自由 


by seikoitonovel
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父1-6


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就職ー2



 待望の新聞記者生活は誠に楽しいものであった。自転車での取材活動があり、午前中には編集室に帰って記事を書き、午後5時頃に印刷されるまでセントラルで映画を観ていた。上映されるのは西部劇などの洋画が中心であった。
 新聞の印刷が刷り上がると、それを一読してあとは毎日のように酒盛りをした。私は編集長の命令で、大きな鉄瓶を自転車にのせて横手町の密造どぶろくを買ってきた。ここで私は酒の洗礼を受けたのであるが、父の遺伝子を受け継いだらしく幾ら飲んでも悪酔いはしなかった。たまに頭がぐらぐらするほど飲んで吐くことはあったが、一升以上飲まない限り悪酔いはしなかった。
 月給は出たことは出たが、支給日がずれることがしばしばあり、半月も出ないことがあった。労働組合が結成され、若手の私は青年部長に選出された。新聞労連に加盟して、その全国大会に出たこともあった。そんな中である日、給料の遅配・欠配を許すなと叫び、編集局の同僚今井君と夜に社長室を占拠し、断食闘争に入った。しかし、社長と編集長の話し合いが行われ、善処するというのでこの闘争は一日で終わった。S25年の赤狩り(共産党員の追放)の余波をうけて、我々が尊敬していた永井組合長が追放された。サンケイ新聞で宮内庁詰め記者をやった経験があり、どうもそのころ共産党員とみなされたらしい。しかしこの疑いはすぐにとけてまもなく編集局に帰ってきた。
 さて、私は初任給が幾らだったか思い出せないが、毎日のように昼飯に寄った飯屋の中華ソバが確か35円であった。それから推量すると3,000円位ではなかったか。私は給料の半分を父に送った。宿泊所が編集局の片隅で宿直を兼ねたから、日常生活の費用はほとんど必要なかったからでもある。
 信陽新聞の四苦八苦の状況のなかで、S26年、読売新聞が支援に乗り出してきた。読売本社から営業責任者として大江原氏が、編集顧問として梅津氏が派遣されてきた。ともに本社の重役で相当の腕利きとの触れ込みであった。読売新聞本社がなぜ信陽新聞の再建に乗り出してきたのか。それは朝日新聞との対抗のためであった。



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by seikoitonovel | 2009-05-12 22:48 | 第三小説「思い出すままに」