ月くらい要したが、とにかく小さいながらもまずは住めそうな2階建ての家ができた。
 ところがである。そろそろ引っ越しにかかろうかと考え始めていた頃、直ちゃんから手紙で、20数万円の建築費用を貰いにいくので「○○日」に新宿駅に持ってきて欲しいとの催促が来た。父がなんとかしてくれるだろうと思っていた私はこの手紙に狼狽した。あわてて資金集めに入ったが、この時に一番の助けになったのが、電話債券であった。そのころ電話債券がなければ電話を引く事はできなかった。政党書記が電話を持たない訳にはいかず、西尾先生の秘書的仕事があるのでという理由で電話債券を手に入れた。その債券はたしか15万円くらいだったと思う。非常に高かった記憶がある。
 この債券を売って、給料の前借りをし、20数万円をなんとか工面して私はこの難関を乗り切ったのであった。


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by seikoitonovel | 2009-10-18 21:15 | 第三小説「思い出すままに」

3-3


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正幸誕生-1


 正幸が生まれてから1カ月くらいで帰ってくると思っていたが、幸子は4月を過ぎ5月に入ったというのに帰ってこない。電話して聞くと、弘康兄からの返事は「もうすこし待て」とのこと。私もそんなに急がなくても実家でのんびりさせて置くほうがよかろうくらいに考えて、帰るのをじっと待っていた。
 結局幸子と正幸が帰ってきたのは6月の初めであった。どうしてこんなに帰るのが遅くなったのか、その理由が帰ってきてから聞いて初めて分かったのであるが、実は幸子の左の乳房が乳腺炎にかかり、40度近くの熱がでて寝たままであったという。手術をして炎症は食い止めたが、1日に1回づつ医者がきて傷口に管を差し込んで膿を抜き取ったのだそうだ。管を差し込まれる時の痛さは恐怖だったという。
 幸い右の乳からは母乳がでたので正幸の授乳はできたということだった。乳腺炎が快方にむかって床を上げてみると、床の下の畳が汗のため腐りかけていたという。こんな大病のことをなぜ私に知らせなかったのか、それはもっぱら弘康兄の配慮と幸子の我慢の由であった。そんなことを知らないでのんびり暮らしていた自分が恥ずかしかった。
 正幸は生まれてから2カ月くらい弘康兄が風呂に入れてくれていたのであった。また弘康兄は食事の時は組んだ足の上に正幸をのせてあやしながらであったという。食事を零したり、酒を零したりして正幸の顔に傷を負わせてはいけないというわけで、正幸の顔にハンカチを掛けて食事したそうである。正幸は最初は嫌がったらしいが、そのうち慣れて静かに食事が終わるのを待っていたという。
 正幸が夫婦のどちらに似ていたかといえば、どうやら私の方らしかった。弘康兄が風呂に入れるときに正幸の顔は郁さんそっくりだ、といっていたらしいからそうだろうと思う。
 6月帰ってきた幸子は7月にはまた実家に帰った。正幸の汗疹がひどく可哀相で、涼しい信州で過ごした方がいいと考えたからであった。
 幸子と正幸が牟礼の家に帰ってきたのは、やや涼しくなった8月の末であった。正幸はすっかり元気になっていたし、可愛さはますばかりであった。ところが11月に入って風邪を引き夜中に熱が高くなり、ぐったりしてきた。近くに病院はないし、あわててタクシーで日赤病院へ連れていった。こんな事でこの年も慌ただしく暮れた。
 年があけて1月の末、正幸が突然、炬燵の端に手をかけて立ち上がった。歩き始めるのは生まれてから1年くらいからと言われていたので、この時ほど夫婦で喜んだことはなかった。
 歩き始めてから3カ月ばかりがたったある日の夕方、銭湯に連れていこうと正幸の右腕を掴んだところ、急にその手に力が無くなりぶらぶらしている。といって痛がる訳でもなく、泣くのでもない。こんなことは初めてで何が起こったのか分からず、急いで近くにあった整骨院へ連れていった。
 先生は顔色一つ変えず、正幸の前にキャラメルを一つ出した。正幸は右手をぶらりとしたまま、嬉しそうにそれを左手で受け取って口に入れた。先生はにっこりして「右の脱臼だ」といって、ただちに治してくれた。そしてまた一つキャラメルを出してくれた。正幸は今度は右手で受け取って嬉しそうに口に入れた。一時とんでもないことになったなと思ったが、これでほっとしたと同時に腕は簡単に脱臼するものだと言うことが分かったのである。


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by seikoitonovel | 2009-09-13 14:47 | 第三小説「思い出すままに」