自由 


by seikoitonovel
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カテゴリ:第三小説「思い出すままに」( 36 )

父5-3


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5-3  候補者に選ばれるまでの二十年

 一体、なぜ私が参議院議員候補者として選ばれたのか。私には不思議でならないし、それだけに天命と言ったものを感じるのである。
 それまで民社党が地方区で候補者を立てることのできた地方は北海道、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡などの大都市に限定された。時には栃木、岐阜などが加えられたが、これらの地方区で当選できる候補者は余程の知名度がなければならない。だから特定の支持母体を持たない党本部書記局員が参議院議員になろうなどとは考えも及ばないのである。
 〝私もやがて表舞台で〟という強い願望をもった時代があったことも事実である。民社党の結党と同時に党本部書記局入りした私は、中央機関紙事務局長、組織局第一部長、国民運動事務局長、総務局次長、組織局次長などを歴任した。この間長野県連では私を県会候補にという話もあった。さらに五四年には長野県第三区から衆議院候補にという話もあった。この長野県第三区の場合は、すでに公認候補として確定していたG氏が、統一地方選挙直前になって突如公認辞退を申し入れてきたため、衆議院議員候補者選考委員長として候補者の発掘に四苦八苦されていた春日一幸先生が私を呼んで〝辞退させないよう説得せよ〟と厳命された、この厳命を受けて私は、G氏に何度か会ってみたがどうにもならず、公認発表の五月党大会の段階であきらめざるを得なかった。そこで春日先生は〝それでは伊藤君が次の候補だ。真剣に考えろ〟ということであった。強引な話だとは思ったが私もこれを真剣に受けとめ、親戚の人たちに集まってもらい話し合いをしたし、また支援母体というべき地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし地区同盟はG氏の準備活動をつづけてきており、今更候補者の切りかえはむずかしいとのことであった。それではたたかいにならない。私はこの話を断念した。
 一方、私は五二年以来組織局次長として和田晴生についで柳沢錬造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いていた。前にも述べた通り、私はこの経過を通じて党勢拡大への確固たる視点をもつようになった。〝裏方に徹して民社党発展のために自分自身の与えられた役割を果たしていこう〟との決意となったのである。

 そんな中、五四年十月選挙の勝利の余韻が未ださめやらぬ十一月の初めに、建設同盟の鈴木委員長と豊島書記長が党本部を訪ねてきた。会って話を聞くと組合の政治活動をもっと強めるために全化政連方式を採用したいとのことであった。全化政連方式というのはいわば民社党への団体加盟方式である。時宜を得た話で私はたいへん嬉しかった。
 その折、鈴木委員長が来年の参議院選挙をたたかう同盟内の全国区候補は、向井長年(電力)、田淵哲也(自動車)、柄谷道一(ゼンセン)=いずれも現職=の三名に決まっているが、あとの一人がまだ決まらない、なにをもたもたしているのだろうか、早く決めてもらわないと困る、という話であった。私も全く同感であった。全国区候補はいままで同盟から四名を出してきており、同盟はまた、四名は必ず当選させることができる力をもっている。ところが三名は早くから決まっていたが、あとの一候補がなかなか決まらない。全金、造船、海員、鉄労のいずれかの組合のなかから候補者がでてくるのだろうとみられていたが、それぞれの組織に事情があってなかなかまとまらない。しかし総選挙も終わり、いよいよ来年は参議院選挙、党躍進ムードのなかで従来より少ない三名の候補で全国区選挙を迎えることは到底できない。同盟本部第四候補選考委員会(委員長前川一男氏)も年内決着をめざして精力的に動き出した。しかし同盟の組織内からは、この時点ではもはや第四候補者を出すことは断念せざるを得ない状態となり、選考委員会は最終的に党本部の佐々木委員長に選考を一任し、同委員長が決めた候補者を同盟の組織内候補とする、との結論となった。この段階でも私は最後は同盟の有力単産から候補者がでてくるに違いないと信じていた。私にお鉢が回ってこようなどとは夢にも考えていなかったのである。

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by seikoitonovel | 2011-07-07 14:14 | 第三小説「思い出すままに」

父5-2


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5-2 参議院「惨酷区」

 振りかえれば大変なたたかいであった。
 過去に一度でも参議院全国区の選挙運動を経験した人々はいまでも言う。「郁さん、君があんな短い準備活動で当選できるなんて、どうしても考えられなかったよ」と。
 あの有名な政治評論家の俵孝太郎さんも「せいぜい30万票もとればいい方ではないかとみていたよ」と言った。専門家は一様にそうみていたのであった。私自身も長い政党本部での経験から、そのことは十分すぎるほどわかっていた。
 私は知名度ゼロの無名の新人候補者であった。同盟一ー産別の支援を受けたとはいえ、これら産別の組合員にとって、私の名前も経歴も何ひとつ知られていなかったのである。それが勝てたのだから奇跡に近い出来事だったと言える。
「惨酷区」とさえ呼ばれる参議院全国区のたたかいは、四七都道府県をまたにかけた壮大なたたかいである。壮大といえば聞こえはいいが、それは候補者になったものでなければ決して理解することのできない大変なたたかいである。
 たしかにそうだ。例えば、一県を二日間ずつ回ったとしても三ヵ月と四日を要する。北海道から遊説を開始するとして、再び東京に戻ることのできるのは三ヵ月と五日後になるのである。しかも、一県を二日間だけという日程では、主要な都市の目抜き通りを猛スピードで素通りするだけで終わってしまうのである。事実、私の選挙運動も、支援組織の職場に五分ないしは十分間程度ずつ顔を出すという猛スピードの運動であった。知名度の高い候補者ならばそれでも当選できるであろうが、私のような知名度ゼロの新人は一県を二日間ずつ回るだけではまず当選はおぼつかない。したがって新人候補者ならば少なくとも一年半か二年、現職議員でも一年間の準備活動期間が必要だというのが全国区選挙の常識なのである。
 それが私の場合は、僅か六ヶ月間の準備活動期間しかなかったのである。まさしく無暴なたたかいへの挑戦というべきであった。しかも「八〇万票」という途方もない票をめざすたたかいであった。だから立候補を決意してから選挙の終わるまで私の念頭には〝当選〟の二文字は全くなかった。私は私自身に与えられた使命にしたがって全力をつくす以外にないと思った。支援組織のひとびとの足手まといにならないように、候補者として後ろ指を指されないように、真剣に立ち向かっていこうと、ただそう心に言い続け、たたかい続けてきたのであった。
 結果は六十八万三千五百二票という票を得た。私個人で獲得し得た票はそのうち三〇〇分の一にも達しないであろう。支援産別がその威信をかけて叩き出してくれた、まさしく組織の力の勝利であった。
 短いようで長く、長いようで短かったこの異例のたたかいを振り返りながら思い出すままに書きつづってみたい。

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by seikoitonovel | 2011-06-06 15:21 | 第三小説「思い出すままに」

父5-1


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5-1 しまった、街頭演説に間に合わない!

 昭和五十五年六月二十四日の朝、目を覚まして時計を見た。針は午前八時を指していた。その瞬間、私は頭をハンマーでなぐられたような衝撃を受けた。
「しまった、たいへんなことになった。この時間ではもう朝の演説に間に合わない、さあ、どうすべきか」
 胸がドキドキ高鳴っている。
「どうしたことだ、今までこんな失敗をしたことはないのに……」
 長い選挙期間中、私は出発予定時間の一時間前に必ず起きた。そして洗顔の後、狭いホテルの部屋のなかで軽い体操をやり、千回から千五百回の足踏みをして体調をととのえ、心気を充実させて迎えの車を待った。
 こうしてホテルを出発し、午前六時半ないしは七時ごろから支援組織の職場の門前に立って出勤してくる組合員のみなさんに向かってあいさつを繰り返す。これが私の朝の主な選挙運動であった。
 ところがその朝は迂闊にも寝すごしてしまったのである。候補者カーはとっくに朝の日程を終了し、今ごろは次の職場に向けて突っ走っているにちがいない。そこにこれから追いつくにはどうすればよいか。ホテルはひっそりとしていて、いつも私より早く起きて出発準備をしている本間隆君のあの大きな張りのある声も聞こえない。
 いまごろ現場では、組合幹部や運動員が宣伝カーの運転手に向って「候補者はどうした。なぜ乗せて来なかったのか」と、怒鳴り散らしているであろうことを想像し、私はとにかくここを一刻も早く出なければならないと思った。
 急いで着替えをしながら、「それにしても、一体ここはどこなのか」と頭をゴツゴツ叩き、ガタガタと窓を開け放った。そして外の景色をみて私は、
「おやっ」と思った。
「ここは東京だ。芝のグランド・ホテルではないか。そうだ、選挙は終わっているんだ」
 完全にねぼけていたのである。いや選挙が終わっているのに、私の体は無意識のうちにまだ選挙運動を継続していたのであった。
「ああ、みんなに迷惑をかけなくてよかった」
 と胸をなでおろしながら、
「当選したんだ。ついさっきまで当選祝いでもみくちゃになりながら、ここに来て午前四時半ごろ寝たんだ」
 開票は前日二十三日午後六時からはじまった。私の順位は五十位前後を行ったり来たりし、結局当選のテロップがNHK・TVに出たのが、真夜中の午前二時であった。当選者五十人のうち最後から三番目にようやく決まるという、まさに薄氷を踏む思いのきわどい当選であった。  
             (『鷹の目』より)


<いとうせいこう注
 今回から、父が昔自費出版した著作『鷹の目』を編集して足していく。
 とはいえ、まずは著作冒頭そのままである。
 ここから父の人生の変化が語られていく>

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by seikoitonovel | 2011-05-20 20:48 | 第三小説「思い出すままに」

父4-13


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10、ようやく春を実感しながら

 79年10月の総選挙の結果は大きな希望になった。
 この選挙で私は長野県第四区の小沢貞孝選対に派遣された。8月の下旬から選挙の終わるまでの約40日間、一度も帰京せず連日睡眠時間4時間のきびしい戦いに耐え続けた。
 それは小沢先生にとっても政治生命をかけた戦いであった。当選の次は落選、その次は当選というエレベーター選挙をやってきた小沢先生であり、72年で当選された先生は76年の選挙では落選されており、今度敗れれば引退といわれ、ご本人もそのように覚悟されているようであった。しかしそんなことになれば民社党長野県連は壊滅の危機を迎える。なんとしても勝たねばならない。
 私は総選挙の度に何回となく小沢選対と関係を持った。そして不思議にも私が選対に張り付け(派遣オルグ)になった時は当選、ならなかった時は落選であった。そんな奇妙な因縁を小沢先生も知っていて“来てくれていて座っていてくれればいい”とそれとなく本部に私の派遣を要請していたようであった。当時私は千葉の加藤綾子選対に拘わり合いを持っていたが、解散の見通しが次第にあきらかになってきた8月下旬に松本に入り、10月の選挙が終わるまで選挙対策に専念したのである。
 この選挙で小沢先生は7万9千票を獲得して見事第一位で返り咲いた。その上、党全体としては10議席増の36議席獲得の輝かしい戦果であった。念願の結党時の議席に限りなく近づいたのであり、私は久方ぶりに体の中から湧き上がる喜びを味わったのである。20年の冬の時代を経て、民社党にも春がめぐってきたことを実感したのであった。
 しかし春といってもほんの春の入り口であり、肌寒さの残る浅春というべきであった。民社党にとってそれからがまさしく本当の勝負時である。民社党がお手本にしてきた西欧の友党、すなわち西ドイツ社民党にしてもイギリス労働党にしてもそれぞれ100年を越す歴史を持っているのであり、それに比べれば民社党はまだ中学生といったところであろう。
 激しかった10月の選挙の疲れを癒しながら私はこれからの私自身の人生というか、私自身の果たすべき役割について深く思いをめぐらせた。来年は50才になるし、人生の最終コースを自ら選択しなければならないと思うのであった。そして得た結論は、党組織拡大のために裏方に徹すること、それが私に与えられた使命である、ということであった。
 私もやがては表舞台でという願望を持った時代もあった。長野県では県会議員や衆議院議員候補にという話も合った。今回の選挙の前には長野県3区の候補者に内定していたG氏が突然候補者辞退してきたため、衆議院候補者選考委員長の春日先生の命を受けてG氏の説得役となったが、どうにもならず断念せざるをえなくなった。すると春日先生は“それでは伊藤が次の候補者だ。真剣に考えろ”となった。強引な話だとは思いつつも、私も無下に断るわけに行かず、親戚の人たちに集まってもらい、また地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし大方は反対であり、私はこの話を断念して春日先生に報告した。
 一方、私は77年には組織局次長として和田春生、ついで柳沢鍛造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いた。74年の衆議院選、75年の参議院選を通じて党は一定の地歩を固めたが、党員数は依然として3万名前後に低迷していた。毎月の新入党者は結構な数にのぼっていたが、それと同じ程度の離党者があり結果として党員数は3万名に留まる、という状況を繰り返していた。78年には選挙はなく、79年4月には統一地方選挙が予定されていた。この時期に本腰を入れて党勢拡大を図り、それを統一地方選挙の勝利につなげたい、これが私と和田局長との一致した戦略であった。しかし今までと同じことをやっていたのでは成果は見えている。そこで党勢拡大月間を設定して、同盟各産別との個別の話し合い、総支部強化のための研修会などを行った。その内容をくわしくのべるわけにはいかないが、この試みで党勢は飛躍的に拡大した。
 私はこの経過を通じて、党勢拡大への確固たる視点を持つことが出来た。これが、俺はこれからは“裏方に徹していこう”との決意になったのであった。 


<伊藤幸子注
 夫は総選挙、参議院選挙、四年ごとの統一地方選挙とその準備期間、一年中選挙活動に明け暮れておりました。そして国会議員選挙の時などはしばしば二ヶ月や四ヶ月くらいの出張は当たり前でした。その間、電話や手紙は一通も来ません。それでも私は政党本部に勤めているからにはそれが当然のことだと、割り切っていましたから特別なことだとは思いませんでした。今考えてみますと、少々のんびりしすぎたように思いますが>

<いとうせいこう注
 このあと、父の人生は思いがけなく変化する。
 そして、私自身は79年にはもう18才になっているのだった>

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by seikoitonovel | 2011-05-16 13:21 | 第三小説「思い出すままに」

父4-12


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9、70年代の出来事・春日は共産党と対決  

 振り返ってみると70年代というのは特異な年代であった。さまざまな転換があったがそれを羅列すると、
 
*70年に入るや、65年11月から続いてきた日本の“いざなぎ景気”が終わり、74年にはマイナス成長へ転じた。労働組合の賃金交渉は30%もの史上最高の妥結賃金時代から一転して半減するきびしいものとなった。
*また72年には5月15日に沖縄が日本に返還され、75年にはサイゴン陥落でベトナム戦争が終結した。南ベトナム支援で兵力投入の米国が敗退した。
*さらに72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件があり、74年にはルパング島から小野田少尉が帰還した。 
*72年7月、佐藤内閣が田中内閣に代わった。福田赳夫絶対有利と思われていた総裁選挙で田中角栄が圧勝したのである。そして前述したように12月総選挙が行われ、公明、民社が敗北し、共産党が38もの議席をえた。
*74年、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中が金脈問題で辞任に追い込まれ、三木内閣となる。76年7月遂にロッキード問題で田中は逮捕されるが、田中逮捕を容認した三木首相は自民党内の激しい三木降しにあい、福田内閣となった。その前6月には、自民党から河野らが離党して新自由クラブを旗揚げした。
*75年11月、国鉄労組がスト権スト、国鉄全線を止めた。これがやがて国鉄民営化へと繋がっていく。
*76年の私たちにとっての大きな出来事は、春日委員長が1月27日の衆議院に於ける代表質問で宮本共産党委員長の「リンチ事件」を取り上げ、政府の見解をただしたことであった。昭和8年、当時共産党中央委員の宮本が仲間の佐藤達雄をリンチにかけ死に至らしめたといわれる事件であるが、この事件の真相はあいまいのままであった。それを文芸春秋で立花隆が「日本共産党の研究」の中で取り上げたのをキッカケに、春日が追求したのである。宮本らは佐藤はリンチと関係なく異常体質のため死んだのであると抗弁したが、共産党が仲間をしばしばリンチにかけてきたのは明らかで、佐藤がそのリンチで殺されたというのが真実ではないか、それを明らかにしたいというのが春日の狙いであった。
 共産党は狼狽し、あらゆる手段を講じて春日への反撃を仕掛けてきた。しかし春日ははじめからそれを想定しており、こちらからさらに追い討ちをかけ、予算委員会の場で塚本三郎をたててさらに追及した。共産党の民社攻撃はその後熾烈を極めたが、民社党は「歴史を偽造する日本共産党ーリンチ事件をめぐる九つの嘘」を出版。この本はあっという間に売り切れたのであった。タブーに挑戦した春日の勇気はさすがであった。
 かくしてこの年の11月15日公示、12月5日投票の総選挙でロッキードの自民党は22議席減、共産党は21議席減。そしてわが党は10議席増の29議席となったのである。
*日本社会党内の左派社会主義協会と右派江田三郎派との対立が再燃、77年3月遂に江田が離党、社会民主連合(社民連)を結成、江田はその直後逝去、社民連は田英夫を代表として発足してゆく。

 こうした様々な背景のなかで77年の参議院選挙を迎えた。私はこの選挙で東京選挙区木島則夫選対に派遣された。木島は6年前NHKのキャスターから民社党の参議院候補者となった。木島はTV放送界で初めて街頭放送をやるなど、そのソフトな語り口とスマートさで抜群の人気があって見事当選したが、2期目の今回は極めて厳しいとの予想がなされていた。私は党本部からの事務責任者であったが、選挙の実働部隊は東京都連であり、私は事務所の雰囲気を盛り上げることと、本部との連絡にあたった。
 幸いこの選挙でも木島の人気は保たれていて三位当選を果たした。
 選挙事務所の一切の事後処理を終えたとき、その安堵感から私はむしょうに煙草が吸いたくなった。同僚からホープ一本もらって吸った。頭がぐらぐらしたがやがてそれも納まった。苦労して禁煙に成功していたがこれでまた喫煙者となってしまった。
 この選挙が終わってから3ヵ月後、突如春日委員長が辞任表明した。女性問題がその原因であった。かくして11月の臨時大会で佐々木が委員長となり、書記長には塚本三郎が選出された。
 そして佐々木体制の中で79年総選挙を迎えることとなったのである。

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by seikoitonovel | 2011-05-13 20:58 | 第三小説「思い出すままに」

父4-11


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8、それから10年も瞬く間に  

 70年代は激動の10年であったが、私にとっては40歳代の働き盛りでもあった。体力にはもともと自信があり、病気知らず、酒は親父譲りで一升程度では酔い崩れることなどなかった。
 春日体制の最初の試練は72年12月の総選挙であった。自民党内閣は佐藤から田中角栄に代わった。田中内閣の日本列島改造論は激しいインフレを引き起こし、庶民生活を直撃した。しかし電撃的な日中国交回復を実現した今太閤田中の人気は衰えず、土木建築業界の期待も高まるばかりであった。こうした情勢下で行われた選挙で民社党は29議席を19議席に減らして敗北した。公明党も49議席から29議席となり、共産党が14議席を38議席とした。
 私はこの選挙で長野第4区小沢貞考選対へ派遣された。私は結党以来長野県連とは常に関係を持ち、県連の諸行事には必ず参加するようにしていた。松本を中心とする4区選挙区は定員3名の厳しい選挙区、小沢先生は社会党時代に当選したが、民社党に参加してからは落選続きであった。今度こそはと準備を重ねてきていた。そして私にぜひ来て欲しいと強く要請された。本部もそれを了承して派遣が決まったのである。松本は私の始めての就職地であり、知人・友人も多く、楽しく選挙活動を行うことが出来た。しかも党全体の後退の中で見事な勝利を勝ち取ったのであった。
 ただ、12月の信州の寒さは半端ではない。しかし選挙というものはその寒さを克服させる魔物のようなものであることを実感したものである。
 選挙区は北アルプスの麓町・大町から南は木曽郡までの広大な範囲であり、いうなれば雪道をかきわけての選挙活動であった。私は早朝の街頭演説、宣伝カーからの連呼、夜の個人演説会での前座などなんでもやった。夜遅くまでの選挙戦術会議、それを終えてからの一杯の酔いに充実感を満喫した。
 しかし、党は再び再建へ歩を進めることになるのであった。
 目前に74年の参議院選挙が迫っていた。それだけに党再建に賭ける同盟の意気込みは従来とは違ったものがあった。
 民社党結党以来、全労・同盟は参議院全国区に必ず4名の組織内候補を擁立して闘い、68年選挙以来全員当選の成果を挙げてきた。候補者擁立産別は全国的基盤を持つ全繊、電力、自動車及び造船重機、海員、鉄労に限られていた。他の産別は4グループに分かれていずれかの候補者を支援した。民社党が総選挙で敗北したとはいえ、同盟は総評・社会党との対抗上1名の落選も許されない。共産党の異常な躍進で組織が侵食される恐れもあった。したがって同盟は選挙態勢の見直しとともに民社党員の拡大運動にも力を注ぐこととなったのである。
 私は引き続き組織第一部長として同盟の党員拡大運動に期待した。そして佐々木書記長とはしばしば党組織の在り方をめぐって意見を闘わせたものであった。
 佐々木書記長は私たちとの論議に真剣に対してくれた。論議は新橋の飲み屋で激論になったこともあった。私はこうした態度の書記長に好感がもてた。書記長が松本高校(旧制)で学び、信州をよく知っていたこと、俳句に親しんでいたことなども親近感がもてた理由であった。
 佐々木書記長との論議のなか私がまとめた組織方針の一つは「政党の日常活動」についてであった。支持団体などから常に指摘されていたのは「党の日常活動の不足」であった。では一体どのような活動を党の日常活動というのか。宣言カーを毎日動かすことか、演説会を開催することなのか、党員を増やしたり、党機関紙を拡張することかなどなど、それらはいずれも日常の党活動に違いないが、もっと体系的に説明できるものが欲しかった。私は考え抜いて次のようにした。
<政党の日常活動>とは
1、常に党員・支持者の声を聞く。
2、その声を整理・整頓して優先順位をつける。
3、その優先順位ごとに順次政策化する。
4、それを党議員および友好団体などを通じて議会に持ち込み、実現する。
5、実現のための宣伝活動を活発に行う。
6、その成果を通じて新しい党員・支持者を増やし、議員を増やしていく。
 また佐々木書記長とは党員は1選挙区ごとにどのくらい必要なのか。そのなかで党の中核的党員の数はどのくらい必要なのか、といった基本問題の議論をしたこともあった。
 佐々木良作という人は物事を突き詰めていく人で、自分の意見が理解されないときには頭から湯気を出すかのように激高することがあった。「瞬間湯沸かし器」と言われていたのだが、なぜか私たちとは常に冷静であった。

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by seikoitonovel | 2011-05-08 18:35 | 第三小説「思い出すままに」

父4-10


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7、春日委員長体制の中で

 71年4月27日、西村委員長が逝去された。67歳。統一地方選挙の終わった直後であった。肝臓ガンを病まれながら党の最前線で指揮を執られていた。
 この地方選挙で党は大きく前進した。都道府県議140名(20名増)、市会議員470名(75%増)が当選。地方議会でも民社党が定着しつつあることを示した。その成果を聞きながらの逝去であった。
 西村委員長は53年の「バカヤロウ」解散の立役者として名をはせ、社会党右派の論客として、特に防衛・安保では自衛権問題などで常に明確な方向を示していた。党では選挙対策委員長、組織局長、国会議員団長、書記長を歴任、67年から委員長を5期務められた。私たちには常に「私の歩んだ道ではなく、私が志した道をたずねよ」と教えられた。
 党は6月の参議院選挙(全国区4、地方区2当選)のあと、8月に臨時党大会を開き、委員長に春日一幸(投票で春日330票。曽祢益216票を破る)、書記長佐々木良作を選出した。
 振り返ってみれば民社党結党からすでに10年が経過していた。この間の同志の悲願は結党時の衆議院議席40に一日でも早く到達することであった。だが、それまでに3回の総選挙、3回の参議院選挙、そして3回の統一地方選挙を必死の思いで闘ってきたが、展望は開かれなかった。
 政党は選挙で国民の支持を得る以外に生きるすべはない。そして政党本部書記局の役割はそのために最大限の智慧と労力を発揮することなのである。
 もちろん執行委員長を頂点とする執行部に最大の責任があるが、その執行部を支えるわれわれ裏方が大事なことはいうまでもない。10年間で選挙のなかった年は4年だけだったが、その4年は選挙準備の年であり、政党はまさしく「常在戦場」なのであった。
 その寧日なき闘いがまた始まるのであった。40議席の悲願には到達していないとしても希望の持てるところまで上がってきたのも事実である。希望は失われていないのだ。
 まだまだ長く、政権交代のないいびつな日本政治が続いていく。



<伊藤幸子注:
 党本部の選挙対策に集中して、家のことなど顧みる暇のなかった夫だが、私はちょうど正幸、美香の子育てに夢中であった。最初の頃は夫からの生活資金では足りず、例えばお風呂に行くにも石けんがなかったこともあったほど。そんな時には子供にだけは不自由させないために私は一食抜いた。かなり痩せました。田舎の母が家に来た折など、心配してこっそり小遣いを懐に入れてくれたものです>
<いとうせいこう注:
 父は社会のことで頭がいっぱいであり、それは青年の闘志として美しくもある。だが、母の証言と重ね合わせるとどこか滑稽味も出てくる。不均衡なのだ>


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by seikoitonovel | 2011-05-05 20:19 | 第三小説「思い出すままに」

父4-9


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6、69年の年末選挙で更に前進・沖縄復帰運動に参加

西村委員長時代の総選挙は69年の年末(12月27日)に行われたが、党は32名の議席を確保した。民社党は第三勢力の地位を確立し、長期腐敗の自民党と反対のための反対勢力社会党という二大勢力による不毛の対決政治を終わらせ、真の議会制民主主義政治を実現する役割を担うこととなったのである。
 西村委員長は委員長就任と同時に自ら団長となって沖縄を訪問、野党党首として初めての訪沖であり、この際の「沖縄の返還は核抜き本土並みとすべし」との提案がやがて国民世論となり、佐藤首相を動かして72年の沖縄本土復帰へと連動したのであった。
 私たち青年党員も毎年「沖縄青年使節団」を組織して復帰運動の一翼をになったが、私は70年に約30名の第5次青年使節団の事務局長(団長・西田八郎衆議員)として訪沖した。この時には台風が襲来し、鹿児島で2日間足止めを食っての船旅であった。西田団長は飛行機で先行してわれわれを那覇港で迎えてくれたものであった。
 民社党の沖縄調査団は第1次から第7次に及び、青年使節団も6次にわたった。
 現地での交流は、当時沖縄の大きな政治勢力であった沖縄社会大衆党の主要幹部と沖縄同盟(海員組合、電力労組、全繊同盟など)の幹部などが中心であった。
 党のこうした沖縄復帰運動は70年に行われた国政参加選挙(復帰の前段で行われた衆議院選挙)で当選した社会大衆党委員長安里積千代氏の民社党国会議員団加入に繋がったのである。



<伊藤幸子注:(前節4-8に付けるべきものとして、母からの原稿が先日届いたので足しておきたい)
 夫の初めての海外出張のときには大変心配でした。自分の身の回りのことが何も出来ない人でしたからです。
 IUSYの国際的な集まりで10日間もオランダの地方でキャンプを張るということでした。私はIUSYという国際組織のことは良く知りませんでしたが、夫にとってはかなり重要なようでした。それに参加する日本代表団の事務局長でしたから、私はただその任務を果たして無事帰ってきて欲しいと祈っていました。
 羽田出発の時には兄邦雄が私と小学一年生の正幸と幼稚園児の美香を見送りに連れていってくれました。
 幸い夫は何の怪我もなく無事帰国しましたが、家族へのお土産は“赤い木靴”ひとつだけでした。夫はそうしたことが大変不得手でしたので土産などは最初から期待してはおりませんでしたので、何も言いませんでした。
 ところが旅行鞄の中から煙草と洋酒がたくさん出てきたのにはいささか驚きました。しかしそれは餞別を下さった仲間などへのお返しだろうと思い、納得したのでした。
 私としては無事帰国出来たことが何よりのお土産だったのです>
<いとうせいこう注:
 私は見送りに行ったことを覚えていない。 
 ただ、“赤い木靴”のことはよく覚えている。それはずいぶん長く家にあった。どうやって遊ぶということもない。たぶん初めは妹にはかせたりしてみたのだろう。だがやがて、靴は私たちには小さくなった。
 にもかかわらず、それは捨てられずに家の中にいつまでもあった。私たちはどこかでそれを特別なものとして扱っていたのである。父の初の外遊の土産だったということを、私たち兄妹はすっかり忘れていた>


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by seikoitonovel | 2011-04-27 16:07 | 第三小説「思い出すままに」

父4-8


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8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊


 統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
 新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
 私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
 私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
 さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
 IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。                                 
 10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
 このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。

追記 西村委員長のこと
 西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
 今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。

   三   訓
 1、己れを捨てよ
 1、反省を忘れるな
 1、最後までねばれ

   五   戒
 1、時間を守れ
 1、言訳はするな
 1、愚痴をこぼすな
 1、陰口をつつしめ
 1、けじめをつけよ

 これは私の座右の銘でもある。
 私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。

<いとうせいこう注
 しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
 だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
 彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
 その母にも今、原稿を書いてもらっている。
 この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>


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by seikoitonovel | 2011-04-10 00:00 | 第三小説「思い出すままに」

父4-7


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7、続いて統一地方選挙・都知事選対へ派遣さる

 私たちに総選挙の勝利に浸る暇などなく、4月は結党以来2度目の統一選挙であった。この選挙では都道府県議98名、政令市議58名が当選し、地方組織も前進体制を整えつつあった。
 私は東京都知事選に急遽候補者となった松下正寿選対に派遣された。松下先生は私たちが作った核禁会議の初代議長・立教大学総長であり、党とは深い関係にあった。その松下先生に東竜太郎知事引退のあとの駒探しに迷ってすったもんだを繰り返していた自民党が白羽の矢をあて民社に協力を求めてきたのであった。松下先生も相手が社・共推薦の美濃部亮吉ならばと引き受けたのだ。
 保守か社共かまさに天下分け目の戦いとなった。この選挙でマスコミの大半は美濃部に好意的で、最初から松下不利の情勢がつくられていった。私はこの選挙を通じて首都決戦というものの実態のすさまじさを知るのであるが、その一つがスパイ合戦であった。相手陣営にスパイを紛れ込まして相手候補の行動・戦略を自陣営に知らせ,相手の裏をかく。また弱点を握ってそれを針小棒大に宣伝する。また何々地区では選挙違反で何人も調べられている、といったデマを流して活動をにぶらせる、などなど。すさまじいものであった。
 また、自民党の金の使い方にはびっくりさせられた。私のような立場で自民党本部からもオルグが派遣されて來たが、彼の袖机にはいつも札束が用意されていたのである。私たちは金には全く無縁で、熱意と行動の多寡が勝負の基本であったから彼の行動は真に信じられないものであった。ある日、選挙ビラが印刷会社から100万部届けられた。そのビラに一箇所誤字があると指摘するものがあった。すると彼はそのビラ全部の印刷変えを命じたのである。われわれなら一箇所はもとよりかなり目立ったミスでもそのまま使うのであるが、なんと無駄なことを平気するものか、と思ったものである。しかしこの話はこれで終わったのでなく、実は彼と印刷屋はあらかじめ示し合わせていて僅かの部数を誤字にみせかけ、全部数を印刷換えしたこととして、それに見合うニセ印刷費を本部に請求して山分けしていたのであった。
 松下先生は美濃部に敗れたが、翌年の参議院東京地方区選挙で勝利した。


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by seikoitonovel | 2011-04-04 20:15 | 第三小説「思い出すままに」