自由 


by seikoitonovel
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

14


e0176784_095232.jpg



 タイの恋愛学者アピチャイ・ホンターイが故国で悲惨な事故にあう百日ほど前、つまり彼と私が共に日本の事例を調査研究していた折に判明したことだが、1994年3月19日に「あらはばきランド」で縄文デイを見ていた華島徹と園田吉郎をさらに遠くから眺めていたのが企画部の犀川奈美38才なのであった。
 犀川は当日の午後、四階建ての本部ビルの屋上にいた。社内で飼っていたハムスターを透明の球体に入れて散歩させたすぐあとのことである。犀川はその屋上からランド全体、またはその西側に連なる小山を見るのを息抜きとしていた。イベント会場にいる華島と園田がこそこそと話をしているのを見つけた犀川はメンソール入りの細い煙草をくわえ、一度大きく煙を吸うと、社の者には絶対に聞かせることのない深いため息をついた。まるで小さな黒い岩をビルの上から落とすかのように。
 ため息は華島にも園田にも関係がなかった。それは純粋に犀川の個人的な問題に起因していた。彼女は二年以上、ある変事を抱えていた。端的にいえば、犀川奈美は悪霊と大恋愛をしていたのである。
 始まりはもっと前、六年はさかのぼる。犀川は一人の男を愛した。痩せていて羊のような癖毛をした男は時に犀川に暴力をふるい、金を借り倒し、連絡なしに外泊を続けた。だが、犀川は男との関係に固執した。半同棲生活が一年ほど続いたあと、男は忽然と姿を消した。
 少ない友人たちにも男のふた親にも弟にもいっこうに連絡がなかった。犀川は警察に捜索願を出して男を待った。自分に男が必要であるように、男にも犀川しかないと思った。二人は傷をつくりあい、それを強く押しつけあい、互いの肉と骨とを癒着させたのだと犀川は考えた。離れられないのだ、と。
 亡くなったことにしないと奈美ちゃんが壊れる、と友人たちが言い出した。新しい縁もあるだろうにと心配してくれたのだった。
 男が消えて二年後のこと、犀川自身は拒んだのだけれど、ある冬の晩に数人の男女が犀川の家に集まって男をしのぶ会を行った。位牌こそ作らなかったものの、友人たちはテーブルに果物や酒や男の好きだったビーフジャーキーなどを置き、献杯めいたことをした。
 犀川はただ黙って儀式につきあった。もしかしてという憂いはあったが、犀川は男が死んでいるとは思いたくなかった。
 行方不明になった男が死んだとされたその晩遅く、友人たちがみな帰ったあとのがらんとした部屋でラップ音が始まった。リビングの中央に吊り下げられたバラの形の照明の周囲を小さな破裂音が駆けた。やはり男はこの世のものではないのか、と犀川は胸が潰れるように思い、同時に体の奥が熱く溶けるような幸福感にも貫かれた。男は自分に会いに来たのだと思った。犀川は立ち上がり、音を追って部屋をへめぐった。
 気づくと、玄関とリビングをつなぐ廊下の白壁に薄茶色の古い血痕めいたシミが浮き出ていた。シミからはそれより少し濃い色の液体が垂れた。犀川は何度も深呼吸をし、頬を叩き、洗面所で鏡の中に自分を映して正気を確認してから廊下に戻った。シミも液体も変らずそこにあった。犀川はへたり込んで壁に手をつき、しみ出る液体をぬぐって口にした。男の精液の味がした。犀川は太い声で泣いた。息が長く出来ないほどの命がけの嗚咽だった。体から体がごっそり抜け出るように感じた。
 いつの間にか、犀川は冷え冷えとした廊下に身を横たえて眠っていた。悪夢が彼女を襲った。眠りの中で女の体は宙を浮き、地に叩き落とされ八つ裂きにされ火にくべられた。目玉をくりぬかれ、舌を切られ喉を何度も鋭利な刃物で突かれた。痛みはきわめてリアルで度々夢から醒めた。
 しかし彼女はしがみつくようにまた眠りに向かった。戦いに挑むように、大切なものを二度と失わぬように、女は自分を傷つける世界へ走り込んだ。
 それが毎晩だった。光のあるうちに犀川は仕事に出かけ、夕食を外ですませて家に帰った。部屋の中はいつもめちゃくちゃだった。テレビは倒れ、CDは散乱し、メダカのいる小さな水槽の中にスリッパが突っ込まれていたこともあるし、天井には切りつけられたナイフの跡、壁のシミは日々別な場所に現れ、床自体に糞尿じみた臭いのする粘液が溜まっていた。
 犀川は生きた男の粗相を片づけるように鼻歌など歌いながら二時間強をかけて部屋を元に戻した。天井の切り跡や壁のシミは翌日には必ず消えたが、犀川はそれでも濡れタオルをよく絞り、男の体に出来た疱瘡を癒すような丁寧さでそこを拭いた。
 現象は犀川だけの思い込みではなかった。男の仮の葬式以来あまり招かれなくなった友人の一人、元木和江はある時、地下鉄有楽町線の駅構内でばったり犀川に会い、驚愕して彼女の腕をつかんだ。
「奈美、その腰に憑いてる犬は何?」
 元木によれば犀川の腰回りにぐるりと一頭の茶色い中型犬が張り付いており、その他にもよく見れば赤い老婆や厚い眼鏡の青白い青年などが背中に覆いかぶさったり、頭の上によじのぼったりしていたのだという。
 あたしも霊感の強い方ではあるけれど、と元木は私たちに向かって目を丸くしたものだ。あそこまではっきりと霊の憑いた人間を見たことがない、と。
 元木以外にも、特に茶色い中型犬の存在を見てとる者は少なくなかった。犀川が街を歩いていると横断歩道で、スーパーマーケットの冷凍品売り場の前で、タクシーの後部座席で犀川は何度となく話しかけられた。一刻も早くその犬の霊を祓うべきだと彼女は忠告された。私が今から祓おうと池袋駅のホームで言い出した僧侶もいた。犀川の肩をつかんで早くしないとあなたは死んでしまうと言った女性もいた。
 先に名を挙げた元木和江はそのまま犀川の家に押しかけた。部屋に入った途端、元木もまた怒り狂うような激しいラップ音を聞き、目の前の壁にシミが浮き出ては消え、小刻みに停電したり触ってもいないラジオが大音量で鳴ったりするのを体験した。悲鳴を上げ続けた元木の声は一時間もしないうちに嗄れてしまったのだそうだ。
 だが犀川は絶対に霊を祓わないと言った。中型犬も老婆も青年も男に関係した何かなのだ。むしろ自分は男自身にとり憑かれる日を待っているのだし、毎晩のむごい悪夢こそが男からの愛の濃さだと知っている、と犀川は澄みきった目で元木にそう話した。その時の声の優しさはまさに聖母というべきものだった、と元木は語っている。
 酒乱の男に尽くす女のように、犀川は不可思議な現象にこそ喜びを感じていたのだった。コップが浮き、壁に叩きつけられて割れ、破片の断面から血のようなものがにじみ出てくると、犀川はそれを口の中に入れた。キッチンに飾った切り花はひとつずつ潰されたが、女はその潰れた形のままをドライフラワーにして保存しようとした。引き出しが開けられ、中の物をすべて床にぶちまけられれば、その散乱の中に男との思い出の品がないかひとつひとつつまんで眺め、あるとそれを写真に撮った。
 元木和江に再会した日からだと犀川は記憶しているが、悪夢の中に茶色い中型犬が出てくるようになった。犬はまずさかんに骨を欲しがった。犀川は男がどこかで圧死したのだと思った。骨を粉々にされて死んでいるからこそ、男はかわりの骨を求めているのだ、と。犀川は泣いた。男の無残な死に方が可哀想で仕方なかったし、そのことを犀川に訴えるようになった男により一層の愛しさを感じた。
 やがて犬は遠吠えを始めた。家がきしむような、不安定な長い声だったという。犀川はそれを男のオペラだと直感した。男は犬に変容して歌っている。自分がそれを聴く以外、誰が耳を傾けるだろうか。犀川は夢の中で腕を切り落とされ、足の裏に真っ赤な焼きごてを押しつけられ、喉の奥に金属の棒を突き込まれながら目をつぶり、男の歌劇を聴いた。男は犀川への未練を歌っていた。
 ただ、行方不明になるまでの男の趣味はブルースギターであり、オペラを好んだ形跡などどこにもなかった。むしろオペラは犀川の好みだった。男がオペラを歌うなどということは、友人たちからすれば絶対にあり得ないことだった。
 どうやらそのようにして、犀川奈美は悪夢を手なづけつつあった。悪霊自体そうだったといえる。霊の引き起こす無意味な現象のひとつずつを、犀川は例外なく自分への愛を基本として解釈し、対応し、受け入れた。根負けしたのは悪霊の方だったかもしれない。
 したがって、犀川が華島徹や園田吉郎を屋上から見てため息をついた頃には小康状態が訪れていた。悪霊の暴れ方にアイデアがなくなってきていたのである。
 ありとあらゆる事態に犀川奈美は素早く最適の処理をした。部屋中に防水処理がしてあったし、割れる素材の小物は捨てられ、ゴムやビニールに変えられた。スピーカーを廃品処分したため、男の残していったステレオはヘッドフォンを通した最大音量を出すのみですっかりポルターガイストの迫力を失っていた。何よりも悪霊は恐ろしさを感じない犀川に落胆の色を隠せないでいたのではないか。やることの規模が小さくまとまり、同じことが夜毎おざなりに繰り返されていたことでそれがわかる。
 むしろ、犀川が本部ビルの屋上から落としたため息は、求める刺激を得られない女のそれだったともいえるだろう。悪霊と隠れて過ごした波乱の恋愛の日々が、すっかり落ち着いたものになっていた。もちろん犀川はまだ愛に満ち、男への思いに燃えてはいたのだが。
 そして私ワガン・ンバイ・ムトンボは思うのだ。
 女に辟易とした悪霊が同志アピチャイ・ホーンターイに憑き、海を渡ってあの大事な人を死に至らしめたのではないかと。その意味では、私は犀川奈美を決して許すことが出来ない。彼女がもっときちんと悪霊に振り回されるふりをしていれば、我々はあの笑顔の柔らかい優秀な恋愛学者を失わなくてすんだのである。



          ワガン・ンバイ・ムトンボ(セネガル)
             ーアピチャイの思い出とともに


[PR]
# by seikoitonovel | 2012-01-15 18:01 | 第一小説

13


e0176784_095232.jpg

 
       『BLIND』10-1


 電話口で美和は息をのんだ。
 その言葉が相手から来ないと思ったことはなかった。自分から言ってもおかしくなかった。
 それでも美和の心臓は飛び上がるように動いた。
 ついにその時だと思った。
 数秒の沈黙に徹はとまどった。言ってしまうべきではなかったと後悔し、アサリのボンゴレの話に戻る方法をとっさに探した。しかし、そんなものはどこにもなかった。
 会えないかな、という言葉が発された瞬間に二人の無邪気な遊びは終わったのかもしれなかった。責任のない場所で誰でもない人物として存在出来る長い自由時間は途切れた。
 徹の脳裏にヒビの入った二人の男女の金属の彫像が浮かんだ。それは錆びていた。だが同時に、徹の体の奥で地上の魚のように跳ね回っている感情があった。会いたいと思う心、あらがえない欲望、そして会えるという期待だった。
 会いたいの?
 と美和がようやく言った。
 甘えるような声だと徹は感じた。
 だが、美和には脅えるような音色だった。
 窮地に追いつめられたと美和は思い、その場しのぎのように口から問いを漏らしたのだった。そして、「うん」と答えられて逃げ場はもはやないと感じた。
 会えないとか、会いたくないという選択肢はなかった。自分も会いたいと思っていた。
 けれど、美和は恐れてもいた。自分を醜いと思ったことはなかったが、だからといって容姿に特別な自信があるわけでもなかった。それまで延々と話をし続け、興味の対象やユーモアや道徳観念がよく似ていると思ってきた相手に、実際の自分がどう見えるかまったく想像が出来なかった。
 落胆、という言葉が美和の頭の中を占めた。
 何か徹が言っていた。
 え?
 と美和は悲鳴のように聞いた。
 名前、教えて欲しいんだ。
 と徹は言っていた。せきを切ってあふれ出す好奇心にあらがえなかったのだった。口に出してみて改めて、二人が避けてきたことが自分たちを悲劇に近づけるのではないかと徹は予感した。
 だが、引き返すには遅過ぎた。徹は先へ進んだ。
 僕は華島徹。華やかな島に、徹底的の徹。
 その漢字を思い浮かべてみながら美和は、同時に自分は嘘をつくかどうかに迷った。仮名を使うことは、それまでの数日の間に何度か考えていた。けれど徹の素直な様子が美和にそうさせてくれなかった。ただし、当時の再現であるこの文章の中では仮の名である。
 あたしは遠野美和。
 と美和は言った。
 二人は歩み寄った。
 遠い野原に、美しい和の国の和。なんかのんびりした名前でしょ。
 美和……ちゃん。
 と徹は復唱した。
 そう。
 と美和は言い、すぐに
 徹くん。
 とつぶやいた。独り言だったと美和は言っている。
 だが、徹は何か語りかけられたと思った。
 何? 
 と徹は聞いた。
 二人の対話の調子はそこで逆にかみ合った。
 美和はうれしかった。
 徹は『美和』という響きが美和の声に合っていると思った。
 いつの間にか、二人はアサリのボンゴレが何より春にふさわしい食べ物だという話に戻った。どうやってそうなったかを二人とも覚えていない。ただ、潮干狩りの話題が持ち上がったのは確かだった。日本の子供たちは古い時代から春に遠浅の砂浜に出かけ、そこで貝を採るのだった。
 こうして、会えないかという徹の提案は宙に浮いたまま消え去りそうになった。返事は次の機会でもいいと徹は思ったが、美和が電話をかけてこなかったらとも考え、続く話題、やはり春の風物詩のひとつである菓子サクラモチの葉を食べるべきか否か、に集中出来なくなった。
 すると、サクラモチはともかく、と言ったのは美和の方であった。
 私たち、会えるのかな?
 今度は徹が息をのむ番だった。会うことに何か大きな問題があるのだろうかと徹はいぶかしみ、会えない理由を素早く探した。
 察して美和は続けた。
 会えるのかなって言うのはつまり、どこで会えるのかしらということなんだけど。
 ああ。
 と徹は安堵した。
 えっと、僕は東京の西なんだけど。
 と言ってから、徹はその先まで話すべきかわからなくなった。一方、美和はやはり間違いなくそうなのだと思った。彼女は市外局番を知っていたのだから。
 わかっていたことでありながら美和は相手がひどく遠いと感じたし、だから自分がいる場所を打ち明けられないと思った。都心まで電車を乗り継いで二時間以上かかると知ったら、徹は自分への興味を失うのではないか。
 その徹がささやくように呼びかけてきていた。
 美和ちゃん。
 うん。
 質問が当然あるわけだけど。
 うん。
 聞いていい?
 うん。
 君は?
 うん?
 君はどのへんに住んでるの?
 うん。
 声は遠くないから、まさか京都とか九州ってことはないと思うんだけど。
 うん。
 いや、京都でも福岡でもいいよ。遠距離でも。
 そこで会話は一瞬ぴたりと止まった。
 美和は賭けるように言った。
 遠距離でも?
 と。


                 10-1 金郭盛(韓国)


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-12-31 00:38 | 第一小説

12


e0176784_095232.jpg

  件名   親愛なるカシム-さん-
  送信者  島橋百合子
  受信者  カシム・ユルマズ
  受信日時 2001年8月11日

 もうユルマズ様とは書きません。昔通り、カシムさんと呼びます。あなたの好きな「さん」付けで。
 さて、でも私はこれ以上何を書けばいいでしょう? そして、何を書くべきかわからないのに無性に何か書きたいと思うのはなぜでしょう?
 あなたのような大詩人に抽象的な美しい言葉を書き送る能力が私にはありません。だからカシムさん、具体的な思い出だけをまた思いつくままに書かせて下さい。
 あなたが祖国にお帰りになった1953年の暮れ、私は本当に寂しく思いました。あなたは気づいていなかったとお書きになっていますが、私はずいぶん積極的に感情をあらわしていたと記憶します。
 私は港で涙を流しました。鯨のような黒くて大きな客船の前で。私はあなたの腕をつかんでなかなか離さなかったはずです。十九才の私はあなたの胸の中に飛び込んでしまいたかったのです。でも、それが恥ずかしくて出来なかった。腕をつかんでいたのはあなたの帰国を止めたいのと同時に、自分の行動を抑えるためでもありました。
 あのあと、私は何通か手紙を習いたての英語で書きました。けれど、すべて出さずに机の中にしまい込んだ。今でもその手紙を私は持っています。
 文字の中にあるのは、異国の青年への憧れどころではありません。若くて未熟な私が、失ったものを悔いる悲痛な思いです。
 私はしかし三年後、父の会社に勤める男性と恋におちるのですから、青春というのはまことに気持ちのうつろいやすい季節です。私たちは一年ばかり交際をし、迷いなく結婚しました。素晴らしい伴侶でした。優しくておおらかで、ちょっと馬鹿で背の高い人でした。
 でしたとばかり書くのは、もうおわかりだろうように彼が今はいないからです。神はわずか五年で私から彼を奪いました。貿易の仕事でオランダと日本を行き来していた夫は、かの地で病にかかり、私が駆けつけるのを待たずに亡くなってしまいました。私と、まだ幼かった一人娘を置いて。
 私は夫のないまま日本の高度成長期を見続けました。父の会社はみるみる大きくなり、経済的には私にはなんの心配もありませんでした。日本は公害をまき散らしながら、けれどずんずんと一人の巨人が歩くような音を立てて豊かさへの道を突き進んでいきました。
 七十年代の熱い政治的な期間を、私は四十過ぎの落ち着いた身の上で過ごし、ただ街頭デモには何回か参加をしました。娘のことだけを考える私は日本がよい国であることを願い、そのためならどんなものとも戦おうと思ってきましたし、そうしてきたつもりです。その後の八十年代も九十年代も。
 そしてカシムさん、私もすでに七十才に近いのですよ。あなたはご自分ばかり年をとったようにおっしゃいますが、私も同じ地球で同じ時代を生きてきたのです。
 ですから私にも孫がいます。樫という名前で、それはあなたも当然御存知の、常緑で美しい葉を茂らせる頼もしいオークのことです。名前の通り、樫は立派な青年となり、今は海外ボランティアに出ています。
 カシムさん、もうおわかりでしょう? 私はあなたの名前の一部を孫に与えたのです。まるであなたがザムバックという名をお孫さんにつけ、それがトルコの言葉で百合をあらわすように。
 覚えていらっしゃるでしょうか、あなたが神戸で私に下さった百合の形のペンダントを。あの時、私はザムバックという言葉を教えていただきました。あのペンダントを、私は今の今まで宝物として大切にしてきたのですよ。
 だからメールを読んで、とても不思議な偶然だと思ったのです。いや、偶然ではなくて、これは人生も最後の方に至った人間に特有の、若き日々への強い追憶から来ているのかもしれない、と。少なくとも、確かに私はあなたを思い出して孫の名前をつけたのですから。
 もちろん私は夫を愛していたし、その思いに変りはありません。けれども初恋をした頃の自分を大事にしたいとも考えています。あの神戸、あの時代、あのあなた、あの私を。
 カシムさん、あなたが国際的な詩人の会合で来月ニューヨークにいらっしゃるのを私は知りました。俳人の古い知りあいが自分の欠席をたまたま私の目の前で残念がったことによって。
 もしもあなたが、今度は私たち双方にとっての異国の地でゆっくりランチなどおとりになるつもりがあれば、どうぞ教えて下さい。なぜならニューヨークには今、私の樫が仕事で滞在しているからです。私はいずれ、孫に会いに行こうと思っていたところでした。
 ばったり空港で会うという驚くべき偶然、そのあとすぐにあなたの渡米を知るという偶然、そこに自分の孫がいるという偶然を、私は運命のような必然としてひととき味わえれば、と夢みています。ただし、あなたはお忙しい身の上、無理にとは申しません。
 けれどカシムさん、以下は脅し文句のようになりますが、私たちにだって死期はあるのですよ。悔いることをより少なく余生を送りたいと考える私は、だからこそあなたにこんなメールを書いたのです。
 私もずいぶん長く書いてしまいました。拙い英語で齟齬が生じないか、前回同様不安です。
 
                草々。

                  百合子より。

            
[PR]
# by seikoitonovel | 2011-12-15 13:43 | 第一小説

11-3


e0176784_095232.jpg


       『BLIND』9-7

 あらはばきランドの特設ステージ前は閑散としていた。
 1994年3月19日。
 ステージでは社長・水沢傳左衛門の肝いり企画、『縄文デイ』が開かれていた。ちょうど3年前の3月から始まったものだった。
 一ヶ月の期間中、ランド内のイベントスペースでは連日、日本の縄文時代、人々はこう生きていただろうという推測を大胆にショーアップし、ニセモノの毛皮を着た男女が5人ほどでテーマ曲“狩り、狩り、狩り”を始めとした3曲を歌い踊り、土器を叩くことでリズムを刻み、イノシシ役の男性をステージ上で追いつめて仕留め、様々な声で雄叫びを上げる他、高度な文明があった証として土をこねて食器を作る所作をし、火を起こす真似事などするのだったが、ステージに呼び込まれた来場客の子供たちはたいてい泣くか、つまらなそうな顔で遠くを見た。縄文時代の本物の矢じりを持たせてもらうという特典があったものの、それを喜ぶ子供は3年間で一人もいなかった。
 けれど園田さんはその『縄文デイ』のイベントを高く評価し、事実出来る限り『レイン・レイン』の作業の合間にショーを見に行ったし、特にイノシシが捕まるタイミングでは必ず奇声をあげたが、数回付き合わされた僕にはそれがネイティブアメリカンの行動に見えて仕方なかった。
 その日も僕は昼食後、『縄文デイ』のセカンドステージに誘われた。園田さんは食堂で「話もあるし」と言った。僕は話ならたくさんある、と思った。ステージ前に行くと、輪になった男3人が女2人の周囲でとびはねていた。音楽はハウリングを起こして耳に痛かった。
 まだ寒い日中で、日が当たるのはステージだけで他は暗かった。園田さんはズボンのポケットに手を入れたまま、背を丸めて演し物を見ていた。僕はその隣に立っていた。縄文人(男)の一人がリズムに合わせて槍を突き上げ、もう片方の拳で胸を叩いて自らの筋肉を誇示し始めたのと同時に、園田さんは少しだけ僕の側に顔を向けて言った。
「徹、なんかあったのか?」
「はい?」
 と僕は反射的に聞き直した。
「最近」
 とだけ園田さんは付け加えた。僕は何を言われているか確信を持ちながらも、もう一方で気づかれているはずがないと思っていた。
 園田さんはそのまま黙り、ステージを注視するかに見えた。自分が持ちかけた話を早くも忘れてしまったのだろうか。あっけにとられて園田さんを見た。すると、園田さんの頭の上に白い靄がただよっていた。知っているのだ、と僕はなぜか観念した。
「おかしいですか、近頃の僕は?」
 と諦念の中で僕は言った。白状しているに近いニュアンスだった。園田さんはイノシシ役の男性が舞台袖から出てくるのをそっけなく確かめてから答えた。
「おかしいね」
 僕は空を仰ぎ見た。園田さんの言葉を待とうと思った。実際、少しして園田さんは続けた。
「そもそも鼻歌が頻繁だよ、徹。どれも影のあるラブソングのかけらだ。しじゅうお前の唇から聞こえてくる。いい曲ばっかりな。だからって悲しい恋をしてるわけじゃないと俺は思う。そもそも恋が憂愁を湛えたものだということくらい、特に初期症状がそうだというくらいは長らく恋人のいない俺にだってわかる。フォーッ!」
 最後はイノシシを仕留めた縄文人への賛美になっていたけれど、園田さんは僕の状況をずばりと言い当てていた。数日の間盗聴されていたのではないか、と思うくらいだった。
「相手は?」
 園田さんは調子を変えずにそう言うと、僕には一切目を向けないままきびすを返して『レイン・レイン』の方に歩き出した。ショーのクライマックスと園田さんが考えている場面はもう終わっていたのだった。というより、ステージに上げて矢じりを触らせるべき子供が客席に一人もいなかった。観客は園田さんと僕だけだったのである。
 気づけば、園田さんはすでに数歩遠くに行っていた。僕は追いかけそこね、視線を空に向けた。“縄文デイ 原始の力”と白地で書かれた小さな赤い風船がステージの上空に飛んでいた。園田さんはこちらに背を向けて去りながら、今度は大声で言った。
「相手は誰だ?」
 園田さんはどうしても知りたいのだった。知っている女性ではないかと勘ぐっている可能性もあった。ほんの何分か前まで大人として見守ってくれていると感じたのだが、実のところ単に猛烈な好奇心なのではないかと僕は思い、そう考えるとむしろ気持ちが軽くなって小走りに園田さんの横まで行くと、右耳に吹き込むようにささやきかけた。
「知りません」
「え?」
「園田さんの言う通り、僕は恋におちていると思います。でも相手がどんな人か、いや中身はよく知っているんです、知りあって数日でこんなにわかり会えるのかってくらいに。でも相手がどんな顔のどんな人か、名前もまるでわかりません。知らないんです。電話でしか話したことがないから」
 園田さんは許しがたいことを聞いたというように目をむき、一度大きく息を吐くとさらに早足になった。僕は咎められると思い、それに全力で反駁しなければならないと考えて自分も歩を早め、園田さんの右横にぴたりとついた。左に『メリーゴラウンド』、右に『カーライド』のある子供向けゾーンを抜けて行きながら、園田さんは怒鳴り声で言った。
「面白い」
 僕は答えるべき言葉を失った。園田さんは聞こえなかったと思ったのか、もう一度怒鳴った。
「面白そうな恋だ」
 結果、僕は事情をあらいざらい『レイン・レイン』の操作室の中で話した。僕はその日まで、自分に何が起こっているかを他人に話すべきかどうか迷っていた。けれどすべてを話し終えたあと、打ち明けるなら園田さんしかいなかった、と思った。きっと本当は、誰かに早く言いたくてたまらなかったのだった。
 お前からの相談に対して俺が言えることは、と園田さんは前置きをした。僕は相談をしたつもりなどなかったから、まったくの勘違いだった。だが、そういうずれ方こそが園田さんに恋を打ち明けることの気楽さにつながっていた。
「平凡な恋に向かえ。そのままおかしなシチュエーションを続けていても発展はないと思うぜ。だから今夜誘えよ。どうせ電話は来るんだろ? 明日会いたいと言うんだ」
「明日? どこに住んでるかもわからないのに、ですか?」
「お前が聞かないから悪いんだよ。だから相手も聞けない。地上を離れた天使みたいなお付き合いはもうやめるんだよ、徹」
 園田さんは白黒のモニターを見上げてさらに言った。
「人間らしく平凡に行け」
 そして目の前の操作パネルをあちこち手際よく押し、全館に強い雨を降らせた。

          9-7報告者 
             故アピチャイ・ホンターイ(タイ)


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-12-05 15:21 | 第一小説

11-2


e0176784_095232.jpg



      『BLIND』9-6


 二人は話した。
 柄が白黒反対のシマウマの突然変異が生まれても誰も気づかないのではないか、と二人は言って笑った。
 教科書の誰に落書きをしたかと徹は言い出し、自分たちを含めて人はなぜチンギス・ハーンの顔の絵に何か付け足してしまうのかを美和と話しあった。
 白封筒の糊づけがうまくいった時の満足感が他の何とも違うと美和は話し、徹は糊づけのあとに〆(日本独特の封緘の記号)を書く時が特別だと言った。
 大根の辛さが苦手で自分は子供っぽい味覚を持っているのではないかと徹は話し、美和は自分はピーマンが苦いと思うと話した。
 初恋は二人とも中学生の時にしていて、どちらもしごく恥ずかしい顛末だったと告白しあった。
 月を見るのが好きだと意見が合い、仕事の帰りに駅までの道を首が疲れるほど見上げて過ごすことがあると徹が言うと、そんなに月がよく見えるところに勤めているのかと美和は確かめるように言った。
 年齢が違うことはわかっていたが、高校生の頃に熱中していたラジオ番組が同じであることがわかった。
 これまで見た中で一番汚い字を書く人の文字の列が死んだ虫の群れを模写した一枚の絵のようだったと美和は話し、徹はその絵が欲しいと言った。
 電話口に流れていくことがあるザーッという雑音が心地よいと二人は話した。
 留守番電話のメッセージはなぜ自分の声とあんなに違うのだろうと二人は言い、だから君が聞いている僕の声は本当の僕の声よりずっと低いと思うと徹は言い出し、であれば別の声同士が話しているのだと美和が言って、なんだかおそろしいような気がするという結論になった。
 切れかけの蛍光灯のチラチラする光が嫌いだと美和は言い、徹は子供の頃そういう蛍光灯だけを近所の空き家の庭に隠して集めていたことがあると言った。
 春の眠さは異様で一日の区切りなく眠ってしまうことがあると美和は言い、徹はそれは自分にもあると言ったあと今はどうかと思いきっておどけて聞いてみると、一瞬も眠くならないと美和は生真面目に答えた。
 徹の留守番電話に入っていた曲をなぜ徹が選んだのかを美和は知りたがり、徹は園田さんのことをくわしく話したがそれは答えにはなっていなかった。
 エイプリルフールで一番気の利いた嘘はなんだったかと話しあい、美和は明日のエイプリルフールどうする?と当日聞かれたことだと言い、その嘘はしかしなんのためについたのだろうと徹は考え込んだ。
 自分は歩き方に特徴があると言われると美和は話し、徹は自分は笑い方にあると言われると話した。
 冷たいものが総じて好きだと二人は話した。
 朝のスズメの声も好きだと二人は言った。
 木の葉なら若葉だと意見が合った。
 空は秋がいいと話した。
 幅の広い川を少し高い場所から見渡すのが好きだと二人は言った。
 ファストフード店のセットの組み立て方が男女ながらずいぶん違っていると驚いた。 
 今までで最もショックを受けたなくしものは読みかけの長編小説だったと美和は言い、タクシーの中につい置き忘れたそれを買い直したが結末がどこか違うのではないかと疑いが消えなかったと付け加え、徹は幼い頃気に入っていた緑色のキャップのことを思い出してしゃべった。
 長電話をすると耳の上の方が痛くなると美和は言い、もっと軽く受話器を持てばいいと答えた徹は自分の耳の上も実は痛いのだと打ち明けた。
 BGMがいらないと思う場所はどこかという話になり、海水浴場と徹は答え、美和は山を行く電車の中と言った。
 巨大迷路(木の壁を高く複雑に立てて作られた迷路の中を人が歩き、出口を探す遊具がある時期日本で流行した)に行ったことがあるかと徹は言い、美和は二度友人につきあって出かけたがどちらもほぼすんなり解けてしまって気まずかったと笑った。
 美和は大学で精読したトマス・ハーディの『日陰者ジュード』のあらすじを女性にだらしない男の苦難と略し、徹はただ相槌を打つだけで読みたくはならなかった。
 電話をしながらコップの水を飲むと受話器に触れてこぼれそうになるのでストローを使うことにしたと美和が言い、徹はペットボトルの中身を入れ替えて使おうと思うと言った。
 徹は今聞こえる君の声の少し鼻にかかったところがチャーミングだと誉め、美和は私こそそう思っていたと大きな奇跡を前にしたかのように言った。
 会ったこともないのにと徹は言い、会ったこともないのにと美和も言った。
 二人とも高校までの教室ではいつも前の方の席に座っていたことがわかり、一度後ろに座ってみたかったと嘆いた。
 雨が降ってきたと美和は言い、そっちはどうかと聞くと徹は降ってもいないのに降っていると答えた。
 電話をしていても相手の声以外のことは何もわからないけれど、自分としか話していないことははっきりわかると言い合った。
 二人は長く話した。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-10-27 14:31 | 第一小説

11-1


e0176784_095232.jpg
                                                       3月14日

 妹に好きな人が出来たのではないか。昨日も一昨日も、正確には四日前の午後九時を過ぎた頃から毎日、隣で一時間ほどtelをしている。日に日に夜遅い時間帯になる。言葉はわからないが、声の調子がはしゃいでいて少し気取っている。日が経つにつれ沈黙が長くなっていく様子が友だちのtelと違う。黙っている時、相手が話している気配もない。二人は耳を傾けあってる。彼女、私には決して相談しないだろう。
 朝は納豆、生卵、海苔、油あげとワカメの味噌汁、きゅうりの浅漬け。母と二人で。妹、起きて来ず。母の一人しゃべり。テーマは節税。聞くふり。
 8:32AMのバスで会社。乗車時、前のおじいさんが転びかけたのをとっさに支えたら左足から乗ってしまった。何年ぶりだろう。スキーで右足を折って松葉杖だった時以来。それが気になってか、エンジン音がいつもより高く聞こえた。最近耳がちょっとおかしいかも。
 社では一日パソコン仕事。迫田さん(今日は不機嫌だった。生理だろうか)が部長に提出する書類、インドネシア工場からのネックレス完成品がどんなペースで輸入出来るかの見積もりを手伝う。細かい計算に気をつかった。昼は陽華亭、長崎ちゃんぽん(本日75点)。
 午後、「不要な数字の確認(迫田さんはそう言った)」に私がこだわり過ぎるとクレームをつけられた。が、工場からは1~2%の欠損品が来る。特に月をまたいでのレポートに月末状況の記載漏れが多いのは事実。それを正しい範囲で予測出来るのならするべきと反論した。迫田さんはなにしろ不機嫌なので、常日頃の私の態度にまで文句を言い出す。
 つきあいが悪いと言う。人を見下して黙っていると言う。ふたつのことが同時に出来ないと言う。話しかけづらいと言う。言うまいと思ったが、思わずそれは全部迫田さんのことじゃないかと指摘した。すると迫田さんは目を丸くして、珍しいと言った。遠野さんにもそんな声が出るのか、と。私はさほど大きな声を出したつもりがなかったし、論点がずれている。拍子抜けがして、話しているのがバカらしくなった。
 残業なし。会社飛び出る。19:02PMバス。希山停留所付近、大幅な道路工事が始まっている。季節外れ。冬にまとめればいいのに。
 夕食は家で。母と妹が作った春巻(具の水切りが甘いのか揚げたてでも皮がしなしなしていた。60点)、かぶのカニあんかけ、油あげとワカメの味噌汁(朝に同じ)、もやしのナムル。私が父の椅子に座るようにしてから三ヶ月(母は今日もちらっと責めるようにこちらを見た)、家の中に空白がある感じは多少埋まっている。凍りついていた家族が溶けて動き出したようにも。ただ、その変化について二人に話すつもりはない。
 観察。食卓での妹は気が急いていた。いつもノロノロ食べるのに春巻を自分の分だけ二本、先に取った。母の皿にも二本、一度に乗せて嫌がられた。テレビでは『金八先生』が印度カレーの話をやっていたが、妹は毎週録画するほど好きな番組を注意力散漫にしかみなかった。早くみんなに食事を終わらせて部屋に入れてしまいたいようだった。
 妹はたくらみに気づかれているとはまるで考えていない風で、目は浮ついているし、急ににやにやしたりした。ひとつのことしか頭にないような顔で、エサにばかり熱中している小動物めいていた。彼女が昔飼ってたハルを思い出した。よくしゃべるインコ。得意なセリフは「イラハイ、イラハイ」「タケヤ、サオダケ」「ミワチャン、カワイイ」だったな。すべて母が仕込んだ。
『金八先生』が終わってすぐ、リモコンをとって私が観てない先週分をわざと再生してみた。本気で観る気などなかった。妹の顔はみるみるくもり、簡単にいらだった。やはり彼女は私たちがいつまでもダイニングにいると都合が悪いのだ。かわいらしいこと!
 ところがそんな事情には一切かまわず、母はドラマのテーマが男女の違いだったと言い出し、カイコのオスメスの話を始め、結果いつものエピソードの連続になった。ビデオを止めて、話に無言でつきあう。
 妹は「桐生とカイコの意外な関係」のあたりでキッチンに入り、片づけものをして食後の時間短縮をはかった。常日頃、作ることしか面白くないと言って片づけは主に母か私にまかせるのに。妹はお茶さえ出そうとしなかった。私は率先してダイニングを出、シャワーを浴びた。終わってすぐに母にも入浴を勧めた。
 私は、それが誰であれ妹が相手とうまくいけばいい、と思っている。本気で。私だってあの日までは二日に一回、彼にtelしていた。わずか3分強ずつだったけれど。簡潔に4分以内と私たちは決めていた。時間を守るゲームのふりをした。本当の理由から目をそらして。
 母、妹は相手が異性だとはついに気づかなかった。何かの事務連絡くらいに思っていたはずだ。それは半年も続いた。そして半年しか続かなかった。やめよう。またこの話だ。
             

        (遠野香の日記より許可を得て抜粋)


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-10-20 13:46 | 第一小説

10


e0176784_095232.jpg

『恋とは何かをあなたは知らない』

恋とは何かをあなたは知らない
ブルースの意味を知るまで
やがて失うその恋におぼれるまで
恋とは何かをあなたは知らない

唇が痛むのをあなたは知らない
キスをするまで
その代償を支払うまで
ときめいて そのときめきを失うまで
恋とは何かをあなたは知らない

あなたにわかるだろうか
虚ろな心がいかに追憶を恐れるか
涙の味を知った唇たちがどうやって
キスの感触を失っていくか

成就せず滅しもしない恋のせいで
どれほど胸が焦がれるかをあなたは知らない
眠れぬ嘘で夜を明かす日々が来るまで
恋とは何かをあなたは知らない

       (日本語訳・佐治真澄)

『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』 本会議開場時BGMより

http://www.youtube.com/watch?v=y4XJdYk2DIA


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-08-07 22:41 | 第一小説

9


e0176784_21511591.jpg

 第一小説、9-4と9-5に手を入れた。 
 『BLIND』に振ってる番号とデータ番号がずれてよくわからないことになっているので、直してます。
 が、今後も少し混乱するかも。
 ともかくcase-k版で上から下へと読んでいただければ、と。



[PR]
# by seikoitonovel | 2011-08-07 22:13 | 雑記

9-5


e0176784_095232.jpg

      『BLIND』9-5

 それからというもの、美和は何かを忘れたような気持ちにとらわれた。入社研修の予定表を何度も見直したし、提出書類の点検もした。母からの頼まれ事がなかったか、キッチンの横を通る度に冷蔵庫に貼られたパネルを見るのだが、壮子の乱暴な文字は姉・香に貸した千円の返却を要求するのみだった。
 胸に空洞が出来ていた。失った部分があるのだが、それが何かわからなかった。空洞をのぞき込もうとすると周縁がキュッと閉じた。すると痛みに似た感覚が美和に生じた。美和はその痛みに執着し、かえって繰り返し失ったものを探した。
 同時に、忘れたもの、失ったものが不意に現れ、自分を罰するのではないかという漠然とした怖れもあった。リビングでノートに新しいパンの構想を書きつけている時も、“女子大生たちがひなびた温泉旅館を建て直す”という内容のテレビドラマシリーズ(『湯けむり女子大生騒動』と判明。八十年代中盤から日本では女子大学生がもてはやされた。ちなみにこの時期くらいを境にして対象は女子高生になる)を母とぼんやりと見ている合間にも、電話を切ってからめっきり増えた鼻歌のとぎれた瞬間にも、美和は急にひどく罰せられるような気持ちになった。

 一方、徹は失ったものを明確に知り、苦しんでいた。前の晩の数分、徹は相手の名前も電話番号も聞かなかったことに満ち足りていた。何もわからないのに自分たちがつながっていたのは奇跡だと思った。
 だが、蛍光灯の明かりの下で灰色の電話機KL-B200を見た途端、徹は巨大な不安に包囲された。自分からかけることが不可能なのだった。黄色くぶ厚い電話帳を開いたところで自分は相手の名前すら知らない。
 二度とかかってこないのではないか。
 徹はそう思った。もともと気まぐれにかかってきた電話だった。声を聞けば知らない人だった。会話がはずんだわけでもなかった。むしろ沈黙が支配していた。考えは悪いほうにばかり向いた。
 徹は無言で小さな赤いソファの上に座り続けた。電話の内容を幾度も反復し、彼女の声を思い出してみた。たった一人につながれないというだけで、あらゆる連絡網から断絶されている気がした。世界の中で孤立していると思った。 
 あくる日は土曜日で、晴天だった。「あらはばきランド」には予想以上に客が入った。徹は「レイン・レイン」の操作室にこもり、通常より多く『サンダーフォレスト』に嵐を起こした。
 その間も徹はずっと考えていた。
 二度とかかってこないのではないか、と。


         9-5
          ヘレン・フェレイラ(米国)
          ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)



[PR]
# by seikoitonovel | 2011-08-05 17:21 | 第一小説

9-4


e0176784_095232.jpg

『BLIND』9-4

 ガチャリという音がした瞬間、美和は小宇宙を吸うかのように口を開けてのけぞり、そのまま動けなくなった。
 はい、華島ですが。
 という声が続いて受話器から耳に響いた。いや、本当はあとからそう思っただけで、実際は聞き取れない低い言葉が部屋にするりと入り込んできたと感じたはずだった。
 翌3月11日金曜日、午後9時過ぎ。
 自分がかけたのだから相手が出るのは当たり前だった。なのに美和は不意をつかれ、泣き出しそうになったのだった。
 もしもし、もしもし。
 声は何度か繰り返され、美和の正体を明かすよう迫った。美和は凍りついて動けなかった。
 だがそのあと、意外なことに声は子供をあやすようにやわらいだ。
 えっとー。
 と声は言った。そして、
 昨日に引き続きこんばんは。
 という言葉になって短い笑いに変わった。
 美和は思わず硬直をとかれ、
 あ。
 と言ってしまった。
 それが最初の会話になった。
 ごめんなさい、何度もあたし。
 とだけ美和は続けた。言葉の束がほどけ出すような気がした、という。
 すると今度は相手が、つまり徹が、 
 あ。
 と言った。
 ひとつ呼吸があって、
 僕、子供かもしれないって思ってました。
 と徹はなぜか感心するように言った。
 あ、違うんです。
 と美和は答えた。
 子供じゃ……。
 と言ったのは二人同時だった。それぞれに言いたいことは異なっていた。
 ゆずりあって黙り、互いに相手の息の音を集中して聞いた。
 しばらくそうしていた。相手の無言にじっと耳をすますことが、すでに両者にとって懐かしい行為になっていた。美和も徹も留守番電話のテープを通して、何度もそうしてきたのだ。
 やがて美和はもう一度、ごめんなさいと謝り、間違い電話をかけたら留守番電話のメッセージに使っている音楽が気になり始めてしまって、と言った。
 徹は即座に曲名を答え、どんなアルバムに入っている曲であるか説明をした。園田さんに借りたものであることまで言おうとして、徹は口をつぐんだ。
 すると、その日三度目の、
 あ。
 という声が美和の小さな口から飛び出した。
 知っていたのだった。前日、リビングルームで見ていたのに、かけそこなっていた。それはやはり父の持っていたレコードの中の一曲で、まだ父が家にいた頃、何度かかかっていたのだ。
 それが大きな意味のある偶然だと美和は感じた。けれども、それを華島徹にどう話せばいいものか、そもそも話すべきかと美和は迷った。
 美和は黙り込んだ。
 その沈黙を徹は苦痛に感じなかった。
 徹も黙っていた。
 その沈黙に美和も耳を傾けていた。
 ついにその日、三十分ほど二人は何も話さず、しかし受話器を握り続けた。
 じゃあ、また明日とかに。
 と徹が言い、
 うん。
 と美和は答えた。
 電話を切ったあと、徹は相手の名前さえ聞いていないことに驚くとともに、そうであることに深い満足感を抱いた。
 美和は階下に静かに降りてアナログレコードを一枚見つけ出し、それをカセットテープに録音して自室で聴いた。



       9-4 金郭盛(韓国)


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-08-02 16:50 | 第一小説

父5-3


e0176784_21563422.jpg


5-3  候補者に選ばれるまでの二十年

 一体、なぜ私が参議院議員候補者として選ばれたのか。私には不思議でならないし、それだけに天命と言ったものを感じるのである。
 それまで民社党が地方区で候補者を立てることのできた地方は北海道、東京、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡などの大都市に限定された。時には栃木、岐阜などが加えられたが、これらの地方区で当選できる候補者は余程の知名度がなければならない。だから特定の支持母体を持たない党本部書記局員が参議院議員になろうなどとは考えも及ばないのである。
 〝私もやがて表舞台で〟という強い願望をもった時代があったことも事実である。民社党の結党と同時に党本部書記局入りした私は、中央機関紙事務局長、組織局第一部長、国民運動事務局長、総務局次長、組織局次長などを歴任した。この間長野県連では私を県会候補にという話もあった。さらに五四年には長野県第三区から衆議院候補にという話もあった。この長野県第三区の場合は、すでに公認候補として確定していたG氏が、統一地方選挙直前になって突如公認辞退を申し入れてきたため、衆議院議員候補者選考委員長として候補者の発掘に四苦八苦されていた春日一幸先生が私を呼んで〝辞退させないよう説得せよ〟と厳命された、この厳命を受けて私は、G氏に何度か会ってみたがどうにもならず、公認発表の五月党大会の段階であきらめざるを得なかった。そこで春日先生は〝それでは伊藤君が次の候補だ。真剣に考えろ〟ということであった。強引な話だとは思ったが私もこれを真剣に受けとめ、親戚の人たちに集まってもらい話し合いをしたし、また支援母体というべき地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし地区同盟はG氏の準備活動をつづけてきており、今更候補者の切りかえはむずかしいとのことであった。それではたたかいにならない。私はこの話を断念した。
 一方、私は五二年以来組織局次長として和田晴生についで柳沢錬造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いていた。前にも述べた通り、私はこの経過を通じて党勢拡大への確固たる視点をもつようになった。〝裏方に徹して民社党発展のために自分自身の与えられた役割を果たしていこう〟との決意となったのである。

 そんな中、五四年十月選挙の勝利の余韻が未ださめやらぬ十一月の初めに、建設同盟の鈴木委員長と豊島書記長が党本部を訪ねてきた。会って話を聞くと組合の政治活動をもっと強めるために全化政連方式を採用したいとのことであった。全化政連方式というのはいわば民社党への団体加盟方式である。時宜を得た話で私はたいへん嬉しかった。
 その折、鈴木委員長が来年の参議院選挙をたたかう同盟内の全国区候補は、向井長年(電力)、田淵哲也(自動車)、柄谷道一(ゼンセン)=いずれも現職=の三名に決まっているが、あとの一人がまだ決まらない、なにをもたもたしているのだろうか、早く決めてもらわないと困る、という話であった。私も全く同感であった。全国区候補はいままで同盟から四名を出してきており、同盟はまた、四名は必ず当選させることができる力をもっている。ところが三名は早くから決まっていたが、あとの一候補がなかなか決まらない。全金、造船、海員、鉄労のいずれかの組合のなかから候補者がでてくるのだろうとみられていたが、それぞれの組織に事情があってなかなかまとまらない。しかし総選挙も終わり、いよいよ来年は参議院選挙、党躍進ムードのなかで従来より少ない三名の候補で全国区選挙を迎えることは到底できない。同盟本部第四候補選考委員会(委員長前川一男氏)も年内決着をめざして精力的に動き出した。しかし同盟の組織内からは、この時点ではもはや第四候補者を出すことは断念せざるを得ない状態となり、選考委員会は最終的に党本部の佐々木委員長に選考を一任し、同委員長が決めた候補者を同盟の組織内候補とする、との結論となった。この段階でも私は最後は同盟の有力単産から候補者がでてくるに違いないと信じていた。私にお鉢が回ってこようなどとは夢にも考えていなかったのである。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-07-07 14:14 | 第三小説「思い出すままに」

父5-2


e0176784_21563422.jpg


5-2 参議院「惨酷区」

 振りかえれば大変なたたかいであった。
 過去に一度でも参議院全国区の選挙運動を経験した人々はいまでも言う。「郁さん、君があんな短い準備活動で当選できるなんて、どうしても考えられなかったよ」と。
 あの有名な政治評論家の俵孝太郎さんも「せいぜい30万票もとればいい方ではないかとみていたよ」と言った。専門家は一様にそうみていたのであった。私自身も長い政党本部での経験から、そのことは十分すぎるほどわかっていた。
 私は知名度ゼロの無名の新人候補者であった。同盟一ー産別の支援を受けたとはいえ、これら産別の組合員にとって、私の名前も経歴も何ひとつ知られていなかったのである。それが勝てたのだから奇跡に近い出来事だったと言える。
「惨酷区」とさえ呼ばれる参議院全国区のたたかいは、四七都道府県をまたにかけた壮大なたたかいである。壮大といえば聞こえはいいが、それは候補者になったものでなければ決して理解することのできない大変なたたかいである。
 たしかにそうだ。例えば、一県を二日間ずつ回ったとしても三ヵ月と四日を要する。北海道から遊説を開始するとして、再び東京に戻ることのできるのは三ヵ月と五日後になるのである。しかも、一県を二日間だけという日程では、主要な都市の目抜き通りを猛スピードで素通りするだけで終わってしまうのである。事実、私の選挙運動も、支援組織の職場に五分ないしは十分間程度ずつ顔を出すという猛スピードの運動であった。知名度の高い候補者ならばそれでも当選できるであろうが、私のような知名度ゼロの新人は一県を二日間ずつ回るだけではまず当選はおぼつかない。したがって新人候補者ならば少なくとも一年半か二年、現職議員でも一年間の準備活動期間が必要だというのが全国区選挙の常識なのである。
 それが私の場合は、僅か六ヶ月間の準備活動期間しかなかったのである。まさしく無暴なたたかいへの挑戦というべきであった。しかも「八〇万票」という途方もない票をめざすたたかいであった。だから立候補を決意してから選挙の終わるまで私の念頭には〝当選〟の二文字は全くなかった。私は私自身に与えられた使命にしたがって全力をつくす以外にないと思った。支援組織のひとびとの足手まといにならないように、候補者として後ろ指を指されないように、真剣に立ち向かっていこうと、ただそう心に言い続け、たたかい続けてきたのであった。
 結果は六十八万三千五百二票という票を得た。私個人で獲得し得た票はそのうち三〇〇分の一にも達しないであろう。支援産別がその威信をかけて叩き出してくれた、まさしく組織の力の勝利であった。
 短いようで長く、長いようで短かったこの異例のたたかいを振り返りながら思い出すままに書きつづってみたい。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-06-06 15:21 | 第三小説「思い出すままに」

父5-1


e0176784_21563422.jpg


5-1 しまった、街頭演説に間に合わない!

 昭和五十五年六月二十四日の朝、目を覚まして時計を見た。針は午前八時を指していた。その瞬間、私は頭をハンマーでなぐられたような衝撃を受けた。
「しまった、たいへんなことになった。この時間ではもう朝の演説に間に合わない、さあ、どうすべきか」
 胸がドキドキ高鳴っている。
「どうしたことだ、今までこんな失敗をしたことはないのに……」
 長い選挙期間中、私は出発予定時間の一時間前に必ず起きた。そして洗顔の後、狭いホテルの部屋のなかで軽い体操をやり、千回から千五百回の足踏みをして体調をととのえ、心気を充実させて迎えの車を待った。
 こうしてホテルを出発し、午前六時半ないしは七時ごろから支援組織の職場の門前に立って出勤してくる組合員のみなさんに向かってあいさつを繰り返す。これが私の朝の主な選挙運動であった。
 ところがその朝は迂闊にも寝すごしてしまったのである。候補者カーはとっくに朝の日程を終了し、今ごろは次の職場に向けて突っ走っているにちがいない。そこにこれから追いつくにはどうすればよいか。ホテルはひっそりとしていて、いつも私より早く起きて出発準備をしている本間隆君のあの大きな張りのある声も聞こえない。
 いまごろ現場では、組合幹部や運動員が宣伝カーの運転手に向って「候補者はどうした。なぜ乗せて来なかったのか」と、怒鳴り散らしているであろうことを想像し、私はとにかくここを一刻も早く出なければならないと思った。
 急いで着替えをしながら、「それにしても、一体ここはどこなのか」と頭をゴツゴツ叩き、ガタガタと窓を開け放った。そして外の景色をみて私は、
「おやっ」と思った。
「ここは東京だ。芝のグランド・ホテルではないか。そうだ、選挙は終わっているんだ」
 完全にねぼけていたのである。いや選挙が終わっているのに、私の体は無意識のうちにまだ選挙運動を継続していたのであった。
「ああ、みんなに迷惑をかけなくてよかった」
 と胸をなでおろしながら、
「当選したんだ。ついさっきまで当選祝いでもみくちゃになりながら、ここに来て午前四時半ごろ寝たんだ」
 開票は前日二十三日午後六時からはじまった。私の順位は五十位前後を行ったり来たりし、結局当選のテロップがNHK・TVに出たのが、真夜中の午前二時であった。当選者五十人のうち最後から三番目にようやく決まるという、まさに薄氷を踏む思いのきわどい当選であった。  
             (『鷹の目』より)


<いとうせいこう注
 今回から、父が昔自費出版した著作『鷹の目』を編集して足していく。
 とはいえ、まずは著作冒頭そのままである。
 ここから父の人生の変化が語られていく>

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-20 20:48 | 第三小説「思い出すままに」

父4-13


e0176784_21563422.jpg


10、ようやく春を実感しながら

 79年10月の総選挙の結果は大きな希望になった。
 この選挙で私は長野県第四区の小沢貞孝選対に派遣された。8月の下旬から選挙の終わるまでの約40日間、一度も帰京せず連日睡眠時間4時間のきびしい戦いに耐え続けた。
 それは小沢先生にとっても政治生命をかけた戦いであった。当選の次は落選、その次は当選というエレベーター選挙をやってきた小沢先生であり、72年で当選された先生は76年の選挙では落選されており、今度敗れれば引退といわれ、ご本人もそのように覚悟されているようであった。しかしそんなことになれば民社党長野県連は壊滅の危機を迎える。なんとしても勝たねばならない。
 私は総選挙の度に何回となく小沢選対と関係を持った。そして不思議にも私が選対に張り付け(派遣オルグ)になった時は当選、ならなかった時は落選であった。そんな奇妙な因縁を小沢先生も知っていて“来てくれていて座っていてくれればいい”とそれとなく本部に私の派遣を要請していたようであった。当時私は千葉の加藤綾子選対に拘わり合いを持っていたが、解散の見通しが次第にあきらかになってきた8月下旬に松本に入り、10月の選挙が終わるまで選挙対策に専念したのである。
 この選挙で小沢先生は7万9千票を獲得して見事第一位で返り咲いた。その上、党全体としては10議席増の36議席獲得の輝かしい戦果であった。念願の結党時の議席に限りなく近づいたのであり、私は久方ぶりに体の中から湧き上がる喜びを味わったのである。20年の冬の時代を経て、民社党にも春がめぐってきたことを実感したのであった。
 しかし春といってもほんの春の入り口であり、肌寒さの残る浅春というべきであった。民社党にとってそれからがまさしく本当の勝負時である。民社党がお手本にしてきた西欧の友党、すなわち西ドイツ社民党にしてもイギリス労働党にしてもそれぞれ100年を越す歴史を持っているのであり、それに比べれば民社党はまだ中学生といったところであろう。
 激しかった10月の選挙の疲れを癒しながら私はこれからの私自身の人生というか、私自身の果たすべき役割について深く思いをめぐらせた。来年は50才になるし、人生の最終コースを自ら選択しなければならないと思うのであった。そして得た結論は、党組織拡大のために裏方に徹すること、それが私に与えられた使命である、ということであった。
 私もやがては表舞台でという願望を持った時代もあった。長野県では県会議員や衆議院議員候補にという話も合った。今回の選挙の前には長野県3区の候補者に内定していたG氏が突然候補者辞退してきたため、衆議院候補者選考委員長の春日先生の命を受けてG氏の説得役となったが、どうにもならず断念せざるをえなくなった。すると春日先生は“それでは伊藤が次の候補者だ。真剣に考えろ”となった。強引な話だとは思いつつも、私も無下に断るわけに行かず、親戚の人たちに集まってもらい、また地区同盟の主要メンバーにも意向を打診した。しかし大方は反対であり、私はこの話を断念して春日先生に報告した。
 一方、私は77年には組織局次長として和田春生、ついで柳沢鍛造の両組織局長の下で党勢拡大に心を砕いた。74年の衆議院選、75年の参議院選を通じて党は一定の地歩を固めたが、党員数は依然として3万名前後に低迷していた。毎月の新入党者は結構な数にのぼっていたが、それと同じ程度の離党者があり結果として党員数は3万名に留まる、という状況を繰り返していた。78年には選挙はなく、79年4月には統一地方選挙が予定されていた。この時期に本腰を入れて党勢拡大を図り、それを統一地方選挙の勝利につなげたい、これが私と和田局長との一致した戦略であった。しかし今までと同じことをやっていたのでは成果は見えている。そこで党勢拡大月間を設定して、同盟各産別との個別の話し合い、総支部強化のための研修会などを行った。その内容をくわしくのべるわけにはいかないが、この試みで党勢は飛躍的に拡大した。
 私はこの経過を通じて、党勢拡大への確固たる視点を持つことが出来た。これが、俺はこれからは“裏方に徹していこう”との決意になったのであった。 


<伊藤幸子注
 夫は総選挙、参議院選挙、四年ごとの統一地方選挙とその準備期間、一年中選挙活動に明け暮れておりました。そして国会議員選挙の時などはしばしば二ヶ月や四ヶ月くらいの出張は当たり前でした。その間、電話や手紙は一通も来ません。それでも私は政党本部に勤めているからにはそれが当然のことだと、割り切っていましたから特別なことだとは思いませんでした。今考えてみますと、少々のんびりしすぎたように思いますが>

<いとうせいこう注
 このあと、父の人生は思いがけなく変化する。
 そして、私自身は79年にはもう18才になっているのだった>

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-16 13:21 | 第三小説「思い出すままに」

父4-12


e0176784_21563422.jpg


9、70年代の出来事・春日は共産党と対決  

 振り返ってみると70年代というのは特異な年代であった。さまざまな転換があったがそれを羅列すると、
 
*70年に入るや、65年11月から続いてきた日本の“いざなぎ景気”が終わり、74年にはマイナス成長へ転じた。労働組合の賃金交渉は30%もの史上最高の妥結賃金時代から一転して半減するきびしいものとなった。
*また72年には5月15日に沖縄が日本に返還され、75年にはサイゴン陥落でベトナム戦争が終結した。南ベトナム支援で兵力投入の米国が敗退した。
*さらに72年2月には連合赤軍の浅間山荘事件があり、74年にはルパング島から小野田少尉が帰還した。 
*72年7月、佐藤内閣が田中内閣に代わった。福田赳夫絶対有利と思われていた総裁選挙で田中角栄が圧勝したのである。そして前述したように12月総選挙が行われ、公明、民社が敗北し、共産党が38もの議席をえた。
*74年、飛ぶ鳥を落とす勢いの田中が金脈問題で辞任に追い込まれ、三木内閣となる。76年7月遂にロッキード問題で田中は逮捕されるが、田中逮捕を容認した三木首相は自民党内の激しい三木降しにあい、福田内閣となった。その前6月には、自民党から河野らが離党して新自由クラブを旗揚げした。
*75年11月、国鉄労組がスト権スト、国鉄全線を止めた。これがやがて国鉄民営化へと繋がっていく。
*76年の私たちにとっての大きな出来事は、春日委員長が1月27日の衆議院に於ける代表質問で宮本共産党委員長の「リンチ事件」を取り上げ、政府の見解をただしたことであった。昭和8年、当時共産党中央委員の宮本が仲間の佐藤達雄をリンチにかけ死に至らしめたといわれる事件であるが、この事件の真相はあいまいのままであった。それを文芸春秋で立花隆が「日本共産党の研究」の中で取り上げたのをキッカケに、春日が追求したのである。宮本らは佐藤はリンチと関係なく異常体質のため死んだのであると抗弁したが、共産党が仲間をしばしばリンチにかけてきたのは明らかで、佐藤がそのリンチで殺されたというのが真実ではないか、それを明らかにしたいというのが春日の狙いであった。
 共産党は狼狽し、あらゆる手段を講じて春日への反撃を仕掛けてきた。しかし春日ははじめからそれを想定しており、こちらからさらに追い討ちをかけ、予算委員会の場で塚本三郎をたててさらに追及した。共産党の民社攻撃はその後熾烈を極めたが、民社党は「歴史を偽造する日本共産党ーリンチ事件をめぐる九つの嘘」を出版。この本はあっという間に売り切れたのであった。タブーに挑戦した春日の勇気はさすがであった。
 かくしてこの年の11月15日公示、12月5日投票の総選挙でロッキードの自民党は22議席減、共産党は21議席減。そしてわが党は10議席増の29議席となったのである。
*日本社会党内の左派社会主義協会と右派江田三郎派との対立が再燃、77年3月遂に江田が離党、社会民主連合(社民連)を結成、江田はその直後逝去、社民連は田英夫を代表として発足してゆく。

 こうした様々な背景のなかで77年の参議院選挙を迎えた。私はこの選挙で東京選挙区木島則夫選対に派遣された。木島は6年前NHKのキャスターから民社党の参議院候補者となった。木島はTV放送界で初めて街頭放送をやるなど、そのソフトな語り口とスマートさで抜群の人気があって見事当選したが、2期目の今回は極めて厳しいとの予想がなされていた。私は党本部からの事務責任者であったが、選挙の実働部隊は東京都連であり、私は事務所の雰囲気を盛り上げることと、本部との連絡にあたった。
 幸いこの選挙でも木島の人気は保たれていて三位当選を果たした。
 選挙事務所の一切の事後処理を終えたとき、その安堵感から私はむしょうに煙草が吸いたくなった。同僚からホープ一本もらって吸った。頭がぐらぐらしたがやがてそれも納まった。苦労して禁煙に成功していたがこれでまた喫煙者となってしまった。
 この選挙が終わってから3ヵ月後、突如春日委員長が辞任表明した。女性問題がその原因であった。かくして11月の臨時大会で佐々木が委員長となり、書記長には塚本三郎が選出された。
 そして佐々木体制の中で79年総選挙を迎えることとなったのである。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-13 20:58 | 第三小説「思い出すままに」

9


e0176784_21511591.jpg
 
 第一小説、2項の「イスタンブール読書新聞」の発行日を、7/15から7/30に。

 4-1項の「島橋百合子からカシム・ユルマズへの書簡」の消印を7/22から7/25に変更いたしました。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-11 21:24 | 雑記

8


e0176784_095232.jpg

8

件名  親愛なる百合子-さん-へ
送信者 カシム・ユルマズ
受信者 島橋百合子
受信日時 2001年8月3日

 はじめまして、百合子-さん-。
 と書くのは、我々にとってまったく新しいこの「手紙」の上では、という意味です。
 昨日届いたあなたの手紙は、私が長年慣れ親しんできた、しかしもはや懐かしい形式にのっとった手書きの、紙と万年筆で作られたものでしたから。
 しかし幸運なことに、そうでなければ私は手紙を書き送って下さったあなたが本当の百合子-さん-か、つまりつい十日ほど前にコウベで奇跡のように再会できた「神秘嬢」かどうかしつこく疑っていたことでしょう。私は『20世紀の恋愛を振り返る十五カ国会議』に出席し、我が国のとある新聞記事を快適なホテルで書き上げたあと、ヤマナシからコウベへと向かったのでした。祖国に帰る便をトウキョウ発からオオサカ発に変更してまで、私はあの港町をこの目で見ておきたかったのです。
 再会の折にしどろもどろでお話ししたことの繰り返しになりますが、私はK商科大学を訪問し、かつての母校の隆盛ぶりをこの目で確かめました。私が在籍していた当時は、ご存知の通り日本が戦争に負けた直後でまだ学舎も小さく、すべてが出来たばかりだったのです。例えば、今のような貫録のあるツタなどどこの壁にも這ってはいませんでした。
 私は満足して翌日、空港に向かいました。そして、私たちは互いに出合い頭、相手が誰であるかを知りました。覚えていたのです。忘れはしなかったのです。まさに空港のロビーで。あと数分でイミグレーションに入ってしまうというところで。友人を見送るあなたと、日本を立とうとする私は、信じられない確率で出会ったのでした。友人に手を振るあなたが私の足をしたたかに踏むという形で。
 さて、私はあなたの重さを覚えていたわけではありません。謝るあなたのおっとりした声と困惑した表情が、私に五十年あまりの時を超えさせたのです。あなたはあなた以外の誰でもなかった。
 私はまた、あなたの優しい手が生み出す文字の癖も覚えていました。これは手紙をいただいて初めてわかったことです。アルファベットの中の幾つかの文字にそれは顕著でしたが、私は自分があなたの手跡を覚えていることに面食らいました。私はそれまで長らくあなたの書く文字を忘れていたからです。空港であなたの手帳に私の住所を走り書きした時にも、私は自分の悪筆を恥じるばかりで、あなたにも文字の癖があることを想像しませんでした。私は忘れていたのです。あなたのQが繊細な髭を持っていることを。そして思い出したのです。あなたのCが笑顔のように楽しげに空気を吐き出すことを。
 さて、あなたからの手紙は、二十世紀が終わって間もない今、私が受け取る最後の手書きの郵便ではないかと思います。もう誰も、いまや編集者からの依頼でさえも電子メール、少し旧式の仲間でもタイプを使いますから。
 みな、筆跡を残さないように生きているのです。あらがいようのない身体性は必要とされないのでしょうか? 私たちが迎えた世紀に癖など要らないというのでしょうか? つまり、あなたのQやCは。BやMの味わいは。
 いや、愚痴はやめましょう。私は老いていると思われたくないのだし、この「手紙」以降は、まさにその証拠の残らない書簡をあなたと交わしたいのですから。私は今、紙と万年筆の世界にあなたが戻ることを欲していません。私には時間がないのです。電子メールは身体性をはぎとるかわりに、私たちに大量の素早い情報をくれます。私はあなたと話したい思い出が、それこそ山ほどあるのでした。
 さて、百合子-さん-(こうして名前の後ろに付ける「さん」という日本語への懐かしさが、あなたにも理解していただければと熱望します。私はこの敬いの音をいつでもあなたと結びつけて胸の奥に抱いてまいりました。今でも様々な国のチャイナタウンで「先生(シンサン)」という敬称を聞く度、私は日本語の「さん」の響きをそこに重ねて甘酸っぱい気持ちになります。イスタンブールにチャイナタウンがないことを残念に思うくらいに)、私は思いがけない言葉をあなたの手紙の中にいくつか、まるで厳冬の湖に浮かぶ鳥の姿を見つけるように見つけました。
 例えばそのひとつが、あの頃少女のあなたが私にみじんも感じさせなかった異国の青年への憧れでした。むしろ反対にあなたは私に理知を匂わせ、距離を示し続けていると思っていました。若い私はあなたの冷静さを、十七歳の女性には不釣り合いなほどの堅牢さを特に強く感じていたのでした。そして、ここだけの話、私はその思い込みによって落胆もしていたのです。
 百合子-さん-、私は今年、七十歳になりました。自慢の孫さえいます。オルハンというもうすぐ成人する男の子と、ザムバックというあの頃のあなたの年齢に近い女の子で、両方とも名づけたのは私なのですよ。あなたの手紙を前にして、その私が一瞬にして二十歳そこそこの私と入れ替わりました。私は未来しか持たない若者のあてどない不安を今、理解出来ます。同時に可能性しか持たない人間の果敢さも魂の中央に感じます。百合子-さん-、私は私の日々が明るく照らされたことをたとえようもないほど感謝しております。人生の精妙な複雑さ、先の読めなさ、面白さを私は存分に味わっているのです。
 ああ、私はやはり古い人間なのでしょう。電子メールでこれほど長い文章を書いてはいけません。しかし、あなたには許されています。どうぞお好きな長さのお返事を、気の向いた時にでもお送りください。
 私からの懐旧の「手紙」、本日はここまでにしておきます。

     ユスキュダルの町からボスポラス海峡を見下ろして。 

                 あなたのカシムより
  

 
[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-11 21:19 | 第一小説

父4-11


e0176784_21563422.jpg


8、それから10年も瞬く間に  

 70年代は激動の10年であったが、私にとっては40歳代の働き盛りでもあった。体力にはもともと自信があり、病気知らず、酒は親父譲りで一升程度では酔い崩れることなどなかった。
 春日体制の最初の試練は72年12月の総選挙であった。自民党内閣は佐藤から田中角栄に代わった。田中内閣の日本列島改造論は激しいインフレを引き起こし、庶民生活を直撃した。しかし電撃的な日中国交回復を実現した今太閤田中の人気は衰えず、土木建築業界の期待も高まるばかりであった。こうした情勢下で行われた選挙で民社党は29議席を19議席に減らして敗北した。公明党も49議席から29議席となり、共産党が14議席を38議席とした。
 私はこの選挙で長野第4区小沢貞考選対へ派遣された。私は結党以来長野県連とは常に関係を持ち、県連の諸行事には必ず参加するようにしていた。松本を中心とする4区選挙区は定員3名の厳しい選挙区、小沢先生は社会党時代に当選したが、民社党に参加してからは落選続きであった。今度こそはと準備を重ねてきていた。そして私にぜひ来て欲しいと強く要請された。本部もそれを了承して派遣が決まったのである。松本は私の始めての就職地であり、知人・友人も多く、楽しく選挙活動を行うことが出来た。しかも党全体の後退の中で見事な勝利を勝ち取ったのであった。
 ただ、12月の信州の寒さは半端ではない。しかし選挙というものはその寒さを克服させる魔物のようなものであることを実感したものである。
 選挙区は北アルプスの麓町・大町から南は木曽郡までの広大な範囲であり、いうなれば雪道をかきわけての選挙活動であった。私は早朝の街頭演説、宣伝カーからの連呼、夜の個人演説会での前座などなんでもやった。夜遅くまでの選挙戦術会議、それを終えてからの一杯の酔いに充実感を満喫した。
 しかし、党は再び再建へ歩を進めることになるのであった。
 目前に74年の参議院選挙が迫っていた。それだけに党再建に賭ける同盟の意気込みは従来とは違ったものがあった。
 民社党結党以来、全労・同盟は参議院全国区に必ず4名の組織内候補を擁立して闘い、68年選挙以来全員当選の成果を挙げてきた。候補者擁立産別は全国的基盤を持つ全繊、電力、自動車及び造船重機、海員、鉄労に限られていた。他の産別は4グループに分かれていずれかの候補者を支援した。民社党が総選挙で敗北したとはいえ、同盟は総評・社会党との対抗上1名の落選も許されない。共産党の異常な躍進で組織が侵食される恐れもあった。したがって同盟は選挙態勢の見直しとともに民社党員の拡大運動にも力を注ぐこととなったのである。
 私は引き続き組織第一部長として同盟の党員拡大運動に期待した。そして佐々木書記長とはしばしば党組織の在り方をめぐって意見を闘わせたものであった。
 佐々木書記長は私たちとの論議に真剣に対してくれた。論議は新橋の飲み屋で激論になったこともあった。私はこうした態度の書記長に好感がもてた。書記長が松本高校(旧制)で学び、信州をよく知っていたこと、俳句に親しんでいたことなども親近感がもてた理由であった。
 佐々木書記長との論議のなか私がまとめた組織方針の一つは「政党の日常活動」についてであった。支持団体などから常に指摘されていたのは「党の日常活動の不足」であった。では一体どのような活動を党の日常活動というのか。宣言カーを毎日動かすことか、演説会を開催することなのか、党員を増やしたり、党機関紙を拡張することかなどなど、それらはいずれも日常の党活動に違いないが、もっと体系的に説明できるものが欲しかった。私は考え抜いて次のようにした。
<政党の日常活動>とは
1、常に党員・支持者の声を聞く。
2、その声を整理・整頓して優先順位をつける。
3、その優先順位ごとに順次政策化する。
4、それを党議員および友好団体などを通じて議会に持ち込み、実現する。
5、実現のための宣伝活動を活発に行う。
6、その成果を通じて新しい党員・支持者を増やし、議員を増やしていく。
 また佐々木書記長とは党員は1選挙区ごとにどのくらい必要なのか。そのなかで党の中核的党員の数はどのくらい必要なのか、といった基本問題の議論をしたこともあった。
 佐々木良作という人は物事を突き詰めていく人で、自分の意見が理解されないときには頭から湯気を出すかのように激高することがあった。「瞬間湯沸かし器」と言われていたのだが、なぜか私たちとは常に冷静であった。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-08 18:35 | 第三小説「思い出すままに」

雑記8


e0176784_21511591.jpg

 第一小説、9-3aと9-3bと分類していた項目を「9-3-1」「9-3-2」とした。
 7-1の書き直しを7-1bとしていたのと混同することに気づいたからである。
 9-3項はふたつとも、「ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)」による、つながったレポートである。

 また、レインレインを「レイン・レイン」、アラハバキランドを「あらはばきランド」と自分で校正した。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-06 01:11 | 雑記

父4-10


e0176784_21563422.jpg


7、春日委員長体制の中で

 71年4月27日、西村委員長が逝去された。67歳。統一地方選挙の終わった直後であった。肝臓ガンを病まれながら党の最前線で指揮を執られていた。
 この地方選挙で党は大きく前進した。都道府県議140名(20名増)、市会議員470名(75%増)が当選。地方議会でも民社党が定着しつつあることを示した。その成果を聞きながらの逝去であった。
 西村委員長は53年の「バカヤロウ」解散の立役者として名をはせ、社会党右派の論客として、特に防衛・安保では自衛権問題などで常に明確な方向を示していた。党では選挙対策委員長、組織局長、国会議員団長、書記長を歴任、67年から委員長を5期務められた。私たちには常に「私の歩んだ道ではなく、私が志した道をたずねよ」と教えられた。
 党は6月の参議院選挙(全国区4、地方区2当選)のあと、8月に臨時党大会を開き、委員長に春日一幸(投票で春日330票。曽祢益216票を破る)、書記長佐々木良作を選出した。
 振り返ってみれば民社党結党からすでに10年が経過していた。この間の同志の悲願は結党時の衆議院議席40に一日でも早く到達することであった。だが、それまでに3回の総選挙、3回の参議院選挙、そして3回の統一地方選挙を必死の思いで闘ってきたが、展望は開かれなかった。
 政党は選挙で国民の支持を得る以外に生きるすべはない。そして政党本部書記局の役割はそのために最大限の智慧と労力を発揮することなのである。
 もちろん執行委員長を頂点とする執行部に最大の責任があるが、その執行部を支えるわれわれ裏方が大事なことはいうまでもない。10年間で選挙のなかった年は4年だけだったが、その4年は選挙準備の年であり、政党はまさしく「常在戦場」なのであった。
 その寧日なき闘いがまた始まるのであった。40議席の悲願には到達していないとしても希望の持てるところまで上がってきたのも事実である。希望は失われていないのだ。
 まだまだ長く、政権交代のないいびつな日本政治が続いていく。



<伊藤幸子注:
 党本部の選挙対策に集中して、家のことなど顧みる暇のなかった夫だが、私はちょうど正幸、美香の子育てに夢中であった。最初の頃は夫からの生活資金では足りず、例えばお風呂に行くにも石けんがなかったこともあったほど。そんな時には子供にだけは不自由させないために私は一食抜いた。かなり痩せました。田舎の母が家に来た折など、心配してこっそり小遣いを懐に入れてくれたものです>
<いとうせいこう注:
 父は社会のことで頭がいっぱいであり、それは青年の闘志として美しくもある。だが、母の証言と重ね合わせるとどこか滑稽味も出てくる。不均衡なのだ>


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-05 20:19 | 第三小説「思い出すままに」

7-3-2


e0176784_095232.jpg

  『BLIND』9-3-2

 もごもごと口の中で何かつぶやいている園田さんについて歩き、ブロックすべてに特に異常がないことを確認し終えた僕は、作業連絡ノートをつけに操作室へと移動した園田さんとは別に、最下層地下二階のどんづまりにある熱帯雨林の部屋『サンダーフォレスト』へ戻った。
 疑似池がいくつもつながる水辺の白い靄の奥にアマゾンツノガエルが生きている、という噂があった。ゲストが自分で世話しきれなくなった数匹を放してしまったのだ、と言われていた。噂には、小型のワニがいるというものもあった。「あらはばきランド」本体としては、「レイン・レイン」が水族館ではない以上、そんな生物たちが存在していてはならなかった。
 そして確かに、『サンダーフォレスト』にワニはいなかった。ただ、小さな水棲生物の方は、張りぼての岩やプラスチック製のシダやツタのからまる疑似池の中にいた。それを発見したのも、アマゾンツノガエルだと同定したのも、池の中にエサとしてメダカを放したのも園田さんだった。僕を含むスタッフの何人かはそれを知っていて、本部の人間がたまに検査に来る折などは、BGMを大きめにした。疑似環境音の中にはカエルや鳥の声が雷雨の音に混じっていた。
 園田さんはその朝、カエルたちの食欲不振をしきりと心配していた。近頃メダカが思うほど減らないとつぶやいたし、そもそもアマゾンツノガエルの姿を見ないと首をひねった。それが園田さんの独り言のほとんどを占めていた。
 僕はかわりに見つけてやろうと思った。機械が稼働し始めた施設内は基本的に暗く、うっそうと茂るかに見える疑似植物の葉をかきわけて進まねばならなかった。頻繁に雷が光ったが、むしろそれが目をくらませた。生温かい雨はひっきりなしに頭上の植物から頭に垂れた。ちなみに、「レイン・レイン」のパンフレットには『サンダーフォレスト』の宣伝文として、“落ちる雨音はサンバのリズム”と書かれていたが、むしろそれは律動のない日本の五月雨の音に近い、と今レポートを書く者としては思う。
 それはともかく僕は最奥の疑似池まで行き、水面を仔細に見た。カエルが休めるように蓮の葉が何枚もしつらえられていた。したがってそこだけがアマゾンというよりもアジア風になっていた。あたりにはプラスチックで出来た毒々しい色のカエルやトカゲが目立った。本物がいなかった。
 ザーザーと雨は鳴り、あちらこちらでチョロチョロと水流を作っていた。水辺は絶えず揺れた。僕は寄せる小さな波をぼんやり見た。生き物らしい動きがあれば、すぐにそちらに焦点を合わせようと思っていた。無数の水紋が繰り返し広がった。はおった合羽にも水滴が落ち、雷鳴の中でパタパタと響き続けた。やがて音は寄り合わさって意識の奥にしりぞき、僕は奇妙な集中状態に入った。
 かわりに前夜の留守電の、僕自身の声に耳を傾ける誰かのかすかな息遣いが記憶から引き出された。それはひそやかで高い音の領域にあり、喉と口腔の狭さを暗示していた。女の人だ、と僕はすでに気づいていたことを確信した。ひょっとすると小さな女の子かもしれない。助けを呼ぶように受話器を握りしめ耳に当て、テープから流れる声を聞いているか弱い存在を僕は感じた。数十秒後、そのかすかな息の音が、『サンダーフォレスト』全体に共鳴した。 
 結局、僕はアマゾンツノガエルを見つけられないまま、「レイン・レイン」のエントランスに向かった。朝礼はその黒塗りの壁の前、電光掲示板が小さな赤い電球の数で各ブロックの雨量を示している場所で行われることになっていた。
 スタッフ、キャスト総勢十一人の前で園田さんは話をし、また政治家の名前を言った。何かが変化しつつある、いや変化したと言った。みんなが適当に聞き流す中、派手なメイクの女子大生でバイトに入ったばかりの間下さんだけが、なんで国会の会期中に議員は逮捕されないのかとか、なんで園田さんはその話を今したのかとか聞いた。間下さんはすでに“なんでちゃん”というあだ名で呼ばれていて、彼女の配属以来、朝礼は少し長めになっていた。
 こうしていつも通りの一日が始まった。違うのはあの音だけだった。のどかな朝礼の間にも、年齢層の幅広いゲストを迎える間にも、あだ名といえば“封筒”と呼ばれている四角い背中で長身の佐々森と昼食にカレーライスを二杯ずつ食べている音の中にも、午後に再び『サンダーフォレスト』の疑似池に忍び込んでカエルの骨らしき真っ白な物を見つけてしまった瞬間にも、伸びないゲスト数を本部で揶揄されながらタイムカードを押した夕方にも、園田さんの誘いを断って少し早足で駅に向かい、家に帰って夕食をカップラーメンですませたあとも、あの音は僕を貫いていた。



 9-3-1、9-3-2 報告 ルイ・カエターノ・シウバ(ブラジル)
 
 
 
 
[PR]
# by seikoitonovel | 2011-05-03 14:40 | 第一小説

父4-9


e0176784_21563422.jpg


6、69年の年末選挙で更に前進・沖縄復帰運動に参加

西村委員長時代の総選挙は69年の年末(12月27日)に行われたが、党は32名の議席を確保した。民社党は第三勢力の地位を確立し、長期腐敗の自民党と反対のための反対勢力社会党という二大勢力による不毛の対決政治を終わらせ、真の議会制民主主義政治を実現する役割を担うこととなったのである。
 西村委員長は委員長就任と同時に自ら団長となって沖縄を訪問、野党党首として初めての訪沖であり、この際の「沖縄の返還は核抜き本土並みとすべし」との提案がやがて国民世論となり、佐藤首相を動かして72年の沖縄本土復帰へと連動したのであった。
 私たち青年党員も毎年「沖縄青年使節団」を組織して復帰運動の一翼をになったが、私は70年に約30名の第5次青年使節団の事務局長(団長・西田八郎衆議員)として訪沖した。この時には台風が襲来し、鹿児島で2日間足止めを食っての船旅であった。西田団長は飛行機で先行してわれわれを那覇港で迎えてくれたものであった。
 民社党の沖縄調査団は第1次から第7次に及び、青年使節団も6次にわたった。
 現地での交流は、当時沖縄の大きな政治勢力であった沖縄社会大衆党の主要幹部と沖縄同盟(海員組合、電力労組、全繊同盟など)の幹部などが中心であった。
 党のこうした沖縄復帰運動は70年に行われた国政参加選挙(復帰の前段で行われた衆議院選挙)で当選した社会大衆党委員長安里積千代氏の民社党国会議員団加入に繋がったのである。



<伊藤幸子注:(前節4-8に付けるべきものとして、母からの原稿が先日届いたので足しておきたい)
 夫の初めての海外出張のときには大変心配でした。自分の身の回りのことが何も出来ない人でしたからです。
 IUSYの国際的な集まりで10日間もオランダの地方でキャンプを張るということでした。私はIUSYという国際組織のことは良く知りませんでしたが、夫にとってはかなり重要なようでした。それに参加する日本代表団の事務局長でしたから、私はただその任務を果たして無事帰ってきて欲しいと祈っていました。
 羽田出発の時には兄邦雄が私と小学一年生の正幸と幼稚園児の美香を見送りに連れていってくれました。
 幸い夫は何の怪我もなく無事帰国しましたが、家族へのお土産は“赤い木靴”ひとつだけでした。夫はそうしたことが大変不得手でしたので土産などは最初から期待してはおりませんでしたので、何も言いませんでした。
 ところが旅行鞄の中から煙草と洋酒がたくさん出てきたのにはいささか驚きました。しかしそれは餞別を下さった仲間などへのお返しだろうと思い、納得したのでした。
 私としては無事帰国出来たことが何よりのお土産だったのです>
<いとうせいこう注:
 私は見送りに行ったことを覚えていない。 
 ただ、“赤い木靴”のことはよく覚えている。それはずいぶん長く家にあった。どうやって遊ぶということもない。たぶん初めは妹にはかせたりしてみたのだろう。だがやがて、靴は私たちには小さくなった。
 にもかかわらず、それは捨てられずに家の中にいつまでもあった。私たちはどこかでそれを特別なものとして扱っていたのである。父の初の外遊の土産だったということを、私たち兄妹はすっかり忘れていた>


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-04-27 16:07 | 第三小説「思い出すままに」

父4-8


e0176784_21563422.jpg


8、西尾体制から西村体制へ・IUSY青年祭へ事務局長として初の外遊


 統一地方選挙のあと、西尾委員長は5月の中央執行委員会で正式に辞意を表明し、了承された。結党以来7年5ヶ月、まさに「百折不撓」の信念で民社党を復活させ、なお余力を残しての惜しまれた勇退だった。76歳であった。
 新しい体制では委員長西村栄一、書記長春日一幸となった。私は組織局第一部長となり、青木局長を補佐して党勢拡大の裏方に徹した。西村委員長のもとで迎えた選挙は翌68年参議院選挙で党は全国区4名、地方区3名を獲得。非改選議員を加え10議席となり、民社党は初めて参議院で院内交渉団体の資格を得たのであった。自民は2議席減、社会8議席減、公明13議席、共産4議席で参議院での多党化がすすんだ。
 私は松下選対オルグで活動、選挙が終わるやその直後にオランダで行われるIUSY世界青年祭に日本代表団の事務局長として派遣されたのである。7月21日から8月8日まで、団員約30数名を引き連れての海外出張であった。団長は折小野良衆議員だった。
 私にとっては初の外遊であった。当時はすべて羽田空港からの出発であり、家族 ・友人たちが必ず見送りにきた。幸子は小学校1年の正幸と幼稚園児の美香を連れ、邦雄兄と見送りにきていた。空港ロビイで壮行会が行われ、永江組織局長らの激励挨拶があり、万歳の声で送り出された。なお現地での土産代などの雑費用はすべて同志のカンパで賄われた。
 さて、民社青連結成と同時に私たちはIUSY(国際社会主義青年同盟・社会主義インターの青年組織)へ加盟申請して認められた。社会党青年部は加盟を認められなかったから、われわれが日本における唯一の加盟組織であった。当時IUSYは52カ国、80青年団体を包含し、メンバーは100万人を突破していた。
 IUSYは3年に一回、キャンプを主体として数千人規模の青年男女を集めての世界大会を開催していた。民社青連は結成と同時にこれへの参加を決定した。最初の参加が62年の世界大会であった。直ちに実行委員会を組織し、民社党、民社研、全労青婦、日本婦人教室,青学会議、私学連、農民同盟など14団体代表102名をコペンハアゲンの大会に送った。ついで65年にはイスラエルへと送り出したが、3回目の派遣では私がその派遣団の事務局長に指名された。私たちは10日間のキャンプのあとロンドン・パリを観光し、ドイツでは社民党の本部を訪問して伝統ある社民党の組織のあり方を勉強した。                                 
 10日間のキャンプは、テントに寝泊りして昼間は討論会、夜は野外交流会というものだった。びっくりさせられたのは豚の丸焼きであった。丸焼きしながらナイフで肉を削って食うのである。農耕民族の私たち日本人にはその習慣はないが、狩猟民族は違う。私はそこにたくましさを感じたのであった。
 このドイツではドイツ社民党の特別ルートで東ベルリンへ入れる方法があるといわれた。早速志願した私と大松君が社民党の同志に案内されて東ベルリンに入った。真っ暗なトンネルのなかに検問所があり、厳重な身体検査を通過して東ベルリンの市街地に入る事が出来た。あちこちの街角には破壊されたビルの瓦礫が積まれてあって、復興が全く進んでいない東の衰退ぶりを実感したのであった。この経験は貴重であった。

追記 西村委員長のこと
 西村委員長が後世に残した業績は「人材教育」であった。党書記長のときから党員の一貫した教育の必要性を説き、委員長に就任すると同時に自宅を抵当にいれて御殿場に土地を購入、ここに教育施設(富士政治大学校)をつくったのである。青年を対象とする中央党学校はこの施設で定期的に行うことが出来るようになったのであった。
 今でもこの施設は健在で民主的労働組合の教育講座が常時開催されている。道場には森戸辰男(元広島大総長)筆の『三訓五戒』がかかげられている。

   三   訓
 1、己れを捨てよ
 1、反省を忘れるな
 1、最後までねばれ

   五   戒
 1、時間を守れ
 1、言訳はするな
 1、愚痴をこぼすな
 1、陰口をつつしめ
 1、けじめをつけよ

 これは私の座右の銘でもある。
 私はこの党員教育でしばしば教壇に立ち、また研修生と寝泊まりしながら口角泡を飛ばして議論したものであった。

<いとうせいこう注
 しばらく私の注がないのは、父の書いている時代に私が幼児だったからだ。記憶がないのである。
 だが、ここにはもうひとつ隠れた理由がある。お気づきの方もいると思うが、父こそが私のことなど眼中にないのだ。今回ようやく私がちらりと文中に登場したが、単に“見送り”である。私には記憶がない上に、父がその“見送り”を重要視した様子もない。
 彼は社会的運動に没頭している。子供のことなど考えてもいない。母にまかせっきりだったのだろうと思う。
 その母にも今、原稿を書いてもらっている。
 この時期の父が家庭においてはどんな人物だったかについては、その母の文でおいおい補っていきたい>


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-04-10 00:00 | 第三小説「思い出すままに」

父4-7


e0176784_21563422.jpg


7、続いて統一地方選挙・都知事選対へ派遣さる

 私たちに総選挙の勝利に浸る暇などなく、4月は結党以来2度目の統一選挙であった。この選挙では都道府県議98名、政令市議58名が当選し、地方組織も前進体制を整えつつあった。
 私は東京都知事選に急遽候補者となった松下正寿選対に派遣された。松下先生は私たちが作った核禁会議の初代議長・立教大学総長であり、党とは深い関係にあった。その松下先生に東竜太郎知事引退のあとの駒探しに迷ってすったもんだを繰り返していた自民党が白羽の矢をあて民社に協力を求めてきたのであった。松下先生も相手が社・共推薦の美濃部亮吉ならばと引き受けたのだ。
 保守か社共かまさに天下分け目の戦いとなった。この選挙でマスコミの大半は美濃部に好意的で、最初から松下不利の情勢がつくられていった。私はこの選挙を通じて首都決戦というものの実態のすさまじさを知るのであるが、その一つがスパイ合戦であった。相手陣営にスパイを紛れ込まして相手候補の行動・戦略を自陣営に知らせ,相手の裏をかく。また弱点を握ってそれを針小棒大に宣伝する。また何々地区では選挙違反で何人も調べられている、といったデマを流して活動をにぶらせる、などなど。すさまじいものであった。
 また、自民党の金の使い方にはびっくりさせられた。私のような立場で自民党本部からもオルグが派遣されて來たが、彼の袖机にはいつも札束が用意されていたのである。私たちは金には全く無縁で、熱意と行動の多寡が勝負の基本であったから彼の行動は真に信じられないものであった。ある日、選挙ビラが印刷会社から100万部届けられた。そのビラに一箇所誤字があると指摘するものがあった。すると彼はそのビラ全部の印刷変えを命じたのである。われわれなら一箇所はもとよりかなり目立ったミスでもそのまま使うのであるが、なんと無駄なことを平気するものか、と思ったものである。しかしこの話はこれで終わったのでなく、実は彼と印刷屋はあらかじめ示し合わせていて僅かの部数を誤字にみせかけ、全部数を印刷換えしたこととして、それに見合うニセ印刷費を本部に請求して山分けしていたのであった。
 松下先生は美濃部に敗れたが、翌年の参議院東京地方区選挙で勝利した。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-04-04 20:15 | 第三小説「思い出すままに」

7-3-1


e0176784_095232.jpg
 
『BLIND』9-3-1

 翌日も同じ銀色の電車に乗り、同じ駅で降りて「あらはばきランド」まで歩いた。
 僕は気に入っていた黄色いベルトのスウォッチを何度も確認したし、運営本部の上方に掛けられた丸い時計とタイムカードを見比べた。いつもより少し早いペースで歩いたはずなのに、僕は普段と同じ時間に会社に着いていた。
 ロッカールームでつなぎに着替え、担当エリアごとに本部の壁面に並べて下げられた鍵束をつかむと、連絡書類にサインをしてからバックヤードに入り込んだ。午前中の空気はまだ肌寒かった。指定のボア裏地付きジャンパーをはおって出ればよかったと思った。少なくとも、すれ違う僕と“ハロー、おはようございます”と決まった挨拶を交わし合うスタッフは男も女も年齢問わず、みなその群青色のジャンパーを着ていた。
 さらに早足になった僕はN扉の位置からバックヤードを抜け、開園前の「レイン・レイン」の裏口に移動した。ちなみに当時は設計変更にまだ対応しておらず、N扉は裏口から二メートルほどずれていた。そのせいで、もしお客さんが入場している時間だと、スタッフが一瞬見えざるを得なかった。だからN扉の内側、目の高さあたりには常に『ここから先はあなた自身がアトラクション!』という貼紙があった。
 裏口の鉄扉は外壁よりかすかに濃い色に塗られていた。僕は三つある錠をすべて開け、冷たく湿った空気の中に入った。常時回っているモーターの低い音が地の底から重層的に響いていた。振動そのものを耳にしているのは、今自分だけだと思った。
「レイン・レイン」はアトラクションとしては七つのブロックに分かれていた。時おり一階から二階、あるいは地下へと部屋が移るのは、全体がH2Oの分子構造、つまりV字型の連なりを模しているからで、水平にV字のゾーンなら階は変わらず道が分かれるし、上下に階段が向かっていればV字が垂直になっているのだった。
 僕は連続する分岐の最も手前にある操作室に入り、複数あるモニターのスイッチをひとつずつつけた。タイムラグがあって、やがて各ブロックの映像がモノクロで揺れ出した。
 特に闖入者がいる様子もなかった。流れるべき水はすべて正しい方向に流れていたし、夜になると嵐がやむ区域は豪雨を待っていた。内壁をつたう水滴はほとんど落ちきっており、それが床に隠されたパイプを通って排出されているのは、湿度メーターや自動ポンプの動きで確認出来た。各ブロックを視認しようと、僕は備え付きの懐中電灯を片手に操作室を出た。
 来た、と思うと裏口の鉄扉のノブが回った。逆の順ではなかった。
「お、早いじゃないか」
 扉から館内に体を滑り込ませながら、園田さんは僕の姿を見ずに言った。
「ハロー、おはようございます」
「ほい、ハロー」
 古参の中でも、園田さんは特別に挨拶が雑だった。曖昧に下を向いたまま操作室に入った園田さんは群青色のジャンパーを肩にはおっていた。頭上にはその日、白い煙がただよっていなかったように思う。
 ゴミ箱に何か軽いものを放った音がした。鍵束を確認し、作業連絡ノートを開いたのもわかった。一度ティッシュで鼻をかむのに続いて、まだノートに目を落としているだろうと思われるくぐもった声が部屋から漏れてきた。
「人生に不均衡があらわれるときは、まず地鳴りが聞こえるんだよ。やつも聞いただろう」
「え?」
 という声が自分の咽喉の奥からした。地鳴りという単語から、さっき聴いたモーター音を連想するのが精いっぱいだった。園田さんは続けて、しかし今度は少しゆっくりと言った。
「キシロウ・ナカムラは今日、捕まる」
 ますますわけがわからなくなった僕は、思わず操作室の中に戻った。園田さんは新聞に目を落としていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「斡旋収賄。国会会期中に逮捕される議員は、ずいぶん久しぶりなんだとさ。あ、わかるか、ゼネコンの」
「わかります。あの、その前に園田さんが言ってた地鳴りの話なんですけど……」
 園田さんはそれにはまったく答える気がないようだった。
「俺も読みでは一字違いのキチロウだけに気になるんだよ、キシロウ・ナカムラのことは。こっちはしがない雨職人、向こうは大物政治家だけどな」
 ようやく園田さんは僕を見た。そしてくしゃくしゃっと笑った。もう何を聞いても答えないだろうと思った。園田さんの中で物事が短く完結してしまったのだ。
 ヘルメットをかぶった園田さんの後ろを僕は歩いた。まず入り口から最も近い『ジャスト・ビフォー・ザ・レイン』の点検だった。夏の夕立が始まる直前の湿度を、その部屋は完全再現していた。不連続にそよぐ不穏な南風も、みるみる空を覆う黒雲も、急激な気圧の変化もすべて園田さんのプログラム通り動いていた。お客さんはその日もこのアトラクション内で、“動物ならではの勘を取り戻す”に違いなかった。雨が降る、と思うのだ。
  
[PR]
# by seikoitonovel | 2011-03-06 22:35 | 第一小説

父4-6


e0176784_21563422.jpg


6、チャンス到来・兵庫1区永江選対へ派遣さる


 そうして、こうした努力の成果を試す機会が巡ってきた。それが67年1月の第31回衆議院選挙である。
 66年に自民党代議士の相次ぐ汚職・職権乱用事件が発生し、田中彰治、農相松野頼三、運輸相荒船清十郎などが相次いで逮捕、辞任に追い込まれた。これを新聞は「黒い霧」と呼んだ。自民党一党独裁の弊害が爆発的に噴出したのである。
 野党は11月の臨時国会で黒い霧の追及を要求するが、佐籐首相はこれを無視し与党単独で補正予算審議を強行した。しかし沸き立つ世論に抗せず、年末押詰まった12月27日遂に衆議院解散となり、明けて1月8日公示、29日投票の選挙となった。
 私は急遽、兵庫1区永江一夫の選挙オルグとして派遣された。永江先生は戦後社会党内閣の農林大臣となり、民社結党の立役者の一人であった。60年選挙で落選、63年でも涙を呑んだ。当時は党本部の組織局長であり、私の直接の上司であった。なんとしても復活を遂げねばならない。
 オルグに決まるや党兵庫県連からすぐ飛んで来いとのこと、一刻の猶予もない、28日に新幹線に飛び乗り神戸三宮の党事務所にかけつけたのであった。事務者は突然の解散で党幹部や党員がかけつけ、ごった返していた。先生に挨拶し、当面の宿舎(ホテル)を紹介された。そして31日と1日だけ家に帰って来てよい。2日から常駐だ、との命令であった。30日夜家に帰り、家族4人であわただしい年末年始を過ごすと、2日の夕方には三宮に戻った。妻幸子は愚痴ひとつ言わず、万全の旅支度を整えてくれた。
 3日は6時半から三宮駅頭の朝立ち。そのあと事務所で朝食。そのあとは夜遅くまで職場へのオルグ、ビラ張りなどなどとにかく休む暇なしの強行軍がつづいた。長野県出身の私だったが、この年の神戸の寒さはこたえた。しかし夜になると若い同志たち、民社青連で共に活動してきた仲間たちがやってきて、三宮の飲み屋で時には神戸牛のビフテキや時にはスッポン料理で励ましてくれた。こうした兵庫の同志の暖かさが翌日の活動の原動力となったのである。
 こうして28日間のオルグを終えて投票日には家に戻って、投票(東京10区に党候補がないため、西尾末廣と書く)を済まし、翌日は党本部で各候補者の開票結果を待った。永江先生は見事に復活当選し、民社全体として30名が当選した。党の前途にようやく灯りが点ったのである。この選挙では公明党が初めて衆議院選挙に参戦、25名を当選させた。そして自民党は得票率50%を切り、社会は4議席減であった。
 永江先生に教えられて未だに忘れないことは次の言葉である。
 <その1> 
「政治とは何ぞや」と問う
「政治とは生活のことなり」
「生活とはなんぞや」と問う
「生活とは衣食住のことなり」
 簡単明瞭、政治は国民の生活を守り、高めること以外のなにものでもない。この頃の党首たちが盛んに「国民の目線に立って」ともっともらしく強調するが、そんなことは政治のいろはなのである。
 <その2> 
「選挙に当選したらみなさんのおかげ」
「落選したら不徳の致すところ」
 決して、天狗になったり、応援してくれた人を批判してはならない、という教え。候補者の基本的心構えである。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-03-06 15:50 | 第三小説「思い出すままに」

父4-5


e0176784_21563422.jpg


5、また新たなる目標に向かって・党30議席確保の戦果


 63年の総選挙は党再建の一歩であり、これを基礎にしての新たなる目標が設定されてゆく。
 自民党政権はそのまま。対する社会党は三分の一。野党の壁を破れず、相も変わらぬ左右対立を繰り返していた。62年、鈴木茂三郎を団長とする訪中団は60年の浅沼訪中団が中国との間で発した「米帝国主義は日中共同の敵」宣言を確認、右派江田三郎書記長らと激しい対立となった。
 江田は「新しい社会主義ビジョン」を明らかにした。これはイタリア共産党書記長トリアッチの理論を模倣したものであったが、社会党の到達すべき目標として「アメリカの高い生活水準」「英国の議会制民主主義」などをあげた。これは今までの社会党になかった思想であり、総評左派・社会主義協会派から「改良主義だ」として総攻撃された。
 こうした状況の中で私たちは、自民党一党支配体制を打ち破るために私たちの勢力拡大の必要性を痛感せざるを得なかったのである。
 そして、党本部書記局内の私の役割も変化していった。青年運動の分野では、民社青連事務局長から63年に新たに発足した「民社青年隊」(党の行動力強化)の参謀へと転じた。
 また、機関紙局事務局長から国民運動事務局長となり、核兵器禁止運動、呼び合うこだま運動に従事した。ついで組織局第一部長となった。
 当面の最大の課題は次の総選挙にいかに勝つかであった。
 64年は新幹線が開通、東京オリンピツクが開かれ、日本は戦後の貧困と混乱から抜け出しつつあった。このなかで民社党は運動方針で「福祉国家の建設と到達目標」を政策の中心に据えた。また組織拡大の目標として「一選挙区一千人党員」の達成、「百万党友」の実現をかかげた。私たちはこの大きな目標に向かって寧日なき活動に参加したのであった。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-02-23 23:14 | 第三小説「思い出すままに」

父4-4


e0176784_21563422.jpg


4、党再建の第一歩・63年総選挙


 62年の参議院選挙、63年4月の統一選挙では党再建が始められたばかりであり、参議院選挙は全国区3名、地方区1名の当選に留まって、統一地方選挙も成果は乏しかった。
 私は参議院選挙では古賀専(全国区候補・造船総連会長)の秘書役として加わり、地方選挙では武蔵野市の伊籐重雄さんの参謀として活動した。古賀さんは落選、伊籐さんは当選した。
 党の浮沈は次の総選挙にかけられることとなった。その機会が63年11月巡ってきた。私は選挙中は各候補の健闘ぶりを取材して書き、またしばしば党本部に寝泊りして各選挙区との連絡などにあたった。21日投票、翌22日が開票、この日の興奮はいまでも脳裏に鮮やかである。
 選挙区をしぼり、59候補を擁立した闘いで23名当選、次点者11名。自民283名(13減)社会144名(1減)のなかでわが党だけが5議席増の成果であった。選挙前のマスコミの「5名くらいになってしまうのではないか」の予測を完全に覆したのであった。勝利の喜びの中で開催した全国代表者会議で、西尾委員長は「トンネルを抜け出て原野に頭を出した。暗い谷間から小高い丘に駆け上がったところだ。前がよく見えるようになった。これからだ。全党員心を一つにして次に備えよう」とのべた。
 民社党一本支持で闘った全労は10年の歴史を閉じ、翌64年総同盟と合体して「同盟」を結成、180万組織となり、民間の労働組合数では総評を凌駕するにいたった。民社支持母体はより強化されたのである。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-02-16 21:56 | 第三小説「思い出すままに」

父4-3


e0176784_21563422.jpg


3、激しい東西対立を背景に・呼び合うこだま運動を組む

 私たちを取り巻いていた諸情勢は一刻たりとも安閑としていることを許さぬものがあった。60年にはベトナム戦争が勃発、61年には東ベルリンの壁(東西ベルリン境界上43キロ)が東ドイツによって構築された。東ドイツから西ドイツへの亡命阻止の壁であった。そして62年キューバ危機発生。キューバにソ連が中距離ミサイルを配置、これに対して米ケネデイ大統領は海上封鎖を宣言してミサイル撤去を要求。まさに一触即発、核戦争まで予測され、世界は固唾をのんだ。
 米・ソの核兵器開発競争も熾烈なものであった。ソ連が61年に49回、米国が62年に60回もの原水爆実験を繰り返したのであった。
 こうした東西対立が日本国内に持ち込まれ、60年の安保改定には左翼陣営が総動員体制で闘いを組んだ。国会周辺には連日数万が動員されて騒然たるものであった。そして全学連のデモ隊が国会正面玄関を突破、警備隊との押し合いのなかで東大生樺美智子さんが押しつぶされて死亡。安保改定案は自民党の単独多数で成立していくが、岸内閣は総辞職に追い込まれる。
 また62年の原水爆禁止世界大会は大会中にソ連が核実験を行うが、共産党勢力はこれを無視、対して日青協(日本青年団協議会)、地婦連(地方婦人団体連合会)などが「いかなる国の核実験にも反対すべきだ」と抗議して退場。原水協は分裂してゆく。
 こうした情勢のなかでの民社党勢力の復活には幾多の障害があった。しかし共産主義陣営のこれ以上の勢力拡大を許すわけにいかないとの私たちの思いには切羽詰ったものがあった。
 その思いの中で、全労の青年婦人部の仲間たちと私たちが起こした運動のひとつが「呼び合うこだま運動」であった。この運動は当時、共産党の「民青」が集団就職で都会に出てきて孤独に陥りやすい青年男女を巧みに誘導し、「歌って、踊って……」の遊びに参加させて民青会員(共産党員)にしていくという活動が全労の青年婦人活動を脅かしつつあったのに対抗するためのものであった。
 全労のなかから、民青に対抗して真の文化運動を起こそうとの動きが起こって「全国勤労者文化協会」(全文協)がつくられ、どのような活動をやるか模索しており、私たちにその案づくりの相談が持ちかけられたのである。ちょうど民社青連は2年目の活動として蓼科高原キャンプ大会を目論んでいた。私の親戚が長野県茅野市奥蓼科の持山を利用して「みどり山荘」というキャンプ場を経営していたので、私の提案で計画したものであった。
 この計画を全文協で持ち出したところ、この際友好団体が互いに協力しあって一つの行事としたらどうかということになり、全文協、全労青婦、民社青連に加え青学会議、日本婦人教室,海友婦人会、民社研で実行委員会を組織し、「第一回呼び合うこだま働く者の山の集い」が開催されたのである。全体として400余名が参加、大成功であった。
 集いの趣向も青年らしい創造的なものだった。まず集まってきた青年-婦人たちの”自治村“という想定で村三役として村長赤松常子(日婦)、助役伊籐郁男、収入役船田登美(日婦)、公安委員長綿引伊好(全文協)をおき、バンガロー毎に参加団体が自由な集落名をつけた。民社青連はこれから育つという意味から「ひよっこ部落」と命名した。グループ活動は絵画、彫刻、和歌、詩、コーラス、盆踊り、フォークダンスなど。夜はキャンプファイヤーを囲み、夜空に二十発の花火を打ち上げた。この花火は長野の私の仲間のサービスであった。
 この集いの成功によって、呼び合うこだま運動は各地域に急速に広がってゆき、やがて各産別の青年婦人行事のひとつとして定着していったのである。
 そして、この年は夏に民社・全労が中心となって「核兵器禁止・平和建設国民大会」を開催、10月に「核禁会議」を結成(前述)、私は事務局次長となり、以後今日まで核兵器禁止運動を続けることとなる。

[PR]
# by seikoitonovel | 2011-02-11 11:22 | 第三小説「思い出すままに」

父4-2


e0176784_21563422.jpg



2、党機関紙記者と青年組織の活動家として


 既に記したように、私は右派社会党中央機関紙『日本社会新聞』の記者としての活動とともに民主社会主義青年同盟の一員として活動、東京民社青同事務局長にも選出されたが、民社党の結党と同時に日本社会新聞は「旬刊社会新聞」と名を変えて民社党中央機関紙となった。私は引き続きその記者として採用された。そして身分は民社党書記局員となった。それまでは書記局員の身分でなかったから党に縛られずに自由に活動できたのだが、これからはそういうわけにもゆくまいとは思いつつも思う存分「総評批判」が出きる喜びがあった。
 青年活動の分野では、民社党結党の翌日に「民主社会主義青年連合」(民社青同の名称を民社青連と変えた)を結成。初代事務局長となった。会長には海員組合の小川純一氏が選ばれた。 
 私たちは民社党全面支援の活動を展開した。活動資金は海員組合長中地熊三さんが「これからは青年が頑張らねば」となんの条件もつけずに出してくれた。その額は月30万円という多額であった。(いまならどの位の金額になるだろうか。それを惜しみも無く出してくれるこのような怪物が当時はいたのである)。このため私たちは民社党本部事務所(森ビル)の地下1階に事務所を設置し、3名の専従者を配置することができた。組織作りは順調に推移し、岡山民社青連の会長生末敏夫君は民社党の衆院議員候補者に選出された。
 こうした私たちの希望に満ちた活動が始まったばかりの、緒戦の総選挙で民社党は大敗北したのであるが、私たちもくじけてはいなかったのである。私たちは「民社党に投票してくれた350万人の期待にこたえねばならない」との意思固めと同時に党外青年への一層の宣伝活動の活発化を誓ったのである。


[PR]
# by seikoitonovel | 2011-02-09 12:36 | 第三小説「思い出すままに」