自由 


by seikoitonovel
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 そのまま数日が過ぎた。友人と私との間で姿をくらましたすっぽんもそうだが、読者諸氏と私の前に見え隠れしていたすっぽんそれ自体も行方知れずのままであった。
 おかげで私は『 スッポン-習性と新しい養殖法』も熟読したし(二時間ほどで)、『ワインライト』を何回も聴いた。そして、あちこちですっぽんの話を持ちかけられた。
 広東語で「水魚」といえばすっぽんのことだそうである。知人の香港人女性Jさんが、私に会うなり「Iさんは『水魚』という小説を書いてるそうですね」と、ちょっとたどたどしく言ったのである。問題の箇所の発音は“ソイユィ”。Jさんはあくまでも広東語でそこを発音したかったらしい。
「ソイ……ユ、ですか?」
「はい、その小説、internetでやってる」
「あ……確かにネットでは連載してますが」
「そう、それ。『ソイユィ』。昔の自分の話」
 私は別の自分がこの世に、特になぜか上海あたりにいるような錯覚におちいり、混乱した。
 Jさんのある種のいたずら心から、題名が勝手に翻訳されていたのだと理解したあとも、自分が自分から剥離していく感じが消えなかった。『水魚』という話を書いている自分が確かにいる、という実感がむしろ強まった。
 たたしマンダリン(北京語)では水魚の意味がちかいますよ、ともJさんは濁音が抜けがちの日本語と人懐っこい笑顔で付け足した。例えば「水魚の交わり」は『三国志』に出てくる有名な逸話で、それは固い友情を示す。中国本土でも日本でも、水魚を水と魚に分けて考え、分けた上で分け得ないものとする。
 だが、その考えを広東語圏には持ち込めない。厚い友情を示すつもりで香港人に「水魚の交わり」を宣言すれば、周囲の喧騒が一気にやむだろう。人気俳優を迎えてノワール映画ロケ中の早朝の灣仔(ワンチャイ)でも、屋台が並び始めた午後の旺角(モンコック)でも、若きデザイナー集団が新事務所を構えてパーティをしている夕方の銅鑼灣(トンローワン)でも、酒と音楽が作り出す乱痴気が最高潮に達した夜中の蘭桂坊(ランカイフォン)でも、一瞬の完全な静寂があたりを支配する。水魚の交わり? 水魚の? 
 それはつまり、すっぽん同士の交際を指すのである。我もすっぽん、汝もすっぽん。我ら脊椎動物亜門・爬虫網・カメ目。そう宣言することの意味は奈辺にありや、ということになる。そうですよね、Jさん?
 まあ、そうですしね、とJさんは私の想像のアンバランスな広がりを多少警戒しながら微妙な訂正をした。広東語で「水魚」と言った場合、それは主に“吸いつかれる側”を指すらしいのであった。ことに金銭にまつわってその比喩はあり、人がすっぽんの生き血を吸って精力をつけようとするかのように、例えばヒモは「水魚」を金づるにして生きていく。喰らいついたら絶対離さないのはすっぽんではなく、逆に広東語圏のすっぽんは喰らいつかれ、離してもらえないのだ。
 そこで私が即座に思い出したのが『ワインライト』の聴きどころ、「just the two of us」だったといえば、少々分裂的だろうか。グローバー・ワシントンJRはこのアルバムにビル・ウィザースの名曲を取り入れ、歌わせ、彼を世界的な存在にした。
 吃音を持つビル・ウィザースの、歌えば甘く厚ぼったく滑らかな声。しばらく話が脱線することが予想されるが、言葉と歌が異なる次元に属していることの、これは大変な証左なのではないか。
 言葉が連続的に歌になれば、あるいは近頃私が考えているように歌こそが先にあって、やがてそれが言葉になったのだと仮定すれば、しかしこの吃音の問題を解決出来ない。語ると吃音が生じ、歌うと生じないという現象から類推するに、言葉と歌の間に何か決定的な違いがあると考える以外にないからだ。私にちかしいある人間も吃音という障害を持っているが、彼女に聞くと“しゃべることと歌うことでは、呼吸が根本的に違う”と言う。だから、歌えば彼女も吃音にはならない。
 声を統御するある種の弁を持つ生き物は、この地球上でクジラと鳥と人間のみだそうです。それがどんな弁か聞き忘れたが、先日食事を共にしたベテラン演出家がそう言ったのを思い出す。吃音はその弁に何か関係がないか。クジラは歌うが語らない。鳥もしかり。歌から言葉に至ったとき、機能的に別次元の事件が起こった。そこに吃音が関係ないか。
 突然だが、クリスタルの恋人たち、という。「just the two of us」の日本題である。サビの歌詞を私が訳すならこうなる。
 二人きり/二人きりでいればかなう/僕ら二人でいれば/砂上に楼閣を築きあげて/たった二人/君と僕
 二人しかいない世界の、この幸福感。そして、本当は決して実現しない愛を歌っているのであろう切なさ。しかし、どちらかが水魚であったとしたらどうか。執拗に関係を癒着させるのが僕、もしくは君であったのだとしたら。
 上野にすっぽん売り場がある、と教えてくれたのは地下鉄銀座線の浅草行き先頭車両に乗っていた青年であった。黒いダテ眼鏡をかけた痩身の青年は、ずいぶん長くこちらを気にしていたのだが、やがて意を決したように立ち上がり(大きな紙を切り抜いて作った人形が急に糸で吊られたような動きだった)、向かいの席に座っていた私に覆いかぶさるようになって、Iさんですよね?と聞いてきたのである。
 ええまあ、そうですがと目をそらして答えると、もしよかったら二駅戻ってみてくださいと青年は言った。上野にすっぽん売り場がありますから、と。私たちはすでに上野を過ぎ、田原町という駅まで来ていた。青年が秘密めかした低い声で手短かに説明するビル自体は、私もよく知っていた。あんな場所にすっぽん売り場などあったろうか。私の好奇心はおおいにくすぐられた。
 しかしさすがに、ああそうですかと即座に電車を降りるわけにもいかなかった。メンツというか、まず若者がなぜそのような忠告をしたのかがわからなかった。もし彼がこの小説の読者であったとして(それ以外考えられないのだが)、私がすっぽん売り場を見るべきだと考える彼の思考が謎であった。その謎の思考に軽々しく従うことには抵抗があった。そもそも私はすっぽん見たさで小説を書いているわけではなかった。
 ビルに向かったのは、翌朝早くであった。


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by seikoitonovel | 2009-06-13 15:57 | 第二小説