自由 


by seikoitonovel
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件名  親愛なる百合子-さん-へ
送信者 カシム・ユルマズ
受信者 島橋百合子
受信日時 2001年8月3日

 はじめまして、百合子-さん-。
 と書くのは、我々にとってまったく新しいこの「手紙」の上では、という意味です。
 昨日届いたあなたの手紙は、私が長年慣れ親しんできた、しかしもはや懐かしい形式にのっとった手書きの、紙と万年筆で作られたものでしたから。
 しかし幸運なことに、そうでなければ私は手紙を書き送って下さったあなたが本当の百合子-さん-か、つまりつい十日ほど前にコウベで奇跡のように再会できた「神秘嬢」かどうかしつこく疑っていたことでしょう。私は『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』に出席し、我が国のとある新聞記事を快適なホテルで書き上げたあと、ヤマナシからコウベへと向かったのでした。祖国に帰る便をトウキョウ発からオオサカ発に変更してまで、私はあの港町をこの目で見ておきたかったのです。
 再会の折にしどろもどろでお話ししたことの繰り返しになりますが、私はK商科大学を訪問し、かつての母校の隆盛ぶりをこの目で確かめました。私が在籍していた当時は、ご存知の通り日本が戦争に負けた直後でまだ学舎も小さく、すべてが出来たばかりだったのです。例えば、今のような貫録のあるツタなどどこの壁にも這ってはいませんでした。
 私は満足して翌日、空港に向かいました。そして、私たちは互いに出合い頭、相手が誰であるかを知りました。覚えていたのです。忘れはしなかったのです。まさに空港のロビーで。あと数分でイミグレーションに入ってしまうというところで。友人を見送るあなたと、日本を立とうとする私は、信じられない確率で出会ったのでした。友人に手を振るあなたが私の足をしたたかに踏むという形で。
 さて、私はあなたの重さを覚えていたわけではありません。謝るあなたのおっとりした声と困惑した表情が、私に五十年あまりの時を超えさせたのです。あなたはあなた以外の誰でもなかった。
 私はまた、あなたの優しい手が生み出す文字の癖も覚えていました。これは手紙をいただいて初めてわかったことです。アルファベットの中の幾つかの文字にそれは顕著でしたが、私は自分があなたの手跡を覚えていることに面食らいました。私はそれまで長らくあなたの書く文字を忘れていたからです。空港であなたの手帳に私の住所を走り書きした時にも、私は自分の悪筆を恥じるばかりで、あなたにも文字の癖があることを想像しませんでした。私は忘れていたのです。あなたのQが繊細な髭を持っていることを。そして思い出したのです。あなたのCが笑顔のように楽しげに空気を吐き出すことを。
 さて、あなたからの手紙は、二十世紀が終わって間もない今、私が受け取る最後の手書きの郵便ではないかと思います。もう誰も、いまや編集者からの依頼でさえも電子メール、少し旧式の仲間でもタイプを使いますから。
 みな、筆跡を残さないように生きているのです。あらがいようのない身体性は必要とされないのでしょうか? 私たちが迎えた世紀に癖など要らないというのでしょうか? つまり、あなたのQやCは。BやMの味わいは。
 いや、愚痴はやめましょう。私は老いていると思われたくないのだし、この「手紙」以降は、まさにその証拠の残らない書簡をあなたと交わしたいのですから。私は今、紙と万年筆の世界にあなたが戻ることを欲していません。私には時間がないのです。電子メールは身体性をはぎとるかわりに、私たちに大量の素早い情報をくれます。私はあなたと話したい思い出が、それこそ山ほどあるのでした。
 さて、百合子-さん-(こうして名前の後ろに付ける「さん」という日本語への懐かしさが、あなたにも理解していただければと熱望します。私はこの敬いの音をいつでもあなたと結びつけて胸の奥に抱いてまいりました。今でも様々な国のチャイナタウンで「先生(シンサン)」という敬称を聞く度、私は日本語の「さん」の響きをそこに重ねて甘酸っぱい気持ちになります。イスタンブールにチャイナタウンがないことを残念に思うくらいに)、私は思いがけない言葉をあなたの手紙の中にいくつか、まるで厳冬の湖に浮かぶ鳥の姿を見つけるように見つけました。
 例えばそのひとつが、あの頃少女のあなたが私にみじんも感じさせなかった異国の青年への憧れでした。むしろ反対にあなたは私に理知を匂わせ、距離を示し続けていると思っていました。若い私はあなたの冷静さを、十七歳の女性には不釣り合いなほどの堅牢さを特に強く感じていたのでした。そして、ここだけの話、私はその思い込みによって落胆もしていたのです。
 百合子-さん-、私は今年、七十歳になりました。自慢の孫さえいます。オルハンというもうすぐ成人する男の子と、ザムバックというあの頃のあなたの年齢に近い女の子で、両方とも名づけたのは私なのですよ。あなたの手紙を前にして、その私が一瞬にして二十歳そこそこの私と入れ替わりました。私は未来しか持たない若者のあてどない不安を今、理解出来ます。同時に可能性しか持たない人間の果敢さも魂の中央に感じます。百合子-さん-、私は私の日々が明るく照らされたことをたとえようもないほど感謝しております。人生の精妙な複雑さ、先の読めなさ、面白さを私は存分に味わっているのです。
 ああ、私はやはり古い人間なのでしょう。電子メールでこれほど長い文章を書いてはいけません。しかし、あなたには許されています。どうぞお好きな長さのお返事を、気の向いた時にでもお送りください。
 私からの懐旧の「手紙」、本日はここまでにしておきます。

     ユスキュダルの町からボスポラス海峡を見下ろして。 

                 あなたのカシムより
  

 
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by seikoitonovel | 2011-05-11 21:19 | 第一小説