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自由 


by seikoitonovel
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父2-2


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父2-2


右社外郭青年組織への参加(東京民社青同の事務局長に選出さる)


 右派社会党は民主社会主義をその指導理念とした。社会党分裂がS26年の10月の臨時党大会であったが、丁度この年の7月ドイツのフランクフルトで開催された社会主義インター大会(長い大戦でばらばらとなっていた西欧各国の社会主義組織が初めて一同に会した)が新しい「民主主義に関する宣言」を発表した。通称これをフランクフルト宣言と呼ぶのであるが、この宣言でロシヤなどの共産主義運動を「新たな帝国主義」とよび、「自由無き社会主義は社会主義でない」「民主主義を通じて社会主義を建設」とうたった。共産主義(マルクス・レーニン主義)への決別宣言であった。
 この宣言は日本社会党内のマルクス主義でない人々に有力な理論的武器を提供することになった。それまで日本の中では民主社会主義という言葉はなかった。したがってそれまでの発言や文書はすべて「社会民主主義」という言葉が使われていたのである。朝日新聞などの左派系はいまだに民主社会主義という言葉を使ったことがない。このためわれわれの考えが明確に伝わらないことがしばしばあった。
 さて、右派社会党は青年部を持たず、青年対策本部を持った。初代青年対策本部長は浅沼稲次郎。青年部を作らなかったのは日本社会党の「青年部」がしばしば党の決定方針に反対し、党内党的行動によって党を混乱させたこと。党外の青年への影響力とならないこと。などの理由によるものであった。
 そこでS28年1月の全国大会で党の外郭組織として自主的青年組織の結成をはかり、そのことによって党に直接入ることを躊躇する青年達にも広く党の影響を及ぼすことを狙ったのである。それまで右派系青年団体として独立青年同盟の活動があり、これが左派攻撃で潰されたあとに重枝琢巳氏らが青年懇話会を作って活動した。これがひとつの基盤となって「民主社会主義青年同盟」(民社青同)が29年1月に結成される。私たちはただちにこの民社青同の東京組織に加盟して活動した。
 結成直後の民社青同に降りかかってきた難題は両社統一問題であった。私達は民主社会主義という新しい理論のもとで右派社会党を支えていこうとして意気ごんでいたのだが、党内に統一積極派と慎重派が生まれ、これに民社青同も強い影響を受けて激しい論争が展開された。
 慎重派の代表は西尾末広で「左派はマルクシズムに立脚し、必ずしも暴力革命を否定していない。これに対して右社は暴力を否定し、選挙の結果多数をとれば政局を担当し、少数になれば下野するという考えである。この相違の解決をはかろうとしないで、ただ大衆が要望しているからといって無原則な歩み寄りや妥協をすれば、数は多くなっても政局を担当するや直ちに政策的に行き詰まって破綻する。それでは大衆の要望に反することになる」「割れた茶碗を継ぎたしたような安易な統一をやれば、下手をすれば再分裂という結果さえ引き起こすであろう」との考えを明らかにしていた。この考え方に同調する青年たちも多かった。
 また、日本の安全保障問題に関連して「憲法9条が自衛権まで放棄しているとみるのはどうか」「このさいこの問題の理論統一が必要ではないか」の意見があり、民社青連は一時分裂の危機に直面した。この危機は統一積極派の麻生良方会長と慎重派の黒田忠氏ら総同盟系との話し合いによって「われわれの団体はそれ自身政党ではない。思想と志を同じくする民主社会主義的政党の発展に貢献し、同党を通じて目的を達成する」など結成時の5原則を確認し、両派社会党の統一如何にかかわらず組織を存続させ、主体性を強化するとの方針を確認して収拾した。
 こうして、民社青同は両者統一後も活動を続けた。私は東京民社青同の事務局長に選出されたが、西尾派と見做されていてその代表として担がれたのであった。
 しかし両社統一後の統一社会党青年部が、党の外郭に2つの青年組織(社青同と民社青同)があるのはまずいとの考えから両組織の統一を絶えず働きかけたこともあって、民社青同の活動には次第にブレーキがかかっていった。



民社党の結成に参加


 統一社会党は西尾末広の予言どおりかえって内部対立が深くなり、参院地方選の相次ぐ敗北によって、再び大衆政党か階級政党かの議論を蒸し返すこととなり、左派の「西尾除名」問題を契機として社会党は再び分裂してS35年の民社党結党へと推移する。
 私は当然、民社党に参加した。そして民主社会主義青年運動の再構築を目指して民社青同を解散して「民社青連」を発足させ、初代事務局長に選出された。
 日本社会新聞も解散され、あらたに民社党中央機関紙「週刊民社」が発行され、私は引き続きその記者(身分は正式な民社党書記局員として採用された)となった。
 党活動の面では三鷹総支部の書記長に選出された。


<いとうせいこう注
 こうして読んでみると、端的に言って父は活動家なのだった。
 考えてみれば当然なのだが、ここまでそうだったのかと私は驚いている。
 個人的な事柄がほとんど書かれていないのは、社会と思想それ自体が激動していたからだろう>




by seikoitonovel | 2009-06-14 21:34 | 第三小説「思い出すままに」