自由 


by seikoitonovel
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第一小説3-1

 
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3-1

         『BLIND』

 まず、一人の男がいた。
 男は不思議な夕焼けの夢を見た、と言っている。
 行ったこともない南の島の、長く白い砂浜に男は素足で立っていた。
 濃いオレンジに溶けた太陽はすでに左手の岬を覆う黒い山の向こうに沈みきっており、残光だけが薄く残る山頂付近以外、空は藍色に染まっていた。
 やがて、夜の始まりを告げるかのように、背後からコーランがエコーたっぷりに鳴り響いた。そこがイスラム教圏内であることを、男は知っていたと思った。
 次の瞬間、立ちくらみのように視界が狭まった。不安に襲われて男は何度かまばたきをした、と言う。すると、暗くなっていくと思われたあたり一面が、みるみる茜色に変わっていくのがわかって、男の胸はつまった。
 たちまち、あらゆるものが茜色になった。見渡す限りの空が茜色であり、吸う空気も吐く空気も茜色だった。砂がどこまでも茜色だったし、波のしぶきも、ビーチを走る馬の汗ばんだ皮膚も茜色だった。
 そうだ、ほんとうの夕焼けとはこういうものだと男は思った。すっかり終わったかに見えたあと、夕焼けは復活のようにやって来て、太陽のない世界を茜色に染め変えてしまう。
 圧倒的な幸福感があった。茜色の光が、波動になって体中の細胞を震わせている気がした。茜色は男の体を自由に出入りした。
 1994年3月10日早朝、目が覚めたあとも同じ幸福感がまったく途切れなかった、と華島徹(仮名)は言っている。それほど影響力のある夢を、華島はかつて見たことがなかったそうだ。
 前夜からの雨がサッシを細かく叩く音は、確かに波が引く音に少し似ていただろう、と我々は想像する。したがって、華島の住むアパートの二階はいまだ夢の中の海に近かったのかもしれない。
 予感といえば予感でした、とは華島徹の言葉だが、むろんこれは事態が深まったあとでそう思っただけであり、恋愛はこうしてすべての物事を、遠い過去に至るまで「当事者二人」の運命の中に整列させてやまない。
 以後も、この思考は華島を強く捉えるし、我々はそれを逐一報告するだろう。
 なぜなら、無意味な事象の偶然的積み重ねに過ぎない人生を、一気に意味づけ、一気に色鮮やかにするのはわずかに恋愛と宗教くらいのものであり、後者の場合が“すべての物事を、遠い過去に至るまで「神と自分」の運命の中に整列させてやまない”のである以上、我々は恋愛研究において神を扱うも同然だからである。そして、御存知のように、神は細部に宿るのだ。 
 ともかく、1994年3月10日木曜日、華島徹は帰宅後に起こる予期せぬ出来事には実際はまったく盲目なまま、顔を洗い歯を磨き背広に着替え、しかし夢の残照とも言える茜色の幸福感にはなお満たされつつ、入社一年目の職場「あらはばきランド」へと向かったのだった。


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by seikoitonovel | 2009-03-11 20:56 | 第一小説