2009年 11月 22日

『BLIND』9-1-b
その夜まで、ここで語るべき話はない。
華島徹は“ランド”閉園後、園田吉郎につきあって駅前にある唯一の飲食屋で生ビールを二杯飲み、幾つかのつまみとトンカツを食べ、最後に茶漬けをすすった。それは園田が経費として提出したレシートからもわかる。
小雨の中、なお頭部を白く煙らせて上機嫌でいた園田とホーム上で反対方向に別れ、東亀沢駅に着いたのが当時のダイヤによると午後9時21分。コーポ萱松の二階には午後9時40分までにたどり着いていたことになる。
傘を閉じ、木目調のドアを開けようとすると、暗い部屋から静かに光がこぼれ出してきて徹はひどく驚いた。しかし、それは脚色された思い出だろう。実際は単純な赤色の光であったはずで、つまり通話を示すランプだった。徹はベルの音が苦手で音量を最小にしていたのだ。
靴も脱がずに部屋にあがり、受話器を取ったが、すでに電話は切れていた。ツーツーツーという音が薄闇の中に響いた。留守番電話の件数を示す小窓に5と、やはり赤く表示されていた。それほど多くのメッセージがあったのは初めてで、実家に何かあったのではないかと徹は不安になった。雨で濡れた靴をはいたまま、徹はデジタル数字が放つ光を頼りに再生ボタンを押した。
すべてが無言だった。無言のまま、保存の規定時間いっぱいまで相手は通話を切らなかった。5本目まで聞き終えると、徹はのそのそと玄関まで戻り、靴を脱いだ。雨は靴下まで濡らしていた。徹は裸足になった。外で自転車のブレーキがブランコめいた音できしんだのを、徹は覚えている。
もう一度1から5までの無言を聴き終えた。『just the two of us』を歌う声の間に、かすかな息づかいがあるように思った。再生音量を上げ、徹は息づかいの温度を探った。同じ人物が何度もかけてきていると徹はやがて確信し、それらが単なる無言電話なのではなく、メッセージがないこと自体がメッセージではないかと思った。この時点で、すでに徹は美和のことを美和以上に理解しようとしていた。
我々インタビュアーの討議の中で、『just the two of us』が催淫効果を持つのではあるまいか、という仮説が一時有力視されたことも記しておきたい。美和もこの日、5回この楽曲を聴き、次第に徹の声に魅かれてそれを目当てについふらふらと翌日も通話をするのだし、徹はありもしなかった可能性の方が強い息づかいを同じ曲の向こうに見つけ出して、まだ性別もわからない相手に圧倒的な好意を抱いたのだから。
# by seikoitonovel | 2009-11-22 21:50 | 第一小説 | Trackback
2009年 11月 22日

第一小説の中の『BLIND』9-1に直しを入れた。
直しどころか、少し長くなった。
真正なる続きは「9-1-b」ということになる。
だが、私は「9-1」を編集してしまうのではなく、そのままデータ上に残すことにした。
デジタル時代に、こうした草稿や第一稿は残らなくなった。
私は『連載小説空間』で、むしろそれらをデジタル上に置いておきたいと考えている。
ちなみに法を明文化するドイツや日本は草稿を丁重に扱い、経験のみを重視するイギリスなどでは不思議なことだという。
その意味で、私はローカルな観念をデジタル上に展開していることになる。
# by seikoitonovel | 2009-11-22 21:47 | 雑記 | Trackback
2009年 11月 22日

<いとうせいこう注
父が書く通り、私は“邦雄おいちゃん”(高木邦雄)の家の庭に建った小さな住宅に住んでいた。事情を知ったのはずいぶん大人になってからだが、すでに子供の頃から私にはわずかな引け目が存在していた。なにかしら両親が話す言葉を耳に入れていたのだろう。
と同時に、私は叔父と叔父家族に強い憧れをもって育った。従姉妹にあたる陽子ちゃんは美しかった。陽子ちゃんはよくコーラを飲んでいた。60年代から70年代にかけて、私にはコーラというものが贅沢な舶来品にしか見えていなかった。私は陽子ちゃんがコーラを飲むのを見る度、どきどきした。小学校低学年の頃、私も一度陽子ちゃんにコーラを飲ませてもらった。泡の刺激に驚いて、私は液体を吹き出した。以来、私は炭酸飲料自体を好まなくなった。
ただ、数年前熊野の海で遊ぼうとした夏の朝、40代後半の私は誰に勧められたわけでもなく突然スーパーでコーラの500mlペットボトルを買い、駐車場の中でほとんどひと息でそれを飲んだ。おいしい、と思った。こんなにおいしいものをなぜ自分は飲まずに来たのか。その日から毎日毎日、私はコーラを飲んだ。夏が終わっても、飲食店に行けば私はほぼ必ずコーラを頼んだ。数ヶ月前まで、私は人が変わったようにコーラを飲み続けた。自分の中で何が変わったのかはわからない。
葛飾区に話は戻る。父が建てた住宅、つまり私が育った家の前には初め、ほんの小さな庭があった。今考えれば、本来は叔父たちが楽しむべき空間であった。だが、私たち家族の住宅がそれを密閉し、私たちだけの場所にしてしまっていた。叔父自身は日曜日の午後などに、たまに私の家に来て、母の出すインスタントコーヒーを飲んだ。縁側に座って庭を見ていることが多かった。煙草を吸っていたかもしれない。
私が叔父の長男である健ちゃんと同じある大学付属の中学に受かった頃だったか、その庭もなくなった。私の部屋が建て増しされたからだった。どういう話の流れだったかはまったく知らない。私の家は叔父の庭いっぱいに広がった。金銭的な余裕がない中の建て増しだったことは、住宅の角がトタンで覆われていた記憶でもわかる。風呂はなかった。
私は少し話を急ぎ過ぎた。父の語るテンポを超えて、私は書いてしまった。
だが、以下の思い出だけは今書き足しておこうと思う。
数年体調のよくなかった叔父が、昨年入院した。母は悔いが残らないように会いに行っておきなさい、と私に言った。実際私が見舞いに行ったのは、麻生政権が出来る少し前だった。部屋のドアを開けると、叔父はベッドに腰をかけていた。おいちゃん、僕だよと声をかけるが、数秒の間、叔父はぼんやりとこちらを見るばかりだった。正幸だよ、と重ねて声をかけたとき、叔父はぶるぶる震え出した。叔父の目や鼻から粘液が出始めた。私は常にお洒落だった叔父のその姿を見るべきでないと思い、とっさに扉を閉めた。
正ちゃんか、正ちゃんか、という泣くようなかすかな声が中からした。私はずっと扉の前に立っていた。どうしてよいか、私に方策はなかった。しばらくすると、叔父の声が大きく強くなった。あれが伊藤正幸だ、知ってるか、私の甥だと言っていた。看護婦らしき人がそうですか、などと相づちを打った。叔父は何度も何度も私の自慢をした。そのままでいると、私が泣いてしまいそうだった。私は扉を再び開けた。
叔父はすでにかくしゃくとしており、涙も鼻水も夢だったように消え失せていた。正ちゃん!と叔父は言った。うん、と私は答えた。今、君のことを##さんに教えてたとこだ、と叔父は信州なまりが残る語調で言った。また、うんとだけ私は答えた。そこから先は叔父のワンマンショーになった。昔、憲兵に殴られて以来、叔父は片耳の聴力を失っていた。だから、声がやたらに大きい。
叔父はまず、郵政民営化はどうしたって間違っていると言い出した。正ちゃん、君らがたださねばならんとも言い、総裁選を見る限り自民党内部はバランスを完全に崩しており、麻生も小池も本来あんなに票数を取るタマではない、俺が読んでいた票数と離れ過ぎていると言いきった。政権交代が起きた今からすれば、叔父の政治勘は鋭かった。
俺はな、正ちゃん、こうして病院に入ったことで老人福祉の現状をよくよく観察し、考え抜いたとパジャマ姿の叔父は演説し、ますます大声になった。80歳を超えた人の声では、とうていなかった。
もしも俺が命をながらえて退院出来たら、俺は老人問題をやる、しかし残念ながら寿命がそれほどあるとは思えない。叔父は私をじっと見すえてそう言い、だから俺が死んだら正ちゃんがやれ、と命じた。
じゃ、と手を上げたのは叔父の方だったと思う。言うだけ言って、叔父はベッドに横たわってしまった。
私もうんとだけまた答えて、それじゃおいちゃん、と言いかけた。何と続けていいかわからなかったので、私はまたねと言った。叔父はこちらを見もしないで、はいと答えた。
私が住んでいた庭の持ち主はそういう人である。>
# by seikoitonovel | 2009-11-22 17:25 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 10月 18日

葛飾に家を建てるまで
その頃の親は子供に”パパ、ママ”と呼ばせるのが普通であったが、私のような田舎ものでがさつな男としてはそう呼ばれるのになぜか抵抗があった。そこで「お父さん、お母さん」と呼ばせることとした。幸子も大賛成であった。
正幸は言葉を覚えるのも早く、絵本が大好きであった。買ってきてあたえるとむさぼるようにして何度も読み返していた。ある日、三鷹の本屋に連れていって絵本を買ってやると、本屋を出た途端に道路に座り込んで読み始めた。そんなところで読まなくても家へ帰ってゆっくり読めばいいじゃないかといっても、読み始めたらテコでも動かないようなところがあった。これには親としては嬉しく誇らしいような思いであった。
正幸が3才になってから、私たちは葛飾の邦雄兄の庭をかりて小さな家を建てた。
私はかねてから早く自分の家を持ちたいと考えていた。そうかといって薄給の身で家を建てられるだけの資金など貯まるはずもない。手持ちの現金はゼロ。親から資金を借りる訳にもいかない。
ところがある日、邦雄兄から「俺の家の庭を貸してやるから」という願ってもない話があった。邦雄兄は葛飾の鎌倉町に家を持っていた。庭は20坪ほどだったが、私はこの話に飛び付いた。早速父に連絡したところ「土台は新宿にいる知り合いに頼んでやる。それができたら、直(なお。母の実家の甥)に建ててくれるよう頼んでやろう」との事であった。それなら当面の資金は必要ないし、最後は父が費用を出してくれるものと勝手に理解して、父のいう通りに事を運んでいった。
直ちゃんはある日、刻んだ建築材を車に積んで諏訪からやってきて、2日で家の骨組みを建てて帰っていった。そのあとは鎌倉町の大工に内装建築を頼んだ。内装建築は意外に時間がかかり2カ月くらい要したが、とにかく小さいながらもまずは住めそうな2階建ての家ができた。
ところがである。そろそろ引っ越しにかかろうかと考え始めていた頃、直ちゃんから手紙で、20数万円の建築費用を貰いにいくので「○○日」に新宿駅に持ってきて欲しいとの催促が来た。父がなんとかしてくれるだろうと思っていた私はこの手紙に狼狽した。あわてて資金集めに入ったが、この時に一番の助けになったのが、電話債券であった。そのころ電話債券がなければ電話を引く事はできなかった。政党書記が電話を持たない訳にはいかず、西尾先生の秘書的仕事があるのでという理由で電話債券を手に入れた。その債券はたしか15万円くらいだったと思う。非常に高かった記憶がある。
この債券を売って、給料の前借りをし、20数万円をなんとか工面して私はこの難関を乗り切ったのであった。
# by seikoitonovel | 2009-10-18 21:15 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 10月 04日

『BLIND』9-1
その夜まで、ここで語るべき話はない。
華島徹は“ランド”閉園後、園田吉郎につきあって駅前にある唯一の飲食屋で生ビールを二杯飲み、幾つかのつまみとトンカツを食べ、最後に茶漬けをすすった。それは園田が経費として提出したレシートからもわかる。
小雨の中、なお頭部を白く煙らせて上機嫌でいた園田とホーム上で反対方向に別れ、東亀沢駅に着いたのが当時のダイヤによると午後9時21分。コーポ萱松の二階には午後9時40分までにたどり着いていたことになる。
傘を閉じ、木目調のドアを開けようとすると、暗い部屋から静かに茜色の光が漏れ出してきて徹はひどく驚いたと言っている。しかし、それは脚色された思い出だろう。実際は単純な赤色の光であったはずで、つまり通話を示すランプだった。徹はベルの音が苦手で音量を最小にしていた。
靴も脱がずに部屋にあがり、受話器を取ったが、すでに電話は切れていた。ツーツーツーという音が薄闇の中に響いた。留守番電話の件数を示す小窓に5と、やはり赤く表示されていた。それほど多くのメッセージがあったのは初めてで、実家に何かあったのではないかと徹は不安になった。雨で濡れた靴をはいたまま、徹はデジタル数字が放つ光を頼りに再生ボタンを押した。
# by seikoitonovel | 2009-10-04 21:50 | 第一小説 | Trackback
2009年 09月 13日

正幸誕生-1
正幸が生まれてから1カ月くらいで帰ってくると思っていたが、幸子は4月を過ぎ5月に入ったというのに帰ってこない。電話して聞くと、弘康兄からの返事は「もうすこし待て」とのこと。私もそんなに急がなくても実家でのんびりさせて置くほうがよかろうくらいに考えて、帰るのをじっと待っていた。
結局幸子と正幸が帰ってきたのは6月の初めであった。どうしてこんなに帰るのが遅くなったのか、その理由が帰ってきてから聞いて初めて分かったのであるが、実は幸子の左の乳房が乳腺炎にかかり、40度近くの熱がでて寝たままであったという。手術をして炎症は食い止めたが、1日に1回づつ医者がきて傷口に管を差し込んで膿を抜き取ったのだそうだ。管を差し込まれる時の痛さは恐怖だったという。
幸い右の乳からは母乳がでたので正幸の授乳はできたということだった。乳腺炎が快方にむかって床を上げてみると、床の下の畳が汗のため腐りかけていたという。こんな大病のことをなぜ私に知らせなかったのか、それはもっぱら弘康兄の配慮と幸子の我慢の由であった。そんなことを知らないでのんびり暮らしていた自分が恥ずかしかった。
正幸は生まれてから2カ月くらい弘康兄が風呂に入れてくれていたのであった。また弘康兄は食事の時は組んだ足の上に正幸をのせてあやしながらであったという。食事を零したり、酒を零したりして正幸の顔に傷を負わせてはいけないというわけで、正幸の顔にハンカチを掛けて食事したそうである。正幸は最初は嫌がったらしいが、そのうち慣れて静かに食事が終わるのを待っていたという。
正幸が夫婦のどちらに似ていたかといえば、どうやら私の方らしかった。弘康兄が風呂に入れるときに正幸の顔は郁さんそっくりだ、といっていたらしいからそうだろうと思う。
6月帰ってきた幸子は7月にはまた実家に帰った。正幸の汗疹がひどく可哀相で、涼しい信州で過ごした方がいいと考えたからであった。
幸子と正幸が牟礼の家に帰ってきたのは、やや涼しくなった8月の末であった。正幸はすっかり元気になっていたし、可愛さはますばかりであった。ところが11月に入って風邪を引き夜中に熱が高くなり、ぐったりしてきた。近くに病院はないし、あわててタクシーで日赤病院へ連れていった。こんな事でこの年も慌ただしく暮れた。
年があけて1月の末、正幸が突然、炬燵の端に手をかけて立ち上がった。歩き始めるのは生まれてから1年くらいからと言われていたので、この時ほど夫婦で喜んだことはなかった。
歩き始めてから3カ月ばかりがたったある日の夕方、銭湯に連れていこうと正幸の右腕を掴んだところ、急にその手に力が無くなりぶらぶらしている。といって痛がる訳でもなく、泣くのでもない。こんなことは初めてで何が起こったのか分からず、急いで近くにあった整骨院へ連れていった。
先生は顔色一つ変えず、正幸の前にキャラメルを一つ出した。正幸は右手をぶらりとしたまま、嬉しそうにそれを左手で受け取って口に入れた。先生はにっこりして「右の脱臼だ」といって、ただちに治してくれた。そしてまた一つキャラメルを出してくれた。正幸は今度は右手で受け取って嬉しそうに口に入れた。一時とんでもないことになったなと思ったが、これでほっとしたと同時に腕は簡単に脱臼するものだと言うことが分かったのである。
# by seikoitonovel | 2009-09-13 14:47 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 08月 25日

#もっと気楽に書いていくために、第一小説においても、第二小説においても、一節(一回に掲載する単位を、これまでそう考えていました)をさらに小さく分割して掲載することにしました。ちなみに、一節自体はミラン・クンデラの分量が理想ですが、分割によって少し長めになるかもしれません。
# by seikoitonovel | 2009-08-25 14:01 | 雑記 | Trackback
2009年 08月 25日

銀座線上野駅から地上に出、たくさんの勤め人と歩調を合わせて信号を渡り、ついにアメ横へ入らんとした私は右手の上野の山をぼんやりと視界の端に入れ、おかげでいつものように後藤明生の『挟み撃ち』の名シーンを思い出したのである。
私はほぼいつでも、駅から山側に渡ったところのいまだに二階が工事中の「聚楽」のあたり、似顔絵師が数人いる大階段や京成上野駅の入り口を見ると、『挟み撃ち』の世界に迷い入った気になる。
主人公・赤木はまさに上野駅前の映画館周辺をうろつき、かつて伴淳・アチャコの二等兵物語の宣伝のために、自分が戦後ゲートルを巻いてバイト仲間と列を作り、模擬的な捧げ銃をしたことを想起する。その想起は小説内の現在とも、戦時中の兄とのエピソードとも自在に行き来しあうから、こちらは多重露光したフィルムを見ているような錯覚におちいる。今読み返しても、時間軸の移動の技巧は他作家を圧倒して凄まじく、しかし小説自体はあくまでものほほんとしている。
ちなみに、私が行方も知れぬまま書いているこの文章もまた、後藤明生の作品、特に『挟み撃ち』をそもそも文体、制作精神の最高峰としているのであった。その小説らしくなさ、文と文の間の隙の大きさ、平気で他人の作品に重心を移してしまう自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさ。
だが、書けば書くほど私には後藤明生の天才的な境地がひしひしと実感され、ひるがえって自分が書くもののある種の小説らしさ、文と文の間の隙の大きさへの恐れ、平気で他人の作品に重心を移してしまう際に無駄な力が入ってしまう不自由さ、それらの要素すべてを含むゆえの真の小説らしさの不在に絶望する以外なくなる。
ああ、もっと自由を、もっと高度な、しかしこわばりのない技術を、私の小説に!
こういうことを考えながらふらふら朝のアメ横を歩いていた私には、当然誰も声をかけなかった。トロ箱を店の前に出したり、道に水をまいたりしているばかりだ。むしろ、この道で小説のことなんか考えているやつは邪魔だとばかりに、私は無視すべき存在として扱われ、むしろこちらが注意深く歩かなければ準備中の品物にぶつかりそうな具合だった。もしも太い黒縁メガネの人が、山と積まれたサキイカの袋の向こうから、おい、ゴーゴリの『外套』を仔細に読んでから出直せとダミ声で言ってくれたなら、私はどれほど心強かっただろう。
ただ、そんな風に後藤明生の霊が爽やかな初夏の朝のアメ横に現れたとしても、私は『外套』を仔細になど読まないだろう。負ける勝負はするべきではないし、後藤明生を遠い目標として目指す者はいい加減が身上でなければならない。
# by seikoitonovel | 2009-08-25 13:55 | 第二小説 | Trackback
2009年 08月 03日

<『私のつぶやき』4 伊藤幸子
「正幸誕生」
3月19日、外は雪景色、しんしんと降り続いていました。
昼頃、無事男の子が生まれ、まずはひと安心でした。それから正幸はすくすくと育っておりましたが、私が乳腺炎になってしまいました。大変苦しい思いをしました。母と兄が一生懸命看病してくれました。
兄は私を慰めようと、面白いことを言っては笑わせてくれましたが、笑う度に傷口が痛くて閉口しました。だがそれを兄に伝えることが出来ませんでした。
そんなある日、正幸に母乳を与えているときのことです。正幸が飲んでいるのをフトやめて、私の顔を見上げてニコニコと微笑みました。その時の顔は私が今まで見たことのなかった美しい顔でした。慈愛に満ちていたように思いました(親馬鹿かな)。
その時、母が覗きこんで見ていて、ひと言言いました。”こんなすばらしい笑顔は今まで生きていて一度も見たことがない”と。そして”幸子、この子はこんなに母親のことを信頼しきっていて、ありがとうと言っているように思える。だから今は苦しいけれど頑張らなければいけないよ”と静かに言われました。私は黙って頷き、頑張ろうと決心したのでした。
この時は母と兄には大変お世話になりっぱなしでしたので、いつかお礼をと思っておりましたが、ついその機会もなく、二人とも旅だってしまいました。私は大変不孝者だと悩んだ時期がありました。
「不思議に思うこと」
時が過ぎ、子供たち二人も成人になり、平凡な生活が続いておりました。
ある日、田舎で生活しております母が病に倒れました。私が見舞いに行った時のことです。
田舎の姉と二人で床についている母の前で雑談をしておりました時、しばらく黙って聞いておりました母がニコニコと微笑んで、私達を包み込むような優しい顔をしました。その時私は、正幸が生まれて2、3カ月経った時に私に見せたあの微笑みと同じようだ、と思って不思議な感じに襲われたのでした。
それから4、5カ月経って、姉に逢い、雑談していると、姉がひょいと母のあの微笑みのことを言い出しました。姉はおばあちゃんのあんなにいい顔は見たことが無いとのことでした。姉は不思議だねと言っておりました。私は姉には正幸が生まれて2、3カ月経った時に私の顔を見て母と同じような笑顔をしたことは話しておりませんでした。私は母と正幸の笑顔には何かを訴える共通点があるかもしれないと考えた事もありました。>
# by seikoitonovel | 2009-08-03 01:29 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 07月 29日

正幸誕生-1
民社党の結党・民社青連の結成・結婚・都議補欠選挙への立候補と慌ただしかった35年が明けて、久し振りに三鷹の新居での穏やかな正月を迎えた。
この新居は吉祥寺駅から井の頭線で二つ目の三鷹台駅から歩いて5分のところの2階家で、その2階の6畳間であった。幸子は料理が得意で毎晩おいしいものを作ってくれた。独身時代には味わうことのなかった物ばかりで、うまいうまいを連発して食っていた。もちろん酒は欠かさなかった。たちまち太っていくのが実感された。
この時点で幸子はすでに妊娠7カ月目を迎えていた。7カ月を迎えても幸子のつわり症状はまだ続いていて苦しそうだった。そのこともあり、幸子は2月に入ってから今井の実家にお産のために里帰りした。私としても安心であった。
ただ、大家さんの言うのには子供ができたら別の家に引っ越して欲しいとの事であった。慌てて家探しを始めた。幸子には帰ってくるまでには探しておくからと約束した。一軒家を不動産屋で探し始めたところ、三鷹市牟礼というところに新築の貸家があるという。早速出掛けてみると、6畳と4畳だけのこぢんまりした家が6軒建っていた。そのなかで道路に近い家を借りた。このことを連絡すると幸子から「引っ越しの時は姉の愛に手伝ってもらって」との事であった。愛さんはそのころ帝人に勤めていて、都内の中野に住んでいた。この愛さんのおかげで引っ越しはスムースに行われ、幸子と「正幸」を待つばかりとなった。
3月19日、朝から雪まじりの雨が降る寒い日であった。昼過ぎ「生まれた」と電報がきた。私は列車に飛び乗るようにして今井へ急いだ。母子共に元気そうであった。その姿をみて安心し、2日後、諏訪の実家に寄って報告し、再び帰京した。
子の名前は私が双方の父親の名前の一字を貰うこととして、幸子の父親の政司の「政」と私の父の友幸の「幸」から「政幸」としたが、もっと簡略な字にと思い、政を「正」としてみた。こうすると左右対象に近くなり、簡便でかつ座りがいい、と自分で勝手に納得した。
だが、これを「まさゆき」と呼称したのでは面白くないなあと感じたのである。それには理由があった。青年運動の仲間に「古田政行」(ふるたまさゆき)という、口下手で酒が入ると愚痴ばかりいう酒乱気味な男がいたのである。そこで正幸をまさゆきと呼ばず「せいこう」と呼ぶことにした。「まさゆき」より、このほうがなんとなく響きがよかった。
<いとうせいこう注
私は三鷹市牟礼にまったく思い出がない。
自分が西東京にいたことが、長らく下町に住み慣れていると不思議で仕方がない。
さて、私は自分の名「正幸」が、「まさゆき」でなく「せいこう」であることで子供の頃によく笑われた。今の私の通り名がひらがなであるのは、漢字で書いてあれば誰も正確に読んではくれず、訂正するのも面倒だとあきらめたからである。
一度、中学生だったか高校生くらいの時だったか、母に自分はなんでこんな名前になってしまったのかと問いつめると、母は洗濯物をタンスにしまいながら、「お父さんが選挙のときに呼びやすいようにって言ってた気がするけど」と答えた。私は選挙に出る未来を勝手に予定されていたことに、非常に奇妙な感じがして吹き出したように記憶している。父は私に何かを強制したことがなかったから、私は初めて父の沈黙のうちでの希望を理解した気がしたのだ。
その名付けが今回、実は「酒乱の友人」との区別をつけるためだと判明した。これは父が一度も話してくれたことのない事実である。
そして、「このほうがなんとなく響きがよかった」のだそうだ。
「なんとなく」……>
# by seikoitonovel | 2009-07-29 11:53 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 07月 18日

『BLIND』-8
例えば、21世紀の明日生まれる子供は、「子機」という存在になんの思い入れも持たずに育つはずだ。彼らは思春期に至る以前に、個人的な通話のすべてを自分専用の携帯電話で行い始めるだろうからである。
かつて子機は家族からの情報上の自立を象徴し、同時に家族からの微温的な監視をも暗示していた。つまり、「子機」はまさに家族と密接につながったメディアだったのであり、我々はその懐かしさを知る最後の世代なのに違いない。
その朝、美和もまた子機を持ち、二階の自室に上がったのである。母・壮子が買った純白の留守番電話機セットには、もともと子機1しか付属していなかった。が、長電話のためだろう、壮子は子機2も追加購入し、1を自分専用として自室に置いたのだった。したがって、美和が使用したのは子機のうち、2の方である。
美和は酵母について徹底的に学んでおくようにと、洞窟コーポレーション社長・黒岩茂助(62)から直接、厳命を受けていた。新しいパンのためには、まず新しい酵母をという先駆者的発想を、遠い目をした黒岩は濃いヒゲの下から低い声で朗々と語ったという。
感激した美和はある限りの関係書籍を図書館から借りて読み、自宅でもパン生地の発酵を何度か試すうち、前日の昼間、数種類の酵母でパンを焼く店がトーキョーにあると、買い物から帰った壮子が言い出した。商店街でかかっていたFMラジオの番組(『モーニング・デュー』)で紹介されていたのだそうだ。壮子はそらで店の名前を覚えていた。
美和は即座に、ぶ厚い電話帳から店の番号を見つけ出した。話を聞きに行くしかあるまいと美和は決意していた。誰も使ったことのない酵母でふくらんだパンについて、美和はすでに夢のような構想を、まさに発酵前のパン生地のごとく練っていたからであった。応接間のテーブルの上で、美和は9ケタの電話番号を『酵母ノート』に書き写した。このとき、右から二番目の数字を写し間違えていなければ(3であるべきところが5になっていた)、この長いレポートは生まれていない。
本当は開店時間である午前9時きっかりに、調べた番号を押すつもりだった。だが、自室の机にノートを開き、子供の頃から使っている木の椅子に座ると気がはやった。営業日か否かも心配だったと美和は証言している。だから美和は相手が出るかどうかだけをまず確かめるために、電話をかけた。インターネットが出現する以前には、こうした行動は一般的にあり得た。
相手が出た途端に切るつもりでかける電話は、当然かけ手に罪悪感を与える。03から始まる番号をプッシュしながら、美和は冷たい子機2を耳に押しつけて息を詰めた。
コールは5回だったと美和は言っている。チャッという舌打ちのような音がして、美和の心臓ははね上がった。すると耳への圧力が変わり、速度の一定でないうねりが聞こえてきた。それが音楽であり、留守番電話につながったのだとわかるまでにわずかな時間がかかった。店が休みなのかもしれないと思う以前に、その音楽に聞き覚えがあることが美和を強くとらえた。甘く翳りのあるメロディだった。確かに自分はその曲を知っていた。だが、タイトルが出てこない。そのメロディにまつわる風景が、美和には思い出せなかった。
はい、華島徹です。ただ今留守にしています。ピーッという音のあとにお名前とご用件と連絡先を吹き込んで下さい。
数秒の音楽に続くメッセージを、美和はほとんど聞き逃した。1994年3月10日、午前8時46分の通話はそのまま終わった。
園田吉郎が華島徹に譲り渡した古い留守番電話のテープには、したがって何も残らなかった。このMEISON製の初期型留守番電話KL-B200がなぜ、園田から華島に手渡されたのかはまたのちに語ることにして、我々はまずここで、美和をとらえた音楽について報告しておきたい。
華島徹によって確認されたところによれば、それは紛れもなく『just the two of us』という1980年のヒットソングであった(グローヴァー・ワシントンJRのアルバム『ワインライト』収録)。ちなみに、本曲をBGMに使うようにと華島に古いカセットテープを渡したのはやはり園田吉郎で、そのため音の速度が一定でなく、美和を迷わせたことになる。
歌詞が二人にとって大変予言的なので、一部をここに掲載しておく。
透明な雨粒が落ちていく
そして美しいことに
太陽の光がやがて
僕の心に虹を作る
時々君を思う時にも
一緒にいたい時にも
二人きり
二人きりでいればかなう
僕ら二人でいれば
砂上に楼閣を築きあげて
たった二人
君と僕
(日本語訳・佐治真澄)
# by seikoitonovel | 2009-07-18 20:57 | 第一小説 | Trackback
2009年 07月 11日

都議会選挙に立候補・幸子は6カ月の身重-1
35年1月24日の民社党の結党は大変な反響を呼び、新党ブームが起こった。社会党が内部抗争もさることながら院内闘争での審議拒否、暴力による抵抗戦術など、議会制民主主義に反する行動に終始したからであった。
「議会は論戦の場であり、審議拒否などの戦術はとらない。審議を通じて考え方を広く国民に伝え、次の選挙で国民審判を受ける。それが多数を獲得する道である」とする民社党の主張に期待感が膨れ上がったのである。当時のマスコミの大半は「これで日本も健全なる2大政党時代が来る」と評価したものであった。入党者もうなぎのぼりに増え、一時は8万名に達した。池田内閣が解散で国民の信を問うことが予想され、党の衆議院選挙体制は急ピッチですすみ、130の選挙区のほとんどで候補者が揃ったのである。
ところが日比谷公会堂で開催の自・社・民社3党立会演説会で、社会党浅沼委員長が右翼愛国党の暴漢に壇上で刺殺された事件を契機として社会党への同情が集まり、11月20日に行われた総選挙の結果は自民296、社会145となり、民社は17名に止まった。選挙前40議席だったから惨敗であった。この選挙で私たちが住んでいた東京7区でも北条秀一先生が落選した。
このあとで私に突然難題が降りかかってきた。三鷹市で東京都議会議員をしていた社会党の田山東虎氏が、この総選挙の直前に都議を辞任して郷里茨城の衆議院候補者となった。三鷹市の都議の定員は1人のため、総選挙後に都議の補欠選挙が行われることとなり、私がその選挙の候補者としてにわかに浮上してきたのである。
北条先生は剛気の人であり、「民社党が大惨敗を喫したこの時こそ、民社党のど根性を見せるときだ。民社党は死なない。そのためにはこの都議補欠選挙に候補者を立てて戦うことだ」と主張した。落選の悲哀を味わったばかりのこの北条先生の気合いに反対できる者はいず、「そうだ、そうだ」と同意するものばかりであったが、ではだれを候補者にするかが大問題となった。
三鷹総支部長をはじめ数人の名前が上がったが、引き受けようという者は出てこない。私は総支部書記長ではあったが、三鷹の住民になったばかりで友人、知人はおろか知名度もゼロに近い。出ても勝てる要素は何もない。しかし、党本部書記局員であり、北条先生の考え方にも大賛成。頼まれたらむげに断れない立場であった。
切羽詰まった段階でついに私に白羽の矢が立てられた。私は結党─結婚─総選挙と続いて疲れ果てていたし、何よりもこの時点で妻幸子が4カ月の身重であった。断りたいというのが本音であった。それにはどうすればいいか。体調を理由にする以外にないと考えて野村病院で診察を受けた。慈恵医大の先生の回診日で、この先生の診断は「肝臓が腫れている。選挙などやったら命は保証出来ない。すぐ入院だ」という。私はその通りに直ちに入院の手続きをとり、総支部の吉田君(党本部機関誌局の後輩)に連絡し、幸子への連絡を依頼した。
吉田君からの伝言をうけた幸子は仰天したらしい。幸子は事のいきさつは何も知らない、いきなり夫がなんの病気で入院したのか、大変なことになったと思ったらしい。入院に必要な最低のものを用意して駆け付けてきたのであった。
これで私の立候補は無くなったと思って、医者の指示に忠実に従った。毎朝太い注射管で葡萄糖注射を打たれた。
<『私のつぶやき』2 伊藤幸子
「夫の都議会議員選挙の時のことについて 1」
私は全く無視された出来事でした。
報告があった時、ただただ驚くばかりで、何も言えませんでした。
結婚したからには夫に協力するのが妻の役目としか考えられず、覚悟したつもりでおりましたが、腑に落ちないことばかりでした。
夫は総選挙活動の疲れから入院せざるを得なくなったのですが、入院している病室に立派な方がお見えになったので、夫は立候補をお断りすることになったことをお伝えしました。するとその方がいきなり「面子を潰された」と百万円の札束を机の上に叩きつけられました。私はその時、五ヶ月の身重でしたので驚きのあまり立てなくなったように覚えております>
<いとうせいこう注
この時、「腑に落ちないことばかり」の母の腹の中にいたのが私なのであった>
# by seikoitonovel | 2009-07-11 22:44 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 07月 06日

私の結婚2
帰京して邦雄氏に報告し、異存のないことを伝えた。それから暫くして邦雄氏から「幸子もいいと言っている」との返事があった。私は早速、結婚の日取りの検討に取り掛かる。民社党の結党(S35年1月24日)があって忙しかったので、すこし落ち着いてからと思い、5月中にと決めた。
早速日本青年館に出向いたが、大安の日などはまったくふさがっていた。当時は結婚式・披露宴の会場は足場がよく、料金も安いこの日本青年館に人気があった。私もそこで結婚式をやろうと決めていたのだが、吉日はなかなか取れない。そんな時、係が「仏滅の日なら空いていますよ」という。冗談のつもりでいったのだろうが、私はこれにすぐに反応した。「俺は革新運動をやっている現代青年だ。大安とか仏滅などという旧来の慣習にこだわる必要もなかろう。仏滅の結婚式も話題性があっていいかもしれない」というわけで、5月31日(日曜日、仏滅)に決めたのであった。
日と会場がきまれば最大の難問は誰に仲人になってもらうかであった。私は日本社会新聞の編集長山崎宏さんなら引き受けてくれるだろうと思い、相談した。すると山崎編集長は「西尾(末広)委員長がいいではないか。よかったら俺から頼んでやろう」とのこと。私にとって西尾委員長は私が尊敬する第一の人であり、私はこの人の思想と行動に共鳴して民社党を選択したのである。それまでにこの人の演説や文章に触発されてきたが、言葉を交わしたことはない。私のような一介の書記局員の仲人など引き受けてはくれまいと思ったが、「頼んでくれるだけで光栄です」と返事した。1週間もたたないうちに山崎編集長から「西尾先生がいいよと言っている」という連絡があった。私は感激した。
山崎編集長は大島出身・東大をでて、戦後に出来た社会党内閣官房秘書官となった人。西尾官房長官時代の発言や文章は山崎さんの草案によるものが多かった。こうした強い繋がりによって西尾先生が仲人を引き受けてくれたのであった。
3月のはじめに結婚式の案内状を島書記局長をはじめ今まで交友のあった仲間に送った。ところが、すっかり準備が整った段階で邦雄氏から「どうも幸子がこの結婚を断ってくれと言ってきている。結婚式など勝手に決めてくれても出席しないと言っているようだ」とのこと。
これには愕然とした。案内状は送付ずみ、その案内状には「西尾末広御夫妻の媒酌によって」と記されている。なんとしても幸子を説得してもらう以外ない。邦雄氏に「こうなったら、とにかく出席してもらうだけでいいから」と懇願した。
その後邦雄氏がどのように説得したかは知る由も無かったが「出席だけはさせるようにしたから」と返事があり、なんとか結婚式を済ますことができた。伊藤家からは父が、高木家からは両親が出席された。
披露宴では渡辺朗さん(当時、党の国際局事務局長。後に代議士・浜松市長を歴任)が司会をひきうけてくれ、出席者も100人を超え、賑やかであった。披露宴が済むと党総務局阿部君運転の党の乗用車で東京駅まで送ってもらった。2日間の新婚旅行が組んであり、初日は箱根の小湧園、2日目は伊豆長岡の菊池旅館であった。この新婚旅行の費用は党書記局の仲間がカンパでまかなった。幸子は東京駅で列車に乗ってから覚悟を定めたようであった。
こうして私たちの新婚生活がはじまった。
最初の新居は三鷹市であった。
<いとうせいこう注
淡々と書いてあるので見過ごしがちだが、父はデタラメである。
母の都合も聞かずに式場を決め、日取りを仏滅にして「現代青年」を気取っている。
これは父のせいではないが、そもそも母の結婚への意思はあやまって伝えられたらしい。
母は話が勝手に決まっていると聞いて驚愕した。
だからあわてて「この結婚を断ってくれ」と彼女の兄に伝えた。
すると「(式に)出席してもらうだけでいいから」と父は懇願した。
そして出席した母を、父は新婚旅行に連れていってしまった。
これは略奪婚、と言ってもいいのではないか。
母はどう証言するだろう。
彼女が書いてくれた文章を以下に付す>
<『私のつぶやき』1(伊藤幸子)
「私の結婚のことについて」
私の家は田舎の旧家でした。父は平凡なサラリーマン(特定郵便局長)をしておりました。
だから私はごく普通の家庭に育ったとおもいます。独身時代には5、6種のお稽古事をしながらのんびりすごしていました。
したがって、縁談のお相手が政治活動をしている人だと聞いただけで、そんな人と添い遂げることなど自信がもてませんでした。私はあまり派手好みではありませんでしたし、都会の生活も不安でした。だから、すぐお断りしたのでした。
ところが、兄たちに「縁というものは理屈でははかりきれないものだよ」などなど何度も説得されました。
考えあぐんだ末、結婚を決意した次第です>
<いとうせいこう注
やはり、これはほとんど略奪婚だ。
そして、母が略奪される瞬間の写真が、先日実家で見つかったのである。
箱根に向かう列車はまだ走り出していない>

# by seikoitonovel | 2009-07-06 13:05 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 07月 05日

『BLIND』-7
その美和の能力によれば、彼女の母・壮子が、生まれ育った桐生市の友人らと共に『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』に関わり始めたのが、父・太一の失踪のちょうど7日前であった。壮子はその蒸し暑い日(1990年7月7日)の夜、彼女自身の証言では、出身校である桐生第三女子高等学校の同級生・花房由香里(『伝説のカイコ<シロ玉>を復活させる市民の会』副会長)と二時間ほど「珍しく」長電話をした。
「珍しく」、と付け加えたのは壮子自身だが、ある時期から彼女の通話は常に長かったと美和は言っているし、姉・香もそれには完全に同意している。そして、その“ある時期”は、太一が50歳を過ぎて職を失った頃とぴったり重なる。
それまで勤めていた会社は、壮子の父・数一が興した地方の代理店であり、太一はなんの手柄がなくても事業を継承することが内々に決まっていた。だが、太一は突然、社に退職願を出した。もちろん、“突然”と見たのは周囲の人間であり、太一は入社以来四半世紀、その日を予感し続けたのかもしれない。娘たちの名前が奈良の山からとられている理由を含め、太一に関する調査報告はのちの章に譲ることにして、レポートを先に進める。
当時、壮子は自分の父とも、取引先の地方財閥の重鎮とも、社の株主たちとも電話で長い話をした。おそらく、この件に関しては太一とこそ最も会話をしていなかったのではないか。結果、壮子は父の財産であるマンションを二棟譲り受け、その家賃を運用することで遠野家の経済をまかなっていくこととなった。
さて、1990年7月7日午後10時過ぎ、壮子は長い通話のあと、自分が養っている家族全員を居間に招集し、七夕は棚機とも書き、織物の文化と密接に結びついているというエピソードから始めて、桐生市の役場がオリヒメ市にあることを皆に思い出させたのち(オリヒメは7月7日を象徴する女神であり、一年に一度この日が晴れなければ愛する男神と邂逅出来ないという、遠距離恋愛の代表者でもある)、シロ玉という桐生特有のカイコが戦後十数年の間にいかに貴重で神秘的な絹を作り出したか、それがひいては貧しかった日本の産業の礎を築き、復興の役に立ったかについて滔々と熱弁をふるった。
だが、シロ玉はウィルスに弱かった。他品種の輸入、交配を経て、かの美しい種は一気に絶滅した。あたしは、そのシロ玉をもう一度この桐生に甦らせたい。壮子は七夕の夜、家族の前でそう力強く言い放った。
美和の中で、この不在のカイコ復活への母の情熱は、退職以来まるで仕事をしようとしない父への叱咤激励と直接つながっており、同時に皮肉にも当の父を失踪させてしまう原因でもあった。
しかしながら、シロ玉と同じく太一が不在になったからといって、壮子の活動が終息することはなかった。むしろ、そのカイコが太一自身であるかのように、壮子はシロ玉の復活を願った。ちなみに、それ以来毎年七夕には、遠野家の居間に巨大な笹が飾られ、短冊に「甦れ!」「甦れ!」「甦れ!」と執拗に同じ達筆が踊ることともなったのである。
我々の調べでは、娘二人のうちで美和のみが両親のこうした行動のちょっとした過剰を気に病み、逐一記憶にとどめていた。姉・香は幼稚園の頃から、我関せずという外界への一貫した態度でつとに知られており、一時は自閉傾向も認められていたくらいだった。
家族の中で最もよく繰り返されたのは、香が小学校高学年の修学旅行時、同級生集団とキョウト市内ではぐれた折の逸話である。一時間後、担任に発見された彼女は、交差点の中央で「人」の形になって止まった二台の大型トラックの、ちょうど文字の接点のあたりに立っていた。正面衝突という最も派手な交通事故に巻き込まれたのだが、奇跡的に香には怪我はなかった。そして、救急車とパトカーと野次馬と担任の金切り声で騒然とする夕方の交差点で、香は静かに大判の雑誌を読み始めたのだという。理由を聞かれる度に、暇だったからと香は面倒くさそうに答えた。
美和は恋愛以前、この姉に苦手意識を持っていた。自分は愛されていないと感じたし、自分が愛しているのかどうかも不明だった。香をどう扱っていいのか、美和はまるでわからなかったのである。いや、それを言ったら、美和は母の扱い方もわからなかった。父に至っては、扱おうにも消えていた。
だから遠野美和はいつも微笑んでいた。とまどっている時、美和の顔は柔和になった。その笑顔のまま高校を卒業し、短大英文科をトマス・ハーディ作品を使った文法教育を受けて出ると、祖父の会社に入る話を断って(先に姉がそうしてくれていたから、母からの反対はさほど強くなかった)、市内のパン屋を数店経営する会社に就職した。
本社を『洞窟コーポレーション』と言った。チェーン店の名は『パン・ド・フォリア』、<狂気のパン>であった。美和は小学生の頃から通っていたこのパン屋で、自分が過去食べたパンの名前をすべて言えた。くるみパン、クロワッサン、狂気のクロワッサン、レーズン入り食パン、チーズ&パセリ練り込みロール、狂気のチーズ&パセリ練り込みロール、あずきカンパーニュ、クラブハウスサンド、懐かし蒸しパン、狂気の懐かし蒸しパン、有機野菜BLT……。美和は洞窟コーポレーションの社長から驚異の新人と呼ばれ、企画事業部に配属されることがすでに内定していた。
そして、入社前研修中の1994年3月10日、あの午前8時46分が訪れる。
華島徹のいる東京には雨が降っていた。だが、美和の桐生市は曇りだった。
# by seikoitonovel | 2009-07-05 13:28 | 第一小説 | Trackback
2009年 06月 22日

私の結婚
私が結婚を真剣に考えるようになったのは、母の死からである。母はS34年の1月に亡くなった。前年の12月に脳溢血で倒れたのであるが、ちょうど年始年末の帰郷中であった。すこし快方に向かいつつあるという医者の言葉を信じて1月5日に帰京した。
帰京の直前、母の枕元で「頑張ってね」と激励した。その時母がうなづきつつ「郁もそろそろ年だし、嫁をもらわねば」と呟くように言った。私も母を安心させるつもりで「うん。考えているから。そんな事を心配するな」と答えたのであった。
しばらくは大丈夫だろうと考えていたのだが、7日の朝「ハハ、シス」の電報である。頭に釘を打ち付けられたような衝撃であった。ただちに飛んで帰り、母の骨を拾った。「郁、そろそろ嫁をもらわねば」が私への母の遺言となったのである。
この年のある日、民主社会主義連盟(民社連)の編集長をやっていた高木邦雄氏から「俺の妹と見合いしてみないか」との話があった。民社連はS26年12月に結成された民主社会主義を普及・啓蒙する思想団体で、右派社会党を支える理論集団であった。高木氏は中央大学を卒業後、青森の中学校の先生をしていたが、民主社会主義に共鳴して上京し、民社連発行の雑誌の編集長となった。聞けば岡谷市今井の出身とのことで急速に親しく交際することとなった。
母の遺言のことがいつも頭にあったので、私はためらわず「いつでもいいよ」と答えた。すると1カ月もしないうちに「妹も承諾したから俺の岡谷の実家で会ってみてくれ」との事であった。その見合いの日取りも決めてくれた。
邦雄氏の弟の弘康氏がすべてを段取りして待っていた。弘康氏はお父さんの政司氏が開設した今井郵便局の局長を引き継いでいた。大変な酒豪で、挨拶もそこそこにすぐ酒盛りとなった。見合い相手の幸子はその途中で挨拶に来たが、私は弘康氏とすっかり意気投合して2人で1升瓶を軽く空にした。
弘康氏は人を決してそらさず冗句を連発して笑わせた。誠に爽やかな印象だった。幸子は料理を運んで来ながら私を観察していたらしいが、結局私とは一言もかわさず、私もそんなことなど気にもならず、この見合いは終わった。ただ、弘康さんの妹ならうまくやって行けるだろうと思ったのである。
<いとうせいこう注
ついに母が現れた。
だが、父はまだ“一言もかわ”していない。
むしろ父は、まず母の兄である邦雄さん、弘康さんになついたようだ(そして、父にとってそうであったろうように、両叔父は私の人格形成にも大きな影響を及ぼしていく)。なにしろ、母にでなく、弘康さんに対して「誠に爽やかな印象だった」と言っているくらいだ。果たしてそれが見合いだろうか。
さて、次回からは母の証言も同時に、この場に載せていく。
母は私同様、父のこの自叙伝を読み、自分としてのコメントをしていくのである。
この自叙伝はつまり、家族による、複数の視点からのレポートと化していく。
いわば「我々の家族小説」といったものになるわけだ。
ちなみに、母は自分の原稿に『私のつぶやき』という題名を付けている>
# by seikoitonovel | 2009-06-22 22:12 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 06月 14日

5
#第二小説『すっぽん』、第一章の5節(1-5)のラスト部分が長らく気になっていたので、本日切った。
以下が、その切れ端である。
「そして、くすぐられて震える私10のおかげか、私152の記憶は揺すられ、重要な事実のかけらを飛び出させる。
同級生は実際は複数であった。それが入れ替わり立ち替わり、あるいは何日かに一人ずつ、休み時間の私にちょっかいを出した。
彼らは中学生特有のあり余る粗暴な、方向の定まらない力を、標的となった子供にぶつけてくる。やり返せば、待ってましたとばかりに力がより強く誇示され、標的でいる時間が長くなる。
逆に言えば、私10は理由を持つ一人の人間につけ狙われていたのではなかった。いや、だからこそ、私10はいじめられていたと言えるのだ。どこからいつぶつかってくるともしれない理不尽な力に、私10は常に身構えていなければならなかった。そうやって、きっと三年間を過ごしたのである」
私と並走してくれている方々も出来ればこの部分を切って、1-5をアップし直して欲しいのだが、それは絶対の要請ではない。
様々な版が出来ていくこともまた、この連載小説空間の特徴だからだ。
といっても、マルチエンディング的なテキストの散乱を私はイメージしているのでは決してない。
私は私にとって完全なバージョンを提示するつもりなのだ。そして同時に、バージョン違いの存在も受け入れるということである。
歴史的に言って、テキストは常にそのようにバージョン違いの渦の中にあった。そうでないのは、著作権という現代的な考え方に縛られて以降のきわめて短い時間の中の現象に過ぎない。
# by seikoitonovel | 2009-06-14 21:50 | 雑記 | Trackback
2009年 06月 14日

父2-2
右社外郭青年組織への参加(東京民社青同の事務局長に選出さる)
右派社会党は民主社会主義をその指導理念とした。社会党分裂がS26年の10月の臨時党大会であったが、丁度この年の7月ドイツのフランクフルトで開催された社会主義インター大会(長い大戦でばらばらとなっていた西欧各国の社会主義組織が初めて一同に会した)が新しい「民主主義に関する宣言」を発表した。通称これをフランクフルト宣言と呼ぶのであるが、この宣言でロシヤなどの共産主義運動を「新たな帝国主義」とよび、「自由無き社会主義は社会主義でない」「民主主義を通じて社会主義を建設」とうたった。共産主義(マルクス・レーニン主義)への決別宣言であった。
この宣言は日本社会党内のマルクス主義でない人々に有力な理論的武器を提供することになった。それまで日本の中では民主社会主義という言葉はなかった。したがってそれまでの発言や文書はすべて「社会民主主義」という言葉が使われていたのである。朝日新聞などの左派系はいまだに民主社会主義という言葉を使ったことがない。このためわれわれの考えが明確に伝わらないことがしばしばあった。
さて、右派社会党は青年部を持たず、青年対策本部を持った。初代青年対策本部長は浅沼稲次郎。青年部を作らなかったのは日本社会党の「青年部」がしばしば党の決定方針に反対し、党内党的行動によって党を混乱させたこと。党外の青年への影響力とならないこと。などの理由によるものであった。
そこでS28年1月の全国大会で党の外郭組織として自主的青年組織の結成をはかり、そのことによって党に直接入ることを躊躇する青年達にも広く党の影響を及ぼすことを狙ったのである。それまで右派系青年団体として独立青年同盟の活動があり、これが左派攻撃で潰されたあとに重枝琢巳氏らが青年懇話会を作って活動した。これがひとつの基盤となって「民主社会主義青年同盟」(民社青同)が29年1月に結成される。私たちはただちにこの民社青同の東京組織に加盟して活動した。
結成直後の民社青同に降りかかってきた難題は両社統一問題であった。私達は民主社会主義という新しい理論のもとで右派社会党を支えていこうとして意気ごんでいたのだが、党内に統一積極派と慎重派が生まれ、これに民社青同も強い影響を受けて激しい論争が展開された。
慎重派の代表は西尾末広で「左派はマルクシズムに立脚し、必ずしも暴力革命を否定していない。これに対して右社は暴力を否定し、選挙の結果多数をとれば政局を担当し、少数になれば下野するという考えである。この相違の解決をはかろうとしないで、ただ大衆が要望しているからといって無原則な歩み寄りや妥協をすれば、数は多くなっても政局を担当するや直ちに政策的に行き詰まって破綻する。それでは大衆の要望に反することになる」「割れた茶碗を継ぎたしたような安易な統一をやれば、下手をすれば再分裂という結果さえ引き起こすであろう」との考えを明らかにしていた。この考え方に同調する青年たちも多かった。
また、日本の安全保障問題に関連して「憲法9条が自衛権まで放棄しているとみるのはどうか」「このさいこの問題の理論統一が必要ではないか」の意見があり、民社青連は一時分裂の危機に直面した。この危機は統一積極派の麻生良方会長と慎重派の黒田忠氏ら総同盟系との話し合いによって「われわれの団体はそれ自身政党ではない。思想と志を同じくする民主社会主義的政党の発展に貢献し、同党を通じて目的を達成する」など結成時の5原則を確認し、両派社会党の統一如何にかかわらず組織を存続させ、主体性を強化するとの方針を確認して収拾した。
こうして、民社青同は両者統一後も活動を続けた。私は東京民社青同の事務局長に選出されたが、西尾派と見做されていてその代表として担がれたのであった。
しかし両社統一後の統一社会党青年部が、党の外郭に2つの青年組織(社青同と民社青同)があるのはまずいとの考えから両組織の統一を絶えず働きかけたこともあって、民社青同の活動には次第にブレーキがかかっていった。
民社党の結成に参加
統一社会党は西尾末広の予言どおりかえって内部対立が深くなり、参院地方選の相次ぐ敗北によって、再び大衆政党か階級政党かの議論を蒸し返すこととなり、左派の「西尾除名」問題を契機として社会党は再び分裂してS35年の民社党結党へと推移する。
私は当然、民社党に参加した。そして民主社会主義青年運動の再構築を目指して民社青同を解散して「民社青連」を発足させ、初代事務局長に選出された。
日本社会新聞も解散され、あらたに民社党中央機関紙「週刊民社」が発行され、私は引き続きその記者(身分は正式な民社党書記局員として採用された)となった。
党活動の面では三鷹総支部の書記長に選出された。
<いとうせいこう注
こうして読んでみると、端的に言って父は活動家なのだった。
考えてみれば当然なのだが、ここまでそうだったのかと私は驚いている。
個人的な事柄がほとんど書かれていないのは、社会と思想それ自体が激動していたからだろう>
# by seikoitonovel | 2009-06-14 21:34 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 06月 13日

そのまま数日が過ぎた。友人と私との間で姿をくらましたすっぽんもそうだが、読者諸氏と私の前に見え隠れしていたすっぽんそれ自体も行方知れずのままであった。
おかげで私は『 スッポン-習性と新しい養殖法』も熟読したし(二時間ほどで)、『ワインライト』を何回も聴いた。そして、あちこちですっぽんの話を持ちかけられた。
広東語で「水魚」といえばすっぽんのことだそうである。知人の香港人女性Jさんが、私に会うなり「Iさんは『水魚』という小説を書いてるそうですね」と、ちょっとたどたどしく言ったのである。問題の箇所の発音は“ソイユィ”。Jさんはあくまでも広東語でそこを発音したかったらしい。
「ソイ……ユ、ですか?」
「はい、その小説、internetでやってる」
「あ……確かにネットでは連載してますが」
「そう、それ。『ソイユィ』。昔の自分の話」
私は別の自分がこの世に、特になぜか上海あたりにいるような錯覚におちいり、混乱した。
Jさんのある種のいたずら心から、題名が勝手に翻訳されていたのだと理解したあとも、自分が自分から剥離していく感じが消えなかった。『水魚』という話を書いている自分が確かにいる、という実感がむしろ強まった。
たたしマンダリン(北京語)では水魚の意味がちかいますよ、ともJさんは濁音が抜けがちの日本語と人懐っこい笑顔で付け足した。例えば「水魚の交わり」は『三国志』に出てくる有名な逸話で、それは固い友情を示す。中国本土でも日本でも、水魚を水と魚に分けて考え、分けた上で分け得ないものとする。
だが、その考えを広東語圏には持ち込めない。厚い友情を示すつもりで香港人に「水魚の交わり」を宣言すれば、周囲の喧騒が一気にやむだろう。人気俳優を迎えてノワール映画ロケ中の早朝の灣仔(ワンチャイ)でも、屋台が並び始めた午後の旺角(モンコック)でも、若きデザイナー集団が新事務所を構えてパーティをしている夕方の銅鑼灣(トンローワン)でも、酒と音楽が作り出す乱痴気が最高潮に達した夜中の蘭桂坊(ランカイフォン)でも、一瞬の完全な静寂があたりを支配する。水魚の交わり? 水魚の?
それはつまり、すっぽん同士の交際を指すのである。我もすっぽん、汝もすっぽん。我ら脊椎動物亜門・爬虫網・カメ目。そう宣言することの意味は奈辺にありや、ということになる。そうですよね、Jさん?
まあ、そうですしね、とJさんは私の想像のアンバランスな広がりを多少警戒しながら微妙な訂正をした。広東語で「水魚」と言った場合、それは主に“吸いつかれる側”を指すらしいのであった。ことに金銭にまつわってその比喩はあり、人がすっぽんの生き血を吸って精力をつけようとするかのように、例えばヒモは「水魚」を金づるにして生きていく。喰らいついたら絶対離さないのはすっぽんではなく、逆に広東語圏のすっぽんは喰らいつかれ、離してもらえないのだ。
そこで私が即座に思い出したのが『ワインライト』の聴きどころ、「just the two of us」だったといえば、少々分裂的だろうか。グローバー・ワシントンJRはこのアルバムにビル・ウィザースの名曲を取り入れ、歌わせ、彼を世界的な存在にした。
吃音を持つビル・ウィザースの、歌えば甘く厚ぼったく滑らかな声。しばらく話が脱線することが予想されるが、言葉と歌が異なる次元に属していることの、これは大変な証左なのではないか。
言葉が連続的に歌になれば、あるいは近頃私が考えているように歌こそが先にあって、やがてそれが言葉になったのだと仮定すれば、しかしこの吃音の問題を解決出来ない。語ると吃音が生じ、歌うと生じないという現象から類推するに、言葉と歌の間に何か決定的な違いがあると考える以外にないからだ。私にちかしいある人間も吃音という障害を持っているが、彼女に聞くと“しゃべることと歌うことでは、呼吸が根本的に違う”と言う。だから、歌えば彼女も吃音にはならない。
声を統御するある種の弁を持つ生き物は、この地球上でクジラと鳥と人間のみだそうです。それがどんな弁か聞き忘れたが、先日食事を共にしたベテラン演出家がそう言ったのを思い出す。吃音はその弁に何か関係がないか。クジラは歌うが語らない。鳥もしかり。歌から言葉に至ったとき、機能的に別次元の事件が起こった。そこに吃音が関係ないか。
突然だが、クリスタルの恋人たち、という。「just the two of us」の日本題である。サビの歌詞を私が訳すならこうなる。
二人きり/二人きりでいればかなう/僕ら二人でいれば/砂上に楼閣を築きあげて/たった二人/君と僕
二人しかいない世界の、この幸福感。そして、本当は決して実現しない愛を歌っているのであろう切なさ。しかし、どちらかが水魚であったとしたらどうか。執拗に関係を癒着させるのが僕、もしくは君であったのだとしたら。
上野にすっぽん売り場がある、と教えてくれたのは地下鉄銀座線の浅草行き先頭車両に乗っていた青年であった。黒いダテ眼鏡をかけた痩身の青年は、ずいぶん長くこちらを気にしていたのだが、やがて意を決したように立ち上がり(大きな紙を切り抜いて作った人形が急に糸で吊られたような動きだった)、向かいの席に座っていた私に覆いかぶさるようになって、Iさんですよね?と聞いてきたのである。
ええまあ、そうですがと目をそらして答えると、もしよかったら二駅戻ってみてくださいと青年は言った。上野にすっぽん売り場がありますから、と。私たちはすでに上野を過ぎ、田原町という駅まで来ていた。青年が秘密めかした低い声で手短かに説明するビル自体は、私もよく知っていた。あんな場所にすっぽん売り場などあったろうか。私の好奇心はおおいにくすぐられた。
しかしさすがに、ああそうですかと即座に電車を降りるわけにもいかなかった。メンツというか、まず若者がなぜそのような忠告をしたのかがわからなかった。もし彼がこの小説の読者であったとして(それ以外考えられないのだが)、私がすっぽん売り場を見るべきだと考える彼の思考が謎であった。その謎の思考に軽々しく従うことには抵抗があった。そもそも私はすっぽん見たさで小説を書いているわけではなかった。
ビルに向かったのは、翌朝早くであった。
# by seikoitonovel | 2009-06-13 15:57 | 第二小説 | Trackback
2009年 06月 05日

第二章
新しい出発
S28年(23歳)の上京の時期は、左右社会党も労働運動も激しい対立抗争の最中にあった。それはその後の日本の政治と労働運動の進路を決定づける思想対立であった。階級闘争によって共産主義的革命政権(独裁政権)を樹立するか、自由と民主主義を発展させる立場から民主的手段によって政権を獲得して政治を行うのか(選挙による政治家の選出、議会主義)の闘いであった。私は後者を選択したのである。またそれは新聞記者から政党活動家への選択であり、新しい出発であった。
日本社会新聞の記者となり、労働組合運動の担当となった私は、毎日のように当時芝市兵衛町にあった海員組合の本部と三田の総同盟本部に通った。自転車もなく、三宅坂からすべて徒歩であった。私は海員組合では和田春生、木畑公一氏ら、総同盟本部では古賀専、中島桂太郎氏らにあって、取材活動を続けた。上京当初の私に確たる信念はまだなかったが、これらの指導者の話を聞く度にだんだんその運動の目指すものが理解できるようになっていった。
私は右派社会党の書記ではなかったが、武蔵野支部の党員となった。支部長は中村高一代議士であり、書記長は市議の後藤喜八郎氏(きいちゃんと呼ばれ人気があった。のちに武蔵野市長)であった。私に目をかけてくれたのが伊藤重雄市議であり、伊藤さんには新しい下宿を探してもらったりした。選挙の時にはこの伊藤さんの事務所に張り付いて応援した。
さて労働運動の方はといえば、4単産声明後これに賛同する産別の間で「全国民主主義運動連絡協議会」(民労連)が設立され、4単産のほかに総同盟、常磐炭労、全食品、日本鉱山、全国港湾同盟、全化同盟、造船労連、国鉄民主化同盟、全造船石川島分会、全国土建総連などの産別が加わった。そしてS29年4月22日、全労会議の結成となった。組織人員80万名であった。
一方、左右社会党が急速に接近し、S30年の統一へと進む。森戸・稲村論争、講話問題、日米安保問題などで激しく対立し、その社会党を支える労働組合が大きく分裂したのにもかかわらず、両社会党がなぜ統一を急いだのか。一つは自民党の吉田内閣が崩壊し、鳩山内閣となり、にわかに鳩山人気がたかまったこと、総選挙を目前にひかえて左右分裂のままでは共に低落するのではないかとの危機感によるものであった。このため基本理念は置き去りにされ、統一綱領では党の性格を「階級的国民政党」とした。まさに水と油を混ぜ合わせたようなものであった。すなわち階級政党論は暴力革命をも容認して一党独裁政権を目指すものであり、自由と民主主義を否定する内容を包含する。国民政党論はこれを否定し、国民の自由意志による選挙によって多数を占めた政党が政治を担うという民主主義にもとづく。まさに相容れない思想なのである。
全労はこうした便宜主義的な統一に強く反対した。
私たちは両者統一後も日本社会新聞の発行を独自に続けた。私は総評批判を止めることはなかった。このため統一社会党書記長となった浅沼(稲次郎)さんから「おい、あまり総評批判ばかり書くな」と言われたことがあった。
<いとうせいこう注
ここまで読む限り、父にプロレタリア独裁を選択する余地はなかったようだ。
いわんや無政府主義をや。
また、今回から「第二章」と区分を付けた。
さかのぼって冒頭に「第一章」という一行を入れる>
# by seikoitonovel | 2009-06-05 20:16 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 06月 03日

『BLIND』-6
遠野美和はもちろん仮名だが、その名前が日本の古代史の集約された土地、ナラの神聖な山々からとられていることは、事実と変わりない。このレポートの中で美和の姉を香(かおり)と呼ぶのも、同じ理由からである。我々は名付けにあたって三輪山と香具山(後者の名の中にある「カ」という音節は、「香り」をあらわす表意文字で示されている)を選んだが、彼女らの父、まさにそのナラで日本の敗戦日1945年8月15日の正午過ぎに生まれた遠野太一は(したがってこの人物こそ、日本の戦後そのものだと言える)、さてどうであったろう。
そもそも、なぜ太一はそこまで故郷の、しかも山に思い入れたのか。もし山に思い入れがなかったのだとしても、すでに他県で数年生活していた太一が、なぜ遠く離れたナラの山々と自分の娘の名に関係を持たせようとしたのか。妻である壮子にも、実はきちんとした説明がなかったのだという。
遠野美和が生まれた翌年の1975年、太一はナラ市内に住む親戚に歳暮の礼状を書き、その中で「重蔵おじ、もし次が男の子だったら俺は」と仮定して、やはりナラの山から名をとっている。ちなみに、この遠野重蔵氏(郷土史家)は電話取材に際して、三つの山の頂点を地図上でつないでみるとどうなるか、とさかんに我々を挑発したのだが、ここで古代ミステリーの世界に迷い込むわけにもいかない。
むしろこの名付けのエピソードには、無口だと誰もが口をそろえて言い、いつまでもよくわからない人物と評される太一の、何事か手触りのある思考の輪郭を我々は感じる。決して気分屋には出来ない、継続した沈思黙考の中に遠野太一はおり、次女の美和はそれを鋭敏に受け取っていた。父はいつでも何かを考えていました、けれども父自身にもそれが何であるかがわかっていない風でした、と美和は言っている。
残念ながら現在、太一の思考の内容を確認する手段はない。なぜなら4年前の1990年、美和が16歳になった夏に、遠野太一は長年家族と住んだ群馬県桐生市の一軒家を出たまま帰らなくなってしまったからである。死んだのでは、少なくとも当時はなかった。美和によれば、父はまるで帰り道を忘れたようにいなくなった、のであった。
実際、太一は年に数回、美和にだけ電話をしてきた。つまり、美和が最初に電話を取り、しばらく無言でいる父の息遣いと耳を澄ましているらしき集中に気づいて、近くには誰もいないと告げた時にだけ、太一はしゃべり出した。したがって、太一からの着信自体はもっとずっと多かったと思われる。
美和との通話において、太一は主に妻・壮子と長女・香の消息を聞きたがった。したがって、美和は自分のみが父の声を聴き得るという特権のかわりに、父が自分については何も知ろうとしないという事実を突きつけられて混乱した。だが、だからといって美和は父からの電話を拒絶しなかった。
その太一からの電話が途絶えたのが1993年5月4日以降、と手帳も見ずに日付を言ったのは美和で、拒絶するどころか彼女が父からの発信を心待ちにしていたことがよくわかる。さらにこの証言の直後、美和は同日カンボジアのバンテアイミアンチェイ州で(何度か録音テープを聞いたが、美和はこの州の名をよどみなく発音している)日本から派遣された文民警察官が武装集団に襲われ、死傷者が出たことを思い出している。遠野美和に取材したことのある人間で、こうした彼女のきわめて高い記憶力に驚きをもらさなかった者は一人もいない。
# by seikoitonovel | 2009-06-03 18:43 | 第一小説 | Trackback
2009年 05月 27日

上京・日本社会新聞時代
S28年4月、単身で上京した。新宿駅に市川君が出迎えていてくれた。早速、三宅坂の社会党本部の4階にあった編集局に連れていかれ、山崎編集長と先輩の平田修三さんを紹介してもらった。
下宿は市川、平田両君が借りていた田無の下宿での共同生活であった。ここから毎日、中央線で新宿に出て都電に乗り、三宅坂に通った。
日本社会新聞は右派社会党の中央機関紙であり、党の補助なしの独立採算の新聞であった。社長は右社書記長の浅沼稲次郎で専務は参議院議員の曽根益であった。私は労働組合関係を受け持ち、平田氏は議会活動と党の関係を主として受け持った。
終戦直後に戦前の無産政党の各派は一つとなって日本社会党を結成した。中心的役割を担ったのは片山哲、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らであり、戦後第2回目の総選挙で第一党となって片山内閣を組織した。官房長官は西尾末広であった。
しかし社会党内閣は出発当初から左右の思想対立を抱えたままであり、左派マルクス主義者の鈴木茂三郎が予算委員長となったが内閣提出の予算案を自民党と一緒になって否決したため、社会党内閣はわずか7カ月で潰れていく。そしてS24年の第3回総選挙で143の議席が僅か48議席となり、片山委員長までも落選した。
党の再建を巡って左右が激しく対立、右派の森戸辰男が党はマルクス主義と対決する政党であるべきことを主張し、左派稲村順三がマルクス主義は人類解放の理論であり、真の社会主義を建設し得るものは労働者階級であること、社会党はあくまでも労働者階級の政党であることを主張した。この森戸・稲村論争はいわゆる「国民政党か階級政党か」の論争で、これが26年の全面講和か単独講和かの論争と絡んで、ついに左右社会党に分裂していく。
労働組合運動では、戦後の産別会議(共産党)主導の階級闘争至上主義運動に反対して民主化運動が起こり、これがS25年の総評結成へと進んで行く。ところがこの総評がマルクス主義者の高野事務局長を中心とする左派勢力によって1年も経たずして左旋回、と同時に破壊的な階級闘争至上主義への傾斜を強めていく。
その闘争の象徴となったのがS27年の秋期闘争の、電産の電源ストをふくむ約3カ月、炭労の約2カ月に及ぶ長期ストであった。結局この無謀・無法の闘争は世論の批判にさらされ、全面的敗北となった。これに対して全繊、海員、日放労、全映演の4単産が批判の共同声明を出し、S29年、これに共鳴する労働組合とともに全労を結成していく。
私が上京したのはこうした変化の時であった。
<いとうせいこう注
こうして父は戦後政治の世界に入っていく>
# by seikoitonovel | 2009-05-27 23:04 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 05月 22日

就職ー3
長野県では戦前から「信毎」が朝日系地方紙として圧倒的なシェアーを確保していた。読売の狙いはこの朝日の勢力と長野県で対等の地位を確保したいというもので、そのために新興勢力の信陽新聞と提携する戦略にでたのである。
ただ私にとってはそんな事はどうでもよかった。良い記事を書く、この事しか念頭になかった。
池田君という若い後輩の入社、校正係から一線記者を拝命されてから編集局隅の宿直生活から開放されて、印刷局の田中君の薦めで松本から大糸線で2つ先の島内駅の近くの貸家に田中君、営業の宮本君と3人での下宿生活にはいった。この下宿のご夫婦は温厚で親切であった。家のすぐ前には梓川がゆったりと流れていた。夕方になると、この家の小学生が釣りをしていた。
編集局で仲の良かったのは整理記者の市川正二君だった。彼は大町の高校を卒業して入ってきた私の同期であった。頭のきれる優秀な男で整理(記事の過ちを正し、見出しをつけ、その記事を紙面のどの辺に入れるかを考えて割り付けする)の仕方をすぐ覚え、武井整理部長から信頼されていた。酒もよく飲んだ。
S27年、彼は辞めて東京に出ていった。聞けば右派社会党の中央機関紙「日本社会新聞」に就職したとのことであった。どうやら毎日新聞を辞めて信陽新聞の編集長になっていた西沢さんの紹介と勧めによるものらしかった。この時点で私にはまだ辞める気持ちなどはなかった。
ところが、その年の暮れ、市川君から電話があり、こちらの編集長が記者が欲しいといっているからこちらに出て来ないか、との誘いがあった。
この話があってから、私の心に俄に勉学心が沸いてきた。田舎の蛙から脱却しようとの志である。松本ではよく社会党の演説会が開催されていた。松本出身の弁護士で代議士の棚橋小虎がいたからである。浅沼稲次郎、三宅正一など社会党の闘士らが弁士としてやってきた。私はなぜかそれを聞くのが好きで聞きに出掛けた。そして時には棚橋先生の弁護士事務所での記者会見へも顔を出した。秘書の岩垂寿喜夫君(後に総評の政治部長─社会党代議士・自社連立内閣で環境庁長官となる)とも親しくなった。このことも私の東京行きを決断させた背景であった。
<いとうせいこう注
父は自分がかつて新聞記者であったことを、確かに何度か私に話した。今から思えば、である。
だが、私には「信陽」とか「信毎」といった地方新聞自体がイメージしにくかったし、父がそこで記者として何をしていたのかをほとんど理解出来なかった。
私はいつも、記憶から父の新聞記者時代を消してきた。それどころか、父からまさにその話を聞いている最中にさえ、私は理解しがたいイメージを次々に消去した。つまり、聞いていなかった。
私は父の、おそらく最も青春に近い時代の思い出話をこれまでずっと無視してきたのである。
また、ここでの父の“演説への興味”に私は驚愕せざるを得ない。
ここ数年、私は日本語でのラップを単に80年代中盤以降のアメリカからの輸入文化として見ず、明治時代以降のあらゆる演説の歴史の延長としてとらえる考えを得、それを率先して実行していたつもりだったのである。
だが、それを父の嗜好の遺伝とみてしまえば、私の考えは目新しくも何もない。
果たして「カルマ」とはなんであろうか、と問わざるを得ない。
我々はみな、なぜか親の嗜好、あるいはまたその親の嗜好から自由になれない。
知らずにいても、嗜好は世代を越えてやってくる。
嗜好を否定して冷徹に考えているつもりでも、小さな隙に嗜好は来る。
我々を不自由にする、この強い力はなんだ?
なんなのだ?>
# by seikoitonovel | 2009-05-22 23:23 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 05月 22日

5
#本日から、第二小説『すっぽん』の冒頭(1-1)に「第一章」、前回アップした項(2-1)に「第二章」と、章分けを表示した。
つまり、(少なくともしばらくは)そういう小説として進行することが今日わかったのである。
並走されている方々、どうぞ手直しをよろしく。
# by seikoitonovel | 2009-05-22 02:01 | 雑記 | Trackback
2009年 05月 20日

第二章
しかしそれにしても、すっぽんとは何であろうか。いや、ここまで私はさかんにすっぽんすっぽんと連呼してきたわけだけれども、本当にそれが「喰らいついたら絶対離さない」動物であるか、私は唐突に疑問を持ったのである。
もしも「喰らいついても、わりに離す」とか、「すぐさま離す」とか、そもそも「喰らいつかない」というような実態があれば、私10は何を糧にして理不尽に耐えていたのかということになる。
実はこの長い文章を書き始める直前、つまり『すっぽん』という題名を思いついた日の午後(2009年2月末のことであった)、私は一度だけ、出先に近かった青山ブックセンター本店に駆け込んで、すっぽんに関する書籍を探してみたはみたのである。
今となってはおかしな話だが、私は天井からぶら下がっている白い板(哲学とか、美術とか、日本文学とかの分類がしてある)に目をこらし、「すっぽん」というコーナーはどこかと、棚の間を小走りになった。そんなコーナーがあるはずもないことに気づいたのは、店の奥の壁まで到達し、振り返って舌打ちをした瞬間である。したがって、チッという舌打ちは「すっぽんコーナー」のなさを呪うと同時に、自分の愚かさを鋭く叱責するものとなった。ちなみに、青山ブックセンター本店には「爬虫類」のコーナー自体なかった。
だからといって他の手段で猛然と調べたわけでもない。私は以来、すっぽんについて何も知らないまま、書き進んでいるのである。今あわててAMAZONに行き、「すっぽん」で書籍を検索してみたら、「もしかして:にっぽん」と出た。もしかしても何も、かなりのあてずっぽうと言わざるを得ない。推測にも適度な範疇というものがあるだろう。
そして、行き当たったのが『 スッポン-習性と新しい養殖法』(農山漁村文化協会)という名著のムード濃い書物で、私は早速注文をしたのだが、残念ながら当然、本日ご紹介するわけにはいかない。余談になるけれども、同時に注文した品はグローヴァー・ワシントンJRの懐かしい名盤『ワインライト』(1980年に出たメロウなフュージョン)だから、注文票を受け取った係の人は相手が都会派か農村派か、まったくわからないだろう。ただなんにせよ、『スッポン-習性と新しい養殖法』が82年刊で、『ワインライト』とほぼ同時期の作品であることだけはここに書き記しておきたい。それは世界の複雑さと奥行きを如実に示している。
さて果たして、すっぽんは「喰らいついたら絶対離さない」のかどうか。二週間ほど前、かなり物知りな友人の家に遊びに行って酒を飲んでいたらやはりその話になり、「雷が鳴っても離さないって言うよね」と友人が言い出した。私もその決まり文句は知っていたので黙ってうなずくと、友人はそのままの勢いで「だけど、そもそも雷が鳴ると離すって前提、変だよね」と言い、一秒ほど考えて「雷はよほどの力を持ってるって前提でしょう」と続け、話柄は雷の方へ雷の方へと傾いていって、じきすっぽんは行方不明になった。
# by seikoitonovel | 2009-05-20 20:00 | 第二小説 | Trackback
2009年 05月 12日

就職ー2
待望の新聞記者生活は誠に楽しいものであった。自転車での取材活動があり、午前中には編集室に帰って記事を書き、午後5時頃に印刷されるまでセントラルで映画を観ていた。上映されるのは西部劇などの洋画が中心であった。
新聞の印刷が刷り上がると、それを一読してあとは毎日のように酒盛りをした。私は編集長の命令で、大きな鉄瓶を自転車にのせて横手町の密造どぶろくを買ってきた。ここで私は酒の洗礼を受けたのであるが、父の遺伝子を受け継いだらしく幾ら飲んでも悪酔いはしなかった。たまに頭がぐらぐらするほど飲んで吐くことはあったが、一升以上飲まない限り悪酔いはしなかった。
月給は出たことは出たが、支給日がずれることがしばしばあり、半月も出ないことがあった。労働組合が結成され、若手の私は青年部長に選出された。新聞労連に加盟して、その全国大会に出たこともあった。そんな中である日、給料の遅配・欠配を許すなと叫び、編集局の同僚今井君と夜に社長室を占拠し、断食闘争に入った。しかし、社長と編集長の話し合いが行われ、善処するというのでこの闘争は一日で終わった。S25年の赤狩り(共産党員の追放)の余波をうけて、我々が尊敬していた永井組合長が追放された。サンケイ新聞で宮内庁詰め記者をやった経験があり、どうもそのころ共産党員とみなされたらしい。しかしこの疑いはすぐにとけてまもなく編集局に帰ってきた。
さて、私は初任給が幾らだったか思い出せないが、毎日のように昼飯に寄った飯屋の中華ソバが確か35円であった。それから推量すると3,000円位ではなかったか。私は給料の半分を父に送った。宿泊所が編集局の片隅で宿直を兼ねたから、日常生活の費用はほとんど必要なかったからでもある。
信陽新聞の四苦八苦の状況のなかで、S26年、読売新聞が支援に乗り出してきた。読売本社から営業責任者として大江原氏が、編集顧問として梅津氏が派遣されてきた。ともに本社の重役で相当の腕利きとの触れ込みであった。読売新聞本社がなぜ信陽新聞の再建に乗り出してきたのか。それは朝日新聞との対抗のためであった。
# by seikoitonovel | 2009-05-12 22:48 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 05月 11日

5-1
人に知られりゃ浮名も立つが
知られないのも惜しい仲
日本近代・明治期の都々逸より
# by seikoitonovel | 2009-05-11 01:43 | 第一小説 | Trackback
2009年 05月 06日

就職ー1
S24年に岡谷南を卒業。治幸兄の世話で松本の信陽新聞社の編集局に入った。当時治幸兄が信陽新聞の諏訪支局の記者をやっていたこと、信陽新聞の社長が諏訪の有名な宮坂酒造会社の息子だったことによる。大学への道は諦め、とにかく早く働きに出て少しでも親の助けになりたいと私は考えていた。もともと文章を書くことは嫌いではなく、新聞記者に憧れていたからでもある。
牛乳の販売は戦時に引き続きなお統制されており、苦しい家計のなかにあった。一番早く家に帰ってきたのは計男兄で、朝早くから列車で伊那方面へ買い出しに出掛け、夕方薩摩芋などをリュックサックに一杯詰め込んで帰ってきた。そのうちに兄武男が海軍兵学校から帰ってきた。そして「われわれはいつ米軍に掴まるかもしれない」といっていた。
私と弟の幸男・安幸は新聞販売店で夕刊の配達のアルバイトをやっていた。大黒柱の源蔵兄は20年の初めに戦死の公報が入り、高島小学校で合同慰霊祭がすでに行われていた。後に南方の戦地で九死に一生を得て帰ってきたが──。はやく働きに出て親の助けになりたいとおもったのには、この様な家の事情があった。振り返ればこうしたなかで父はよく我々の学費を出してくれていたと思う。
さて当時、長野県での本格的地方新聞は本社を置く「信濃毎日新聞」(信毎)だけであったが、松本でセントラルという映画館を経営していた宮坂社長がこれに対抗して松本を中心とする本格的地方新聞を設立したのであった。最初は夕刊だけの発行であった。資本に物をいわせた強引な新聞社づくりではあったが、戦後直後のことであり、そう順調に運ぶわけはなかった。しかし文化的土壌をもつ信州の真ん中の松本(国宝の松本城があり、旧制松本高校の所在地でもある)だけに地方の情報紙への待望感があり、購読者は順次増加していった。自信を持った宮坂社長は長野市や諏訪市など地方支局の設立も進めた。映画館の利益を新聞にかなり注ぎ込んだようだが、苦しい経営が続いていた。
本社社屋はセントラルの一角におき、編集局は一階、印刷と文選工場はセントラルの地下にあった。中央の記事は共同新聞社と契約していたが、とにかく新聞を発展させるには膨大な人員が必要であった。一線記者、整理記者、校正記者、地方支局記者、文選工、印刷工、販売所、拡張員、広告取りなどなど。良い新聞を作ろうとすれば途方もない資金が必要である。
私は就職と同時に編集局の隅の2畳の部屋で寝泊まりすることとなった。仕事は朝一番の列車で送られてくる共同新聞社の記事を取りにいくこと、その後は整理記者が整理した原稿を地下の文選工室に運ぶこと、編集室内の掃除など。1年後からは校正を受け持った。編集長の「新聞記者になるには給仕からやるものだ」を信じて働いていたから、与えられた仕事を苦労と感じたことはまったくなかった。2年後に待望の記者を命ぜられ、警察と市役所を受けもった。ここから本格的記者生活が始まったのである。
<いとうせいこう注
この「就職」の項目は長いので、私の編集者的な判断で三つに分割して掲載する。父はこの間の事情を事細かに覚えていて(正確に言えば「思い出して」)、まことに丁寧に書き込んでいる。項目ごとの長さは、父の自分自身の過去への思い入れに比例すると思われ、その意味で本項は父の記憶にとってきわめて重要な位置を占めるだろう>
# by seikoitonovel | 2009-05-06 02:06 | 第三小説「思い出すままに」 | Trackback
2009年 05月 04日

#09/5/4、新作狂言『老河童(おいがっぱ)』をアップ。
この新作は池田小事件を契機に、誰の依頼もなく書いた古典新作だから、2001年かその翌年には出来ていたはずだ。
当時、狂言師に読んでもらったが、だからといって発表のあてもなく、現在に至っている。
もちろん公開する以上は、日本中の狂言師(プロ・アマ問わず)に自由に使っていただいてけっこうだ(一応、公演の案内をしてくれるとうれしいし、映像をリンクさせてくれるとなおありがたい)。
その際、「すり足」という古典芸能ならではの技術を生かしたスラップスティック性と、老いたる者から世の中への、切々たる訴えの悲しさがないまぜになってくれるといいと思う。
だが、中世の狂言作者の名が残っていないのと同じく、私も自分の名をこの作品に付けたくはない。古典芸能にかかわるというのは、そういうことだと私は考えている。
つまり結局、まあ自由にやってください。
# by seikoitonovel | 2009-05-04 23:46 | 雑記 | Trackback
2009年 05月 04日

シテ 太郎河童
アド 老河童
小アド 次郎河童
老河童、杖をつきながらよろよろと舞台に現れる。
太郎河童、次郎河童、続いて登場し、控える。
老 「このあたりの川底に住まいいたす河童でござる。よわい百年(ももとせ)も過ぎ、目がどんみりといたして、魚(うお)の流れも見えぬ身なれど、近頃、子河童どもの乱暴狼藉。川上、川下もわきまえぬ所業。許しおくわけにもまいらぬ。まずはきゃつらを呼び出し、説教いたそうと存ずる。子河童ども、 あるかやい」
太・次「ハアー」
太郎河童は下手、次郎河童は上手。
老河童に向かって両者、観客に背中を向ける形。
老 「いたか」
太 「お前に」
老 「念無う早かった。汝ら呼び出すも別のことでない。近頃の、いやはや乱暴狼藉。河童の川上にも置けぬ。このように老いたる身なれど、あまりのことなれば、きつう説教いたそうと存ずるが、よいか」
太 「はあ、説教……と申されても、身に覚えのないことでござる。のう、次郎河童」
次 「まことに。太郎河童の申す通り、我ら若い河童、説教いたされるような悪行はひとつもいたしておりませぬ」
老 「なんと、ひとつも?」
太 「その上、先程来、野分でこの(と下を見回して)川底の流れもいこう激しゅうなってきてござる。お話はまた……別の機会にうかがおうと存ずる」
太郎、次郎、帰ろうと立ち上がるのを止めて。
老 「待たぬかやい。なんの野分じゃ、身に覚えがないじゃ。太郎河童、近頃、汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太 「……」
老 「いにしえより、我ら河童は正々堂々相撲をとり、人に勝ってこそその尻小玉をいただく。また(と次郎河童を見る)、次郎河童、汝、抜いた尻小玉を味わいもせず、石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな」
次 「……」
老 「果ては汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの(と指で小ささを示す)尻小玉を抜いて回る」
太 「(次郎河童に)尻小玉の話ばかりでござる」
老 「なにを言うて。まだあるわ。まだ………(忘れているが)……おお…そうじゃそうじゃ、森のあなたの畑へ上がり……」
ここで後見、棒の先に付けた魚を一匹、上手の床に泳がせる。
太郎、次郎、魚をじっと見て、話はうわの空になる。
老河童は気づかず続ける。
老 「食べきれぬほどキュウリを盗んでおいて、あらかた腐らせるとはお百姓の迷惑。一本もいで食べ、腹が減ればまた出かけて取るが河童の智恵。その間に次のキュウリも、黄色のあのかわゆらしい花から、ひょいと育つ」
老河童の「ひょい」を合図に、魚もひょいと消える。
太郎、次郎、魚の消えた先をぼんやりと見ているが、やがて太郎はあくびをする。
老 「やいやい、太郎河童」
太 「は(不服従の声音)」
老 「聞いておるかやい」
太 「は(不服従の声音)」
老 「そもそも……(話を思い出しながら)汝、相撲もとらずに尻小玉を抜きおるな」
太 「……?」
老 「また、次郎河童、汝は石ころ同然、川岸へ投げ捨つるそうな。果ては、汝ら、幼き人の子を集め、皆々様のまだこれほどの尻小玉を抜いて回る」
次 「(途中で太郎河童に)これは同じ話でござる」
太 「老河童殿は、魚も見えぬほど、もうろくなされておりゃる。説教されるもかなわぬによって、なんぞよいしようを……おお、それそれ、致しようがある」
次 「致しようとは?」
太 「老河童殿、野分がうるそうて大事なお話を聞き逃しそうにござる。もそっと前へお出くだされ」
老 「おお、これはよい事をおしゃった。聞かすぞよ。聞かすぞよ(前に出る)」
次 「これでは説教がうるそうなるが」
太 「よいよい。まあ、見てござれ」
老 「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」
老河童、川底の流れに乗り、説教しながら、すり足で橋がかりへと横移動していってしまう。
太郎、次郎、その移動をぼんやり見ている。
老河童はやがて、橋がかりの途中で止まり、きょろきょろとあたりを見回す。
次 「これはいかなこと。説教がいこう遠くなった」
太 「野分でほれ、ここの(前を指し)川底の流れが違うてござる。老河童殿はそれに乗って流れて行かれた」
次 「老河童殿が川流れ」
太郎、次郎、笑う。
老 「や、子河童どもがおらぬ。さては逃げおったか。待て、待て。どこじゃ。逃がさぬぞ」
老河童、笑い声に聞き耳を立て、流れをそれて戻って来る。
老 「なんと汝ら、わしの目がどんみりとして見えぬを幸い、説教を聞かずに逃げたであろう」
太 「いやいや、逃げはいたしませぬ」
次 「老河童殿から動いていかれた」
老 「や、わしが? (見えぬ目で川底を見、足でおそるおそる川底に触れ)これは野分で流れが違うた。この、ここで(流れない場所を確認して)、も一度話すによってよく聞くがよい」
太 「老河童殿、みどもら、もそっとお近くで説教承りたく存ずる」
老 「おお、これはよい事をおしゃった」
次 「わごりょ、何を申す」
太 「よいよい、そこへ出なされ」
老 「さあて、聞かすぞよ。聞かすぞよ」
次郎、少し老河童に近づく。太郎も、少し下手へ行く。
老 「よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」
説教の間に、下手の太郎はすり足で橋がかりに横移動、上手の次郎は太郎のいた位置へと移動。
老 「(目をこらして前を見て)や、太郎河童が次郎河童に。いや(あたりを必死に透かし見て)、河童がたった一匹」
太郎、次郎、大声で笑う。
老 「やいやい、子河童ども、なぜ動く」
次 「動くつもりはござらぬが、勝手に流れてござる。野分で」
老 「野分で?」
太 「(戻ってきて)これは申し訳もござらぬ。聞きたくとも聞けずじまいでござった。今度こそ誰も動かぬところを探し、説教いたされようと存ずる。ええ、次郎河童殿は、そこへ」
次 「ここへ」
太 「みどもは、ここ。老河童殿は、その少うし右、いやいや左へ」
老 「聞かすぞよ、聞かすぞよ(と移動)」
次 「あ、いや、もそっと後ろへ」
老 「うむ、聞かすぞよ、聞かすぞよ」
太 「そこがいちだんとようござる。さらば、説教なされてくだされませ」
老 「心得た。よいか、そも河童というものは、征夷大将軍・坂之上田村麻呂殿の昔より、泳ぎ達者にして胆力は強く、馬をも川へ引き入るる。頭(こうべ)の皿には水を乗せ、くちばしは鋭く、手足は岩にも吸いつく形。その真言たるや、オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ。オン・カッパ・ヤ・ソワカ」
説教を始めた途端、三人はすり足であちらこちらへと、時々折れ曲がったりなどしながら、移動。
最後の真言だけ、太郎、次郎は馬鹿にするように唱える。
太・次「オン・カッパ・ヤ・ソワカ、オン・カッパ・ヤ・ソワカ」
太郎、次郎、大声で笑いながら、流されたふりで橋がかりを通り、消え去る。
しばしして、それに気づいた老河童は揚げ幕の方向へ杖を振り上げる。
老 「おのれ、ようもだましおったな。打擲してくるる」
だが、流れはやまない。動く(老河童の移動は北斗七星の形をなぞること)。
老河童、上手で杖にすがり、流されぬようにしているが、やがて杖を川底に刺したまま(後見、杖を斜めに支え持つ)、自らは正面前に流され、そこから後方の杖に手を差し伸べようとする。
が、体はくるりくるりと回転するばかりである。
老 「おのれ、ようもようも」
流れがおさまり、ぼうぜんと立つ老河童。
もう杖がどこにあるのかまるでわからない。
間。
老河童は、目のあたりを両の手でかすかに押さえて。
老 「おうお、今日はまたよう濡るるわ」
その形のままで間。
老 「くっさめ」
老河童、去る。
後見、杖を持って退場。
# by seikoitonovel | 2009-05-04 23:37 | 新作狂言 | Trackback
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