自由 


by seikoitonovel
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第一小説3-5


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3-5

         『BLIND』-5

 1994年3月10日、華島徹が「あらはばきランド駅」で銀色に赤い線が一本だけ太く入った私鉄電車の先頭車輌を降り、そこから現実の小雨の中、徒歩10分をかけて坂を登り下りして「あらはばきランド」運営本部に到着したのが午前8時32分。それはタイムカードにはっきりと記録されている。
 傘をさして歩いたにもかかわらず、普段より数分早かったのは、その日の気温が前日よりぐっと下がったからだろうと本人は話している。寒さが足を速めさせた、というのだ。
 事実、ロッカールームで緑色のつなぎに着替える時(胸には「レインレイン 華島」とベージュの糸で刺繍があった)、徹はいったんランニングシャツのままで汗が引くのを待った。その徹に背後から声をかけた者がいた。
「マワッテルダロ?」
 一瞬、誰が誰に問いかけているのかさえ徹にはわからなかったので、そのままの姿勢でいた。すると、声は繰り返した。
「マワッテ……」
 途中で園田吉郎の声だと気づき、徹は苦笑しながら振り向いたという。そのように唐突な話し方をするのは園田の特徴だった。話題の導入部を平気で削ってしまい、核心しか口に出さない。
 ちなみにこのとき、背の低い園田(すでに緑のつなぎ着用済み)の頭部がいくぶん白く煙っているように見えたと華島徹は言い、それは毛髪の薄い頭頂部が化学反応を起しているかのようだったとも真剣に強調するのだが、理由はいまだにわからない。少なくとも我々は、園田が運命を透視する能力を持っていたという前提には立たないし、ましてや園田の頭頂部がその能力の受け皿であったとも思わない。
 ともかく園田は、本部の企画係が飼い始めたハムスターのケージの回し車のことを言っていたのだった。その年、日本に輸入されたばかりのロボロフスキーという体の小さな種を、犀川奈美という中年女性がいち早く入手し、数日前からケージごと社内に持ち込んでいた。この動物は必ずアトラクション化出来る、と犀川奈美は考えており、その研究を各部署で横断的に行うべきだと主張したのだ。
 しかし、我々が問題にしている日の前日、それまでさかんに回し車を回していたハムスターの様子が変わった。回し車に乗るには乗るのだが、ハムスター(この頃には「ベン」と呼ばれていた)はじっとうずくまり、ピンク色の鼻だけをひくつかせた。犀川はケージのそばにつきっきりになり、通りかかるあちこちの部署の人間をつかまえては、ベンが回らない、ベンがおかしいと言った。
 園田はその変化が、ちょっとした不調をきっかけとしており(おそらく便秘か何かだろうと指摘し、園田は“確かにベンがおかしかったのだ”という洒落を何度も反復して、その度ひとりで笑ったそうだ)、あとは犀川奈美自身のヒステリックな大声によるものだと陰で徹に言った。小動物がおびえているだけなのだ、と。
 というわけで、マワッテルダロ?という言葉は、犀川奈美が前日の午後、心労で早退したことを暗に指していた。そして事実、ハムスターは犀川の早退後、元のように元気よく回った。
 しかし、のちにわかることだが、この園田の言葉が発されたと思われる午前8時46分、華島徹のアパートの部屋で留守番電話が第一回目の作動を始めていた。
 はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。と、まさにテープは“”回って”いたのである。
 これこそ遠野美和が初めて聞いた華島徹の声であり、そこから恋愛のすべてが始まったのだった。
 

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by seikoitonovel | 2009-04-25 22:10 | 第一小説