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自由 


by seikoitonovel
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父1-8


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上京・日本社会新聞時代


 S28年4月、単身で上京した。新宿駅に市川君が出迎えていてくれた。早速、三宅坂の社会党本部の4階にあった編集局に連れていかれ、山崎編集長と先輩の平田修三さんを紹介してもらった。
 下宿は市川、平田両君が借りていた田無の下宿での共同生活であった。ここから毎日、中央線で新宿に出て都電に乗り、三宅坂に通った。
 日本社会新聞は右派社会党の中央機関紙であり、党の補助なしの独立採算の新聞であった。社長は右社書記長の浅沼稲次郎で専務は参議院議員の曽根益であった。私は労働組合関係を受け持ち、平田氏は議会活動と党の関係を主として受け持った。
 終戦直後に戦前の無産政党の各派は一つとなって日本社会党を結成した。中心的役割を担ったのは片山哲、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らであり、戦後第2回目の総選挙で第一党となって片山内閣を組織した。官房長官は西尾末広であった。
 しかし社会党内閣は出発当初から左右の思想対立を抱えたままであり、左派マルクス主義者の鈴木茂三郎が予算委員長となったが内閣提出の予算案を自民党と一緒になって否決したため、社会党内閣はわずか7カ月で潰れていく。そしてS24年の第3回総選挙で143の議席が僅か48議席となり、片山委員長までも落選した。
 党の再建を巡って左右が激しく対立、右派の森戸辰男が党はマルクス主義と対決する政党であるべきことを主張し、左派稲村順三がマルクス主義は人類解放の理論であり、真の社会主義を建設し得るものは労働者階級であること、社会党はあくまでも労働者階級の政党であることを主張した。この森戸・稲村論争はいわゆる「国民政党か階級政党か」の論争で、これが26年の全面講和か単独講和かの論争と絡んで、ついに左右社会党に分裂していく。
 労働組合運動では、戦後の産別会議(共産党)主導の階級闘争至上主義運動に反対して民主化運動が起こり、これがS25年の総評結成へと進んで行く。ところがこの総評がマルクス主義者の高野事務局長を中心とする左派勢力によって1年も経たずして左旋回、と同時に破壊的な階級闘争至上主義への傾斜を強めていく。
 その闘争の象徴となったのがS27年の秋期闘争の、電産の電源ストをふくむ約3カ月、炭労の約2カ月に及ぶ長期ストであった。結局この無謀・無法の闘争は世論の批判にさらされ、全面的敗北となった。これに対して全繊、海員、日放労、全映演の4単産が批判の共同声明を出し、S29年、これに共鳴する労働組合とともに全労を結成していく。
 私が上京したのはこうした変化の時であった。


<いとうせいこう注
 こうして父は戦後政治の世界に入っていく>


by seikoitonovel | 2009-05-27 23:04 | 第三小説「思い出すままに」