自由 


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8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊


 統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
 新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
 私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
 私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
 さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
 IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。                                 
 10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
 このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。

追記 西村委員長のこと
 西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
 今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。

   三   訓
 1、己れを捨てよ
 1、反省を忘れるな
 1、最後までねばれ

   五   戒
 1、時間を守れ
 1、言訳はするな
 1、愚痴をこぼすな
 1、陰口をつつしめ
 1、けじめをつけよ

 これは私の座右の銘でもある。
 私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。

<いとうせいこう注
 しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
 だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
 彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
 その母にも今、原稿を書いてもらっている。
 この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>


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by seikoitonovel | 2011-04-10 00:00 | 第三小説「思い出すままに」