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自由 


by seikoitonovel
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7-3-1


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『BLIND』9-3-1

 翌日も同じ銀色の電車に乗り、同じ駅で降りて「あらはばきランド」まで歩いた。
 僕は気に入っていた黄色いベルトのスウォッチを何度も確認したし、運営本部の上方に掛けられた丸い時計とタイムカードを見比べた。いつもより少し早いペースで歩いたはずなのに、僕は普段と同じ時間に会社に着いていた。
 ロッカールームでつなぎに着替え、担当エリアごとに本部の壁面に並べて下げられた鍵束をつかむと、連絡書類にサインをしてからバックヤードに入り込んだ。午前中の空気はまだ肌寒かった。指定のボア裏地付きジャンパーをはおって出ればよかったと思った。少なくとも、すれ違う僕と“ハロー、おはようございます”と決まった挨拶を交わし合うスタッフは男も女も年齢問わず、みなその群青色のジャンパーを着ていた。
 さらに早足になった僕はN扉の位置からバックヤードを抜け、開園前の「レイン・レイン」の裏口に移動した。ちなみに当時は設計変更にまだ対応しておらず、N扉は裏口から二メートルほどずれていた。そのせいで、もしお客さんが入場している時間だと、スタッフが一瞬見えざるを得なかった。だからN扉の内側、目の高さあたりには常に『ここから先はあなた自身がアトラクション!』という貼紙があった。
 裏口の鉄扉は外壁よりかすかに濃い色に塗られていた。僕は三つある錠をすべて開け、冷たく湿った空気の中に入った。常時回っているモーターの低い音が地の底から重層的に響いていた。振動そのものを耳にしているのは、今自分だけだと思った。
「レイン・レイン」はアトラクションとしては七つのブロックに分かれていた。時おり一階から二階、あるいは地下へと部屋が移るのは、全体がH2Oの分子構造、つまりV字型の連なりを模しているからで、水平にV字のゾーンなら階は変わらず道が分かれるし、上下に階段が向かっていればV字が垂直になっているのだった。
 僕は連続する分岐の最も手前にある操作室に入り、複数あるモニターのスイッチをひとつずつつけた。タイムラグがあって、やがて各ブロックの映像がモノクロで揺れ出した。
 特に闖入者がいる様子もなかった。流れるべき水はすべて正しい方向に流れていたし、夜になると嵐がやむ区域は豪雨を待っていた。内壁をつたう水滴はほとんど落ちきっており、それが床に隠されたパイプを通って排出されているのは、湿度メーターや自動ポンプの動きで確認出来た。各ブロックを視認しようと、僕は備え付きの懐中電灯を片手に操作室を出た。
 来た、と思うと裏口の鉄扉のノブが回った。逆の順ではなかった。
「お、早いじゃないか」
 扉から館内に体を滑り込ませながら、園田さんは僕の姿を見ずに言った。
「ハロー、おはようございます」
「ほい、ハロー」
 古参の中でも、園田さんは特別に挨拶が雑だった。曖昧に下を向いたまま操作室に入った園田さんは群青色のジャンパーを肩にはおっていた。頭上にはその日、白い煙がただよっていなかったように思う。
 ゴミ箱に何か軽いものを放った音がした。鍵束を確認し、作業連絡ノートを開いたのもわかった。一度ティッシュで鼻をかむのに続いて、まだノートに目を落としているだろうと思われるくぐもった声が部屋から漏れてきた。
「人生に不均衡があらわれるときは、まず地鳴りが聞こえるんだよ。やつも聞いただろう」
「え?」
 という声が自分の咽喉の奥からした。地鳴りという単語から、さっき聴いたモーター音を連想するのが精いっぱいだった。園田さんは続けて、しかし今度は少しゆっくりと言った。
「キシロウ・ナカムラは今日、捕まる」
 ますますわけがわからなくなった僕は、思わず操作室の中に戻った。園田さんは新聞に目を落としていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「斡旋収賄。国会会期中に逮捕される議員は、ずいぶん久しぶりなんだとさ。あ、わかるか、ゼネコンの」
「わかります。あの、その前に園田さんが言ってた地鳴りの話なんですけど……」
 園田さんはそれにはまったく答える気がないようだった。
「俺も読みでは一字違いのキチロウだけに気になるんだよ、キシロウ・ナカムラのことは。こっちはしがない雨職人、向こうは大物政治家だけどな」
 ようやく園田さんは僕を見た。そしてくしゃくしゃっと笑った。もう何を聞いても答えないだろうと思った。園田さんの中で物事が短く完結してしまったのだ。
 ヘルメットをかぶった園田さんの後ろを僕は歩いた。まず入り口から最も近い『ジャスト・ビフォー・ザ・レイン』の点検だった。夏の夕立が始まる直前の湿度を、その部屋は完全再現していた。不連続にそよぐ不穏な南風も、みるみる空を覆う黒雲も、急激な気圧の変化もすべて園田さんのプログラム通り動いていた。お客さんはその日もこのアトラクション内で、“動物ならではの勘を取り戻す”に違いなかった。雨が降る、と思うのだ。
  
by seikoitonovel | 2011-03-06 22:35 | 第一小説